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香港ほんこん映画えいが

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香港ほんこんでんかげきんぞうすすむぞうのレプリカ
アベニュー・オブ・スターズ
香港ほんこんスピルバーグ』とばれることもあるツイ・ハーク監督かんとく

香港ほんこん映画えいが(ホンコンえいが)は、香港ほんこん制作せいさくされる映画えいがである。香港ほんこん経済けいざいにおける重要じゅうよう輸出ゆしゅつ産業さんぎょうである[1]

歴史れきし

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太平洋戦争たいへいようせんそう終戦しゅうせんまで

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香港ほんこんはつ映画えいが製作せいさく会社かいしゃ誕生たんじょうしたのが1922ねん1928ねんカンフー映画えいが原点げんてんである剣劇けんげき映画えいがだい1さく紅蓮ぐれんてら炎上えんじょう』が制作せいさくされだいヒットした。『紅蓮ぐれんてら炎上えんじょう』のヒット以来いらい、『あおりゅうてら炎上えんじょう』や『きゅう龍山たつやま火事かじ等々とうとう、ご都合主義つごうしゅぎ炎上えんじょうぶつすうかぎりなくつくられた。

1930年代ねんだいはいり、香港ほんこん映画えいがサイレントからトーキーへと移行いこうした。『おんな用心棒ようじんぼう』『山東さんとうのならずものたち』『しろ芙蓉ふよう』『荒江あらえ烈婦れっぷたちとうすうおおくの剣劇けんげき映画えいが製作せいさくされ、「剣劇けんげき映画えいが黄金おうごん時代じだい」とばれる。しかし、1931ねん満州まんしゅう事変じへん以降いこう状況じょうきょう一変いっぺんし、抗日こうにち映画えいが民衆みんしゅう歓迎かんげいされ、剣劇けんげき映画えいが人気にんき低迷ていめいした。さらに国民党こくみんとうによる言語げんご統一とういつ規制きせいにより、広東かんとん映画えいが製作せいさく上映じょうえい禁止きんしされ、北京ぺきん映画えいが製作せいさくされるようになった(のちに、この規制きせい反対はんたいした香港ほんこん映画えいがじん尽力じんりょくにより規制きせい緩和かんわされる)。

にちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつともない、おおくの上海しゃんはい映画えいがじん香港ほんこん逃亡とうぼうした。かれらが香港ほんこんつくはじめた北京ぺきん映画えいがは、「広東かんとん映画えいがよりも上品じょうひん格調かくちょうたかい」と香港ほんこんじんからも人気にんきあつめるようになった。香港ほんこん映画えいがかいは、香港ほんこん出身しゅっしん映画えいがじんによる広東かんとん映画えいがかいと、中国ちゅうごく大陸たいりくから南下なんかしてきた映画えいがじんによる北京ぺきん映画えいがかいふたつに明確めいかく区別くべつされ、その長期ちょうきにわたって熾烈しれつ競争きょうそうひろげた。中国ちゅうごく国内こくないでの広東かんとん映画えいが一般いっぱんてきなイメージは「泥臭どろくさくて下品げひん低級ていきゅう娯楽ごらく」というものであった。このイメージにたいして広東かんとん映画えいがじんは「下品げひんだ、低級ていきゅう娯楽ごらくだとうが、これこそが真実しんじつ香港ほんこん姿すがただ」と反論はんろんし、粤劇映画えいが広東かんとんオペラ映画えいが)や抗日こうにち映画えいが量産りょうさんつづけた。

抗日こうにち映画えいがは1941ねん12月の日本にっぽんぐんによる香港ほんこん占領せんりょうまでつくられつづけたが、日本にっぽん占領せんりょうされたのち香港ほんこんでは1945ねん8がつ太平洋戦争たいへいようせんそう終戦しゅうせんまで、香港ほんこん映画えいが一本いっぽんつくられなかった。 戦前せんぜん香港ほんこん制作せいさくされた映画えいがは500ほん以上いじょうあったが、現存げんそんしているフィルムは4ほんしかない。

終戦しゅうせん直後ちょくご

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終戦しゅうせん映画えいが製作せいさく再開さいかいした香港ほんこん映画えいがかいだったが、香港ほんこん出身しゅっしん映画えいがじんによる広東かんとん映画えいがかいと、中国ちゅうごく大陸たいりくから南下なんかしてきた映画えいがじんによる北京ぺきん映画えいがかいの2つに明確めいかく区別くべつされたままであった。戦前せんぜんから、「泥臭どろくさくて下品げひん低級ていきゅう娯楽ごらく」という香港ほんこん映画えいがのイメージにたい広東かんとん映画えいがじんは「下品げひんだ、低級ていきゅう娯楽ごらくだとうが、これこそが真実しんじつ香港ほんこん姿すがただ」と反論はんろんし、セックス描写びょうしゃ暴力ぼうりょくれた現代げんだいげき作品さくひんつくるようになった。

これにたいし、上海しゃんはいから北京ぺきん映画えいがじんたちは、1949ねんに「広東かんとん映画えいが清潔せいけつ運動うんどう宣言せんげん」を発表はっぴょうし、広東かんとん映画えいが内容ないようとも広東かんとん映画えいがじん映画えいが製作せいさく態度たいど見直みなおすようにうったえた。この運動うんどう結果けっか広東かんとん映画えいがじんも、「良質りょうしつ広東かんとん映画えいが」を製作せいさくすることにけるようになり、社会しゃかい矛盾むじゅんえがいたものや、文芸ぶんげい作品さくひんなどがえていった。製作せいさくされた映画えいが全体ぜんたいやく40%をめるのが粤劇映画えいが広東かんとんオペラ映画えいが)であり、広東かんとん地方ちほう伝統でんとうてき舞台ぶたい演劇えんげき演目えんもくから映画えいが題材だいざいり、同時どうじ舞台ぶたい俳優はいゆうをそのまま映画えいが俳優はいゆうとして起用きようする場合ばあいおおかった。とくに“男装だんそう麗人れいじん”とばれた女優じょゆう、ヤム・キムファイ(にんけんてる)が大人気だいにんきで、彼女かのじょ引退いんたいまでに300ほん以上いじょうもの映画えいが出演しゅつえんし、粤劇映画えいが全盛ぜんせい時代じだいきずいた。

そして、剣劇けんげき映画えいがふたた製作せいさくされるようになった。おも戦前せんぜん上海しゃんはい映画えいがのリメイクや時代じだいげき小説しょうせつ映画えいがしたものが人気にんきび、人間にんげんには不可能ふかのうな「超自然ちょうしぜんてき才能さいのうったヒーロー」が登場とうじょうする作品さくひん数多かずおおつくられた。ヒーローが使つか武器ぶきもそれまでのたんなるけんやりではなく、けんほのおやりなどの現実げんじつてき効果こうかすものがこのまれた。

1949ねん、クワン・タッヒン(せきいさおきょう主演しゅえんおおとり題材だいざいとした『おおとりでん』が封切ふうぎられだいヒットした。この作品さくひん剣劇けんげき映画えいがではなく、「素手すでによるたたかい」つまり、香港ほんこん映画えいが代名詞だいめいしともいえる「カンフー映画えいが」のだい1だんである。なお、2007ねん現在げんざいまでにせきいさおきょうおおとりえんじた回数かいすうは84ほんにのぼり、これはどういち題材だいざい製作せいさくされた映画えいがかずとしては現在げんざい世界せかい最多さいたギネスブック掲載けいさいされている。

この影響えいきょうで、剣劇けんげき映画えいが主人公しゅじんこうちょう自然しぜんてき才能さいのうったヒーローよりも、現実げんじつてき人物じんぶつ主人公しゅじんこう作品さくひんこのまれるようになる。標的ひょうてきかってけんそらぶのではなく、剣士けんし直接ちょくせつてきるという、ごくたりまえ表現ひょうげん方法ほうほうはじめて使用しようされるようになった。同時どうじほうだまのように主人公しゅじんこう体制たいせい反逆はんぎゃくしゃであるような政治せいじてきなテーマが剣劇けんげき映画えいがなかおおあらわはじめた。

一方いっぽう北京ぺきん映画えいがかいは、上海しゃんはい映画えいが雰囲気ふんいき色濃いろこのこ作品さくひんおお製作せいさくしていた。戦後せんご中国ちゅうごく大陸たいりくはなれて香港ほんこん南下なんかしてきたおおくの戦争せんそう難民なんみんたちに支持しじされ、広東かんとん映画えいがよりも洗練せんれんされた映画えいがは、次第しだい元々もともと香港ほんこんにいた人々ひとびと魅了みりょうしていくようになる。とく人気にんきがあったのが、うたなんきょく挿入そうにゅうされる黄梅おうばい調ちょう映画えいが歌謡かよう映画えいが)だった。女優じょゆうパイ・コァン(白光はっこう)やリー・リーホァ(麗華れいか)が人気にんきで、彼女かのじょたちがげきちゅううたったうたが、そのまま流行りゅうこうとなった。

ショウ・ブラザーズ黄金おうごん時代じだい

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ランラン・ショウ《邵逸おっと
ショウ・スタジオ《邵氏かげじょう

剣劇けんげき映画えいが人気にんき下降かこうし、1953ねんには製作せいさく本数ほんすう過去かこ最低さいていたっした。不調ふちょう原因げんいんは、粤劇映画えいがとクワン・タッヒン(せきいさおきょう)のおおとりシリーズが人気にんき二分にぶんしていたことと、黄梅おうばい調ちょう映画えいがしょうされる北京ぺきん映画えいが人気にんきがったためである。また、コメディ映画えいが社会しゃかい現代げんだいげき人気にんきとなり、剣劇けんげき映画えいが人気にんき低迷ていめい以外いがい広東かんとん映画えいがかい絶好調ぜっこうちょうであった。

50年代ねんだい後半こうはんから60年代ねんだい初頭しょとうになると粤劇映画えいが急激きゅうげきおとろえをはじめ、広東かんとん映画えいが全体ぜんたいの5%をめる程度ていどまでんだ。これは、広東かんとんオペラ自体じたいわか世代せだい敬遠けいえんされはじめたためで、結果けっかてきには70年代ねんだいに3ほん製作せいさくされたのち、粤劇映画えいが香港ほんこん映画えいがかいから完全かんぜん姿すがたしてしまう。わか世代せだい支持しじされたのは青春せいしゅん映画えいがで、チャン・ポージュ(ちん宝珠ほうしゅ)やジョセフィーン・シャオしょうよしよし)ら女優じょゆうとく人気にんきがあった。

広東かんとん映画えいがかいは、相変あいかわらずクワン・タッヒン(せきいさおきょう主演しゅえんおおとりシリーズをつくつづけていたが、次第しだいわか世代せだいにはれられなくなっていた。社会しゃかい映画えいがやコメディ活劇かつげきはそれなりにヒットしていたものの、それ以外いがい作品さくひんはどれも粗製そせい乱造らんぞうため、“ななにち鮮(七日なのかつくられる映画えいが)”と北京ぺきん映画えいがじんからは嘲笑ちょうしょうされた。

北京ぺきん映画えいがかいは、黄梅おうばい調ちょう映画えいが文芸ぶんげい映画えいがほんばしらとして製作せいさくし、剣劇けんげき映画えいがやクンフー映画えいが一切いっさい製作せいさくしていなかった。ところが、わか世代せだい広東かんとん映画えいがかい剣劇けんげき映画えいがやクンフー映画えいが支持しじし、黄梅おうばい調ちょう映画えいが敬遠けいえんされはじめたことにより、北京ぺきん映画えいがかい窮地きゅうちたされた。

この北京ぺきん映画えいがかい隆盛りゅうせいを2つの映画えいが会社かいしゃささえた。まず1956ねんにシンガポール華僑かきょうのロク・ワントー(陸運りくうんひきいる『キャセイ・オーガナイゼーションくにたい機構きこう)』を母体ぼたいとする『MP&GI國際こくさいでんかげ懋業公司こうし)』が設立せつりつつづいて1959ねんにはランラン・ショウ邵逸おっと)の『ショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟きょうだい香港ほんこん有限ゆうげん公司こうし)』が設立せつりつされた。

1965ねん、ショウ・ブラザーズは清水しみずわん巨大きょだいスタジオ“邵氏かげじょう”を建設けんせつ。また、自社じしゃ製作せいさくめん充実じゅうじつ念頭ねんとうき、日本にっぽん日活にっかつ東宝とうほうから井上いのうえ梅次うめじ中平なかひらやすし村山むらやま三男みつおといった監督かんとくや、めいカメラマン西本にしもとただしすぐれた人材じんざいまねき、かれらの技術ぎじゅつ知識ちしき自社じしゃ人間にんげん貪欲どんよくなまでに吸収きゅうしゅうさせた。俳優はいゆう育成いくせい目的もくてきで「南國なんごく實験じっけん劇團げきだん」という俳優はいゆう訓練くんれんしょ設立せつりつや、ショウ・スコープとばれるシネマ・スコープ開発かいはつ、さらには北京ぺきん英語えいごだん字幕じまく使用しようなど、斬新ざんしん企画きかく次々つぎつぎした。

1966ねん、ショウ・ブラザーズは黄梅おうばい調ちょう映画えいが見切みきりをけ、剣劇けんげき映画えいがやカンフー映画えいがのジャンルに進出しんしゅつした。その先鋒せんぽうキン・フーえびすきん銓)監督かんとくの『大酔たいすい』である。わかいときから京劇きょうげき傾倒けいとうしていたキン・フーは、綿密めんみつ人物じんぶつ描写びょうしゃくわえ、素早すばやいカット編集へんしゅうとリアルな殺陣さつじん京劇きょうげきにミックスさせた“京劇きょうげきアダプテーション”という手法しゅほうを『大酔たいすい侠』でこころみ、それがだい成功せいこうおさめた。

しかし『大酔たいすい侠』撮影さつえい、キン・フーはショウ・ブラザーズを離脱りだつ台湾たいわんわたった。そして1967ねん台湾たいわん製作せいさくされた『残酷ざんこくドラゴン りゅうもん宿やど』が、東南とうなんアジア一帯いったい空前くうぜんだいヒットを記録きろくし、かれ一躍いちやく世界中せかいじゅうわたることとなった。『残酷ざんこくドラゴン りゅうもん宿やど』は、1968ねん北海道ほっかいどうのみ日本にっぽんでも公開こうかいされるのだが、ヒットはしなかった。

キン・フーにられたショウ・ブラザーズは、あらたにすぐれたアイディアせいたしかな技術ぎじゅつった監督かんとくほっしていた。そして、当時とうじショウ・ブラザーズのへんげき主任しゅにんて、なんほんかの作品さくひんっていた新進しんしん気鋭きえいチャン・ツェーちょうとおる監督かんとくだい抜擢ばってきした。

キン・フーの『大酔たいすい侠』がひらいた“旧派きゅうは剣劇けんげき映画えいが”から“新派しんぱ剣劇けんげき映画えいが”への移行いこうという、当時とうじ香港ほんこん映画えいがかいおおきな時流じりゅう変化へんかとも見事みごと合致がっちしていた。その映画えいがこそ、『片腕かたうで必殺ひっさつけん』という剣劇けんげき映画えいがだ。この映画えいがにおいて主人公しゅじんこうの“片腕かたうで剣士けんしやく抜擢ばってきされたジミー・ウォングおう)の存在そんざいくして、チャン・ツェーの開花かいかはありなかった。この作品さくひんくら重苦おもくるしいストーリー展開てんかいと、ジミー・ウォングの悲壮ひそうかんびたたたずまい、そして武術ぶじゅつ指導しどう担当たんとうしたラウ・カーリョンりゅうりょう)による俊敏しゅんびんなアクションとが見事みごとにマッチして『片腕かたうで必殺ひっさつけん』はだいヒット。またジミー・ウォングも、それまで香港ほんこん映画えいがかいのスターたちだれむことの出来できなかった“神聖しんせいてき存在そんざい”にまでのぼめていった。人々ひとびと畏敬いけい憧憬どうけいねんめて“天皇てんのう巨星きょせい”とかれんだ。

そのチャン・ツェーは、ジミー・ウォングを主演しゅえんに『だい刺客しかく』『だいおんな』『ぞく片腕かたうで必殺ひっさつけん』などの作品さくひん次々つぎつぎ発表はっぴょうし、ショウ・ブラザーズをアジア最大さいだい映画えいが会社かいしゃへと発展はってんさせていく原動力げんどうりょくとなった。1969ねん、ジミー・ウォングは剣劇けんげき映画えいが見切みきりをつけ、みずからのはつ監督かんとくさくえろ!ドラゴン、て!ジャガー』であらたにカンフー映画えいがにも挑戦ちょうせんし、見事みごと成功せいこうおさめた。ランラン・ショウ独裁どくさい政権せいけんのショウ・ブラザーズにおいて、いち俳優はいゆう監督かんとくぎょうにまで進出しんしゅつしたということは、まさに頂点ちょうてんきわめた。

しかし、ジミー・ウォングの天下てんかはあっさりと崩壊ほうかいした。ひき事件じけんくろ社会しゃかいとの癒着ゆちゃく梅子うめこ飯店はんてんでの傷害しょうがい事件じけんブリジット・リンはやしあおかすみ)をめぐる痴話ちわ騒動そうどうなど、みずからの私生活しせいかつにおける数々かずかず不祥事ふしょうじによって社会しゃかいてき信頼しんらいうしなった。そして、ショウ・ブラザーズの契約けいやく制度せいど月給げっきゅうせいからしょうじる薄給はっきゅう)への不満ふまんから告訴こくそしたが敗訴はいそした。ジミーは、1人ひとり台湾たいわんへとわたった。1960年代ねんだいわりとともに、“天皇てんのう巨星きょせい”の雄姿ゆうし香港ほんこん映画えいがかいからさびしくえた。

ジミー・ウォングをうしなったチャン・ツェーであったが、すぐにあらたな2人ふたりのカンフー・スターの発掘はっくつ成功せいこうしていた。それが“しゅうかげみかどデビッド・チャンきょうだいまもる)と“武林たけばやしだい侠”ティ・ロン(狄龍)である。1969ねんにチャン・ツェーが監督かんとくした『死角しかく』ではじめてコンビをんだ2人ふたりは、そのフレッシュなたたずまいとスピーディーなアクションで、おも女性じょせいファンから支持しじされた。1970ねんには、2人ふたり代表だいひょうさくとなった『ヴェンジェンス ほうかたき』に出演しゅつえんした。この作品さくひんは、京劇きょうげき世界せかい舞台ぶたいにした壮絶そうぜつ復讐ふくしゅうげきで、悲劇ひげきてき運命うんめい翻弄ほんろうされていく兄弟きょうだいえんじた2人ふたりは、ほんさくだいヒットでアジアのちょうスーパースターへとのぼめた。

ゴールデンハーベストの台頭たいとう

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ゴールデンハーベストしゃのロゴマーク
ドラゴンへのみち

1964ねん6がつ20日はつか台北たいぺいおこなわれただい11かいアジア太平洋たいへいよう映画えいがさい出席しゅっせきしていたMP&GIのロク・ワントーが、訪問ほうもんさきたいちゅう飛行機ひこうき事故じこにより死亡しぼう事故じこにはロクのほかにMP&GIのそう経理けいり製作せいさく部長ぶちょう同乗どうじょうしており、製作せいさくじん首脳しゅのう一挙いっきょうしなったMP&GIは失速しっそく1970ねん映画えいが製作せいさくから撤退てったいする。

1969ねん、ショウ・ブラザースの製作せいさく本部ほんぶちょうつとめていたレイモンド・チョウ(鄒文ふところ)は、ランラン・ショウのだい2夫人ふじんだったモナ・フォン(ほういつはな)となんとなく衝突しょうとつした。そしてよく1970ねん相棒あいぼうレナード・ホー(なにかんむりあきら)とロー・ウェイ(維)夫妻ふさいれて、ついにショウ・ブラザーズを離脱りだつし、『ゴールデン・ハーベスト(よしみ禾影かた公司こうし)』を設立せつりつした。設立せつりつ当初とうしょのゴールデン・ハーベストは、撮影さつえいしょさえ満足まんぞく所有しょゆう出来できない状況じょうきょうつづき、映画えいが製作せいさくから直前ちょくぜんのMP&GIの撮影さつえいしょりて撮影さつえいをしていた。所属しょぞく俳優はいゆうも、ショウ・ブラザーズのデビット・チャンやティ・ロンのような看板かんばんスターも不在ふざいで、無名むめい俳優はいゆう中心ちゅうしんでの映画えいが製作せいさくには、やはり限界げんかいがあった。

そのため1970ねん、ゴールデン・ハーベストは新人しんじん俳優はいゆう募集ぼしゅうのオーディションをひらき、のちに“よしみさん大玉おおだまおんな”とばれるようになる3にん女優じょゆうたち発掘はっくつした。ノラ・ミャオ(なえしゅう)、マリア・イー(ころも)、アンジェラ・マオ(あきら)の3にんである。まず、ゴールデン・ハーベストの創業そうぎょう作品さくひん天龍てんりゅうはちしょう』に3にん出演しゅつえんさせてテストをおこない、それぞれの個性こせいた。それにより、ノラ・ミャオとマリア・イーは映画えいがのヒロインとしてすことになり、アンジェラ・マオはレディ・クンフー・スターとしてのみちあゆんだ。

男優だんゆうじんも、ショウ・ブラザーズからベテラン俳優はいゆうティエン・ファン(ゆたか)、まだ無名むめいだったジェームス・ティエン(しゅん)らをき、新人しんじんオーディションではトニー・リュウ(りゅうひさし)をスカウトした。

1970ねんの4がつ、『えろ!ドラゴン、て!ジャガー』が香港ほんこん興行こうぎょう収益しゅうえきだい1獲得かくとくしていた。1971ねんブルース・リーしょうりゅう)は、ゴールデン・ハーベストと1ほんにつき1まん米国べいこくドルで2ほん主演しゅえん映画えいが契約けいやくむすび、『ドラゴン危機きき一発いっぱつ』にまった。

1980年代ねんだいになると新興しんこう会社かいしゃ「シネマシティ」が設立せつりつされ、『おとこたちの挽歌ばんか』でコメディ映画えいがカンフー映画えいが主流しゅりゅうだった香港ほんこん映画えいがかい香港ほんこんノワール英雄えいゆうしき中国語ちゅうごくごばん)とばれるあたらしいながれをつくった[2]

中国ちゅうごく映画えいがかいへの合流ごうりゅう

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1997ねん香港ほんこん返還へんかんジャッキー・チェンユエン・ウーピンジェット・リージョン・ウーチョウ・ユンファのようにハリウッド活路かつろ見出みいだながれと並行へいこうして中国ちゅうごく映画えいがかいへの合流ごうりゅう急速きゅうそくすすみ、香港ほんこんだたる監督かんとく俳優はいゆうおおくが中国ちゅうごく映画えいが進出しんしゅつしているほか、中国ちゅうごく香港ほんこん合作がっさく映画えいがえた。その直接ちょくせつ要因よういんは、SARS流行りゅうこう以降いこう香港ほんこんきょうにより中国ちゅうごく本土ほんど香港ほんこん経済けいざい連携れんけい緊密きんみつ取決とりき(CEPA)がむすばれ、中国ちゅうごく資本しほん流入りゅうにゅうしたためである。香港ほんこん映画えいが黄金おうごん時代じだい象徴しょうちょうしたショウ・ブラザーズもゴールデンハーベストも中国ちゅうごく資本しほん買収ばいしゅうされることとなった[3][4][5][6][7]

ダンテ・ラム監督かんとくした中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐん全面ぜんめん協力きょうりょく戦争せんそう映画えいがオペレーション:レッド・シー』が中国ちゅうごくでの歴代れきだい興行こうぎょう収入しゅうにゅうだい2当時とうじ)にかがやくなど、香港ほんこん映画えいがじん中国ちゅうごくでの活躍かつやく中国ちゅうごく映画えいが娯楽ごらくせい向上こうじょう一端いったんになったが、これが従来じゅうらいの「香港ほんこん映画えいが」の衰退すいたい原因げんいんとなったほか、合作がっさく映画えいがにおいても中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふ検閲けんえつがされるようになった[8]香港ほんこんかげぎょう協会きょうかいによると、全盛期ぜんせいきの1993ねん年間ねんかん234ほん製作せいさくされた香港ほんこん映画えいがは、2013ねんには43ほん激減げきげんしている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ “Robust film industry is in our best interest”. South China Morning Post. (2017ねん3がつ20日はつか). http://www.scmp.com/comment/insight-opinion/article/2080338/hong-kongs-film-industry-worth-backing 2019ねん7がつ25にち閲覧えつらん 
  2. ^ Logan, Bey. Hong Kong Action Cinema. Woodstock, NY: The Overlook Press, 1995. ISBN 0-87951-663-1.
  3. ^ “组图:よしみ主席しゅせき邹文怀退きゅう 公司こうし交棒だいだいてん娱乐”. しんなみ. (2007ねん11月6にち). http://ent.sina.com.cn/m/c/p/2007-11-06/09031779891.shtml 2019ねん8がつ23にち閲覧えつらん 
  4. ^ だいだいてん娱乐いれぬし香港ほんこんよしみ禾 亚洲电影传奇注入ちゅうにゅうしん血液けつえき. しんなみ. (2007ねん11月1にち). http://ent.sina.com.cn/m/c/2007-11-01/23511773467.shtml 2019ねん8がつ23にち閲覧えつらん 
  5. ^ だいだいてん成功せいこう并购よしみなり内地ないちだい一家上市娱乐企业”. 中国ちゅうごく中央ちゅうおうでんだい. (2008ねん7がつ14にち). http://news.cctv.com/performance/20080714/104372.shtml 2019ねん8がつ23にち閲覧えつらん 
  6. ^ 华人文化ぶんかはじむみず刚的传奇经历”. 中金なかがねざい线香港ほんこん (2017ねん2がつ10日とおか). 2019ねん7がつ25にち閲覧えつらん
  7. ^ 香港ほんこんショウブラザーズ、映画えいが製作せいさく再開さいかい. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん. (2016ねん10がつ28にち). https://www.nikkei.com/article/DGXLASDX28H0G_Y6A021C1FFE000/ 2019ねん7がつ25にち閲覧えつらん 
  8. ^ 香港ほんこん映画えいが中国ちゅうごくすす低迷ていめい 大陸たいりく合作がっさく急増きゅうぞう香港ほんこんにこだわる若手わかて監督かんとく頭角とうかく. フジサンケイビジネスアイ. (2017ねん9がつ4にち). https://web.archive.org/web/20170910192705/https://www.sankeibiz.jp/macro/news/170904/mcb1709040500004-n1.htm 2019ねん7がつ25にち閲覧えつらん 

関連かんれんしょ

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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