出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本橋中洲(にほんばしなかす)は、東京都中央区の町名。「丁目」の設定のない単独町名である。郵便番号は103-0008[2]。「日本橋○○」と称される地名の中では唯一、末尾に「町」が付かない地名である。
東京都中央区・日本橋地域の南東に位置し、北で日本橋浜町、隅田川を跨いで東側で常盤・清澄、南東の隅田川上の一点で佐賀、南西で日本橋箱崎町と隣接する。このうち江東区清澄との間には清洲橋が渡されており、日本橋中洲はその西詰に当たる。江東区常盤および佐賀とは水面上でのみ接しており、陸上交通では直接渡れない。日本橋久松町に所在する久松警察署の管轄に当たる。
中洲はもともと文字通り隅田川の中洲であった。川が三方に分かれていた地点にあったため一帯はみつまた(「三派」「三ツ俣」「三つ股」など表記が多数存在する)とも呼ばれたが、具体的にどの流れを指したかについては諸説ある。また、付近の海域は淡水と海水の分かれ目に当たるため、別れの淵と呼ばれた。月見の名所として有名で、舟遊びで賑わった。
1695年(万治2年)吉原の遊女高尾太夫が中洲近くの船上で吊り斬りにされ、遺体が北新堀河岸に漂着し、高尾稲荷に祀られたという逸話がある。
1771年7月27日(明和8年6月16日)馬込勘解由(6代目、馬込興承)により浜町と地続きになるように埋め立てが行われ、1773年1月10日(安永元年12月18日)に中洲新地として竣工した。1775年(安永4年)には町屋が整い、富永町と号した。間もなく飲食店が立ち並ぶ一大歓楽街となり、両国の客を奪うほどの賑わいを見せた。しかしながら、隅田川の流路を狭めたために上流で洪水が頻発し、また奢侈を戒める寛政の改革の影響もあって1789年(寛政元年)取り壊され、芦の茂る浅瀬へと戻った。この時の土砂は隅田土手の構築に利用された。
1886年(明治19年)再び埋め立てられ、中洲河岸が成立、後に中洲町となった。1893年(明治26年)真砂座ができると、中洲は娯楽街として再び賑わいを取り戻すかに見えたが、大正期には早くも廃れた。
1935年(昭和10年)中洲に改称する。1947年(昭和22年)より中央区日本橋中洲。1971年(昭和46年)そのまま住居表示が実施された。1971年(昭和46年)に浜町との境、翌年に箱崎町との境が埋め立てられ、完全に地続きとなった。
2019年(令和元年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[4]。
- 鉄道
- バス
- 道路