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河村かわむらはじむきち

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かわむら れいきち
河村かわむら はじむきち
河村 黎吉
宗方むなかた姉妹しまい』(1950ねん
本名ほんみょう 河村かわむら せきろう(かわむら いしごろう)
生年月日せいねんがっぴ (1897-09-01) 1897ねん9月1にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1952-12-22) 1952ねん12月22にち(55さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう東京とうきょう深川ふかがわ[1]現在げんざい東京とうきょう江東こうとう
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう中央ちゅうおう築地つきじ
職業しょくぎょう 俳優はいゆう
ジャンル 新派しんぱ劇映画げきえいが時代じだいげき現代げんだいげきサウンドばんサイレント映画えいがトーキー
活動かつどう期間きかん 1921ねん - 1952ねん
おも作品さくひん
さんとう重役じゅうやく
 
受賞じゅしょう
毎日まいにち映画えいがコンクール
演技えんぎ特別とくべつしょう
1952ねんさんとう重役じゅうやく
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河村かわむら はじむきち(かわむら れいきち、1897ねん9月1にち (一説いっせつ6月16にち)[2] - 1952ねん12月22にち)は、日本にっぽん俳優はいゆう本名ほんみょうかわ村石むらいし五郎ごろう(かわむら いしごろう)。

松竹しょうちく活躍かつやくした脇役わきやく俳優はいゆう一人ひとりであり、300ほんちか作品さくひん出演しゅつえんした。島津しまつ保次郎やすじろう監督かんとく作品さくひん常連じょうれん出演しゅつえんし、江戸えどやく三枚目さんまいめやくられた。戦後せんご社長しゃちょうシリーズ前身ぜんしんである『さんとう重役じゅうやく』に社長しゃちょうやく出演しゅつえんしたことでも有名ゆうめい

略歴りゃくれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

1897ねん明治めいじ30ねん9月1にち東京とうきょう東京とうきょう深川ふかがわ現在げんざい東京とうきょう江東こうとう)にまれる。神田かんだ錦城きんじょう商業しょうぎょう学校がっこう卒業そつぎょう、13さい中洲なかす真砂まさご初舞台はつぶたい[2]新派しんぱげき無名むめい劇団げきだん参加さんかして地方ちほう巡業じゅんぎょう各地かくち転々てんてんとし、みずかしょう劇団げきだん組織そしきしたこともあった[2]

本所ほんじょ寿ことぶき出演しゅつえん最後さいご舞台ぶたい生活せいかつげ、1921ねん大正たいしょう10ねん)5がつ松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ入社にゅうしゃする。はつ出演しゅつえんさくは6月公開こうかい賀古かこ残夢ざんむ監督かんとくさけ中日ちゅうにち』で、当初とうしょ仕出しだ程度ていどだったが、特徴とくちょうてき風貌ふうぼう舞台ぶたいつちかわれた演技えんぎりょくでたちまち頭角とうかくをあらわしていく。1923ねん大正たいしょう12ねん)1がつやなぎさく梅村うめむら蓉子ようこ奈良ならしんやしなえとともにじゅん幹部かんぶ昇格しょうかく[2][3]同年どうねん9月1にち関東大震災かんとうだいしんさい発生はっせい、その影響えいきょう蒲田かまた撮影さつえいしょ使用しよう不可能ふかのうとなり、大半たいはん所員しょいんとも下加茂したかも撮影さつえいしょうつる。牛原うしはらきょ監督かんとくの『大地だいちおこる』『みなみ漁村ぎょそん』、池田いけだ義信よしのぶ監督かんとくの『くれるゝみね』などにじゅん主役しゅやくとして出演しゅつえんし、よく1924ねん大正たいしょう13ねん)1がつ幹部かんぶ昇格しょうかくした[4]

同年どうねん蒲田かまた撮影さつえいしょ復帰ふっきし、島津しまつ保次郎やすじろう監督かんとくの『愚者ぐしゃなればこそ』とう出演しゅつえんしたが、同年どうねん7がつ撮影さつえい所長しょちょうけん監督かんとく野村のむらかおるてい下加茂したかも撮影さつえいしょ異動いどう下加茂したかも撮影さつえいしょでの時代じだいげき製作せいさく強化きょうかのため大久保おおくぼただしもと清水しみずひろしやなぎさく志賀しが靖郎やすお小川おがわ国松くにまつらとともに下加茂したかもうつり、下加茂したかも改組かいそだい1さくの『元禄げんろくおんな』をはじめ、野村のむら監督かんとく海賊かいぞく髑髏しゃれこうべせん』『復活ふっかつ』(1925ねん)ではやなぎ主演しゅえん多数たすう出演しゅつえんしたが、1925ねん大正たいしょう14ねん)6がつまつ下加茂したかも撮影さつえいしょ閉鎖へいさ蒲田かまたげる。清水しみず監督かんとくの『義人ぎじん』、小津おつあん二郎じろう処女しょじょさく懺悔ざんげ』(1927ねん)などの時代じだいげき出演しゅつえんする一方いっぽう現代げんだいげきでもじゅん主役しゅやくクラスで出演しゅつえん1928ねん昭和しょうわ3ねんごろからは現代げんだいげき専門せんもんとなる[2]。このころから二枚目にまいめはんから三枚目さんまいめがかったやくえんじるようになり、次第しだいげい達者たっしゃぶりをみとめられる。

島津しまつ監督かんとくには以後いご重用じゅうようされつづけ、『上陸じょうりく第一歩だいいっぽ』『春琴しゅんきんしょうきん佐助さすけ』などでしもされもせぬバイプレーヤーとしての地位ちいかため、トーキー時代じだいからは江戸えどべん台詞回せりふまわしで人気にんきた。島津しまつ作品さくひんのほか、成瀬なるせ巳喜男みきお清水しみず渋谷しぶやみのるしょ平之ひらのすけ吉村よしむらこう三郎さぶろうらの作品さくひんでもげい達者たっしゃぶりを発揮はっきし、父親ちちおややく江戸えどやく精彩せいさいはなった[2]1939ねん昭和しょうわ14ねん)1がつ吉川よしかわ満子みつこ川崎かわさき弘子ひろことともにだい幹部かんぶ待遇たいぐう昇格しょうかくした[5]

長屋ながや紳士録しんしろく飯田いいだ蝶子ちょうこひだり)と

戦後せんごはフリーとなり、小津おつ監督かんとくの『長屋ながや紳士録しんしろく』では下町したまち庶民しょみん千葉ちば泰樹やすき監督かんとくの『きている画像がぞう』では江戸えど親爺おやじえんじ、1949ねん昭和しょうわ24ねん公開こうかい黒澤くろさわあきら監督かんとく野良犬のらいぬ』ではスリがかりろう刑事けいじえんじた。1952ねん昭和しょうわ27ねん)、東宝とうほうドルばこシリーズとなる社長しゃちょうシリーズ母体ぼたいである『さんとう重役じゅうやく』に社長しゃちょうやく主演しゅえん。この演技えんぎ毎日まいにち映画えいがコンクール演技えんぎ特別とくべつしょう受賞じゅしょうした。

笠智りゅうちしゅう坂本さかもとたけし河村かわむらはじむよし(1950ねん

このとしだけでも10ほん以上いじょう作品さくひん出演しゅつえんしたが、胃癌いがんのためたおれ、同年どうねん12月22にち築地つきじがんけん附属ふぞく病院びょういん死去しきょ[2]。55さいぼつかれ最後さいごたりげいとなった『さんとう重役じゅうやく』はその1956ねん昭和しょうわ31ねん)の『へそくり社長しゃちょう』からはじまる社長しゃちょうシリーズとして東宝とうほう看板かんばんシリーズに発展はってん人事じんじ課長かちょうやく共演きょうえんした森繁もりしげ久彌ひさや社長しゃちょうやく出世しゅっせしたが、毎回まいかい社長しゃちょうしつにはぜん社長しゃちょう河村かわむら遺影いえいかかげられている。

むすめばんあつし三郎さぶろうのヒット映画えいが『アジャパー天国てんごく』でデビューした女優じょゆういずみ友子ゆうこ[6]

出演しゅつえん映画えいが[編集へんしゅう]

太字ふとじ題名だいめいキネマ旬報きねまじゅんぽうベストテンにランクインした作品さくひん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ KINENOTE「河村かわむらはじむきち」のこう
  2. ^ a b c d e f g 日本にっぽん映画えいが俳優はいゆう全集ぜんしゅう男優だんゆうへん』p.177-178
  3. ^ 松竹しょうちくひゃくじゅうねん』p.373
  4. ^ 松竹しょうちくななじゅうねん』p.253
  5. ^ 松竹しょうちくきゅうじゅうねん』p.251
  6. ^ 主婦しゅふ生活せいかつ昭和しょうわ28ねん1がつごうせい令嬢れいじょうそろってデビュー」

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]