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五月さつき信子のぶこ

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さつき のぶこ
五月さつき 信子のぶこ
五月 信子
1925ねんごろ
生年月日せいねんがっぴ (1894-02-13) 1894ねん2がつ13にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1959-07-21) 1959ねん7がつ21にち(65さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 埼玉さいたまけん北足立きたあだちぐん浦和うらわまちげん埼玉さいたまけんさいたま
職業しょくぎょう 女優じょゆう
ジャンル 演劇えんげき劇映画げきえいが現代げんだいげきサイレント映画えいがトーキー
活動かつどう期間きかん 1915ねん - 1952ねん
配偶はいぐうしゃ 高橋たかはし義信よしのぶ離婚りこん
御手洗みたらい彦麓
著名ちょめい家族かぞく つき澄江すみえめい養女ようじょ
おも作品さくひん
金色きんいろ夜叉やしゃ
嬰児えいじごろ
灼熱しゃくねつこい
高橋たかはしでん
まぶたはは
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五月さつき信子のぶこ 1919ねん

五月さつき 信子のぶこ(さつき のぶこ、1894ねん2がつ13にち - 1959ねん7がつ21にち)は、日本にっぽん女優じょゆう本名ほんみょう御手洗みたらいしのぶ旧姓きゅうせいめい前川まえかわしのぶ)[1]

新派しんぱから映画えいがさかいてんじ、創成そうせい松竹まつたけ蒲田かまた活躍かつやく川田かわた芳子よしこ栗島くりしますみなら看板かんばんスターとしてられた[2]。また、舞台ぶたい女優じょゆうとしても劇団げきだん近代きんだい」を結成けっせいし、おおくの後進こうしんそだてた[3]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

ち〜舞台ぶたい女優じょゆう[編集へんしゅう]

埼玉さいたまけん北足立きたあだちぐん浦和うらわまち(のち浦和うらわげんさいたま)にまれる[1][ちゅう 1]ちちきよし浦和うらわ警察けいさつしょ署長しょちょうをつとめた[1]埼玉さいたま県立けんりつ浦和うらわ高等こうとう女学校じょがっこうげん埼玉さいたま県立けんりつ浦和うらわだいいち女子じょし高等こうとう学校がっこう)を卒業そつぎょう新劇しんげきこころざし、1915ねん9がつ武田たけだ正憲まさのり川村かわむら花菱かりょう東京とうきょう神田かんだ東京とうきょう旗揚はたあげした「しん日本にっぽんげき」にはい[1][5]座員ざいんには、武田たけだ正憲まさのりあたまに、花柳はなやぎ章太郎しょうたろう藤村ふじむら秀夫ひでお岩田いわた祐吉ゆうきちせい邦宏くにひろ永井ながいあかとりやなぎ永二郎えいじろう)・渡瀬わたせ淳子じゅんこ村田むらた栄子えいこなどがいた[5]

同年どうねんだいいちかい公演こうえん枝川えだがわながれ』で、本名ほんみょう前川まえかわしのぶで初舞台はつぶたい[1][5]よく1916ねん3がつ本郷ほんごうでのだいさんかい公演こうえんとらこう』(佐藤さとう紅緑こうろく原作げんさく)で、はじめて「五月さつき信子のぶこ」の芸名げいめい名乗なのり、あきえん久満ひさみつ子役こやくえんじた[1][6]芸名げいめいは、結婚けっこんした友人ゆうじん旧姓きゅうせいと、本名ほんみょう「しのぶ」の一部いちぶからったという[6]。このあいだ芸術座げいじゅつざ附属ふぞく演劇えんげき研究所けんきゅうじょまなび、1916ねん4がつからは、「しん日本にっぽんげき」の地方ちほう巡業じゅんぎょうにも参加さんかするが、劇団げきだん同年どうねん9がつ解散かいさんとなる[1][ちゅう 2]解散かいさんあいだもなく、どう劇団げきだん顧問こもんであった佐藤さとう紅緑こうろく残党ざんとうあつめてあらたに「日本にっぽん」を結成けっせいすると信子のぶこ参加さんかし、12月の旗揚はたあ公演こうえん裾野すその』で主演しゅえんかり名子なごえんじてみとめられる[1]

しんこえげきをともに設立せつりつした富士野ふじのつたえだ関西かんさい新派しんぱ一座いちざ剣劇けんげきだんであるしんこえげきは、大正たいしょう8ねん10がつ弁天べんてん旗揚はたあ京都きょうと新京極しんきょうごく明治めいじなどでおおくの観客かんきゃくつかんだ[8]

日本にっぽん」のメンバーとして地方ちほう巡業じゅんぎょう参加さんかしたのち、1917ねん6がつ劇団げきだんはなれ、武田たけだ正憲まさのり諸口しょくちじゅうきゅう高橋たかはし義信よしのぶらが結成けっせいした「しん演劇えんげき協会きょうかい」に参加さんか[1][9]。『ちゃつくいえ』、『椿つばきひめ』などをものに、各地かくち巡演じゅんえんする[9]よく1918ねん3がつ東京とうきょうもどり、井上いのうえ正夫まさお主宰しゅさいの「女優じょゆうげき」の一員いちいんとして、浅草あさくさ吾妻あづま舞台ぶたい[10]同年どうねん11がつ井上いのうえ関係かんけいがあった松竹しょうちく合名ごうめいしゃまねかれて大阪おおさかうつり、大阪おおさか松竹しょうちく所属しょぞくの「新劇しんげきだん現代げんだいげき」(関西かんさい新派しんぱ)の女優じょゆうとなる[1][11]。1919ねん2がつ京都きょうと明治めいじみちふたつ』で諸口しょくちじゅうきゅう共演きょうえんしたほか同年どうねん5がつ神戸こうべ中央ちゅうおう劇場げきじょう太陽たいよう』でも諸口しょくち勝見かつみ庸太郎ようたろう相手あいてやく主演しゅえんし、関西かんさい新派しんぱ幹部かんぶ女優じょゆうとして活躍かつやくする[11][12]同年どうねん10がつ辻野つじの良一りょういち三好みよし栄子えいこらとともに「しんこえげき」を結成けっせいし、『ある伝説でんせついえ』をもの大阪おおさか道頓堀どうとんぼり弁天べんてん旗揚はたあ公演こうえんおこな[2]以後いご関西かんさい各地かくち巡演じゅんえんし、大衆たいしゅうてき人気にんき[2]よく1920ねん6がつには山田やまだ九州きゅうしゅうおとこ山田やまだ五十鈴いすずちち)・明石あかしうしお岡本おかもと五郎ごろうころもりゅうみどりらと「国華こっかげき」を結成けっせい弁天べんてん旗揚はたあ公演こうえんおこなった[2]おなごろ、「しん演劇えんげき協会きょうかい時代じだい仲間なかまで、当時とうじ松竹しょうちく所属しょぞくの「成美せいびだん」の看板かんばん俳優はいゆうであった高橋たかはし義信よしのぶ結婚けっこん[2]同年どうねん11がつ国際こくさいかつうつ系列けいれつの「国際こくさい新劇しんげきだん」にはい[2][13]

映画えいが女優じょゆう松竹しょうちく蒲田かまた[編集へんしゅう]

よく1921ねん当時とうじ松竹しょうちく直営ちょくえいとなっていた大阪おおさか千日前せんにちまえ楽天らくてんで『しんトスカ』に出演しゅつえんちゅう創立そうりつあいだもない松竹しょうちくキネマ蒲田かまた撮影さつえいしょ所長しょちょう田口たぐちさくらむらにスカウトされ、映画えいがかい[2][14]同年どうねん7がつ帰山かえりやま教正のりまさ監督かんとくあいむくろ』で、諸口しょくちじゅうきゅう共演きょうえんして銀幕ぎんまくデビューをかざる。つづ田中たなか欽之監督かんとくの『悪夢あくむ』で関根せきねいたるはつ諸口しょくちじゅうきゅう共演きょうえんし、3ほん野村のむらかおるてい監督かんとく栗島くりしますみ主演しゅえんの『ほうなみだ』で芸者げいしゃ春次はるじえんじてみとめられた[2]よく1922ねん賀古かこ残夢ざんむ監督かんとく金色きんいろ夜叉やしゃ』では、諸口しょくち貫一かんいち川田かわた芳子よしこのおみやたいし、驕慢きょうまんおんな高利貸こうりがし・赤樫あかがしまんえだ好演こうえんし、ヴァンプ女優じょゆうとして評価ひょうかされるようになる[2]同年どうねん吉屋よしや信子のぶこ原作げんさく賀古かこ監督かんとくうみきわみまで』では、鳴尾なるお少将しょうしょう令嬢れいじょう靖子やすこえんじ、川田かわた芳子よしこ栗島くりしますみ共演きょうえん[2]信子のぶこ川田かわた栗島くりしまの3にんは、やがて初期しょき蒲田かまた映画えいが代表だいひょうする女性じょせいスターの地位ちい獲得かくとくすることになるが、忍従にんじゅうがた芸者げいしゃやく得意とくいとする川田かわた純情じゅんじょう可憐かれんむすめやくやくとする栗島くりしまたいし、信子のぶこ妖艶ようえん肉体にくたいかしたヴァンプやくや、社会しゃかいげき文芸ぶんげい作品さくひんでの近代きんだいてき役柄やくがら個性こせい発揮はっきした[2]

蒲田かまた入社にゅうしゃ当初とうしょは、正統せいとうまい諸口しょくちじゅうきゅうおも相手あいてやくとしていたが、1922ねん後半こうはんごろからは、活劇かつげきスター・勝見かつみ庸太郎ようたろうとのコンビがえるようになる[2]島津しまつ保二やすじろう監督かんとく勇敢ゆうかんなる逓送ていそうおっと』を皮切かわきりに、牛原うしはらきょ監督かんとくあたらしきなまへ』、島津しまつ監督かんとくあいちぎり』、『黄金おうごん』とつづけに共演きょうえんし、岩田いわた祐吉ゆうきち栗島くりしますみ諸口しょくちじゅうきゅう川田かわた芳子よしこ匹敵ひってきするめいコンビとうたわれた[2]。1923ねんはいると、『大愚たいぐじん』でつづ島津しまつ監督かんとく勝見かつみみ、つづ島津しまつ監督かんとくめぐまれぬひと』では関根せきねいたるはつ共演きょうえん、カフェーの女給じょきゅう好演こうえんした[2]同年どうねん5がつ池田いけだよししん(のち義信よしのぶ監督かんとく大作たいさくはは』では、川田かわたみのはは栗島くりしま義理ぎりははたいし、当時とうじ名子なごやく高尾たかお光子みつこそだてのはは熱演ねつえんした。また、翻案ほんあんぶつひとにく』(島津しまつ保二やすじろう監督かんとく)、社会しゃかい悲劇ひげき剃刀かみそり』(どう)でも主演しゅえんしたほか演技えんぎ岩田いわた祐吉ゆうきちとも池田いけだよししん監督かんとくふたつのみち』でかおわせた[15]。このころには、たんなる男性だんせいスターのものとしての女優じょゆうではなく、いち性格せいかく女優じょゆうとしての地歩ちほ確立かくりつしていた[2]

1923ねん9がつ関東大震災かんとうだいしんさいのち京都きょうと下加茂したかも撮影さつえいしょ一時いちじ移籍いせき[3]池田いけだ義信よしのぶ監督かんとくのろわれの』で諸口しょくち岩田いわた牛原うしはら監督かんとくよるわらいひ』で勝見かつみ相手あいてやくをつとめたのちよく1924ねん1がつ蒲田かまた復帰ふっき野村のむらかおるちん監督かんとく嬰児えいじごろ』では、主演しゅえんおんな土工どこう・あさをえんじ、小山こやま巡査じゅんさやく岩田いわた祐吉ゆうきちとの鬼気ききせま演技えんぎ合戦かっせん評判ひょうばんんだ[3]岩田いわたとは牛原うしはら監督かんとくの『無花果いちじく』、小沢おざわ得二とくじ監督かんとくイプセンの『人形にんぎょういえ』の翻案ほんあん黄金おうごん地獄じごく』でも共演きょうえん[3]。また、「しん日本にっぽんげき時代じだい同僚どうりょうでもあったせい邦宏くにひろとは島津しまつ監督かんとくの『ちゃつくいえ』などでコンビをみ、勝見かつみ庸太郎ようたろうとは大久保おおくぼただしもと監督かんとくの『カルメン』の翻案ほんあん灼熱しゃくねつこい』で、勝見かつみのドン・ホセにたいしカルメンを情熱じょうねつてきえんじた[3]後者こうしゃ同年どうねん松竹しょうちく最高さいこう興行こうぎょう成績せいせき記録きろくし、『嬰児えいじごろし』とともに蒲田かまたでの代表だいひょうさくひとつとなった[3]

映画えいが女優じょゆう帝国ていこくキネマ・東邦とうほう映画えいが)〜ふたた舞台ぶたい[編集へんしゅう]

1924ねん11月、小唄こうた映画えいがかごとり』が記録きろくてきだいヒットを記録きろくした帝国ていこくキネマが、各社かくしゃ看板かんばんスターのきを画策かくさくすると、信子のぶこもこれにおうじ、せい邦宏くにひろ小沢おざわ得二とくじらとともにみかどキネに移籍いせき[3]正邦まさくに小沢おざわとのトリオで『情火じょうか渦巻うずまく』(1924ねん)、『勇敢ゆうかんなる弱者じゃくしゃ』(どう)、『おんなおっとなみだ』(1925ねん)をつづけにるが、みかどキネは1925ねん3がつ分裂ぶんれつ[3]。その正邦まさくに小沢おざわらとともに、東邦とうほう映画えいが参加さんか[3]。『信天翁あほうどり』(山上やまかみ紀夫のりお監督かんとく)に主演しゅえんしたほか、『四谷よつや怪談かいだん』(どう)でもおいわ・おうめやく熱演ねつえんするが、もなく東邦とうほう映画えいが解散かいさん[3]

これを舞台ぶたいもどり、1925ねん7がつ曾我廼家そがのやきゅうろう一座いちざ邦楽ほうがくでの公演こうえん奥様おくさま』などに出演しゅつえんしたが、きゅうろうとの事実無根じじつむこんのスキャンダルをほうじられ、おおきなダメージをける[3][16]。それからあいだもなく、おっと高橋たかはし義信よしのぶと「近代きんだい」を結成けっせい[3]。8月に東京とうきょうまるうち邦楽ほうがくで『そのいもうと』、『灼熱しゃくねつこい』、『高橋たかはしでん』をもの旗揚はたあげする[3]。11月からは蒲田かまた時代じだいたりやくでもあった『嬰児えいじごろし』、『灼熱しゃくねつこい』をって関西かんさい地方ちほう巡演じゅんえんする[3]。このあいだ中央ちゅうおう映画えいがしゃまねかれ、同社どうしゃだいいちかい作品さくひん高橋たかはしでん前後ぜんごへん高橋たかはし義信よしのぶ志井しいひろし相手あいてタイトルロールえんじる[3]

劇団げきだん近代きんだい各社かくしゃとの提携ていけい[編集へんしゅう]

そのは「近代きんだい」の舞台ぶたい専念せんねんするが、1927ねん1がつばんつま立花たちばな・ユニヴァーサル連合れんごう映画えいが提携ていけいし、山上やまかみ紀夫のりお監督かんとく切支丹きりしたんちょう』に主演しゅえん[3]いで「近代きんだいプロ」をおこし、やはりばんつまプロと提携ていけい、『大陸たいりくながれるゞおんな』に主演しゅえん[3]よく1928ねんには、大量たいりょうのスターが脱退だったいしたマキノプロダクションまねかれ、提携ていけい作品さくひん制作せいさくする[3]。マキノでは、マキノ省三しょうぞう指揮しきの『鬼神きじん前後ぜんこうへんマキノ雅裕まさひろ監督かんとくの『どくはな』で、いずれも毒婦どくふやくえんじて評判ひょうばんとなり、「毒婦どくふ役者やくしゃ」の代名詞だいめいしてき存在そんざいとなった[3]よく1929ねんには、小沢おざわ得二とくじ設立せつりつした小沢おざわ映画えいが聯盟れんめい客演きゃくえんし、『ラシャメンのちち』、『はんにんはんじゅう』に夫婦ふうふ出演しゅつえん[3]よく1930ねんには、発声はっせい映画えいがしゃ大森おおもり撮影さつえいしょ制作せいさくのミナトーキー『仮名かめい小梅こうめ』(かずら丈夫じょうぶ監督かんとく)に主演しゅえんした[3]

その舞台ぶたい専念せんねんし、大阪おおさか楽天らくてん中央ちゅうおうかん京都きょうと神戸こうべ松竹しょうちく劇場げきじょうなど関西かんさい拠点きょてん活動かつどうつづける一方いっぽう地方ちほう巡業じゅんぎょう積極せっきょくてきおこない、とおくは朝鮮ちょうせん満州まんしゅうにまであしばした[3]。このあいだつきみや乙女おとめ月浦つきうらかすみ(大倉おおくら千代子ちよこ)、めい養女ようじょつき澄江すみえなど、のち映画えいがかいでも活躍かつやくする女優じょゆうそだてた[3]。また、わか志村しむらたかしも「近代きんだい」に一時いちじ在籍ざいせきしていた[17]。1933ねんの6がつから7がつまで、浅草あさくさ公園こうえん劇場げきじょうで、『おちょう夫人ふじん』、『高橋たかはしでん』などをものに、近代きんだい創立そうりつ8ねん記念きねん興業こうぎょう[3]。こののち高橋たかはし義信よしのぶ離婚りこんした[3]

五月さつき信子のぶこ一座いちざ引退いんたい[編集へんしゅう]

劇団げきだん享楽きょうらく列車れっしゃ」への参加さんかて、古巣ふるす関西かんさい新派しんぱくわわり、1933ねん11月からよく1934ねん1がつまで大阪おおさかかく出演しゅつえんするが、1934ねん5がつ座員ざいん30余人よにんの「五月さつき信子のぶこ一座いちざ」を結成けっせい[3]浅草あさくさ公園こうえん劇場げきじょう旗揚はたあ公演こうえんおこなったのち各地かくち巡業じゅんぎょうする[3]映画えいがよく1935ねん太秦うずまさ発声はっせい浪曲ろうきょくぶつ紺屋こんや高尾たかお』(志波しば西にしはて監督かんとく)で上田うえだ吉二郎きちじろう同年どうねんの『なみだのはは』(永富ながとみうつ次郎じろう監督かんとく)で、薄田うすだ研二けんじ相手あいてやく主演しゅえん[18]。1938ねんには、東宝とうほう長谷川はせがわ一夫かずお主演しゅえんまぶたはは』で、みずぐまのおはまの大役たいやくえんじ、老練ろうれん演技えんぎりょく母親ははおや役者やくしゃとしての貫禄かんろくしめした[19]

だい世界せかい大戦たいせんなかは、「五月さつき信子のぶこ一座いちざ」をひきいて、当時とうじ日本にっぽんぐん占領せんりょうであった東南とうなんアジアへも巡業じゅんぎょうする[19]。1944ねん7がつ劇団げきだん名称めいしょう以前いぜんの「近代きんだい」にもどし、同年どうねん11がつよく1945ねん2がつには大阪おおさか浪花なにわ出演しゅつえんしたが、戦争せんそう激化げきかにより一座いちざ解散かいさんし、芸能げいのうかい引退いんたいした[19]

戦後せんご ~ カトリック入信にゅうしん晩年ばんねん[編集へんしゅう]

おっととともに(1948ねん

戦後せんごあいだもなく、もと大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん学芸がくげい記者きしゃ御手洗みたらい彦麓と再婚さいこん[19]カトリック信者しんじゃであったおっと影響えいきょうで、自身じしんもカトリックに入信にゅうしんし、「マリア」の洗礼せんれいめいける[19]

1952ねん1がつ当時とうじおっと専務せんむ理事りじをつとめていた財団ざいだん法人ほうじん「カトリック・セツルメント」の主催しゅさいにより、上智大学じょうちだいがく講堂こうどうにておっととの共演きょうえんで『あにいもうと』を上演じょうえん同年どうねん8がつには、どう財団ざいだん設立せつりつした映画えいが会社かいしゃ「リリア・アルバしゃ製作せいさくによる海外かいがい輸出ゆしゅつ作品さくひん乱世らんせいしろひゃくごう細川ほそかわガラシャ)』で、「マリア・ミタライ」の名義めいぎ主演しゅえん細川ほそかわガラシャえんじた[19]細川ほそかわ忠興ただおきやくは、おな井上いのうえ正夫まさお門下もんか山村やまむらさとしがつとめた[19]。また、「しん日本にっぽんげき時代じだい同僚どうりょうだったやなぎ永二郎えいじろうや、むすめ婿むこたる小林こばやししげる四郎しろうなども出演しゅつえんした[19][20]。この作品さくひんは、おっと団長だんちょうをつとめるカトリック平和へいわ使節しせつだんローマ訪問ほうもんしたさい同地どうち上映じょうえいされ、3ねんの1955ねんには、『戦国せんごく異聞いぶん』の題名だいめい日本にっぽんでも公開こうかいされた[19]

1959ねん7がつ21にち脳溢血のういっけつのため、東京とうきょう都内とない自宅じたく死去しきょ。65さい満年齢まんねんれい)であった[19]

出演しゅつえん[編集へんしゅう]

舞台ぶたい[編集へんしゅう]

劇団げきだん近代きんだい以前いぜん[編集へんしゅう]

  • 枝川えだがわながれ』 : しん日本にっぽんげき、1915ねん12月
  • とらこう』 : しん日本にっぽんげき、1916ねん3がつ - あきえんひさ満子みつこ
  • 裾野すその』 : 日本にっぽん、1916ねん12月 - かり名子なご
  • ちゃつくいえ』 : しん演劇えんげき協会きょうかい、1917ねん - おはな
  • 椿つばきひめ』 : しん演劇えんげき協会きょうかい、1917ねん - 椿つばきひめ
  • みちふたつ』 : しん劇団げきだん現代げんだいげき、1919ねん
  • 太陽たいよう』 : しん劇団げきだん現代げんだいげき、1919ねん - 道子みちこ
  • 『ある伝説でんせついえ』 : しんこえげき、1919ねん
  • しんトスカ』 : 国際こくさい新劇しんげきだん、1921ねん - トスカ
  • 奥様おくさま』 : 曾我廼家そがのやきゅうろう一座いちざ、1925ねん

劇団げきだん近代きんだい五月さつき信子のぶこ一座いちざ[編集へんしゅう]

カトリック・セツルメント[編集へんしゅう]

  • あにいもうと』 : 1952ねん1がつ

映画えいが[編集へんしゅう]

松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ[編集へんしゅう]

  • あいむくろ』 : 監督かんとく帰山かえりやま教正のりまさサイレント映画えいが、1921ねん7がつ7にち公開こうかい
  • 悪夢あくむ』 : 監督かんとく田村たむら宇一郎ういちろう、サイレント映画えいが、1921ねん7がつ15にち公開こうかい
  • ほうなみだ』 : 監督かんとく野村のむらかおるてい、サイレント映画えいが、1921ねん8がつ10日とおか公開こうかい - 春次はるじ
  • のろいの金鉱きんこう』 : 監督かんとく牛原うしはらきょ、サイレント映画えいが、1921ねん9がつ1にち公開こうかい
  • さぬなか』 : 監督かんとく池田いけだよししん、サイレント映画えいが、1921ねん10がつ21にち公開こうかい
  • 琵琶びわ』 : 監督かんとく賀古かこ残夢ざんむ、サイレント映画えいが、1921ねん11月1にち公開こうかい
  • 二人ふたりつま』 : 監督かんとく賀古かこ残夢ざんむ、サイレント映画えいが、1921ねん11月30にち公開こうかい - おとみ
  • あさひ光照みつてるしおあさ)』 : 監督かんとく池田いけだよししん、サイレント映画えいが、1921ねん12月31にち公開こうかい
  • 金色きんいろ夜叉やしゃ』 : 監督かんとく賀古かこ残夢ざんむ、サイレント映画えいが、1922ねん2がつ1にち公開こうかい - 赤樫あかがし満枝みつえ
  • うみきわみまで』 : 監督かんとく賀古かこ残夢ざんむ、サイレント映画えいが、1922ねん2がつ11にち公開こうかい - 靖子やすこ
  • 山谷さんやほり』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1922ねん2がつ15にち公開こうかい
  • わたどり』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1922ねん2がつ21にち公開こうかい
  • はな』 : 監督かんとく賀古かこ残夢ざんむ、サイレント映画えいが、1922ねん3がつ1にち公開こうかい
  • 如婦』 : 監督かんとく池田いけだよししん、サイレント映画えいが、1922ねん3がつ9にち公開こうかい現存げんそんNFCマツダ映画えいがしゃ所蔵しょぞう[21][22]
  • 勇敢ゆうかんなる逓送ていそうおっと』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1922ねん3がつ21にち公開こうかい
  • ちち姉妹しまい』 : 監督かんとく池田いけだよししん、サイレント映画えいが1922ねん4がつ1にち公開こうかい
  • 白蓮びゃくれん紅蓮ぐれん』 : 監督かんとく賀古かこ残夢ざんむ、サイレント映画えいが1922ねん4がつ11にち公開こうかい - 艶子つやこ
  • 南山なんざんしみ軍旗ぐんき』 : 監督かんとく池田いけだよししん、サイレント映画えいが、1922ねん4がつ16にち公開こうかい
  • 青春せいしゅんつみ』 : 監督かんとく大久保おおくぼただしもと、サイレント映画えいが、1922ねん5がつ21にち公開こうかい
  • 悪魔あくまむち』 : 監督かんとく賀古かこ残夢ざんむ、サイレント映画えいが、1922ねん6がつ20日はつか公開こうかい
  • つきたま』 : 監督かんとく賀古かこ残夢ざんむ、サイレント映画えいが、1922ねん7がつ11にち公開こうかい
  • あたらしきなまへ』 : 監督かんとく牛原うしはらきょ彦、サイレント映画えいが、1922ねん8がつ31にち公開こうかい
  • あいくさび』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1922ねん9がつ20日はつか公開こうかい
  • 黄金おうごん』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1922ねん12がつ10日とおか公開こうかい
  • 琵琶びわうた』 : 監督かんとく大久保おおくぼただしもと、サイレント映画えいが、1922ねん12月31にち公開こうかい
  • 傑作けっさくしゅういき琵琶びわ」(明治めいじ文壇ぶんだん海岸かいがん悲劇ひげき)』 : 監督かんとく野村のむらかおるてい、サイレント映画えいが、1922ねん12月31にち公開こうかい
  • くる獅子じし』 : 監督かんとく賀古かこ残夢ざんむ、サイレント映画えいが、1922ねん月日つきひしょう公開こうかい
  • ふたつのみち』 : 監督かんとく池田いけだよししん、サイレント映画えいが、1923ねん2がつ11にち公開こうかい
  • めぐまれぬひと』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1923ねん1がつ21にち公開こうかい
  • 現代げんだい女性じょせい』 : 監督かんとく池田いけだよししん、サイレント映画えいが、1923ねん4がつ1にち公開こうかい
  • 大愚たいぐじん』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1923ねん4がつ16にち公開こうかい
  • 無情むじょう だいへん 市長しちょうまき』 : 監督かんとく池田いけだよししん、サイレント映画えいが、1923ねん4がつ30にち公開こうかい
  • はは』 : 監督かんとく野村のむらかおるてい、サイレント映画えいが、1923ねん5がつ16にち公開こうかい
  • ひとにく』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1923ねん6がつ15にち公開こうかい - 北村きたむら浜子はまこ
  • だい東京とうきょううしまん だいよんへん 喜劇きげきへん』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1923ねん6がつ15にち公開こうかい
  • 剃刀かみそり』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1923ねん7がつ27にち公開こうかい - おはつ
  • 寛一かんいち満枝みつえ』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1923ねん8がつ18にち公開こうかい - 満枝みつえ
  • 嬰児えいじごろ』 : 監督かんとく野村のむらかおるてい、サイレント映画えいが1924ねん2がつ29にち公開こうかい - あさ
  • 無花果いちじく』 : 監督かんとく牛原うしはらきょ彦、サイレント映画えいが、1924ねん3がつ23にち公開こうかい
  • 日曜日にちようび』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1924ねん5がつ11にち公開こうかい
  • ちゃつくいえ』 : 監督かんとく島津しまつ保次郎やすじろう、サイレント映画えいが、1924ねん6がつ11にち公開こうかい - おはな
  • 灼熱しゃくねつこい』 : 監督かんとく大久保おおくぼただしもと、サイレント映画えいが、1924ねん9がつ11にち公開こうかい - カルメン
  • 黄金おうごん地獄じごく』 : 監督かんとく小沢おざわ得二とくじ、サイレント映画えいが、1924ねん10がつ30にち公開こうかい
  • 永久えいきゅうあい まえへん』 : 監督かんとく池田いけだ義信よしのぶ、1935ねん10がつ15にち公開こうかい - 藤村ふじむら延子のぶこ
  • 永久えいきゅうあい へん』 : 監督かんとく池田いけだ義信よしのぶ、1935ねん10がつ15にち公開こうかい - 藤村ふじむら延子のぶこ

松竹しょうちく下加茂したかも撮影さつえいしょ[編集へんしゅう]

  • のろいはれの』 : 監督かんとく池田いけだよししん、サイレント映画えいが、1923ねん9がつ30にち公開こうかい
  • おそろしきよる』 : 監督かんとく大久保おおくぼただしもと、サイレント映画えいが、1923ねん11月19にち公開こうかい
  • よるわらいひ』 : 監督かんとく牛原うしはらきょ彦、サイレント映画えいが、1923ねん11月29にち公開こうかい
  • 幽芳ゆうほうしゅう ちち姉妹しまい』 : 監督かんとく野村のむらかおるてい、サイレント映画えいが、1923ねん12月31にち公開こうかい

帝国ていこくキネマ[編集へんしゅう]

  • 情熱じょうねつ渦巻うずまく』 : 監督かんとく小沢おざわ得二とくじ、サイレント映画えいが、1924ねん12月11にち公開こうかい
  • おんなおっとなみだ』 : 監督かんとく小沢おざわ得二とくじ、サイレント映画えいが、1925ねん2がつ11にち公開こうかい
  • 黒百合くろゆりはな』 : 監督かんとく山上やまかみ紀夫のりお、サイレント映画えいが、1925ねん5がつ29にち公開こうかい小坂こさか撮影さつえいしょ製作せいさく

東邦とうほう映画えいが[編集へんしゅう]

  • 四谷よつや怪談かいだん』 : 監督かんとく山上やまかみ紀夫のりお、サイレント映画えいが、1925ねん6がつ4にち公開こうかい - おいわ・おうめ
  • 信天翁あほうどり』 : 監督かんとく山上やまかみ紀夫のりお、サイレント映画えいが、1925ねん6がつ25にち公開こうかい

中央ちゅうおう映画えいが[編集へんしゅう]

ばんつま立花たちばな・ユニヴァーサル聯合れんごう映画えいが[編集へんしゅう]

  • 切支丹きりしたんちょう』 : 監督かんとく山上やまかみ紀夫のりお、サイレント映画えいが、1927ねん1がつ28にち公開こうかい

近代きんだいプロダクション[編集へんしゅう]

  • 大陸たいりくながれるゝおんな』 : 監督かんとく山上やまかみ紀夫のりお、サイレント映画えいが、1927ねん2がつ1にち公開こうかい

マキノプロダクション[編集へんしゅう]

小沢おざわ映画えいが聯盟れんめい[編集へんしゅう]

  • 『ラシャメンのちち』 : 監督かんとく小沢おざわ得二とくじ、サイレント映画えいが、1929ねん1がつ25にち公開こうかい - かよ
  • はんにんはんじゅう』 : 監督かんとく小沢おざわ得二とくじ、サイレント映画えいが、1929ねん10がつ13にち公開こうかい - かり名子なご

発声はっせい映画えいがしゃ[編集へんしゅう]

  • 仮名かめい小梅こうめ』 : 監督かんとくつた丈夫じょうぶ、1930ねん1がつ7にち公開こうかい - 小梅こうめ

太秦うずまさ発声はっせい[編集へんしゅう]

東宝とうほう[編集へんしゅう]

リリア・アルバ映画えいが[編集へんしゅう]

乱世らんせいしろひゃくごう細川ほそかわガラシャ)』 : 監督かんとく佐藤さとうたけし大岩おおいわ大介だいすけ、1952ねん10がつ30にち完成かんせい、1955ねん2がつ25にち戦国せんごく聞』のだい日本にっぽん公開こうかい - 細川ほそかわガラシャ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 「1895ねん埼玉さいたまけん北埼玉きたさいたまぐんしのぶまち行田ぎょうだげん行田ぎょうだまれ」とする文献ぶんけんもある[4]
  2. ^ 当時とうじ座員ざいんであったやなぎ永二郎えいじろうによると、解散かいさん原因げんいんは、川村かわむら信子のぶこ劇団げきだん顧問こもん佐藤さとう紅緑こうろく女優じょゆう三笠みかさ万里子まりこ佐藤さとう愛子あいこはは)のくみ恋愛れんあい問題もんだいであったという[7]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j 日本にっぽん映画えいが人名じんめい事典じてん女優じょゆうへん上巻じょうかん』、778ぺーじ
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 日本にっぽん映画えいが人名じんめい事典じてん女優じょゆうへん上巻じょうかん』、779ぺーじ
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 日本にっぽん映画えいが人名じんめい事典じてん女優じょゆうへん上巻じょうかん』、780ぺーじ
  4. ^ 埼玉大さいたまだい百科ひゃっか事典じてん き-しゃ 2』、386ぺーじ
  5. ^ a b c 木戸きど哀楽あいらく』、93ぺーじ
  6. ^ a b 五月さつき信子のぶこ』、21 - 22ぺーじ
  7. ^ 木戸きど哀楽あいらく』、100ぺーじ
  8. ^ 山崎やまざき充彦みつひこ, 「"ファシスト"ムッソリーニは日本にっぽん如何いかえがかれたか : 表現ひょうげん文化ぶんかにおける政治せいじてき英雄えいゆうぞう」『国際こくさいセンター研究けんきゅう年報ねんぽう』 2006ねん 15ごう p.201-226, 龍谷大りゅうこくだいがく国際こくさいセンター, NCID AN10538881
  9. ^ a b 五月さつき信子のぶこ』、80 - 81ぺーじ
  10. ^ 五月さつき信子のぶこ』、98 - 99ぺーじ
  11. ^ a b 五月さつき信子のぶこ』、100 - 102ぺーじ
  12. ^ 日本にっぽん映画えいが人名じんめい事典じてん女優じょゆうへん上巻じょうかん』、778 - 779ぺーじ
  13. ^ 五月さつき信子のぶこ』、105ぺーじ
  14. ^ 五月さつき信子のぶこ』、110 - 111ぺーじ
  15. ^ 日本にっぽん映画えいが人名じんめい事典じてん女優じょゆうへん上巻じょうかん』、779 - 780ぺーじ
  16. ^ 五月さつき信子のぶこ』、163 - 169ぺーじ
  17. ^ 日本にっぽん映画えいが人名じんめい事典じてん男優だんゆうへん上巻じょうかん』、798ぺーじ
  18. ^ 日本にっぽん映画えいが人名じんめい事典じてん女優じょゆうへん上巻じょうかん』、780 - 781ぺーじ
  19. ^ a b c d e f g h i j 日本にっぽん映画えいが人名じんめい事典じてん女優じょゆうへん上巻じょうかん』、781ぺーじ
  20. ^ 日本にっぽん映画えいがデータベース『戦国せんごく異聞いぶん
  21. ^ 五月さつき信子のぶこ東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんフィルムセンター
  22. ^ a b おも所蔵しょぞうリスト「劇映画げきえいが邦画ほうがへんマツダ映画えいがしゃ
  23. ^ K-PLUS

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]