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松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ

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松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ
Shochiku Kamata Studios
松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょあと大田おおた区民くみんホールアプリコ
種類しゅるい 事業じぎょうじょう
市場いちば情報じょうほう 消滅しょうめつ
略称りゃくしょう 松竹まつたけ蒲田かまた
本社ほんしゃ所在地しょざいち 日本の旗 日本にっぽん
東京とうきょう荏原えばらぐん蒲田かまたむら大字だいじきた蒲田かまた129
現在げんざい東京とうきょう大田おおた蒲田かまた5丁目ちょうめ37)
設立せつりつ 1920ねん6がつ
業種ぎょうしゅ サービスぎょう
事業じぎょう内容ないよう 映画えいが製作せいさく
代表だいひょうしゃ 田口たぐちさくらむら
野村のむらかおるてい
城戸きど四郎しろう
小山内おさないかおる
主要しゅよう株主かぶぬし 松竹しょうちくキネマ株式会社かぶしきがいしゃ
主要しゅよう子会社こがいしゃ 松竹しょうちくキネマ研究所けんきゅうじょ
関係かんけいする人物じんぶつ 白井しらい信太郎しんたろう
松居まつい松葉まつば
大谷おおや竹次郎たけじろう
白井しらい松次郎まつじろう
おか鬼太郎おにたろう
玉木たまきちょう
田中たなか欽之
ヘンリー・小谷おたに
大久保おおくぼただしもと
伊藤いとう大輔だいすけ
特記とっき事項じこう1936ねん1がつ15にち 閉鎖へいさ
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松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ(しょうちくかまたさつえいじょ、1920ねん6がつ 正式せいしき開業かいぎょう - 1936ねん1がつ15にち 閉鎖へいさ)は、かつて存在そんざいした日本にっぽん映画えいがスタジオである。

大正たいしょうから戦前せんぜんにかけて、松竹しょうちくキネマ現代げんだいげきならびに旧劇きゅうげきのち廃止はいし)のスタジオとして稼働かどう開業かいぎょう当初とうしょハリウッドから技術ぎじゅつしゃまねいたり、スター・システム導入どうにゅうするなど日本にっぽん映画えいが黎明れいめいをリードする撮影さつえいしょとなった。城戸きど四郎しろう撮影さつえい所長しょちょうになってからは、通称つうしょう蒲田かまた調ちょう」とばれる作品さくひん連発れんぱつし、いち時代じだいきずいた。また、小津おつあん二郎じろう成瀬なるせ巳喜男みきお田中たなか絹代きぬよ高峰たかみね秀子ひでこおおくのめい監督かんとく名優めいゆう輩出はいしゅつし、国産こくさんはつ本格ほんかくてきトーキーしたのもどう撮影さつえいしょである。

  1. 田口たぐちさくらむら(1920ねん - 1921ねん
  2. 野村のむらかおるてい(1921ねん - 1924ねん
  3. 城戸きど四郎しろう(1924ねん - 1936ねん

略歴りゃくれき概要がいよう

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設立せつりつまで

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1919ねん大正たいしょう8ねん)3がつ15にち当時とうじ演劇えんげき興行こうぎょう会社かいしゃであった松竹しょうちく合名ごうめい会社かいしゃは、白井しらい信太郎しんたろう松居まつい松葉まつば市川いちかわ猿之助えんのすけ山森やまもりさんきゅうろう[注釈ちゅうしゃく 1]田中たなかりょうの5欧米おうべい劇界げきかい視察しさつ派遣はけんした[1][2]同年どうねん8がつ派遣はけんされたメンバーのうち市川いちかわ山森やまもり田中たなかの3帰国きこくしたが、のこりの白井しらい松居まついは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくカリフォルニアしゅうにある映画えいが製作せいさく配給はいきゅう会社かいしゃユニバーサルしゃ視察しさつしたのち、同年どうねん10がつまつ帰国きこくした[1]。かねてから映画えいがかい進出しんしゅつかんがえていた社長しゃちょう大谷おおや竹次郎たけじろうは、白井しらい松居まついの2から海外かいがい映画えいが事業じぎょう活況かっきょうき、本格ほんかくてき映画えいが事業じぎょう進出しんしゅつすることを決意けついした。

1920ねん大正たいしょう9ねん)1がつ大谷おおや竹次郎たけじろうはじ松居まつい松葉まつばおか鬼太郎おにたろう田口たぐちさくらむらの4協議きょうぎ映画えいが事業じぎょう創立そうりつ計画けいかく成立せいりつされ、築地つきじ松竹しょうちく合名ごうめい会社かいしゃ本社ほんしゃないに「松竹しょうちくキネマ合名ごうめいしゃ創立そうりつ事務所じむしょ」をいて、創立そうりつ準備じゅんびすすめた[2]ちなみに、松竹しょうちくキネマの「キネマ」の名称めいしょうは、あたらしい映画えいがつくるイメージからおか名付なづけた。同年どうねん2がつ11にち東京とうきょう京橋きょうばし築地つきじ3丁目ちょうめ9番地ばんちに「松竹しょうちくキネマ合名ごうめいしゃ」を創立そうりつして映画えいが製作せいさく配給はいきゅう開始かいし発表はっぴょう新聞しんぶん紙上しじょう従業じゅうぎょういん撮影さつえいしょ用地ようち募集ぼしゅうをした[2]当時とうじ職制しょくせいは、社長しゃちょう大谷おおや竹次郎たけじろうふく社長しゃちょう白井しらい信太郎しんたろう総務そうむ松居まつい松葉まつば理事りじ田口たぐちさくらむら吉田よしだ克己かつみ評論ひょうろん)、支配人しはいにん玉木たまきちょうという顔触かおぶれだった[2]

同年どうねん3がつ22にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくから技術ぎじゅつしゃ招聘しょうへいするため田口たぐちさくらむら玉木たまきちょう輔を同地どうち派遣はけんする。セシル・B・デミル紹介しょうかいにより、カメラマンのヘンリー・小谷おたに招聘しょうへいし、大道具おおどうぐ技師ぎしジョージ・チャプマン(チャップマンとも)、田中たなか欽之あわせて3まねれることにし、また撮影さつえい機材きざい購入こうにゅうして、田口たぐち玉木たまき同年どうねん6がつ初旬しょじゅん帰国きこくした[3]。また、同年どうねん4がつ1にちには、木挽こびきまち歌舞伎座かぶきざ裏手うらてにあった芝居しばい茶屋ちゃや梅林ばいりん」の2かい松竹しょうちくキネマ俳優はいゆう学校がっこう開校かいこう[4][5]し、市村いちむらから招聘しょうへいされた小山内おさないかおるどう学校がっこう校長こうちょう就任しゅうにん[4]させ、映画えいが俳優はいゆう養成ようせいおこなった。同校どうこう卒業生そつぎょうせいには鈴木すずきでんあきら伊藤いとう大輔だいすけらがいる。

撮影さつえいしょ用地ようちめぐっては、静岡しずおかけん沼津ぬまづにある千本せんぼん松原まつばらなどが候補こうほがっていたが、本社ほんしゃ築地つきじからも交通こうつう便利べんりだという理由りゆう蒲田かまた決定けってい[2]し、東京とうきょう荏原えばらぐん蒲田かまたむら現在げんざい東京とうきょう大田おおた蒲田かまた5丁目ちょうめ)にあったきゅう中村なかむら化學かがく研究所けんきゅうじょ跡地あとち9,000つぼ煉瓦れんがづくりの事務所じむしょ1むね買収ばいしゅうし、グラスステージとダークステージをそれぞれ1むねずつ建設けんせつ松竹しょうちくキネマ俳優はいゆう学校がっこう同地どうち移設いせつした[5]。こうして撮影さつえいしょ同年どうねん6月25にち正式せいしき開業かいぎょう同時どうじ専属せんぞく俳優はいゆうやといれもおこない、岩田いわた祐吉ゆうきち諸口しょくちじゅうきゅう勝見かつみ庸太郎ようたろう関根せきねいたるはつ柴田しばた善太郎ぜんたろう大山おおやまたけしあらし松五郎まつごろう[注釈ちゅうしゃく 2]川田かわた芳子よしこ三村みつむら千代子ちよこ花柳はなやぎはるみ静香しずか八千代やちよほか40めい所属しょぞくした[2]

また、同時どうじあらたな職制しょくせい発表はっぴょうされた。撮影さつえいしょ職制しょくせい以下いかとお[注釈ちゅうしゃく 3][1][5]

同年どうねん7がつ19にち、ヘンリー・小谷おたに田中たなか欽之、ジョージ・チャプマンの3日本にっぽん到着とうちゃくし、ハリウッドりゅう撮影さつえい照明しょうめい編集へんしゅう技術ぎじゅつつたえた。あお川道かわみちおっと回想かいそうによれば、3着任ちゃくにんするまでの撮影さつえいしょ本物ほんもの映画えいが製作せいさくじゅつらない「半可通はんかつうひとたちが、製作せいさくにかかった」ようなものであったという[7]同年どうねん11がつ1にち松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ設立せつりつだいいちかい作品さくひんとなる短篇たんぺん映画えいがしまおんな』が、イタリア映画えいがの『のろいのオシリス』ととも歌舞伎座かぶきざ上映じょうえいされた[2]どうさくは、山崎やまざき紫紅しこう原作げんさくもとに、小谷おたに撮影さつえいしたもので、クローズアップやカットりなどの斬新ざんしん技法ぎほうもちいられた。なお、ほんさくはあくまでも歌舞伎座かぶきざのみの特別とくべつ上映じょうえいであったため一般いっぱん出回でまわった実質じっしつてきだいいちかい作品さくひんは、おなじく小谷おたに監督かんとく伊藤いとう大輔だいすけ脚本きゃくほん諸口しょくちじゅうきゅう主演しゅえんによる『新生しんせい』(1920ねん)となった。

一方いっぽう撮影さつえいそう監督かんとくけん俳優はいゆうがく校長こうちょうつとめていた小山内おさないかおるは、芸術げいじゅつせいをメインとした『奉仕ほうし薔薇ばら』と、諸口しょくちじゅうきゅう岩田いわた祐吉ゆうきち主演しゅえんによる『ひかりおんな』(1920ねん)を製作せいさくしたが、「バタ臭ばたくさ」などの理由りゆう評判ひょうばんがあまりくなく、前者ぜんしゃ公開こうかい見送みおくられてしまう。結局けっきょく映画えいがかい革新かくしんはかった小山内おさないらと商業しょうぎょう主義しゅぎ映画えいが監督かんとくたちとはりがわず、同年どうねん11がつ小山内おさないあらたに設立せつりつされた松竹しょうちくキネマ研究所けんきゅうじょ所長しょちょう任命にんめいされ、同所どうしょ映画えいが製作せいさくおこなうことになった。なお、どう研究所けんきゅうじょ翌年よくねん解散かいさんし、小山内おさないはじ所属しょぞくしていた従業じゅうぎょういん松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょもどっている。

1921ねん大正たいしょう10ねん)4がつ28にち、かつて存在そんざいした帝国ていこく活動かつどう写真しゃしん株式会社かぶしきがいしゃを「松竹しょうちくキネマ株式会社かぶしきがいしゃ」と改称かいしょうし、同時どうじ松竹まつたけキネマ合名ごうめいしゃ吸収きゅうしゅう合併がっぺいした。

蒲田かまた調ちょう完成かんせい

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同年どうねん4がつ29にち、ヘンリー・小谷おたに監督かんとく脚本きゃくほん撮影さつえいの『虞美人草ぐびじんそう』が公開こうかいされた。どうさくは、新子安しんこやす海岸かいがん中国ちゅうごくふうだい城砦じょうさいのセットをつくり、おおくの人数にんずう動員どういんして項羽こうう劉邦りゅうほう合戦かっせん場面ばめん撮影さつえいされた[5]。また、主演しゅえん栗島くりしますみのデビューさくでもあり、この映画えいがのヒットととも栗島くりしま蒲田かまた代表だいひょうするスター女優じょゆうとなった。どうさく公開こうかい撮影さつえい所長しょちょうつとめていた田口たぐちさくらむら本社ほんしゃ貿易ぼうえきげられたためわって野村のむらかおるてい監督かんとく兼任けんにん撮影さつえい所長しょちょう就任しゅうにんした[5][8]新派しんぱ出身しゅっしん野村のむらは、新派しんぱてき題材だいざい作品さくひん製作せいさく路線ろせんとし、これらの作品さくひん大衆たいしゅうだいけした。この路線ろせん変更へんこうによってヘンリー・小谷おたに田中たなか欽之、小山内おさないかおるらは松竹しょうちくキネマをっている。また、スターだいいち主義しゅぎ製作せいさく体制たいせいおこなうため「スター・システム」を導入どうにゅうし、栗島くりしまほか川田かわた芳子よしこ五月さつき信子のぶこやなぎさくなどおおくのスター女優じょゆう誕生たんじょうした。

以降いこう野村のむらかおるていおなじく映画えいが監督かんとく賀古かこ残夢ざんむともおおくの新派しんぱてき悲劇ひげき映画えいが製作せいさくしていたが、いずれも伊藤いとう大輔だいすけ脚本きゃくほん勝見かつみ庸太郎ようたろう主演しゅえんった『清水次郎長しみずのじろちょう』(1922ねん)と『おんな海賊かいぞく』(1923ねん)では、「しん時代じだい劇映画げきえいが」と銘打めいうって、きゅう劇映画げきえいが新派しんぱ新劇しんげき出身しゅっしん現代げんだいげき俳優はいゆう出演しゅつえんさせるなど、従来じゅうらい歌舞伎かぶき調ちょうたるきゅう劇映画げきえいがとはことなる写実しゃじつてきな「時代じだい劇映画げきえいが」を製作せいさくした。また、池田いけだ義信よしのぶは、のちつまとなる栗島くりしますみと、岩田いわた祐吉ゆうきち主演しゅえんおおくの情話じょうわものをり、なかでも1923ねん大正たいしょう12ねん)1がつ8にち公開こうかいされた小唄こうた映画えいが船頭せんどう小唄こうた』は流行りゅうこうともだいヒットを記録きろくした。牛原うしはらきょは、のちつまとなる三村みつむら千代子ちよこ主演しゅえん感傷かんしょう悲劇ひげきおおり、「センチメンタル牛原うしはら」と呼称こしょうされた[9]島津しまつ保次郎やすじろうは、ゲアハルト・ハウプトマン原作げんさくの『線路せんろばんテール』を翻案ほんあんした、関根せきねいたるはつ花川はなかわたまき主演しゅえんによる『やま線路せんろばん』(1923ねん[9] などの作品さくひん発表はっぴょうし、写実しゃじつ映画えいが監督かんとくとしてたか評価ひょうかされた。

1923ねん大正たいしょう12ねん)9がつ1にち関東大震災かんとうだいしんさいによって撮影さつえいしょ壊滅かいめつ蒲田かまたでの製作せいさく困難こんなんになったため、京都きょうと京都きょうと松竹しょうちく下加茂したかも撮影さつえいしょあらたに建設けんせつし、同地どうち拠点きょてんうつした。そのため野村のむらかおるていをはじめ多数たすう専属せんぞくスタッフ・俳優はいゆう同地どうち異動いどうしたが、島津しまつ保次郎やすじろう少数しょうすうのスタッフは蒲田かまた残留ざんりゅうした。そこへ代理だいり所長しょちょうとして赴任ふにんしたのが城戸きど四郎しろうであった。ほとんどの機能きのう京都きょうと移転いてんしたなか城戸きど島津しまつらとともせい邦宏くにひろ主演しゅえんとうさん』(1923ねん)と、水谷みずたに八重子やえこ藤野ふじの秀夫ひでお主演しゅえん蕎麦そばむすめ』(1924ねん)の製作せいさく協力きょうりょくした。よく1924ねん大正たいしょう13ねん)1がつ蒲田かまたでの映画えいが製作せいさく本格ほんかくてきさいスタートするが、同年どうねん7がつ野村のむら松竹しょうちく下加茂したかも撮影さつえいしょ所長しょちょう異動いどう(2ねん蒲田かまた復帰ふっき[注釈ちゅうしゃく 6]し、これによって大久保おおくぼただしもと清水しみずひろし河村かわむらはじむきち志賀しが靖郎やすおやなぎさくらが野村のむら行動こうどうともにした。これにより、城戸きど松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ次期じき所長しょちょう就任しゅうにんしたのである。

城戸きど四郎しろうは、従来じゅうらい新派しんぱてき路線ろせんや、スター優先ゆうせん製作せいさく体制たいせい排除はいじょし、より明朗めいろう健康けんこうてき近代きんだいてき感覚かんかく映画えいがづくりを目指めざした。監督かんとく主導しゅどう体制たいせい採用さいようし、母性ぼせいあいおもとした「女性じょせい映画えいが」の製作せいさく推進すいしんさせ、また「青春せいしゅん映画えいが」や「喜劇きげき映画えいが」を路線ろせんくわえて、庶民しょみん日常にちじょう生活せいかつから題材だいざいもとめた「しょう市民しみん映画えいが」をスタイルとして確立かくりつした[12]。これらは「蒲田かまた調ちょう」とばれ、のち大船おおふな撮影さつえいしょ移転いてんしてからも、そのスタイルはがれた。また、城戸きどシナリオ重要じゅうようせい着目ちゃくもくし、あし本部ほんぶ強化きょうかした。島津しまつ保次郎やすじろうは、せい邦宏くにひろやなぎさく主演しゅえんによるサラリーマン喜劇きげき日曜日にちようび』(1924ねん)で「蒲田かまた調ちょう」の先陣せんじんり、以降いこう写実しゃじつ映画えいが監督かんとくとして、みず久保くぼ澄子すみこ主演しゅえんあらしなか処女しょじょ』(1932ねん)や、逢初夢子ゆめこ主演しゅえんとなり八重やえちゃん』(1934ねん)などを発表はっぴょう牛原うしはらきょ彦は、同所どうしょ二枚目にまいめスター・鈴木すずきでんあきらとコンビをみ、明朗めいろう快活かいかつ青春せいしゅん映画えいが製作せいさくして人気にんきた。しょ平之ひらのすけは、渡辺わたなべあつし八雲やくも恵美子えみこ主演しゅえんからくりむすめ』(1926ねん)や、田中たなか絹代きぬよ主演しゅえん伊豆いず踊子おどりこ』(1933ねん)、斎藤さいとう達雄たつお吉川よしかわ満子みつこ主演しゅえん人生じんせいのお荷物にもつ』(1935ねん)などを発表はっぴょう下加茂したかもからふくしゃした清水しみずひろしは、藤井ふじいみつぐ近衛このえ敏明としあき主演しゅえんによる『若旦那わかだんな』シリーズ(1933ねん~)などの娯楽ごらく映画えいがり、ロケーションを多用たようした実写じっしゃてき作品さくひんのち評価ひょうかされた。小津おつあん二郎じろうは、岡田おかだ時彦ときひこ八雲やくも恵美子えびす主演しゅえん東京とうきょう合唱がっしょう』(1931ねん)、斎藤さいとう達雄たつお突貫とっかん小僧こぞう青木あおき富夫とみお主演しゅえん大人おとな繪本えほん うまれてはみたけれど』(1932ねん)などの喜劇きげき作品さくひんり、のち松竹まつたけ蒲田かまた代表だいひょうする監督かんとくとなった。また、いわゆる「ナンセンス喜劇きげき」とばれるスラップスティック・コメディ映画えいが意識いしきした短編たんぺん喜劇きげき映画えいが製作せいさくされ、斎藤さいとう寅次郎とらじろうらがその分野ぶんや活躍かつやくした。

終焉しゅうえん・その

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1931ねん昭和しょうわ6ねん)4がつ土橋どばし武夫たけお土橋どばし晴夫はるお兄弟きょうだい撮影さつえい所内しょないトーキー研究けんきゅうみ、五所ごしょ平之ひらの助監督じょかんとく渡辺わたなべあつし田中たなか絹代きぬよ主演しゅえんによる全編ぜんぺんトーキーマダムと女房にょうぼう』の撮影さつえい製作せいさく開始かいしする。しかし、テスト段階だんかいで、撮影さつえい所内しょない騒音そうおんはいむことが判明はんめいし、1ヶ月かげつついやしてスタジオに防音ぼうおん工事こうじほどこされた[13]同年どうねん8がつ1にちどうさく無事ぶじ完成かんせいし、帝国ていこく劇場げきじょうで「国産こくさんはつ本格ほんかくてきトーキー」と銘打めいうって公開こうかいされ、だいヒットを記録きろくした。なお、1935ねん昭和しょうわ10ねん)のサイレント映画えいがサウンドばんからトーキーへの完全かんぜん移行いこうともない、ふるくからまち工場こうじょう騒音そうおんおおかった蒲田かまたでは、次第しだい映画えいが撮影さつえい製作せいさく支障ししょうをきたすようになり、1936ねん昭和しょうわ11ねん)1がつ15にち神奈川かながわけん鎌倉かまくらぐん大船おおふなまち現在げんざい鎌倉かまくら大船おおふな)にあらたに開業かいぎょうした松竹しょうちく大船おおぶね撮影さつえいしょ現存げんそんせず)にぜん機能きのう移転いてんする。これにより、松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ閉鎖へいさとなり、高砂香料工業たかさごこうりょうこうぎょう売却ばいきゃくされ、やく16ねん歴史れきしまくじた。同地どうち製作せいさくした映画えいがは1200ほんえる。

現在げんざい松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ跡地あとちには大田おおた区民くみんホールアプリコっており、同館どうかん地下ちか1かいには撮影さつえいしょ模型もけい展示てんじされているほか、1かいエントランスには撮影さつえいしょまえかっていた「松竹しょうちくきょう」のおやばしら展示てんじされている。また、同館どうかんまえには山田やまだ洋次ようじ監督かんとく映画えいがキネマの天地てんち』(1986ねん)の撮影さつえい使用しようされた「松竹しょうちくきょう」のおやばしら欄干らんかん複製ふくせいひん設置せっちされている。

エピソード

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1933ねん昭和しょうわ8ねん)11月、撮影さつえい合間あいま飯田いいだ蝶子ちょうこ小林こばやしじゅうきゅう奈良ならしんやしなえ吉川よしかわ満子みつこらが麻雀まーじゃんきょうじてたところ、火鉢ひばちそこけて床板とこいたうつりボヤをさわぎとなった。さいわいにもおおきな火事かじにはならなかったが、このとき面々めんめんよく1934ねん昭和しょうわ9ねん)3がつ麻雀まーじゃん賭博とばく容疑ようぎおおくの文士ぶんしらととも一緒いっしょ検挙けんきょされている[14]

おもな専属せんぞくスタッフ・俳優はいゆう

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1920ねん大正たいしょう9ねん)6がつ松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ創設そうせつから松竹しょうちくキネマ研究所けんきゅうじょ設立せつりつ関東大震災かんとうだいしんさいともな一時いちじ異動いどう鈴木すずきでんあきららによる松竹しょうちく蒲田かまた連袂れんべい退社たいしゃて、1936ねん昭和しょうわ11ねん)1がつ閉鎖へいさされるまでの時期じき所属しょぞくしていた俳優はいゆう一覧いちらんである(50おとじゅん)。

映画えいが監督かんとく

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池田いけだ義信よしのぶ牛原うしはらきょ大久保おおくぼただしもと小山内おさないかおる脱退だったい)、小津おつあん二郎じろう賀古かこ残夢ざんむしょ平之ひらのすけヘンリー・小谷おたに脱退だったい)、斎藤さいとう寅次郎とらじろう佐々木ささき恒次郎つねじろうじゅう宗務しゅうむ島津しまつ保次郎やすじろう清水しみずひろしつた丈夫じょうぶ豊田とよだ四郎しろう成瀬なるせ巳喜男みきお野村のむらひろししょう野村のむらかおるてい村田むらたみのる

脚本きゃくほん

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荒牧あらまき芳郎よしお池田いけだ忠雄ただお伊藤いとう大輔だいすけ稲津いなつ廷一小田おだたかし北村きたむら小松こまつ野田のだ高梧こうご伏見ふしみあきら古田ふるた弘隆ひろたか松崎まつざきしょうさく水島みずしまあやめ村上むらかみ徳三郎とくさぶろう柳井やない隆雄たかお吉田よしだひゃくすけ

企画きかく

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加藤かとう四郎しろうはた耕一こういち野口のぐち鶴吉つるきち斎藤さいとう保之やすゆき

撮影さつえい技師ぎし

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猪飼いかい助太郎すけたろう小田おだはま太郎たろう小原おはら譲治じょうじ桑原くわばらすばる佐々木ささき太郎たろう茂原しげはら英雄ひでお長井ながい信一しんいち野村のむらひろし浜村はまむら義康よしやす三浦みうら光男みつお水谷みずたに文二ぶんじろうあお川道かわみちおっと

その

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水谷みずたにひろし舞台ぶたい設計せっけい)、脇田わきたいち舞台ぶたい設計せっけい)、田邊たなべ憲治けんじ照明しょうめい技師ぎし)、吉村よしむらこう三郎さぶろう監督かんとく助手じょしゅ)、増谷ますたに現像げんぞう技師ぎし

男優だんゆう

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新井あらいあつし石山いしやまりゅう磯野いその秋雄あきお一木いちき突破とっぱ井上いのうえ正夫まさお今尾いまお外宮げくう岩田いわた祐吉ゆうきち牛田うしだひろし江川えがわ宇禮ゆう大國おおくに一郎いちろう大山おおやま健二けんじ岡田おかだ宗太郎そうたろう岡田おかだ時彦ときひこ荻野おぎの貞行さだゆき小倉おぐらしげる押本うつ大日方おびなたつたえ勝見かつみ庸太郎ようたろう河村かわむらはじむきち河原かわはらただし木村きむら健兒けんじ國島くにしま莊一しょういち兒島こじま三郎さぶろう小林こばやしじゅうきゅう小村こむら新一郎しんいちろう齋藤さいとう達雄たつおさかい一二かずじ酒井さかい啓之ひろゆき坂本さかもとたけし志賀しが靖郎やすお島田しまだ嘉七かしち清水しみず一郎いちろう鈴木すずきでんあきらせき時男ときお關根せきねいたるはつ高田たかだみのる武田たけだ春郎はるお田中たなかただしはるたにうららこう月田つきだ一郎いちろう土屋つちや四郎しろう戸田とだべんりゅうなか英之助えいのすけ長尾ながおひろし中濱なかはま一三かずみ奈良ならしんやしなえ野寺のでら正一しょういち土方ひじかた勝三郎かつさぶろう日守ひもり新一しんいち藤野ふじの秀夫ひでおほしひかりせい邦宏くにひろ水島みずしまあきら太郎たろう三田みたえい宮島みやじま健一けんいち諸口しょくちじゅうきゅう山内やまうちひかり山本やまもとふゆきょう結城ゆうき一朗いちろう横尾よこお泥海どろうみおとこ吉川よしかわえいらん吉谷よしたに久雄ひさお吉村よしむら秀也しゅうや笠智りゅうちしゅう若林わかばやし廣雄ひろお渡邊わたなべあつし

女優じょゆう

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青山あおやま萬里子まりこあずま榮子えいこ飯田いいだ蝶子ちょうこ飯塚いいづか敏子としこ石河いしかわかおる出雲いずも八重子やえこ糸川いとかわ京子きょうこ井上いのうえ雪子ゆきこ及川おいかわ道子みちこ岡村おかむら文子ふみこ葛城かつらぎ文子ふみこ川崎かわさき弘子ひろこ川田かわた芳子よしこ栗島くりしますみ雲井くもい鶴子つるこ五月さつき信子のぶこ鈴木すずき歌子うたこ高松たかまつ榮子えいこ龍田たつた静枝しずえ伊達だて里子さとこ田中たなか絹代きぬよ谷崎たにざき龍子りゅうこ筑波つくば雪子ゆきこ坪内つぼうち美子よしこ浪花なにわ友子ゆうこ花岡はなおか菊子きくこえい百合子ゆりこはやし千歳ちとせ光喜みつよし三子みつご日夏ひなつ百合ゆり兵藤ひょうどう靜枝しずえ二葉ふたばかほる松井まつい潤子じゅんこ松井まつい千枝子ちえこ御子柴みこしば初子はつこみず久保くぼ澄子すみこ三村みつむら千代子ちよこ八雲やくも惠美子えみこやなぎさく山縣やまがたただしだい吉川よしかわ滿子みつこ若葉わかば信子のぶこ若美わかみ多喜子たきこ若水わかみず絹子きぬこ

子役こやく

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アメリカ小僧こぞう加藤かとう清一せいいち久保田くぼた久雄ひさおしょう藤田ふじた正一しょういち菅原すがわら秀雄ひでお突貫とっかん小僧こぞうばくだん小僧こぞう半田はんだにち出丸でまる
市村いちむら美津子みつこしょうさくら葉子ようこ高尾たかお光子みつこ高峰たかみね秀子ひでこ藤田ふじた房子ふさこ藤田ふじた陽子ようこ松園まつぞの延子のぶこ

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 石川いしかわけん出身しゅっしんで、当時とうじ松竹しょうちく巡業じゅんぎょう部長ぶちょうをしていた。
  2. ^ 映画えいが女優じょゆう市川いちかわはるまもるおっと
  3. ^ 松竹しょうちくキネマ合名ごうめいしゃ職制しょくせいは、社長しゃちょう白井しらい信太郎しんたろう総務そうむ松居まつい松葉まつば相談役そうだんやく大谷おおや竹次郎たけじろう白井しらい松次郎まつじろう理事りじちょう大谷おおや竹次郎たけじろう理事りじ小山内おさないかおる木村きむら錦花きんか吉田よしだ克己かつみ山森やまもりさんきゅうろう田口たぐちさくらむら玉木たまきちょう野村のむらかおるてい外交がいこう部長ぶちょう井上いのうえたくおさむ撮影さつえい部長ぶちょう田口たぐちさくらむら営業えいぎょう顧問こもん野村のむらかおるてい技芸ぎげい顧問こもんおか鬼太郎おにたろう建築けんちく顧問こもん前田まえだ長久ちょうきゅう常務じょうむ主事しゅじ瀬川せかわとなっている。
  4. ^ のち松竹まつたけ蒲田かまた撮影さつえいしょ次長じちょう就任しゅうにん
  5. ^ 斎藤さいとうけいさん(1887ねん - 1955ねん)は、秋田あきたけん由利ゆりぐん矢島やじままち出身しゅっしん美術家びじゅつか音楽家おんがくかで、国民こくみんふく考案こうあんおこなったひとである。[6]
  6. ^ 野村のむらかおるてい異動いどう理由りゆうには、野村のむらやなぎさくとのスキャンダルによる懲罰ちょうばつ措置そち左遷させん[10] と、時代じだいげき部門ぶもん強化きょうか目的もくてきため[11]の2せつがある。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 松竹しょうちくひゃくじゅうねん
  2. ^ a b c d e f g 日本にっぽん映画えいが事業じぎょう総覧そうらん 昭和しょうわ年版ねんばん』(国際こくさい映画えいが通信つうしんしゃ
  3. ^ 田中たなか純一郎じゅんいちろうちょ大谷おおや竹次郎たけじろう
  4. ^ a b 三國みくに一朗いちろうちょ徳川とくがわゆめごえ世界せかい
  5. ^ a b c d e 田中たなか純一郎じゅんいちろうちょ日本にっぽん映画えいが発達はったつI 活動かつどう写真しゃしん時代じだい
  6. ^ 秋田あきた県立けんりつ秋田あきた高等こうとう学校がっこう同窓会どうそうかい
  7. ^ あおがわ道夫みちおちょ『カメラマンの映画えいが あお川道かわみちおっとあゆんだみち
  8. ^ 佐藤さとう忠男ただおちょ日本にっぽん映画えいがじん 日本にっぽん映画えいが創造そうぞうしゃたち』
  9. ^ a b 筈見はずみ恒夫つねおちょ映画えいがじゅうねん
  10. ^ きし松雄まつおちょ人物じんぶつ 日本にっぽん映画えいが
  11. ^ キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃへん日本にっぽん映画えいが俳優はいゆう全集ぜんしゅう男優だんゆうへん
  12. ^ 現代げんだい映画えいが用語ようご辞典じてん
  13. ^ 松竹しょうちくはつのトーキー「マダムと女房にょうぼう」『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ6ねん5がつ11にちづけ(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ6ねん-昭和しょうわ7ねん本編ほんぺんp27 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん)。
  14. ^ 蒲田かまた俳優はいゆう検挙けんきょしゃさんじゅうにんに『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ9ねん3がつ18にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん-昭和しょうわ9ねん本編ほんぺんp615 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん)。

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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