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及川おいかわ道子みちこ

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おいかわ みちこ
及川おいかわ 道子みちこ
及川 道子
1933ねんごろ
生年月日せいねんがっぴ (1911-10-20) 1911ねん10がつ20日はつか
ぼつ年月日ねんがっぴ (1938-09-30) 1938ねん9月30にち(26さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょうゆたか多摩たまぐん渋谷しぶやまちげん東京とうきょう渋谷しぶや
職業しょくぎょう 女優じょゆう
ジャンル 演劇えんげき劇映画げきえいが現代げんだいげきサイレント映画えいがトーキー
活動かつどう期間きかん 1924ねん - 1937ねん
著名ちょめい家族かぞく 及川おいかわかなえ寿ひさし ちち
おも作品さくひん
あおとり
さんにん姉妹しまい
ハムレット
みなと日本にっぽんむすめ
真白まっしろ富士ふじ
家族かぞく会議かいぎ
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及川おいかわ 道子みちこ(おいかわ みちこ、1911ねん10がつ20日はつか - 1938ねん9月30にち)は、日本にっぽん女優じょゆう

1920年代ねんだい後半こうはん1930年代ねんだい前半ぜんはん日本にっぽん映画えいがで、清楚せいそ近代きんだいてきなキャラクターを数多かずおおえんじ、「永遠えいえん乙女おとめ」とばれた[1]

来歴らいれき

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1911ねん10がつ20日はつか東京とうきょうゆたか多摩たまぐん渋谷しぶやまちげん東京とうきょう渋谷しぶや)にまれる[1]ちちかなえ寿ひさしは、社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう経歴けいれきち、のち出版しゅっぱんしゃ春秋しゅんじゅうしゃ勤務きんむした[1][2]両親りょうしんともにクリスチャンであり、その影響えいきょう道子みちこ敬虔けいけんキリスト教きりすときょう信者しんじゃとなる[1][3]。1924ねん小学校しょうがっこう卒業そつぎょうし、当時とうじ存在そんざいした東京とうきょう音楽おんがく学校がっこういちきょう分教場ぶんきょうじょう声楽せいがく入学にゅうがく[1]同年どうねんあき小山内おさないかおる紹介しょうかいで、築地つきじしょう劇場げきじょうくわわる[1]

同年どうねん12がつだい18かい公演こうえん『そらまめえるまで』で主役しゅやく少年しょうねん抜擢ばってきされはつ舞台ぶたい[1]以後いご、1925ねんの『あおとり』ではチルチル、1926ねんの『さんにん姉妹しまい』ではハープきの少女しょうじょ、1927ねんの『うずもれたはる』では主役しゅやくのきみえんじるなど、舞台ぶたい女優じょゆうとしてのキャリアをかさねていく[1]とくに『あおとり』での演技えんぎは、劇評げきひょうにもたか評価ひょうかけた[3]。このあいだ、1927ねん東京とうきょう音楽おんがく学校がっこう修了しゅうりょうし、当時とうじ本郷ほんごうにあっただいいち外国がいこく学校がっこう英語えいごせん高等こうとう翌年よくねんまでまな[1]。このころ春秋しゅんじゅうしゃでもおちゃくみとしてはたらいていた[4]。1928ねん10がつだい79かい公演こうえんくにせいじい合戦かっせん』では杉村すぎむら春子はるこたき蓮子はすこ細川ほそかわちかとともに女官にょかんやくえんじるが、よく1929ねん3がつ劇団げきだん分裂ぶんれつ[1]道子みちこ脱退だったい土方ひじかた与志よし丸山まるやま定夫さだお細川ほそかわちからが4がつ結成けっせいした新築地しんつきじ劇団げきだん参加さんかするが、7がつ退団たいだんする[1]

2ヵ月かげつの1929ねん9がつ映画えいが評論ひょうろん内田うちださんゆう紹介しょうかいで、松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ入社にゅうしゃ[1]以後いご映画えいが女優じょゆうとしてのキャリアをあゆむこととなる。同年どうねん10がつ公開こうかいされた清水しみずひろし監督かんとくの『不壊ふえしろたま』で、主役しゅやく八雲やくも恵美子えみこいもうとやくとしてデビュー[1]以後いごも、いずれも清水しみず監督かんとくの『恋愛れんあいだいいち』(1929ねん)、『真実しんじつあい』(1930ねん)、『抱擁ほうよう(ラムブラス)』(1930ねん)につづけに出演しゅつえんし、とくに『恋愛れんあいだいいち』、『抱擁ほうよう』では、従来じゅうらい日本にっぽん映画えいが女優じょゆうにはられなかった、知的ちてき洗練せんれんされた魅力みりょくしめした[1]。このあいだ、1930ねん1がつにははやくもじゅん幹部かんぶとなり、同年どうねん8がつしょ平之ひらのすけ監督かんとくおんなよ!くんけがす勿れ』では、母親ははおや不倫ふりんって自殺じさつするむすめ熱演ねつえん注目ちゅうもくあつめた[1]。だがその矢先やさきむねやまいたおれ、1ねんちかくの休業きゅうぎょう余儀よぎなくされる[1]。このため、出演しゅつえんまっていた清水しみず監督かんとくの『ゆうゆうはな』(1931ねん)では花岡はなおか菊子きくこ島津しまつ保次郎やすじろう監督かんとくの『生活せいかつせんABC』(どう)では田中たなか絹代きぬよといったどう世代せだいのライバルが代役だいやくをつとめることになった[1]。しかし、島津しまつ監督かんとくの『さけぶもの』2さく(1931ねん)では、鈴木すずきでんあきらいもうとやく好演こうえんし、田中たなか絹代きぬよ川崎かわさき弘子ひろこらとなら人気にんき獲得かくとくする[1]よく1932ねん清水しみず監督かんとくあい防風ぼうふうりん』、どう白夜はくやあかりくる』などでも好演こうえんし、蒲田かまた代表だいひょうする知性ちせいスターの地位ちい確立かくりつした[1]。また、同年どうねん12がつには、明治めいじ舞台ぶたいハムレット』で水谷みずたに八重子やえこらと共演きょうえん[3][5]八重子やえこのハムレットにたいし、道子みちこオフィーリアえんじ、好評こうひょうはく[5]

1933ねん1がつ幹部かんぶ昇格しょうかくし、清水しみず監督かんとくサウンドばんねむははむねに』に主演しゅえん[1]どう作品さくひんでは歌手かしゅ小林こばやし千代子ちよことも同名どうめい主題歌しゅだいか独唱どくしょうし、レコードみもおこな声楽せいがくとしての実力じつりょくしめした[1]おな清水しみず監督かんとくの『みなと日本にっぽんむすめ』では江川えがわ宇礼ゆう島津しまつ監督かんとくの『ほおよせすれば』では、おか譲二じょうじ相手あいてやく主演しゅえん[1]つづしょ監督かんとくの『愛撫あいぶ(ラムール)』では岡田おかだ嘉子よしこ共演きょうえんし、ベテラン相手あいていちけをとらぬ演技えんぎせた[1]。1934ねんはいると、清水しみず監督かんとくのオールスター大作たいさく東洋とうようはは』で江川えがわ宇礼ゆういもうとやくえんじ、つづ野村のむらひろししょう監督かんとく夢見ゆめみころ』でも江川えがわ兄妹きょうだいやくえんじた[1]。5月には、下加茂したかも時代じだいげき月形つきがた半平はんぺんふとし』に出演しゅつえんし、主演しゅえんはやしちょう二郎じろう相手あいてやくをつとめた[1]つづ池田いけだ義信よしのぶ監督かんとく『はつ姿すがた』の主演しゅえん決定けっていしたが、彼女かのじょ再度さいど発病はつびょう製作せいさく中止ちゅうしとなる[1]彼女かのじょはこのときも1ねん以上いじょう療養りょうよう余儀よぎなくされ、よく1935ねん佐々木ささきやすし監督かんとく真白まっしろ富士ふじ』の女学校じょがっこう教師きょうしやく復帰ふっきした[1]。また同年どうねん8がつ東京とうきょう劇場げきじょうひらかれた「新派しんぱ精鋭せいえい男女だんじょゆう合同ごうどう」に村田むらた嘉久よしひさ山田やまだ五十鈴いすず村田むらた正雄まさおらとともに出演しゅつえん[1]。だが健康けんこう状態じょうたいふたた悪化あっかし、よく1936ねん4がつ島津しまつ保次郎やすじろう監督かんとく家族かぞく会議かいぎ』では、やまいしてヒロイン仁礼にれい泰子やすこえんったものの、結果けっかてきにこれが最後さいご出演しゅつえんさくとなった[1]よく1937ねんには大船おおふな撮影さつえいしょ前年ぜんねん蒲田かまたから移転いてん)を退社たいしゃ[1]

よく1938ねん9がつ30にち結核けっかくのため26さい死去しきょした[1][6]

エピソード

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  • 雑誌ざっししん青年せいねん』の編集へんしゅうしゃで、のち異色いしょく作家さっかとしてられるようになる渡辺わたなべあつしとは、少女しょうじょ時代じだいから交流こうりゅうがあった[7]。1930ねん2がつ渡辺わたなべ不慮ふりょげたが、道子みちこのち自伝じでん『いばらのみち』(1935ねん)のなかで、渡辺わたなべとのおも回想かいそうしている。[1]わたし小学校しょうがっこう時分じぶんから、ずっとのち映画えいがかいるようになるまで、 よい指導しどうしゃとして、またよき愛護あいごしゃとして、渡辺わたなべさんに、どれだけおんけているかれません。――ふゆ真中まんなかにもなお、外套がいとうをもっていないということで、 ははしんいためさせたわたしが、音楽おんがく学校がっこうへの受験じゅけん写真しゃしんには、立派りっぱ外套がいとうているのも、そのころある雑誌ざっし懸賞けんしょうでシナリオを募集ぼしゅうしたとき、それにおうじて一等いっとう当選とうせんされた渡辺わたなべさんが、懸賞けんしょう一部いちぶわたしってくださった、おも出深でぶか外套がいとうなのです。」また、渡辺わたなべ訃報ふほう新聞しんぶんったとき印象いんしょうは、「みちちやん、渡辺わたなべさんが.....」「渡辺わたなべさんが、なにうなさったの、おかあさん?」ただならぬははこえおどろいて、おもはずつたわたしが、ちちち慄えるひろげられた夕刊ゆうかんのぞむと、 渡辺わたなべあつし惨死ざんしす!いきなり、おおきな活字かつじが、わたしくつがえふてしまつたのです。わたしは、わたし全身ぜんしんから、さツと血潮ちしおせてゆくやうな、さむさをかんじながら、また、よろめくあしたいへようとしつつも、なほフラフラとくずしれさうになる身体しんたいささえへて、ようやくのおもひで自分じぶん部屋へや辿たどくと、わがれをわすれたやうに、つくえまえすわんで、渡辺わたなべあつし探偵たんてい小説しょうせつ全集ぜんしゅうつて、その口絵くちえ写真しゃしんひらきました。見慣みなれたくろ洋服ようふくに、いつものさびしそうなかおをしてられる渡辺わたなべさん!見詰みつめているうちに、さびしいかおが、写真しゃしんなかからして、わたしあたまを、むねを、いつぱいにしてしまつたのです。」[1]
  • 及川おいかわ死後しご渡辺わたなべゆめており、それについて詳細しょうさいいている。「そら紺碧こんぺきれて、そよかぜにゆらぐ街路がいろじゅやなぎ若葉わかばが、すずしそうな陰影いんえい鋪道ほどうげていた。初夏しょか銀座ぎんざどおりである。道子みちこははおとうと士郎しろうさんにんで、買物かいものへのかえりを新橋しんばしかってあるいていた。途中とちゅう、ある額縁がくぶち立寄たちよって、うつくしいというよりも神々こうごうしさをおもわせるやまかわ──夕陽ゆうひやま雲間くもまからパッとさして、しずかな川面かわもにキラキラと金色きんいろかえっている──をしばらながめてから、ふたた鋪道ほどういそあし新橋しんばしほうあるはじめた。 「アッ!」 道子みちこおもわずこえてると、そのちすくんでしまった。にしていた荷物にもつはバタバタと足許あしもところがりちた。コツ、コツ。 こうから渡辺わたなべさんがあるいてる!山高やまたかをかぶって、片手かたてにステッキをにぎり、いつものようにくびこころもちひだりへかしげたあの渡辺わたなべさんが! いまでは、もう此世にいないはずのあの渡辺わたなべさんが!道子みちこはあまりのことにちすくんだまゝじっとその姿すがた見入みいった。が、つぎ瞬間しゅんかん、あの渡辺わたなべさんがきていてくれたのだとわかると、道子みちこうれしくてうれしくておもわずわすれて、そのがわんでき、むねふかかおをうずめてくずれてしまった。「もう、どこへもかないでね。いえ、こうたってはなさないわ。これからはなんでもうことをくから、そしてだれよりもあなたをきになってあげるから、どうかもうどこへもかないでね」まるで子供こども父親ちちおやあまえるように、道子みちこはわれながらいじらしい感情かんじょうむねをふるわせながらうったえるのだった。それまで、たゞだまって道子みちこ言葉ことばみみかたむけていた渡辺わたなべさんは、つとやさしく道子みちこをとると、二人ふたり何時いつのまにかもとみちほうあるしていた。しばらって──何処どこをどうとおったか、またそこがなんというまちかハッキリわからなかったが──あいだもなく二人ふたりは、なんだかしろかわったひろひろ大通おおどおりのはたっているいえいた。 そのいえ入口いりくちからいきなり階段かいだんになっていて、二人ふたりはそのかいがってった。「どこへもかないでね、いつまでも道子みちこがわにいてね」とかえかえし、たのみつゞけたが、それにたいして渡辺わたなべさんは一言ひとことわずにだまって道子みちこかお見守みまもっているだけだった。どのくらいにんはそうしていたろうか。しばらくして階下かいか入口いりくちだれかトントンとたたおとがしたので、道子みちこいそいで階段かいだんりてってると、そこには不思議ふしぎなことに、これもいまはもうくなられたはず小山内おさない先生せんせいがヌーッとっていられるではないか──「渡辺わたなべくんむかえにたよ」先生せんせいはそういながら、丁度ちょうどそこへりて渡辺わたなべさんを両手りょうていだきかゝえるようにしてこうとされた。道子みちこきゅうこたがたかなしみにおそわれて、先生せんせい、どうか渡辺わたなべさんをれてかないでください。おねがいですから、おねがいですから」 といちはいなみだをためながら渡辺わたなべさんにとりすがった。 が、いよいよ先生せんせいれられて戸口とぐちようとするとき 渡辺わたなべさんはいすがる道子みちこほうしずかにかえって、そのさびしいあおざめた口元くちもと微笑びしょうをうかべながら、はじめてくちひらいた。  「ねえ、みちちゃん、恋愛れんあい一生いっしょう仕事しごとではないよ。この人生じんせいにはもっともっとなさなければならない仕事しごとがあるはずだ。 ──みちちゃんには芸術げいじゅつ仕事しごとのこされている。いまはそうしたあいとかこいとかの感情かんじょうしんうばわれているときではなく、おたがいに芸術げいじゅつみち精進しょうじんすべきときだ。 そしていつかぼくとうがなすべきつとめをはたしずかな安息あんそくおとずれたときに、きっとにんはまたうことがあるだろうからね──」そうったかとおもうと、先生せんせい渡辺わたなべさんの姿すがたは、そのひろ真白まっしろな、てもない一本いっぽんみちこうをもかえらずに次第しだい次第しだいとおざかってった。そしてやがて、はる地平線ちへいせん彼方かなたからのぼって夕陽ゆうひびて神々こうごうしいばかりにかがやいている金色きんいろくもひかりなか二人ふたり姿すがたまれるようにえなくなってしまった。 道子みちこはそこにちつくしたまゝ、なにかしらったさびたで感激かんげきとにむねをしめつけられて「ええ、わかったわ、わかったわ」となんなんもうなずきながら、かすかに遠雷えんらいおとひびいてとおくもみねをいつまでもながはいっていた。 これはさんにちまえよるわたしがはっきりゆめでございます。 今日きょうたまたま編集へんしゅうしゃから、渡辺わたなべあつしさんのおもをもとめられましたので、 ともあれずこの不思議ふしぎゆめをそのまゝしるしてました。」[1]
  • だいかい主演しゅえんさく恋愛れんあいだいいち」の撮影さつえいのために東京とうきょう実家じっかはなれて地方ちほうまったときに、家族かぞくはなれての外泊がいはく不安ふあんとなっていた及川おいかわを、わらわせようと、岡田おかだ時彦ときひこらはっぱらって、奇矯ききょうないでちで及川おいかわ部屋へや侵入しんにゅうし、馬鹿騒ばかさわぎをはじめようとしたが、及川おいかわきびしい叱責しっせきにあって、退散たいさんしている[1]。このときの情景じょうけいは「いばらのみち」にかれている。(以下いか、「いばらのみち」より)「これまでにわたしは、父母ちちははもとはなれてたびたことなど、かずへるほどよりかつたので、いちにちけても、家庭かていのことばかりおもされて仕方しかたかつたのです。(中略ちゅうりゃく)お夕飯ゆうはんんだのちわたし自分じぶんのお部屋へやで、窓辺まどべせて(中略ちゅうりゃく)またしても東京とうきょういえのことをおもしてると、不意ふいに、部屋へやそと廊下ろうか騒々そうぞうしい物音ものおとつたとおもふと、いきなり、荒々あらあらしくふすまけて、わたし部屋へやなか闖入ちんにゅうしてものがあつたのです。 「あらツ!」 おどろいてかえつたわたしは、おもはずちいさなさけごえらしました。其処にはわたしたちと一緒いっしょ船原ふなはら原稿げんこうきにられた北村きたむら小松こまつ先生せんせいと、わたし今度こんど映画えいが主演しゅえんしてられる岡田おかだ時彦ときひこさんの二人ふたりつてられたのです。それだけならば、そんなにおどろくこともないのですけれど、ふゆ最中さいちゅうといふのに麦藁むぎわら帽子ぼうしかんむりり、あかおににやうによいふつつたがおをして、ル瓶るびんだの、コップだの、ほかなにみょうなものをげて、奇妙きみょう身振みぶりをしてられたのです。 「いよう、じょう!」 「愉快ゆかいに、此処ここらさわがうぢやないか!」 二人ふたりこえくと同時どうじに、たうとう我慢がまん出来できなくなつたわたしは、おもはずおおきなこえ怒鳴どなりました。 「いけません!よいふつつて、無断むだんでひとの部屋へやにゅうつてるなんて、無作法ぶさほうなことがありますか。はやく此処ここからくだりつてください!」 北村きたむら先生せんせい岡田おかださんは、あまりにはげしいわたし剣幕けんまくに、なかおどろき、なかあきれたといふふうに、しばらちつくしてられたが、あいだもなく、すごすごと部屋へやからかれました。(中略ちゅうりゃく) けれども、で、そのばんのことが、んな厚意こういからまれた狂言きょうげんだといふことをつたに、わたし苦笑くしょうしながらも、あんなに怒鳴どなつたりしたことが、北村きたむら先生せんせいたちにおどくおもはれたり、またなんだか大人気おとなげないことをしたようながして、自分じぶん自分じぶん可笑おかしくもなりました。北村きたむら先生せんせい岡田おかださんは、わたしいえのことばかりおもしてしずんでいるので、ひとつわらいはして、わたし気分きぶんてようと、あんなおどけた真似まねをなさつたといふのです。」
  • はつ映画えいが出演しゅつえんさくとなった「不壊ふえしろたま」が、映画えいがつくられるまえ新聞しんぶん小説しょうせつとなっていたのをんでおり、主役しゅやくのエゴイスティックな女性じょせい玲子れいこについて、「一番いちばんきらいなタイプの人間にんげんで、もし現実げんじつ存在そんざいするならちのめしてやりたいくらいににくらしくおもっていた」ために、自分じぶん玲子れいこやくてられていることをったとき非常ひじょうにがっかりしたという[1]
  • 自身じしん来歴らいれき役柄やくがらのイメージもあり、おも知識ちしき階層かいそうから熱烈ねつれつ支持しじけていた[1]。だが、実生活じっせいかつでは病身びょうしん鞭打むちうち、家族かぞくやしな女性じょせいといういちめんっており、そのためかはたら青年せいねん少女しょうじょのファンもすくなくなかった[3]本人ほんにん野田のだ醤油じょうゆげんキッコーマン)の女工じょこうあつまりなどによくかおしていたという[3]
  • 臨終りんじゅうさい、「わたしただしい人間にんげん人生じんせいおくってきたから…」「わたしのためではなく、みんなのためにいのってください」という言葉ことばのこした[3]
  • 読書どくしょで、日本にっぽん古典こてんから哲学てつがくしょまでひろ範囲はんい書物しょもつみ、また聖書せいしょもよくんでいた。さん美歌みかうたうこと、ピアノをひくことも趣味しゅみだった[1]

出演しゅつえん

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舞台ぶたい

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築地つきじしょう劇場げきじょう

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その

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映画えいが

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松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ

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みなと日本にっぽんむすめ』(1933ねん)。みぎ井上いのうえ雪子ゆきこ
  • 不壊ふえしろたま』 : 監督かんとく清水しみずひろしサイレント映画えいが、1929ねん10がつ17にち公開こうかい - 水野みずの玲子れいこ現存げんそんNFC所蔵しょぞう[8]
  • 恋愛れんあいだいいち』 : 監督かんとく清水しみずひろし、サイレント映画えいが、1929ねん12月31にち公開こうかい - 道子みちこ
  • 真実しんじつあい』 : 監督かんとく清水しみずひろし、サイレント映画えいが、1930ねん4がつ18にち公開こうかい - おみん
  • 抱擁ほうよう(ラムブラス)』 : 監督かんとく清水しみずひろし、サイレント映画えいが、1930ねん6がつ13にち公開こうかい
  • おんなよ!くんけがす勿れ』 : 監督かんとくしょ平之ひらのすけ、サイレント映画えいが、1930ねん8がつ15にち公開こうかい
  • さけぶもの 青春せいしゅんへん』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1931ねん7がつ15にち公開こうかい
  • さけぶもの 争闘そうとうへん』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1931ねん7がつ23にち公開こうかい
  • 生活せいかつせんABC』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1931ねん10がつ16にち公開こうかい撮影さつえいちゅう病気びょうきのために降板こうばん  
  • あい防風ぼうふうりん』 : 監督かんとく清水しみずひろし、サイレント映画えいが、1932ねん8がつ5にち公開こうかい - 美佐保みさほ
  • 白夜はくやあかりくる』 : 監督かんとく清水しみずひろし、サイレント映画えいが、1932ねん9がつ9にち公開こうかい - 寺本てらもと益枝ますえ芸者げいしゃはまいさむ
  • 女性じょせい切札きりふだ』 : 監督かんとく野村のむらかおるてい、サイレント映画えいが、1932ねん11月3にち公開こうかい
  • ねむははむねに』 : 監督かんとく清水しみずひろしサウンドばん、1933ねん1がつ20日はつか公開こうかい - 羽山はやま道子みちこ独唱どくしょう担当たんとう
  • みなと日本にっぽんむすめ』 : 監督かんとく清水しみずひろし、サイレント映画えいが、1933ねん6がつ1にち公開こうかい - 黒川くろかわ砂子すなご現存げんそん(NFC所蔵しょぞう[9]
  • ほおよせすれば』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1933ねん8がつ3にち公開こうかい
  • 愛撫あいぶ(ラムール)』 : 監督かんとくしょ平之ひらのすけ、サイレント映画えいが、1933ねん11月9にち公開こうかい- 節子せつこ現存げんそん(NFC所蔵しょぞう [10]
  • 東洋とうようはは』 : そう監督かんとく監督かんとく清水しみずひろし、1934ねん2がつ1にち公開こうかい - むすめ
  • ゆめみるころ』 : 監督かんとく野村のむらひろししょう、1934ねん3がつ21にち公開こうかい
  • 真白まっしろ富士ふじ』 : 監督かんとく佐々木ささきやすし、サウンドばん、1935ねん8がつ29にち公開こうかい
  • 永久えいきゅうあい まえへん』 : 監督かんとく池田いけだ義信よしのぶ、サウンドばん、1935ねん10がつ15にち公開こうかい - 本田ほんだよし
  • 永久えいきゅうあい へん』 : 監督かんとく池田いけだ義信よしのぶ、サウンドばん、1935ねん10がつ15にち公開こうかい - 本田ほんだよし
  • 家族かぞく会議かいぎ』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、1936ねん4がつ3にち公開こうかい - 仁礼にれい泰子やすこ現存げんそん(NFC所蔵しょぞう[11]

松竹しょうちく下加茂したかも撮影さつえいしょ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al 日本にっぽん映画えいが人名じんめい事典じてん女優じょゆうへん上巻じょうかん』、304 - 306ぺーじ
  2. ^ 荒畑あらはた寒村かんそん著作ちょさくしゅう 9 寒村かんそん自伝じでん じょう』、157ぺーじ
  3. ^ a b c d e f 人物じんぶつ 日本にっぽん映画えいが』、380 - 382ぺーじ
  4. ^ シナリオ1983ねん3がつごう76~77ぺーじ
  5. ^ a b 女優じょゆういちだい』、110ぺーじ
  6. ^ 『キネマの美女びじょ - じゅう世紀せいきノスタルジア』、138ぺーじ
  7. ^ 戦前せんぜん戦後せんご異端いたん文学ぶんがくろん』、58ぺーじ
  8. ^ 及川おいかわ道子みちこ東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんフィルムセンター
  9. ^ 及川おいかわ道子みちこ東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんフィルムセンター
  10. ^ 及川おいかわ道子みちこ東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんフィルムセンター
  11. ^ 及川おいかわ道子みちこ東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんフィルムセンター

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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