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牛原うしはらきょ

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うしはら きよひこ
牛原うしはら きょ
牛原 虚彦
しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ文化ぶんか評論ひょうろんだい14かん1がつごう(1963)よりマーク・ドンスコイ英語えいごばん(みぎ)、牛原うしはらきょ彦(なか)、イリーナ・ドンスコワロシアばん(ひだり。ドンスコイのつま)。
本名ほんみょう 牛原うしはら 清彦きよひこ
べつ名義めいぎ 茂原しげはら くま
生年月日せいねんがっぴ (1897-03-22) 1897ねん3月22にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1985-05-20) 1985ねん5がつ20日はつか(88さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん熊本くまもとけん熊本くまもと京町きょうまち[1]
職業しょくぎょう 映画えいが監督かんとく脚本きゃくほん
ジャンル 映画えいが
活動かつどう期間きかん 1920ねん - 1952ねん
配偶はいぐうしゃ 三村みつむら千代子ちよこ女優じょゆう
著名ちょめい家族かぞく 息子むすこ牛原うしはら陽一よういち映画えいが監督かんとく
まご牛原うしはら千恵ちえもと女優じょゆう
おも作品さくひん
りく王者おうじゃ
若者わかものよなぜくか
 
受賞じゅしょう
紫綬褒章しじゅほうしょう
1965ねん
毎日まいにち映画えいがコンクール
特別とくべつしょう
1984ねん
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牛原うしはら きょ(うしはら きよひこ、1897ねん3月22にち - 1985ねん5がつ20日はつか)は、日本にっぽん映画えいが監督かんとく脚本きゃくほん本名ほんみょう牛原うしはら 清彦きよひこ

初期しょき松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ活躍かつやくした映画えいが監督かんとくで、鈴木すずきでんあきらとのコンビで明朗めいろう青春せいしゅん映画えいがなどをつくり、島津しまつ保次郎やすじろうらとともに蒲田かまた映画えいが一翼いちよくになった。渡米とべいしてチャールズ・チャップリン映画えいがサーカス』の製作せいさく参加さんかしたことでもられる。監督かんとく引退いんたい日本にっぽん大学だいがく芸術げいじゅつ学部がくぶ教授きょうじゅ日活にっかつ芸術げいじゅつ学院がくいん初代しょだいがく院長いんちょうなどにいて後進こうしん指導しどうにあたった。毎日まいにち映画えいがコンクール創設そうせつメンバーの一人ひとりでもある[1]つま女優じょゆう三村みつむら千代子ちよこで、息子むすこ日活にっかつ活躍かつやくした映画えいが監督かんとく牛原うしはら陽一よういち

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

松竹しょうちくキネマ入社にゅうしゃ[編集へんしゅう]

1897ねん明治めいじ30ねん3月22にち熊本くまもとけん熊本くまもと京町きょうまちに、ちちまん太郎たろうははふゆの6にん兄妹きょうだいの5番目ばんめとしてまれる[2][3]祖父そふつぎさんろう京都きょうと禁裡きんり警衛けいえいにんえらばれた細川ほそかわ藩士はんし54めい一人ひとり[2]ちちまん太郎たろう熊本くまもとたいとして西南せいなん戦争せんそう参加さんかしたのち九州きゅうしゅうにちにち新聞しんぶん勤務きんむしながら柔術じゅうじゅつ道場どうじょう師範しはんねていた[2][3]壺川こせん尋常じんじょう小学校しょうがっこう[4]旧制きゅうせい熊本くまもと県立けんりつ中学ちゅうがく済々黌せいせいこう卒業そつぎょうし、1914ねん大正たいしょう3ねん)にだい高等こうとう学校がっこうだい一部いちぶおつるい入学にゅうがく[3][5]同校どうこう卒業そつぎょう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく現在げんざい東京大学とうきょうだいがく文学部ぶんがくぶ英文えいぶん学科がっか入学にゅうがくする。

1920ねん大正たいしょう9ねん)、松竹しょうちくキネマ合名ごうめいしゃ理事りじ吉田よしだ克巳かつみ紹介しょうかいで、同社どうしゃ理事りじけん撮影さつえいそう監督かんとく[6]小山内おさないかおる門下もんか一人ひとりとなり、6がつ松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ監督かんとく社員しゃいんとして入社にゅうしゃ、その翌月よくげつみかどだい卒業そつぎょうした[3][7][8]。しかし、当時とうじ活動かつどう写真しゃしん社会しゃかいてき地位ちいきわめてひく時代じだいだったため、みかどだいせい映画えいがかいりは周囲しゅうい物議ぶつぎかもした[3][7][8]学費がくひ一部いちぶ援助えんじょしてもらっていた肥後ひごすすむ学会がっかい理事りじかいでも「とんでもないこと」と問題もんだいになり、「なに河原かわはら乞食こじきつくるために、かねしたわけでない」とわれたが、理事りじちょうだった細川ほそかわ護立もりたつ侯爵こうしゃくが「この奨学しょうがくかいから、一人ひとりぐらい風変ふうがわりがるのも面白おもしろかろう」と理解りかいしめして許可きょかされたという[7][8]はつ出社しゅっしゃ応接おうせつしつのちつまとなる三村みつむら千代子ちよこはじめて出会であっている[7]牛原うしはら小山内おさないすすめで新派しんぱ出身しゅっしん賀古かこ残夢ざんむ助手じょしゅとなり、『のろい巫女ふじょ』がその最初さいしょ仕事しごととなった[8]。そのかたわ賀古かこ監督かんとくさく脚本きゃくほん執筆しっぴつした。

同年どうねん11がつしゃ製作せいさくじん対立たいりつして松竹しょうちくキネマ研究所けんきゅうじょ設立せつりつした小山内おさないしたがってどう研究所けんきゅうじょ参加さんか[3]。このとき賀古かこ監督かんとく五味ごみ国太郎くにたろうから蒲田かまたのこるようにすすめられたが、小山内おさないらの目指めざ欧米おうべいりゅう映画えいがづくりの魅力みりょく情熱じょうねつて、結局けっきょく研究所けんきゅうじょ参加さんかした[8]。この研究所けんきゅうじょには島津しまつ保次郎やすじろう村田むらたみのる松竹しょうちくキネマ俳優はいゆう学校がっこう卒業生そつぎょうせいである鈴木すずきでんあきら沢村さわむら春子はるこらも参加さんかした。研究所けんきゅうじょだい1かい作品さくひん路上ろじょう霊魂れいこん』では脚本きゃくほんき、別荘べっそう執事しつじやく茂原しげはらくま彦名ひこな)で出演しゅつえんもしている。よく1921ねん大正たいしょう10ねん)、研究所けんきゅうじょだい2かい作品さくひんで、北村きたむら小松こまつカール・ブッセやまのあなたのそらとおく…」に着想ちゃくそうてシナリオをいた『やまくれるる』で監督かんとくデビュー[3][9]。その蒲田かまた撮影さつえいしょ出向しゅっこうめいじられて、徳田とくた秋声しゅうせい連載れんさい小説しょうせつをオールキャストで映画えいがした『断崖だんがい』を監督かんとくするが、8がつ研究所けんきゅうじょ解散かいさん島津しまつとともに蒲田かまた撮影さつえいしょ復帰ふっきすることとなった[8][10]

蒲田かまた撮影さつえいしょでの活躍かつやく[編集へんしゅう]

蒲田かまた撮影さつえいしょ復帰ふっきから1923ねん大正たいしょう12ねん)8がつまでに監督かんとくした作品さくひんは23ほんで、字幕じまく映画えいがの『きょうへるけんわざ[11]勝見かつみ庸太郎ようたろう主演しゅえんの『ははいづこ』、三村みつむら主演しゅえんの『いためる小鳥ことり[12]などの感傷かんしょう悲劇ひげきものをおおり、「センチメンタル牛原うしはら」と呼称こしょうされた[13]1922ねん大正たいしょう11ねん)、蒲田かまた撮影さつえいしょ庶民しょみん女優じょゆうとして活躍かつやくしていた三村みつむら結婚けっこんした。

1923ねん大正たいしょう12ねん9月1にち徳田とくた秋声しゅうせい原作げんさくの『無花果いちじく』の撮影さつえい初日しょにちむかえて、蒲田かまた撮影さつえいしょのダークステージで撮影さつえいちゅう関東大震災かんとうだいしんさい遭遇そうぐう[14]撮影さつえいしょ罹災りさいし、京都きょうと下加茂したかも撮影さつえいしょをつくって撮影さつえいしょ機能きのう移転いてん9月12にち牛原うしはらつまとともに、横浜よこはまから救難きゅうなんせんのウエスト・オロワごうって神戸こうべまでかい[8]、そのあと京都きょうと移住いじゅうした。京都きょうとでは、震災しんさいあつかった『大地だいちおこる』などすうほん製作せいさくしたが、よく1924ねん大正たいしょう13ねん)には蒲田かまた撮影さつえいしょ機能きのう復帰ふっきし、震災しんさい製作せいさく中止ちゅうししていた『はてはな』を監督かんとく勝見かつみ主演しゅえんの『詩人しじん運動うんどう』や、日活にっかつ東亜とうあキネマとの競作きょうさくになった『大地だいち微笑ほほえむ』(さんさく)などを監督かんとくした。

1926ねん大正たいしょう15ねん)、松平まつだいら侯爵こうしゃく援助えんじょでアメリカへわたることとなり、1がつ8にちてんようまる横浜よこはま出港しゅっこう[15]1がつ26にちロサンゼルス到着とうちゃくした。牛原うしはら帰国きこくまでなんアードモアがい上山うえやま草人そうじんたく滞在たいざいし、到着とうちゃく翌日よくじつから上山うえやま案内あんない撮影さつえいしょ見学けんがくまわった[16][17]2がつ4にちからポール・スローン英語えいごばん監督かんとくの『Eve's Leaves』にエキストラとして出演しゅつえん[17]3月15にちには牛原うしはら持参じさんした『象牙ぞうげとう』と『乃木のぎ将軍しょうぐん』の上映じょうえいかいを、ロサンゼルス日本にっぽん領事りょうじ大橋おおはし忠一ただかず厚意こういによりアンバサダーホテルおこなわれ、アンナ・メイ・ウォンキング・ヴィダーらが来会らいかいした[16][17]。また、高野たかのとら厚意こういチャールズ・チャップリンの『サーカス』の撮影さつえい機会きかいにもめぐまれた[8]

受難じゅなんはな』(1926ねん)のポスター。「牛原うしはらきょ帰朝きちょうだいいちかい監督かんとく作品さくひん」と銘打めいうって公開こうかいされた。

同年どうねん7がつ22にちてんようまる帰国きこく[18]帰国きこくだい1かい作品さくひんは『受難じゅなんはな』で、当時とうじ雑誌ざっし婦女ふじょかい』に連載れんさいちゅうだった菊池きくちひろし小説しょうせつ映画えいがである[19]。『受難じゅなんはな』は栗島くりしますみ松井まつい千枝子ちえこ筑波つくば雪子ゆきこ競演きょうえんしたぜん18かん大作たいさくで、600えんもかかった原作げんさくりょう日本一にっぽんいちたかいと評判ひょうばんになった[20]。また、ハリウッドでまなんだ斬新ざんしん演出えんしゅつ手腕しゅわん発揮はっきしてだいヒットし、だい1かいキネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テンだい6となった。

1927ねん昭和しょうわ2ねん)2がつ映画えいが批判ひはんする文壇ぶんだんひと対抗たいこうする映画えいが実際じっさい連盟れんめい友達ともだちかい」に参加さんか[21]。また同年どうねん友達ともだちかい」に参加さんかした鈴木すずきでんあきら主演しゅえんに『かれ東京とうきょう』『かれ田園でんえん』『りく王者おうじゃ』『かれ人生じんせい』といった、モダンで明朗めいろう快活かいかつ青春せいしゅん映画えいがたか評価ひょうかけた。

1930ねん昭和しょうわ5ねん)、蒲田かまた撮影さつえいしょ創設そうせつ10周年しゅうねん記念きねんとくさく映画えいが[22]銘打めいうたれた『進軍しんぐん』を監督かんとく。1ねん以上いじょうかけて撮影さつえいおこない、膨大ぼうだい製作せいさくをかけて製作せいさくされた。キネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テンだい2の『若者わかものよなぜくか』をったのち松竹しょうちく退社たいしゃする。

松竹しょうちく退社たいしゃ[編集へんしゅう]

同年どうねんまつトーキー映画えいが研究けんきゅうのためフランスイギリスアメリカわた[23]1932ねん昭和しょうわ7ねん)に帰国きこく1933ねん昭和しょうわ8ねん)、日活にっかつ太秦うずまさ撮影さつえいしょ移籍いせき[23]4ほん監督かんとくさく発表はっぴょうするが、1934ねん昭和しょうわ9ねん)には新興しんこうキネマ京都きょうと撮影さつえいしょ移籍いせき1942ねん昭和しょうわ17ねん)、戦時せんじ統合とうごう新興しんこうキネマが2しゃ合併がっぺいして大映だいえい創立そうりつされると同社どうしゃ専属せんぞくとなり、同社どうしゃだい1かい作品さくひんの『維新いしんきょく』を監督かんとくする。以後いごモンゴル長期ちょうきロケをおこなった『成吉せいきちおもえあせ』などを発表はっぴょうするが、サイレント時代じだいのような演出えんしゅつ清新せいしんさはられなくなった。1949ねん昭和しょうわ24ねん)、特撮とくさつ映画えいが先駆さきがけといわれるパートカラー作品さくひんにじおとこ』が最後さいご監督かんとく作品さくひんとなり、よく1950ねん昭和しょうわ25ねん)に大映だいえい退社たいしゃした[23]

同年どうねん1がつ日本にっぽん大学だいがく芸術げいじゅつ学部がくぶ映画えいが学科がっか客員きゃくいん教授きょうじゅ就任しゅうにん1952ねん昭和しょうわ27ねん)、ポール・スローン監督かんとく大映だいえいまねかれてった『いついつまでも』で協力きょうりょく監督かんとくつとめる。1955ねん昭和しょうわ30ねん)4がつ共立女子大学きょうりつじょしだいがく文芸ぶんげい学部がくぶ講師こうし就任しゅうにんし、よく1956ねん昭和しょうわ31ねん)には日大にちだい芸術げいじゅつ学部がくぶ映画えいが学科がっか主任しゅにん教授きょうじゅ[24]1975ねん昭和しょうわ50ねん)からは日活にっかつ芸術げいじゅつ学院がくいん初代しょだいがく院長いんちょうつとめる[24]日大にちだい芸術げいじゅつ学部がくぶおしにはアニメーションの池田いけだひろし監督かんとくがおり、池田いけだのそのまたおしにはかたふち須直監督かんとくがいる。また、だい17かいヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいだい1かいだい3かいモスクワ国際こくさい映画えいがさいにそれぞれ審査しんさいんとして出席しゅっせきしている[24]。1975ねん昭和しょうわ50ねん)、新藤しんどう兼人かねと監督かんとく長編ちょうへん記録きろく映画えいがある映画えいが監督かんとく生涯しょうがい 溝口みぞぐち健二けんじ記録きろく』に出演しゅつえんした。

1985ねん昭和しょうわ60ねん5がつ20日はつか脳血栓のうけっせんのため死去しきょ[25]。88さいぼつ

2010ねん平成へいせい22ねん)、だい29かいポルデノーネ無声むせい映画えいがさいで「松竹しょうちくさん巨匠きょしょう」の特集とくしゅうまれ、島津しまつ保次郎やすじろう清水しみずひろしりょう監督かんとく作品さくひんとともに、牛原うしはらの『海浜かいひん女王じょおう』『感激かんげき時代じだい』『進軍しんぐん』『若者わかものよなぜくか』が上映じょうえいされた。

受賞じゅしょう受章じゅしょうれき[編集へんしゅう]

作品さくひん現存げんそんじょうきょう[編集へんしゅう]

牛原うしはら監督かんとく作品さくひんぜん102ほんうち現存げんそんするのは13ほん(うち断片だんぺん4ほん)のみで、『若者わかものよなぜくか』『進軍しんぐん』『かいねこなぞ三味線しゃみせん』『維新いしんきょく』『けんふう練兵れんぺいかん』『いつのはなかん』『だれこいせん』『にじおとこ』の8ほんがほぼ完全かんぜんしゃく現存げんそんしており(ただし『にじおとこ』のカラーパートはうしなわれており、現存げんそんするはん該当がいとう部分ぶぶん関係かんけいしゃ証言しょうげんなどから復元ふくげんされたものである)、『まち人気にんきしゃ』は87ふんじゃくのものが現存げんそんしている[26]。『噫無情むじょう だいいちへん』は9ふんじゃく、『海浜かいひん女王じょおう』は14ふんじゃく、『感激かんげき時代じだい』は19ふんじゃく、『かれ人生じんせい』は9ふんじゃく断片だんぺん現存げんそんしている[26]。また、脚本きゃくほんいた『路上ろじょう霊魂れいこん』もほぼ完全かんぜん状態じょうたい現存げんそんしている[26]

だれこいせん』は衛星えいせい劇場げきじょうの『まぼろし蔵出くらだ映画えいがかん』にて、2020ねん発掘はっくつ放送ほうそうされた。

監督かんとく作品さくひん[編集へんしゅう]

Category:牛原うしはらきょ彦の監督かんとく映画えいが参照さんしょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 牛原うしはらきょ、20世紀せいき日本人にっぽんじんめい事典じてんコトバンク、2015ねん3がつ9にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c 牛原うしはら1968、p.28
  3. ^ a b c d e f g キネマ旬報きねまじゅんぽう1976、p.63
  4. ^ 牛原うしはら1968、p.34
  5. ^ 牛原うしはら1968、p.45
  6. ^ 永山ながやま2006、p.366
  7. ^ a b c d 牛原うしはら1968、p.81
  8. ^ a b c d e f g h キネマ旬報きねまじゅんぽう1986、p.88-90
  9. ^ 今村いまむら昌平しょうへい講座こうざ日本にっぽん映画えいが2 無声むせい映画えいが完成かんせい』、岩波書店いわなみしょてん、1986ねん、p.218
  10. ^ 牛原うしはら1968、p.113
  11. ^ 牛原うしはら1968、p.395
  12. ^ 田中たなか純一郎じゅんいちろう日本にっぽん映画えいが発達はったつ活動かつどう写真しゃしん時代じだい』、中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1980ねん、p.352
  13. ^ 筈見はずみ恒夫つねお映画えいがじゅうねん』、ます書房しょぼう、1947ねん、p.92
  14. ^ 牛原うしはら1968、p.123
  15. ^ 国際こくさい映画えいが通信つうしんしゃ1927、p.307
  16. ^ a b 牛原うしはら1968、p.135-136
  17. ^ a b c 細江ほそえひかり上山うえやま草人そうじん年譜ねんぷ稿こうよん) : 谷崎たにざき潤一郎じゅんいちろうとの交友こうゆう中心ちゅうしん」『甲南女子大学こうなんじょしだいがく研究けんきゅう紀要きよう 文学ぶんがく文化ぶんかへんだい40ごう甲南女子大学こうなんじょしだいがく、2003ねん、37-63ぺーじCRID 1050001338410620928ISSN 1347121X2023ねん12月21にち閲覧えつらん 
  18. ^ 国際こくさい映画えいが通信つうしんしゃ1927、p.314
  19. ^ 受難じゅなんはな(1926)KINENOTE、2015ねん3がつ10日とおか閲覧えつらん
  20. ^ 田中たなか純一郎じゅんいちろう日本にっぽん映画えいが発達はったつ無声むせいからトーキーへ』、中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1980ねん、p.61
  21. ^ 映画えいが製作せいさく実務じつむしゃが「友達ともだちかい」を結成けっせい大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん昭和しょうわ2ねん2がつ16にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい1かん 昭和しょうわ元年がんねん-昭和しょうわ3ねん本編ほんぺんp19 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  22. ^ 永山ながやま2006、p.381
  23. ^ a b c 佐藤さとう2007、p.90
  24. ^ a b c 牛原うしはら1968、p.408
  25. ^ 淀川よどがわ長治ながはる淀川よどがわ長治ながはる究極きゅうきょく日本にっぽん映画えいがベスト66』、河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2005ねん、p.28
  26. ^ a b c 牛原うしはらきょ東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんフィルムセンター 所蔵しょぞう映画えいがフィルム検索けんさくシステム、2015ねん3がつ10日とおか閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 日本にっぽん映画えいが事業じぎょう総覧そうらん 昭和しょうわ2年版ねんばん』、国際こくさい映画えいが通信つうしんしゃ、1927ねん 
  • 牛原うしはらきょ彦『きょ映画えいが50ねん』、鏡浦かがみうら書房しょぼう、1968ねん 
  • 日本にっぽん映画えいが監督かんとく全集ぜんしゅう』、キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1976ねん 
  • ますほんねん松竹しょうちく映画えいが90ねんたび そらえが白日はくじつのゆめ 人物じんぶつ蒲田かまた映画えいが小史しょうし3』(キネマ旬報きねまじゅんぽう7がつ上旬じょうじゅんごう)、キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1986ねん 
  • 永山ながやま武臣たけおみ松竹しょうちくひゃくじゅうねん』、松竹しょうちく、2006ねん 
  • 佐藤さとう忠男ただお日本にっぽん映画えいがじん 日本にっぽん映画えいが創造そうぞうしゃたち』、日外にちがいアソシエーツ、2007ねんISBN 9784816920356 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]