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松竹しょうちくキネマ研究所けんきゅうじょ

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松竹しょうちくキネマ研究所けんきゅうじょ(しょうちくキネマけんきゅうじょ、1920ねん11月設立せつりつ[1][2][注釈ちゅうしゃく 1] - 1921ねん8がつ解散かいさん)は、かつて東京とうきょう存在そんざいした日本にっぽん映画えいがプロダクションである。

略歴りゃくれき概要がいよう

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1920ねん大正たいしょう9ねん4がつ1にち松竹しょうちくキネマ合名ごうめいしゃ設立せつりつした松竹しょうちくキネマ俳優はいゆう学校がっこう校長こうちょうとなった小山内おさないかおるは、6月25にち蒲田かまた撮影さつえいしょがオープンすると、そこへ移転いてんして門下生もんかせいらと2ほん映画えいがつくるが、かれ映画えいが改革かいかく志向しこうと、蒲田かまた撮影さつえいしょ監督かんとくたちの商業しょうぎょう主義しゅぎてき志向しこうとが対立たいりつし、10月に俳優はいゆう学校がっこう廃止はいし社長しゃちょう大谷おおや竹次郎たけじろう相談そうだんじょう[1]、グループをれて、11月に本郷ほんごう春木はるきまち現在げんざい文京ぶんきょう本郷ほんごう3丁目ちょうめ)の本郷ほんごう本家ほんけ茶屋ちゃやかい設立せつりつしたのが松竹しょうちくキネマ研究所けんきゅうじょである[3]運営うんえい費用ひよう大谷おおや社長しゃちょうから直接ちょくせつ支出ししゅつされた[3]

1921ねん大正たいしょう10ねん4がつ8にち研究所けんきゅうじょだい1かい作品さくひん路上ろじょう霊魂れいこん』(村田むらたみのる監督かんとく)が、松竹しょうちくキネマの配給はいきゅう公開こうかいされた。同年どうねん7がつ1にちには牛原うしはらきょ監督かんとくデビューさくである『やまくれるゝ』が公開こうかいされたが、3さくの『きみらずや』公開こうかいの8がつ興行こうぎょう成績せいせき不振ふしん製作せいさく過大かだい理由りゆう研究所けんきゅうじょ解散かいさんし、研究所けんきゅうじょメンバーのおおくは蒲田かまた撮影さつえいしょもどった。小山内おさない松竹しょうちくキネマ株式会社かぶしきがいしゃ本社ほんしゃ相談役そうだんやく退しりぞいたが[4]1922ねん大正たいしょう11ねん)3がつ正式せいしき松竹しょうちくめた[5]村田むらたみのる作品さくひん過大かだい製作せいさくをかけ、松竹しょうちく経済けいざい圧迫あっぱくした責任せきにんって解散かいさん直後ちょくご辞任じにんした。

所属しょぞくしゃ[1][6]

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フィルモグラフィ

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1921ねん

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく
  1. ^ 牛原うしはらきょちょの『きょ映画えいが50ねん』には10がつ下旬げじゅん設立せつりつしたとかれている
  2. ^ 溝口みぞぐち三郎さぶろう(1896ねん - 1973ねん)は、東京とうきょう麻布まふ出身しゅっしんうるしこう研究けんきゅう美術びじゅつ史家しかで、帝室ていしつ博物館はくぶつかん国宝こくほう蒔絵まきえ模造もぞう従事じゅうじし、戦後せんご東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん工芸こうげい課長かちょうとなった。また、築地つきじしょう劇場げきじょう舞台ぶたい装置そうちとしても活躍かつやくしていた。
出典しゅってん
  1. ^ a b c 田中たなか純一郎じゅんいちろうちょ日本にっぽん映画えいが発達はったつ活動かつどう写真しゃしん時代じだい
  2. ^ 田中たなか眞澄ますみちょ小津おつあん二郎じろうしゅうゆう
  3. ^ a b 読売新聞よみうりしんぶん文化ぶんかへん映画えいがひゃくねん 映画えいがはこうしてはじまった』
  4. ^ 日本にっぽん映画えいが監督かんとく全集ぜんしゅう』(キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1976ねん)の「小山内おさないかおる」のこう(p.100) を参照さんしょうどうこう執筆しっぴつ飯田いいだしん
  5. ^ 岩本いわもとけんちょ『サイレントからトーキーへ 日本にっぽん映画えいが形成けいせいひと文化ぶんか
  6. ^ 牛原うしはらきょ彦著『きょ映画えいが50ねん

外部がいぶリンク

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