(Translated by https://www.hiragana.jp/)
イタリアの映画 - Wikipedia コンテンツにスキップ

イタリアの映画えいが

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

イタリア映画えいが(イタリアえいが)の歴史れきしは、リュミエール兄弟きょうだい映画えいが発見はっけんしたわずかすうげつ教皇きょうこうレオ13せい祝福しゅくふくあたえる姿すがたすう秒間びょうかんカメラにおさめられたときはじまったといえる。

初期しょき

[編集へんしゅう]

イタリア映画えいが産業さんぎょう1903ねんから1908ねんにかけて、3つのおも映画えいが会社かいしゃローマチネスしゃCines)、トリノアレッサンドラ・アンブロシオしゃAlessandra Ambrosio)およびとイタラ・フィルムしゃItala Film)によって形作かたちづくられた。すぐに会社かいしゃミラノナポリつづいた。これら初期しょき会社かいしゃみじか時期じき良質りょうしつ作品さくひん製作せいさくし、イタリアの映画えいが作品さくひん国内こくないだけでなく海外かいがいにも販売はんばいされるようになる。

最初さいしょにイタリアで製作せいさくされた映画えいが作品さくひん歴史れきし映画えいがであった。そのジャンルにおけるはじめての作品さくひんは、1905ねん撮影さつえいされたフィロテオ・アルベリーニFiloteo Alberini)の作品さくひんLa presa di Roma, XX settembre 1870』であった。ほかにもネロメッサリナスパルタクスや、ユリウス・カエサルや、マルクス・アントニウスクレオパトラなどの有名ゆうめい歴史れきしじょう人物じんぶつえがいた映画えいが製作せいさくされた。 1908ねん製作せいさくアルトゥーロ・アンブロージオの『ポンペイ最後さいご Gli ultimi giorni di Pompei』は急速きゅうそく有名ゆうめいになり、1913ねんマリオ・カゼリーニによってリメイク(『ポンペイ最後さいご Gli ultimi giorni di Pompei』)された。 どう1913ねんエンリコ・グアッツォーニひろ評判ひょうばんとなる『マルクス・アントニウスとクレオパトラ』を監督かんとくした。

女優じょゆうリダ・ボレッリフランチェスカ・ベルティーニ、およびピナ・メニケリとく悲劇ひげきせんもんにして、最初さいしょの「ディーヴァ (Diva)」(スター)となった。とくにベルティーニは映画えいがかい最初さいしょのスターとなり、また映画えいがにヌードで登場とうじょうしたはじめての女優じょゆうとなった。

のジャンルの作品さくひんには、文学ぶんがく作品さくひんもとづく社会しゃかいてきなテーマを特徴とくちょうとしたものがあった。 1916ねん舞台ぶたい女優じょゆうエレオノーラ・ドゥーゼガブリエーレ・ダンヌンツィオ恋人こいびととして有名ゆうめい主演しゅえんで、グラツィア・デレッダほん原作げんさくとする作品さくひんCenere』が製作せいさくされた。

チネチッタ

[編集へんしゅう]

一方いっぽうファシズム体制たいせいは、大衆たいしゅう文化ぶんか監督かんとくする理事りじかい設立せつりつする。この組織そしきムッソリーニ承認しょうにんて、イタリア映画えいがかいにとって重要じゅうよう仕組しくみをつくげていった。そのひとつとして、ローマの南東なんとうのエリアに、のちにチネチッタとばれる映画えいが都市とし建設けんせつした。この都市としには映画えいが製作せいさく必要ひつようなものすべて – 劇場げきじょう技術ぎじゅつてき支援しえん若者わかものけの映画えいが学校がっこうまで – がそろっていた。今日きょうにおいても、おおくの映画えいががチネチッタで撮影さつえいされている。ヴィットーリオ・ムッソリーニ時代じだいになっても、くに映画えいが製作せいさく会社かいしゃ設立せつりつし、才能さいのうある映画えいが監督かんとく作家さっか俳優はいゆう政治せいじてき対立たいりつしている人物じんぶつふくまれていた)の作品さくひんをプロデュースし、その結果けっか国際こくさいてき文化ぶんか交流こうりゅう可能かのうとなった。チネチッタで撮影さつえいした著名ちょめい監督かんとくには、ロベルト・ロッセリーニフェデリコ・フェリーニミケランジェロ・アントニオーニルキノ・ヴィスコンティなどがいる。

ネオレアリズモ

[編集へんしゅう]

イタリアの映画えいが業界ぎょうかいは、独裁どくさい政権せいけんによる影響えいきょうをあまりけなかったといえる。だい世界せかい大戦たいせんちかづくにつれ、戦時せんじこくおなじようにおおくのプロパガンダ映画えいが製作せいさくされたが、1942ねんアレッサンドロ・ブラゼッティが『くもなか散歩さんぽ Quattro passi tra le nuvole』を監督かんとく、この作品さくひん最初さいしょのネオレアリズモ作品さくひんといわれている。

ネオレアリズモのうごきは戦後せんごすぐに活発かっぱつになっていく。アンナ・マニャーニわすれがたい演技えんぎひかる『ローマでよるだった』をふくめた著名ちょめいなロッセリーニの3さくは、経済けいざいてきまた道徳どうとくてき混乱こんらんにあり、人々ひとびと日常にちじょう生活せいかつ変化へんかしていくイタリアをえがいた。また、チネチッタが難民なんみん流入りゅうにゅうにより使用しようできなかったため、おおくの作品さくひんが、てられた道路どうろといった野外やがい撮影さつえいされた。このジャンルはすぐに政治せいじ道具どうぐにも使つかわれるようになったが、おおくの監督かんとくたちは政治せいじ映画えいがあいだ一線いっせんくことに成功せいこうした。

過酷かこく生活せいかつ詩的してきうつくしさを融合ゆうごうさせた監督かんとくヴィットリオ・デ・シーカがいる。デ・シーカは脚本きゃくほんチェーザレ・ザヴァッティーニともに『くつみがき』(1946ねん)、『自転車じてんしゃ泥棒どろぼう』(1948ねん)、『ミラノの奇蹟きせき』(1950ねん)などの作品さくひんしていった。かれ作品さくひんウンベルトD』(1952ねん)は、ちいさないぬれた一人ひとり年老としおいた男性だんせいが、家賃やちん高騰こうとうにより退きを要求ようきゅうされ、自分じぶんのプライドをげて生活せいかつのために乞食こじきになるという状況じょうきょう直面ちょくめんするというストーリーである。しかしこの作品さくひん政府せいふからの反発はんぱつまねき、はん国家こっかてき感情かんじょうあおるとされ、興行こうぎょうてきには失敗しっぱいとなってしまい、以後いご、イタリアでもテレビですうかいしか放映ほうえいされていない。

ピンク・ネオリアリズモとコメディ

[編集へんしゅう]

デ・シーカの『ウンベルトD』が、もっともよくネオリアリズモの本質ほんしつをあらわしている作品さくひんだといわれている。そのためか、また理由りゆうからか、ネオリアリズモのうごきはこの作品さくひん終結しゅうけつしたともいえる。つづ作品さくひんたちは、くに発展はってんともなってか、もっとかりやすくてかるいタッチものになっていき、そういった作品さくひんピンク・ネオリアリズモネオレアリズモ・ローザ Neorealismo rosa)とばれた。そしてセレブリティとなっていく女優じょゆうたちがあらわれていくが、そのなかにはソフィア・ローレンジーナ・ロロブリジーダシルヴァーナ・パンパニーニルチア・ボゼーエレオノラ・ロッシ=ドラゴシルヴァーナ・マンガーノクラウディア・カルディナーレステファニア・サンドレッリなどがいた。しかし、すぐにこのユニークなジャンルは「イタリアしきコメディ Commedia all'italiana」にとってわられ、社会しゃかいてきなテーマが真面目まじめかたられるより、ユーモアをまじえてえがかれるようになっていった。

この時期じき商業しょうぎょうてき目立めだったてんとしてはナポリ出身しゅっしんのコメディアン、トトTotò)の人気にんきげられる。かれ映画えいがペッピーノ・デ・フィリッポマリオ・カステッラーニ共演きょうえん)はしん写実しゃじつ主義しゅぎ風刺ふうし特徴とくちょうであった。トトは「映画えいが機械きかい film-machine」ともいえるほど毎年まいとしおおくの映画えいが出演しゅつえんしたが、おなじような内容ないよう作品さくひんおおかった。かれ経歴けいれき(ナポリのまずしい地域ちいきに、侯爵こうしゃく家系かけいまれた)、ユニークなかお独特どくとくものまねやジェスチャーは比類ひるいのないもので、かれはイタリアでもっとあいされるコメディアンとなった。

「イタリアしきコメディ」はマリオ・モニチェリが1958ねん監督かんとくした『いつもの見知みしらぬおとこたち』ではじまり、その名称めいしょう自体じたいピエトロ・ジェルミの『イタリアしき離婚りこん狂想曲きょうそうきょく』(原題げんだいDivorzio all'Italiana)からられたといわれている。ヴィットリオ・ガスマンマルチェロ・マストロヤンニウーゴ・トニャッツィクラウディア・カルディナーレモニカ・ヴィッティニーノ・マンフレディなどはコメディ映画えいが出演しゅつえんして有名ゆうめいになった。

マカロニ・ウェスタン

[編集へんしゅう]

おな時期じき、「マカロニ・ウェスタン」とばれるジャンルの作品さくひんが、イタリアだけでなくぜん世界せかい人気にんきあつめるようになる。マカロニ・ウェスタンは従来じゅうらい西部せいぶげきちがい、イタリアでてい予算よさん製作せいさくされ、ユニークで鮮明せんめい撮影さつえい技術ぎじゅつ特徴とくちょうであった。

もっと有名ゆうめいなマカロニ・ウェスタンは、セルジオ・レオーネ作品さくひんで、レオーネはクリント・イーストウッド主演しゅえんエンニオ・モリコーネ音楽おんがくの『荒野あらの用心棒ようじんぼう』、『夕陽ゆうひのガンマン』、『ぞく夕陽ゆうひのガンマン』の3さく監督かんとくした。この3さくはレオーネが1968ねん監督かんとくした『ウエスタン』とともに、このジャンルを定義ていぎするものとなった。

マカロニ・ウェスタンにはまた、伝統でんとうてき西部せいぶげきと「イタリアしきコメディ」とが融合ゆうごうした作品さくひんおおかった。そのような作品さくひんにはテレンス・ヒルバッド・スペンサー主演しゅえんの『風来坊ふうらいぼう/はな夕日ゆうひとライフルと…イタリアばん』(1970ねん)とその続編ぞくへんの『風来坊ふうらいぼう II/ザ・アウトローイタリアばん』(1971ねん)などがある。

イタリア製いたりあせいホラー

[編集へんしゅう]

イタリア文学ぶんがく映画えいがには「ジャッロ Giallo」(通常つうじょう複数ふくすうがたGialli)というジャンルがある。これはホラーや犯罪はんざいものなどをふくみ、エロティシズムも加味かみされているジャンルである。「ジャッロ」とはイタリアで「黄色おうしょく」を意味いみし、ペーパーバック小説しょうせつ表紙ひょうし黄色きいろであったことからきている。

1960年代ねんだいから1970年代ねんだいにかけて、マリオ・バーヴァリカルド・フレーダアンソニー・M・ドーソンダリオ・アルジェントといったイタリアじん監督かんとくが「ジャッロ」にふくまれるホラーというジャンルを発達はったつさせていき、これらの作品さくひん海外かいがいにも影響えいきょうあたえるようになっていった。代表だいひょうてき作品さくひんには『ぬられた墓標ぼひょう』、『幽霊ゆうれい屋敷やしきへびいん』、『よろこびの毒牙どくが』、『サスペリア』、『サスペリアPART2』などがある。

グァルティエロ・ヤコペッティの『世界せかい残酷ざんこく物語ものがたり』に代表だいひょうされる、1960年代ねんだい流行りゅうこうしたショッキングなモンド映画えいがにはじまり、1970年代ねんだい後半こうはんから1980年代ねんだい初期しょきにかけて、イタリア映画えいが暴力ぼうりょくてきなホラー映画えいが代表だいひょうされるようになっていった。そういった作品さくひんおもにビデオ発売はつばい目的もくてきで、ルチオ・フルチジョー・ダマトウンベルト・レンツィルッジェロ・デオダートといった監督かんとくたちの作品さくひん有名ゆうめいである。

1980年代ねんだい危機きき

[編集へんしゅう]

1970年代ねんだいわりから1980年代ねんだいなかばにかけて、イタリア映画えいがかいなが停滞ていたいおちいった。この時期じき、「アート・フィルム」とばれる作品さくひんたか評価ひょうかていたが、イタリア映画えいがかいなかでは主流しゅりゅうから孤立こりつした存在そんざいとなっていった。

そういった作品さくひんにはフェデリコ・フェリーニの『』、『そしてふね』、『ジンジャーとフレッド』、エルマンノ・オルミの『せいなるっぱらいの伝説でんせつ』、タヴィアーニ兄弟きょうだいの『サン★ロレンツォのよる』、ミケランジェロ・アントニオーニの『あるおんな存在そんざい証明しょうめい』、ナンニ・モレッティの『ぼくのビアンカ』、『ジュリオの当惑とうわく』などがある。100%イタリア映画えいがではないが、ベルナルド・ベルトルッチの『ラストエンペラー』は9つのオスカー受賞じゅしょうし、セルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』もたか評価ひょうかた。

おな時期じき、「トラッシュ trash」とばれるジャンルがイタリア大衆たいしゅうあいだ人気にんきはくしていた。芸術げいじゅつてき価値かちはほとんどなかったものの、世間せけんタブーとされている事柄ことがらとくせいかんする事柄ことがらげたコメディはヒットした。リノ・バンフィディエゴ・アバタントゥオーノバーバラ・ブーシェエドウィジュ・フェネシュといった俳優はいゆうたちはこういった作品さくひん出演しゅつえんして人気にんきあつめた。

1990ねん以降いこう

[編集へんしゅう]

1980年代ねんだいわり以降いこうあたらしい世代せだい映画えいが監督かんとくたちがイタリア映画えいが復興ふっこう一役ひとやくっている。 1990ねんジュゼッペ・トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』がだい63かいアカデミーしょうアカデミー外国がいこく映画えいがしょう受賞じゅしょう。1998ねんにはロベルト・ベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』がだい71かいアカデミーしょうでアカデミー外国がいこく映画えいがしょう主演しゅえん男優だんゆうしょうだい51かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいでも審査しんさいん特別とくべつグランプリ受賞じゅしょうし、イタリア映画えいが復活ふっかつ確実かくじつなものとなった。2001ねんにはナンニ・モレッティの『息子むすこ部屋へや』がだい54かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいパルム・ドール受賞じゅしょうした。

その目立めだった作品さくひんにはロベルト・ファエンツァの『くじらなかのヨナ』(1993ねん)、フランチェスカ・アルキブージの『かぼちゃ大王だいおう』(1993ねん)、エルマンノ・オルミの『ジョヴァンニ』(2001ねん)、マルコ・ベロッキオの『はは微笑びしょう』(2002ねん)、ジャンニ・アメリオの『ちいさな旅人たびびと』(1992ねん)や『いえかぎ』(2004ねん)、フェルザン・オズペテクの『かいのまど』(2003)、クリスチナ・コメンチーニの『しんなかしし』などがある。