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清水宏 (映画監督) - Wikipedia コンテンツにスキップ

清水しみずひろし (映画えいが監督かんとく)

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しみず ひろし
清水しみず ひろし
清水 宏
制作せいさくしゃ映画えいが季刊きかんだい5ごう(1949)より
生年月日せいねんがっぴ (1903-03-28) 1903ねん3月28にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1966-06-23) 1966ねん6月23にち(63さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん静岡しずおかけん磐田いわたぐん山香さんこうむら西にしわたる
げん:浜松はままつ天竜てんりゅう
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん京都きょうと京都きょうと右京うきょうきた嵯峨さが
民族みんぞく 日本人にっぽんじん
職業しょくぎょう 映画えいが監督かんとく
ジャンル 映画えいが
活動かつどう期間きかん 1924ねん - 1959ねん
配偶はいぐうしゃ あり
 
受賞じゅしょう
毎日まいにち映画えいがコンクール
特別とくべつしょう
1948ねんはち子供こどもたち
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清水しみず ひろし(しみず ひろし、1903ねん3月28にち - 1966ねん6月23にち)は、大正たいしょう昭和しょうわ映画えいが監督かんとく作為さくいてき物語ものがたり、セリフ、演技えんぎ演出えんしゅつ極力きょくりょく排除はいじょする実写じっしゃてき精神せいしん大事だいじにし、「役者やくしゃなんかものをいう小道具こどうぐ」という言葉ことばのこしている。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

松竹しょうちく蒲田かまた入社にゅうしゃまで[編集へんしゅう]

1903ねん3月28にち静岡しずおかけん磐田いわたぐん山香さんこうむら西にしわたりにあるはは実家じっかまれる。両親りょうしん不仲ふなかだったため天竜川てんりゅうがわ上流じょうりゅうにあるはは実家じっか祖父そふそだてられる。ちち古河ふるかわ鉱業こうぎょう社員しゃいんはは山村さんそん林業りんぎょういとなだい地主じぬし大橋おおはしむすめわれている。遠縁とおえん松竹しょうちくヌーヴェル・ヴァーグの編集へんしゅうしゃ浦岡うらおか敬一けいいちがいる。

むら小学生しょうがくせいころから腕白わんばく成績せいせきわるく、そのため東京とうきょうしば浜松はままつまち父親ちちおやのもとにられる。1910ねんしば桜川さくらかわまち神明しんめい小学校しょうがっこうの2ねん編入へんにゅう同級生どうきゅうせい映画えいが監督かんとく滝沢たきざわ英輔えいすけ前進ぜんしん俳優はいゆう河原崎かわらざき長十郎ちょうじゅうろうがいて、清水しみず餓鬼大将がきだいしょうだったという。

ちち希望きぼう浜松はままつ中学校ちゅうがっこうはいり、在学ざいがくちゅう水泳すいえい選手せんしゅだったが、悪友あくゆうたちと賽銭さいせん泥棒どろぼう芸者げいしゃあそきょうじており、活動かつどうはおろかまった勉学べんがくはしていないと発言はつげんしている。卒業そつぎょう1920ねん清水しみず本人ほんにんによれば、北海道大学ほっかいどうだいがく農学部のうがくぶ入学にゅうがく[1]したとの発言はつげん確認かくにんできるが、学業がくぎょう退屈たいくつ理由りゆうで1ねん中退ちゅうたいしたという。しかし、当時とうじ映画えいが関係かんけいしゃには、この学歴がくれきうたが意見いけんおおくある。

帰京ききょうの1921ねん浅草あさくさ映写えいしゃ技師ぎし生活せいかつをする。くにかつかくはず撮影さつえいしょ撮影さつえい技師ぎし鈴木すずき照夫てるお紹介しょうかい原田はらだ三夫みつお助手じょしゅとなる。科学かがく雑誌ざっし分野ぶんや開拓かいたくした原田はらだ三夫みつおは、科学かがく教育きょういく目的もくてき映画えいが製作せいさくはじめたころだった。

1922ねん原田はらだの「学芸がくげい活動かつどう写真しゃしんしゃ」は解散かいさん清水しみず鎌倉かまくら名越なごしうつった原田はらだ助手じょしゅとなる。

松竹まつたけ蒲田かまた時代ときよ[編集へんしゅう]

1922ねん11がつごろちち在米ざいべい時代じだい知人ちじん有島ありしま武郎たけお玄関番げんかんばんをつとめていた関係かんけいから、小山内おさないかおる紹介しょうかいされ、栗島くりしますみ口利くちききで松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ入社にゅうしゃ[2]池田いけだ義信よしのぶ監督かんとく助手じょしゅとしてくが、先輩せんぱい助監督じょかんとく成瀬なるせ巳喜男みきおがいた。よく1923ねん小津おつあん二郎じろう松竹しょうちく入社にゅうしゃし、清水しみず小津おつ終生しゅうせい親友しんゆうとなる。関東大震災かんとうだいしんさいのため、蒲田かまたのスタッフは、1923ねん下半期しもはんき京都きょうとうつる。

1924ねん6がつつた丈夫じょうぶとともに監督かんとく昇進しょうしん、7がつ入社にゅうしゃして2ねんたずにまだ21さいわかさで『とうげ彼方かなた』で監督かんとくデビューをたす。当時とうじにおいても異例いれいわかさであり、新人しんじん時代じだいは、山村さんそん田舎いなか田園でんえん風景ふうけい背景はいけいにして若者わかものたちの失恋しつれんこい衝動しょうどうおおえがいて、センチメンタルな作風さくふうだったとわれている。やまはなしばかりるため、「やまかん」とばれたこともあった。

清水しみずひろしひだり)、大久保おおくぼただしもとみぎ

1924ねん9がつぜん蒲田かまた撮影さつえい所長しょちょう野村のむらかおるてい京都きょうときにしたがって、やなぎさく大久保おおくぼただしもとらと下加茂したかも撮影さつえいしょうつった。下加茂したかも入社にゅうしゃしたばかりだった田中たなか絹代きぬよが、清水しみず監督かんとくした『むら牧場ぼくじょう』(1924ねん)で主演しゅえんデビューをたし、その田中たなか絹代きぬよこいちて結婚けっこんしようとする[3]。スター女優じょゆうになりかけていた田中たなか絹代きぬよおおやけ結婚けっこんというわけにいかず、城戸きど四郎しろう撮影さつえい所長しょちょうから「試験しけん結婚けっこん」をすすめられて1927ねん同棲どうせいするが、喧嘩けんかえず、1929ねん破局はきょくした。1930ねん清水しみず伊豆下田いずしもだ名妓めいぎ結婚けっこんするが、どもはなく養女ようじょむかえている[4]

仕事しごとめんにおいては、1925ねん7がつ蒲田かまた復帰ふっきし、わかきメロドラマ作者さくしゃとして将来しょうらい嘱望しょくぼうされた。作品さくひんれきにおいては、メロドラマのほか、流行りゅうこうした新聞しんぶん小説しょうせつ映画えいが旅芸人たびげいにん放浪ほうろうしゃなどたびする人々ひとびとえがいたちいさな物語ものがたり、ペーソスのあるコメディなど多様たよう作品さくひん量産りょうさんして精力せいりょくてきはたらいた。松竹しょうちくいちはやりの多作たさくとなり、デビュー10ねんにしてすでに100作品さくひんちかくの映画えいが監督かんとくした。撮影さつえいしょ入社にゅうしゃ以来いらい多忙たぼうをきわめ、当時とうじ、「きゅうがされるといものができる」とまでわれた。

小津おつあん二郎じろう-伏見ふしみあきら-清水しみずひろし-野田のだ高梧こうご-1928

元号げんごう昭和しょうわとなったころ親友しんゆう小津おつやすろうとともに、1930年代ねんだいのソフィスティケートされた松竹しょうちく蒲田かまたのモダニズムをになった。清水しみず小津おつ年齢ねんれいおなじで、二人ふたりともやんちゃでモダンボーイだった。この時期じき清水しみずのスマートで都会とかいてきなモダニズムの代表だいひょうさくに、北村きたむら小松こまつ脚本きゃくほん岡田おかだ時彦ときひこ及川おいかわ道子みちこ主演しゅえんした『恋愛れんあいだいいち』(1930ねん)などがある。

1930年代ねんだいはじめ、流行りゅうこう新聞しんぶん小説しょうせつ映画えいがしたメロドラマで商業しょうぎょうてき成功せいこうしたため、若手わかて監督かんとくとして撮影さつえい所長しょちょう城戸きど四郎しろうからフレッシュさをみとめられ、手際てぎわのいい商業しょうぎょう映画えいが監督かんとくとして重宝ちょうほうがられた。

とくに、『大学だいがく若旦那わかだんな』(1933ねん)にはじまる「大学だいがく若旦那わかだんなシリーズ」であかるくほがらかなわらいを提供ていきょうし、清水しみずは、このシリーズの成功せいこうによって松竹しょうちく現代げんだいげき娯楽ごらく映画えいが代表だいひょうする監督かんとくとなった。主演しゅえんには、清水しみず体型たいけい慶応けいおうラグビー出身しゅっしん藤井ふじいみつぐがあたったが、このシリーズは、清水しみずのオリジナルなアイデアであり、スポーツの花形はながた選手せんしゅでもある下町したまち老舗しにせ若旦那わかだんなが、こいとスポーツに活躍かつやくするほがらかでスマートなコメディである。シリーズ全般ぜんぱんとおして、坂本さかもとたけし吉川よしかわ満子みつこ武田たけだ春郎はるお三井みつい秀男ひでお松竹しょうちく脇役わきやく俳優はいゆうたちが、ほがらかであたたかいわらいをみせて、非常ひじょう面白おもしろ映画えいがとして当時とうじ観客かんきゃくよろこばせたとわれている[注釈ちゅうしゃく 1]

都会とかい若者わかものたちの商業しょうぎょう映画えいが一方いっぽうで、清水しみずは、はやくから伊豆いずなど自然しぜんのロケーションをこのんで、山村さんそんみなとまち舞台ぶたい旅人たびびとたちへの共感きょうかん感傷かんしょう現世げんせい倦怠けんたいかん無常むじょう叙情じょじょうてきえがくオリジナルの小品しょうひんつくっていった。とくに、主人公しゅじんこうは、モダンでいきかんじのながものおんなおおく、その流転るてんする人生じんせいのはかなさを見守みまもるようにえがいた。

松竹まつたけ大船おおふな時代ときよ[編集へんしゅう]

日本にっぽん映画えいがかい本格ほんかくてきトーキー時代じだいむかえた1936ねん上原うえはらけん主役しゅやくに『りがたうさん』を発表はっぴょう[6]伊豆いず街道かいどうをバス1だいはしりながら、そのなかでとられた全編ぜんぺんロケーションでとる手法しゅほうは、「実写じっしゃてき精神せいしん」とばれ、絶賛ぜっさんびる。それ以来いらい自然しぜん情景じょうけいなか演技えんぎ発展はってんさせる手法しゅほう徹底的てっていてき追求ついきゅうすることとなる。

清水しみず作為さくいではない、あるがままなものをこのんだため、どもや新人しんじん俳優はいゆう大部屋おおべや俳優はいゆう素人しろうとこのんで使つかった。そのながれで、坪田つぼた譲治じょうじ児童じどう文学ぶんがく映像えいぞうした『ふうなか子供こども』(1937ねん)、『子供こども四季しき』(1939ねん[7]なかかれ演出えんしゅつ技法ぎほうは、効果こうかてきだった。

この2作品さくひん児童じどう映画えいが成功せいこうから、以降いこう清水しみずは、子供こどもをうまく使つか監督かんとくとして有名ゆうめいになる。また、大人おとな役者やくしゃ芝居しばいくささをきらい、伊豆いず中心ちゅうしん自然しぜん情景じょうけいこのんだ。

当時とうじ清水しみず作品さくひんどもたちきとした姿すがたおどろいた映画えいが評論ひょうろんが、その演出えんしゅつ秘密ひみつをきくと、清水しみずは、餓鬼大将がきだいしょうのようにあそんでやるのさ、とこたえたという。とくに、ばくだん小僧こぞう横山よこやまじゅん)、突貫とっかん小僧こぞう青木あおき富夫とみお)らやんちゃな子役こやく可愛かわいがった。

1939ねん、36さい松竹しょうちく大船おおぶね筆頭ひっとう監督かんとくとなる。1937ねんはじまったにちちゅう戦争せんそう世相せそうのなかで、時代じだい要請ようせいもあって、朝鮮ちょうせんで『ともだち』(1940ねん[8]台湾たいわんで『サヨンのかね』(1943ねん)をるが、そこでも自然しぜん風景ふうけいたいする独自どくじ視線しせん自然しぜんのままのどものような人物じんぶつえがくという姿勢しせい一貫いっかんしていた。

1930年代ねんだい後半こうはん、スポーツ学生がくせい軍事ぐんじ教練きょうれん行進こうしんはじまる『花形はながた選手せんしゅ』(1937ねん)、ひなびた温泉おんせん宿やどあわうつくしい交流こうりゅうをエッセイのようにった『かんざし』(1941ねん)などで、素朴そぼく快活かいかつさやゆったりとしたユーモア、うつくしい情緒じょうちょえがすが、当時とうじ社会しゃかいよこたわる世相せそうもさりげなくうつった。

1940ねん児童じどう映画えいが延長えんちょうとして、当時とうじ社会しゃかいてきにもシリアスな題材だいざいだった「特殊とくしゅ非行ひこう児童じどう」をげた『みかへりのとう』(1941ねん)を大阪おおさか修徳しゅうとく学院がくいん長期ちょうきロケをして撮影さつえいし、1940ねん前後ぜんこうは、名実めいじつともに日本にっぽん映画えいが巨匠きょしょうとして活躍かつやくした。清水しみず言動げんどう作品さくひんから推測すいそくすると「特殊とくしゅ」はいないという信念しんねんっていたとおもわれる。

しかし、1943ねん台湾たいわんで『サヨンのかね』(1943ねん)を製作せいさくちゅう松竹しょうちく大船おおぶね撮影さつえいしょ追放ついほうされた。清水しみず横暴おうぼう性格せいかくなどがその原因げんいんわれている。一時いちじ撮影さつえいしょはなれて、京都きょうと奈良なら仏像ぶつぞうしたしむ生活せいかつおくった。

戦後せんご[編集へんしゅう]

戦後せんご松竹しょうちくめ、一時いちじ隠遁いんとんしたとうわさされたが、戦災せんさい孤児こじたちをじゅうすうにん熱海あたみ山中さんちゅうそだてながら[9]、1948ねんみずからの独立どくりつプロ「はち映画えいが」をげ、かれらを主人公しゅじんこうに『はち子供こどもたち』(1948ねん[注釈ちゅうしゃく 2]をはじめとする「はち3さく」をつくった。『はち子供こどもたち』(1948ねん)は、戦後せんご独立どくりつプロの嚆矢こうしとしてもられている[注釈ちゅうしゃく 3]

また、しん東宝とうほう発表はっぴょうした没落ぼつらくしながらも風流ふうりゅうかたもとめた『小原おはら庄助しょうすけさん』(1949ねん)、脳性のうせい麻痺まひ療育りょういく施設しせつえがいた『しいのみ学園がくえん』(1955ねん)もられている。

1956ねん溝口みぞぐち健二けんじさそわれ、大映だいえい専属せんぞく契約けいやくむすぶ。大映だいえいでは最後さいご劇映画げきえいがとなった『ははのおもかげ』(1959ねん[12]など母親ははおやどもの関係かんけいえがいた作品さくひんがけた。最後さいご仕事しごとは、日本にっぽん教育きょういくテレビ(げんテレビ朝日てれびあさひ連続れんぞくテレビドラマ良寛りょうかんさまと子供こどもたち』(1959ねん)の監修かんしゅうである。

戦後せんごのプライベートなめんでは、1949ねんった伊豆いず農場のうじょう現在げんざい熱海あたみ下多賀しもたが)にうつんで、戦災せんさい孤児こじたちと共同きょうどう生活せいかつおくったことが有名ゆうめいである。また、陶芸とうげいにもり、熱海あたみ在住ざいじゅう小説しょうせつ志賀しが直哉なおやかれ師事しじしていた福田ふくだらんどう画家がか須田すだ剋太などの文化ぶんかじんとも交流こうりゅうした[9]

晩年ばんねんは1951ねん発作ほっさこした[13]心臓しんぞうびょう養生ようじょうをかねて、1965ねん京都きょうときた嵯峨さがだい邸宅ていたくかまえて悠々自適ゆうゆうじてきごした。

1966ねん6がつ23にち午前ごぜん2きた嵯峨さが自宅じたく書斎しょさい愛犬あいけんいだきながら、雑誌ざっしんでいる最中さいちゅうに、心臓麻痺しんぞうまひのために急逝きゅうせいした。んでいた雑誌ざっしぺーじは、蜜蜂みつばちれをってみなみからきた移動いどうする養蜂ようほう業者ぎょうしゃ記事きじだったという[13]

6月24にち生前せいぜん遺志いしにより告別こくべつしきなく自宅じたく密葬みっそう遺志いししたがって生前せいぜん大徳寺だいとくじ塔頭たっちゅう住職じゅうしょくしたしくしていた大光たいこういんはか埋葬まいそうされた[14]

ななじゅうななにちには城戸きど四郎しろう内田吐夢うちだとむ笠智りゅうちしゅう飯田いいだ蝶子ちょうこ木暮こぐれ実千代みちよ岩崎いわさきあきららが弔問ちょうもんおとずれ、分骨ぶんこつ故郷こきょう天竜川てんりゅうがわながされた。墓石はかいしには名前なまえなにきざまれてはいない。

そのさい評価ひょうか[編集へんしゅう]

没後ぼつご一定いってい評価ひょうかはあったが、わすれられた過去かこ巨匠きょしょう側面そくめんつよかった。たとえば、俳優はいゆう笠智りゅうちしゅうは、自著じちょで「ぼくは、清水しみず監督かんとく作品さくひんじつきで、自分じぶんしてもらったのをふくめ、いいシャシンがいっぱいあったとおもいます。小津おつ先生せんせい作品さくひんは、いろんなひとがあれこれいますが、清水しみずオヤジのシャシンをきちんと評価ひょうかするじんがいないのが不思議ふしぎでなりません。」(「先生せんせい親友しんゆう清水しみずオヤジ」『大船おおふな日記にっき 小津おつあん二郎じろう先生せんせいおも扶桑社ふそうしゃ、1991ねん)とべていた。

1990年代ねんだい前半ぜんはん松竹しょうちくから清水しみずひろし作品さくひんのビデオが発売はつばいされ、90年代ねんだいなかごろから松竹しょうちく時代じだい中心ちゅうしん清水しみずひろしさい評価ひょうか機運きうんたかまった。

その、2003ねんだい4かい東京とうきょうフィルメックス国際こくさい映画えいがさいにおいて特集とくしゅう上映じょうえい企画きかく清水しみずひろし 生誕せいたん100ねん」(東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんフィルムセンター共催きょうさい)が開催かいさいされ、『みなと日本にっぽんむすめ』など10作品さくひん上映じょうえい清水しみずひろし作品さくひんの『かんざし』がどう映画えいがさい観客かんきゃくしょう受賞じゅしょうした。

また、2004ねんには、だい54かいベルリン国際こくさい映画えいがさいのフォーラム部門ぶもんで「清水しみずひろし監督かんとく特集とくしゅう」、だい28かい香港ほんこん国際こくさい映画えいがさいでレトロスペクティヴ「清水しみずひろし101ねん記念きねんてん」が開催かいさいされた。

どう時期じき活躍かつやくした小津おつやすろう溝口みぞぐち健二けんじくらべると現在げんざいでも知名度ちめいど不当ふとうひくいが、2007ねん代表だいひょうさくひとつである『按摩あんまおんな』が、くさ彅剛主演しゅえん石井いしい克人かつと監督かんとくでカヴァー作品さくひんやまのあなた〜とくこい』として製作せいさくされることが発表はっぴょう、2008ねん東宝とうほう系列けいれつ公開こうかいされた。

2007ねん広島ひろしま発見はっけんされた短篇たんぺん映画えいが奈良ならにはふるふつたち』(1953ねん)が上映じょうえいされ、東京とうきょう大阪おおさか清水しみずひろしのレトロスペクティヴがおこなわれた。

2008ねんには、松竹しょうちくからDVD-BOX「清水しみずひろし監督かんとく作品さくひんコレクション」(だいいちしゅうやまあいの風景ふうけい」、だいしゅうどもの四季しき」)が発売はつばいされた。

エピソード[編集へんしゅう]

  • 助監督じょかんとく時代じだいはまったくはたらかず、カメラのまえ演出えんしゅつじゅつ研究けんきゅうしているだけだったので、銅像どうぞうというあだがついた。また、助監督じょかんとく成瀬なるせ巳喜男みきおはたらこうとすると清水しみずおこられたという。
  • 助監督じょかんとく時代じだいに『船頭せんどう小唄こうた』(池田いけだ義信よしのぶ監督かんとく作品さくひん)の撮影さつえいちゅう成瀬なるせ一緒いっしょ魚屋さかなやふんして臨時りんじ出演しゅつえんしたが、たまたま撮影さつえいしょ見学けんがくていた清水しみずちちはその姿すがた落胆らくたんしたという。
  • 撮影さつえい所長しょちょう城戸きど四郎しろう著書ちょしょ日本にっぽん映画えいがでん』にて「清水しみずのメロドラマのあつかかたはタッチのうえでフレッシュネスなものがあった」とべ、また「役者やくしゃ表情ひょうじょうたよって芝居しばいしをするわりに、カットのこまかさによって役者やくしゃのアクティングを分解ぶんかいして、それを清水しみずらしいアングルでとらえて、そのかさねでもってストーリーをしていく(中略ちゅうりゃく)、そのてんでは上手うまかった」とひょうしていたが、『りがたうさん』以降いこう実写じっしゃ精神せいしんぎであると批判ひはんしている。

著作ちょさくぶつ[編集へんしゅう]

代表だいひょうてき映像えいぞう作品さくひん[編集へんしゅう]

著述ちょじゅつ[編集へんしゅう]

  • 清水しみずひろし佐々木ささき文雄ふみお映画えいがのできるまで」だい005ごう毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1949ねんOCLC 834640157 
  • きし松雄まつお映画えいが評論ひょうろんきし松雄まつお仕事しごと』ワイズ出版しゅっぱん、2015ねん2がつISBN 9784898302873 
    • だい3しょう 作品さくひん作家さっかろん : 清水しみずひろし (じゅつ)「清水しみずひろしと『大仏だいぶつさまと子供こどもたち』」
    • だい4しょう 映画えいが人物じんぶつ : 成瀬なるせ巳喜男みきお (じゅつ)「清水しみずひろし 清水しみずひろしいちねんがゝりでっている『大仏だいぶつさまと子供こどもたち』」
    • 清水しみずひろしろん : 清水しみずひろし演出えんしゅつ手法しゅほうについて、清水しみずひろし実写じっしゃ劇映画げきえいが

DVD[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 清水しみずひろし (監督かんとく); 北林きたばやし透馬とうま (原作げんさく); 陶山すやまひそか (脚色きゃくしょく); 出演しゅつえん及川おいかわ道子みちこ; 井上いのうえ雪子ゆきこ; さわ蘭子らんこほか『やまあいの風景ふうけい(『りがたうさん』『按摩あんまおんな』『かんざし(かんざし)』)』(DVD; 本編ほんぺんやく219ふん特典とくてんディスク78ふん; 本編ほんぺんディスク:ドルビーデジタル・日本語にほんご(オリジナル); モノラル/特典とくてんディスク:なし(サイレント); 字幕じまく・バリアフリー再生さいせい機能きのうつき:(1)日本語にほんご字幕じまく (2)英語えいご字幕じまく特典とくてんディスク:なし; 画面がめんサイズ4:3/スタンダードサイズ; モノクロ; 本編ほんぺんディスク:片面かためん1そう松竹しょうちく株式会社かぶしきがいしゃ 映像えいぞう商品しょうひん清水しみずひろし監督かんとく作品さくひんしゅうだい1しゅう〉、2008ねん4がつ25にち。DB-0175。  特典とくてんディスク『みなと日本にっぽんむすめ』(1933ねん)
  2. ^ 清水しみずひろし (監督かんとく); くじらとみ兵衛ひょうえ (原作げんさく); 荒田あらた正男まさお (脚色きゃくしょく); 出演しゅつえん佐野さの周二しゅうじ; 笠智りゅうちしゅう; 日守ひもり新一しんいち; 近衛このえ敏明としあき; 大山おおやま健二けんじ; 坪内つぼうち美子よしこ; 突貫とっかん小僧こぞう花形はながた選手せんしゅ』(64ふん; ドルビーデジタル・日本語にほんご(モノラル); 字幕じまくし; 画面がめんサイズ4:3/スタンダードサイズ; モノクロ; 片面かためん1そう松竹しょうちく株式会社かぶしきがいしゃ; 株式会社かぶしきがいしゃコアラブックス〈Shochiku Classic Cinema〉。SYK-109S。 
  3. ^ a b c d 清水しみずひろし (監督かんとく); 坪田つぼた譲治じょうじ (原作げんさく); 出演しゅつえん葉山はやま正雄まさお, ばくだん小僧こぞう, 河村かわむらはじむきち, 吉川よしかわ満子みつこほか『どもの四季しき(『ふうなか子供こども』、『信子のぶこ』、『みかへりのとう』)』(DVD; 本編ほんぺんやく287ふん特典とくてんディスク146ふん; ドルビーデジタル・日本語にほんご(オリジナル)モノラル; 字幕じまく・バリアフリー再生さいせい機能きのうつき:日本語にほんご字幕じまく英語えいご字幕じまく)(1)日本語にほんご字幕じまく (2)英語えいご字幕じまく; 画面がめんサイズ 4:3/スタンダードサイズ; モノクロ; 本編ほんぺんディスク:片面かためん1そう特典とくてんディスク:片面かためん2そう松竹しょうちく株式会社かぶしきがいしゃ 映像えいぞう商品しょうひん清水しみずひろし監督かんとく作品さくひんしゅうだい2しゅう〉、2008ねん6がつ27にち。DB-0176。  - 特典とくてんディスク『子供こども四季しき』(1939ねん
  4. ^ 清水しみずひろし (監督かんとく); 尾崎おざき紅葉こうよう (原作げんさく); 出演しゅつえん川崎かわさき弘子ひろこ, 夏川なつかわ大二郎だいじろう, 上山うえやま草人そうじん, 佐野さの周二しゅうじ, 佐分利さぶりしん, 三宅みやけ邦子くにこ, 高峰たかみね三枝子みえこ, 笠智りゅうちしゅう金色きんいろ夜叉やしゃ』(やく76ふん; ドルビーデジタル・日本語にほんご(モノラル); 字幕じまくし; 画面がめんサイズ4:3/スタンダードサイズ; モノクロ; 片面かためん1そう松竹しょうちく株式会社かぶしきがいしゃ; 株式会社かぶしきがいしゃコアラブックス〈Shochiku Classic Cinema〉。SYK-101S。 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 村上むらかみ忠久ただひさ日本にっぽん映画えいが作家さっかろんだい148ごう往来おうらいしゃ、1936ねんdoi:10.11501/1871705 
  • 「みかへりのとう」『された名作めいさくせん』 6かんキネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃキネマ旬報きねまじゅんぽう別冊べっさつ : 日本にっぽん映画えいがシナリオ古典こてん全集ぜんしゅう〉、1966ねん10がつOCLC 959779076 
  • きし松雄まつお「II-A 淸水しみずひろしろん」『日本にっぽん映画えいが様式ようしきこう河出かわで書房しょぼう、1937ねん、15-26ぺーじdoi:10.11501/1871443 
  • 沢村さわむらつとむ「II 監督かんとく作品さくひん淸水しみずひろしと「みかへりのとう」」『現代げんだい映画えいがろんもも書房しょぼう東京とうきょう、1941ねん、230-241ぺーじdoi:10.11501/1871457全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:58005159 
  • 杉山すぎやま平一へいいち淸水しみずひろし」『映画えいが評論ひょうろんしゅうだいいち芸文社げいぶんしゃ京都きょうと、1941ねん、154-161ぺーじdoi:10.11501/1871759全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:60003144 
  • 清水しみずひろし」『映画えいが講座こうざ』 3かん三笠みかさ書房しょぼう、1952ねん、19ぺーじ 
  • 北川きたがわふゆ彦「清水しみずひろし」『映画えいがへのさそい』ぬるどう出版しゅっぱんぬるどう、1952ねん、144-149ぺーじ 
  • 飯島いいじまただし淸水しみずひろし (だい4 (1931〔あきら6〕–1941〔あきら16〕(つづき))」『日本にっぽん映画えいが下巻げかん白水しろみずしゃ、1955ねん、12-21ぺーじ 
  • きし松雄まつお清水しみずひろしと「大仏だいぶつさまと子供こどもたち」」『わたし映画えいが池田いけだ書店しょてん、1955ねん、169-178ぺーじ 
  • 城戸きど四郎しろう日本にっぽん映画えいがでん : 映画えいが製作せいさくしゃ記録きろく文芸春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ、1956ねん、78-79ぺーじdoi:10.11501/2479835 
  • 「III 清水しみずひろし近業きんぎょう」『伊丹いたみ万作まんさく全集ぜんしゅう』 2かん筑摩書房ちくましょぼう、1961ねん、361-366ぺーじdoi:10.11501/2495302 
  • 加藤かとうわたるゆう山田やまだ洋次ようじ (採録さいろく)「わが清水しみずひろし」『講座こうざ日本にっぽん映画えいが』3 (トーキーの時代じだい)、今村いまむら昌平しょうへい ほか (へん)、岩波書店いわなみしょてん、1986ねん3がつ、234-245ぺーじ 
  • 田中たなか眞澄ますみ映画えいが読本とくほん清水しみずひろし: 即興そっきょうするポエジー、よみがえる「ちょう映画えいが伝説でんせつ」』フィルムアートしゃ、2000ねんISBN 9784845900077 
  • 『はじめに喜劇きげきありき : 清水しみずひろし小津おつあん二郎じろう成瀬なるせ巳喜男みきお山中やまなか貞雄さだお伊丹いたみ万作まんさく、そして斎藤さいとう寅次郎とらじろう石割いしわりひらめ, えん敏郎としお, たに輔次 (へん)、ワイズ出版しゅっぱん、2005ねん6がつ 
  • まるもう美樹みきせん時期じき占領せんりょう日本にっぽんにおける公的こうてき世界せかい支配しはいたいする祝祭しゅくさいてき反逆はんぎゃく清水しみずひろしのユーモア (1)」『Polyglossia : the Asia-Pacific's voice in language and language teaching』だい10ごうたていのちかんアジア太平洋たいへいよう研究けんきゅうセンター別府べっぷ、2005ねん4がつ、87-100ぺーじISSN 1345-0891 
  • 北海道大学ほっかいどうだいがく大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅう映像えいぞう表現ひょうげん文化ぶんかろん講座こうざへん)「表面ひょうめんげき清水しみずひろしりがたうさん』をめぐって」『そう : 映像えいぞう表現ひょうげんだい1かん、ゆまに書房しょぼう、2007ねん6がつISBN 9784843323595 
  • 窪田くぼた守弘もりひろ銀幕ぎんまく即興そっきょう詩人しじん: 清水しみずひろし生涯しょうがい作品さくひんふうなかだちしゃ、2008ねんISBN 9784833131513 
  • 淡島あわしま千景ちかげ坂尻さかじり昌平しょうへい清水しみずひろし監督かんとくおど』(1957ねん大映だいえい)と『ははのおもかげ』(1959ねん大映だいえい)」『淡島あわしま千景ちかげ 女優じょゆうというプリズム』志村しむら三代子みよこ; 園生えんせい涼子りょうこ, 鷲谷わしやはな (編著へんちょ)、あおゆみしゃ、2009ねん、281-283ぺーじISBN 978-4-7872-7263-8全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:21585864 
  • 石井いしい克人かつと (じゅつ)「清水しみずひろし先生せんせいのナイスムービー3ほん」『みっかぞえろ! : 映画えいが監督かんとくえら名画めいが3本立ほんだてプログラム (DVD&ブルーレイでーたへん)』エンターブレイン、2012ねん10がつISBN 978-4-04-728473-9全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:22166441 
  • 山田やまだ宏一こういち日本にっぽん映画えいがについてわたしまなんださん事柄ことがら : 映画えいがてきな、あまりに映画えいがてきな (1)」、ワイズ出版しゅっぱん、2015ねん10がつISBN 9784898302958 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1938ねん昭和しょうわ13)ねん5がつ22にちと23にち京都きょうと南座みなみざ南座みなみざ名画めいがまつり」で上映じょうえい松竹しょうちく大船おおぶね清水しみずひろし監督かんとく佐野さの周二しゅうじ近衛このえ敏明としあき坪内つぼうち美子よしこ[5]
  2. ^ はち子供こどもたち』撮影さつえいちゅう京都きょうとあおれんいん合宿がっしゅく出演しゅつえんする子供こどもたちじゅうすうにんあつめ、食事しょくじから洗濯せんたくまでのまわりの世話せわ清水しみず夫人ふじんまかせたという[10]
  3. ^ 出演しゅつえんしゃはたとえば主役しゅやく若者わかもの熱海あたみえき駅員えきいんえんじるなど、全員ぜんいん俳優はいゆうではなく一般いっぱんひとである[11]
  4. ^ 1938ねん昭和しょうわ13)ねん5がつ24にちと25にち京都きょうと南座みなみざ南座みなみざ名画めいがまつり」で上映じょうえい松竹しょうちく大船おおぶね清水しみずひろし監督かんとく突貫とっかんばくだん・アメリカさん小僧こぞう[5]
  5. ^ 1939ねん昭和しょうわ14ねん)8がつ京都きょうと南座みなみざ新興しんこう名画めいが大会たいかい」で上映じょうえい[15]
  6. ^ 1940ねん昭和しょうわ15ねん)7がつ–8がつ京都きょうと南座みなみざ松竹しょうちく名画めいが大会たいかい」で上映じょうえい[7]
  7. ^ 1940ねん昭和しょうわ15ねん)10がつ19にちから21にちまで京都きょうと南座みなみざ松竹しょうちく名画めいが大船おおぶね大会たいかい」で上映じょうえい[16]
  8. ^ 1941ねん昭和しょうわ16ねん)9がつ12にち、13にち京都きょうと南座みなみざ大船おおふな傑作けっさくしゅう名画めいが大会たいかい」で上映じょうえい[17]
  9. ^ はち子供こどもたち』(1948ねん当時とうじよりはじめた世相せそうをとらえ、観光かんこう奈良なら観光かんこうガイドをしてはたら子供こどもたちえがいた[18]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]