(Translated by https://www.hiragana.jp/)
武田正憲 - Wikipedia コンテンツにスキップ

武田たけだ正憲まさのり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
たけだ まさのり
武田たけだ 正憲まさのり
本名ほんみょう どう
生年月日せいねんがっぴ (1890-04-25) 1890ねん4がつ25にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1962-03-03) 1962ねん3月3にち(71さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう東京とうきょうしば現在げんざい東京とうきょうみなとしば
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう文京ぶんきょう大塚おおつか
職業しょくぎょう 俳優はいゆう
ジャンル 新派しんぱ新劇しんげき歌劇かげき劇映画げきえいが時代じだいげき現代げんだいげきサイレント映画えいがトーキー)、テレビ映画えいが
活動かつどう期間きかん 1911ねん - 1960ねん
配偶はいぐうしゃ 波野なみの雪子ゆきこ
著名ちょめい家族かぞく 武田たけだたけまもる実父じっぷ
おも作品さくひん
明治めいじいちだいおんな
テンプレートを表示ひょうじ

武田たけだ 正憲まさのり(たけだ まさのり、1890ねん4がつ25にち - 1962ねん3月3にち[1])は、日本にっぽん俳優はいゆうである[2]本名ほんみょうおな[2]

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

1890ねん明治めいじ23ねん4がつ25にち東京とうきょう東京とうきょうしば現在げんざい東京とうきょうみなとしば)に、和歌山わかやまけん出身しゅっしん海軍かいぐん中尉ちゅういだった武田たけだたけまもる息子むすことしてまれる[2]

1979ねん昭和しょうわ54ねん10月23にち発行はっこうされた『日本にっぽん映画えいが俳優はいゆう全集ぜんしゅう 男優だんゆうへん』(キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ)によれば、暁星ぎょうせい中学校ちゅうがっこう早稲田大学わせだだいがくせん門部かとべ英文えいぶん入学にゅうがくし、1909ねん明治めいじ42ねん)5がつ坪内つぼうち逍遥しょうようらの文芸ぶんげい協会きょうかい演劇えんげき研究所けんきゅうじょに1期生きせいとしてはい[2]。『讀賣新聞よみうりしんぶん』によれば、1914ねん大正たいしょう3ねん)に早稲田大学わせだだいがく英文えいぶん卒業そつぎょうし、文芸ぶんげい協会きょうかい演劇えんげき研究所けんきゅうじょ加入かにゅうしたというむねしるされている[1]同期生どうきせいには佐々木ささきつもる松井まつい須磨子すまこ三田みた千栄子ちえこもり英治郎えいじろうらがいた。同年どうねんなつには、上山うえやま草人そうじん山川やまかわうら夫妻ふさいいえ同居どうきょしている[3]1911ねん明治めいじ44ねん)4がつ研究所けんきゅうじょ卒業そつぎょうし、同年どうねん5がつの『ハムレット』を卒業そつぎょう公演こうえんとして文芸ぶんげい協会きょうかい加入かにゅう[2]1913ねん大正たいしょう2ねん)5がつ2代目だいめ市川いちかわ猿之助えんのすけらとわれごえかい創立そうりつし、イプセンさくの『かも』をゆう楽座らくざ上演じょうえんする[2]1914ねん大正たいしょう3ねん)2がつには文芸ぶんげい協会きょうかい脱退だったいした島村しまむら抱月ほうげつ松井まつい須磨子すまこ芸術座げいじゅつざくわわるが、松井まつい対立たいりつして同時どうじ加入かにゅうした勝見かつみ庸太郎ようたろうとも退団たいだんし、同年どうねん3がつ勝見かつみ13代目だいめ守田もりた勘弥かんやらとくろねこ創立そうりつし、シュニッツラー原作げんさく恋愛れんあい三昧ざんまい』を上演じょうえんした[2]

1915ねん大正たいしょう4ねん)9がつ川村かわむら花菱かりょうとも神田かんだしん日本にっぽんげき旗揚はたあげし、佐藤さとう紅緑こうろく顧問こもんむかえる[2]しん日本にっぽんげき新派しんぱ新劇しんげきなかあいだをねらって結成けっせいされ、あたらしい大衆たいしゅう演劇えんげき目指めざそうとしたが失敗しっぱいし、のちみずか一座いちざ組織そしきしてドサまわりにる。どう一座いちざには、三笠みかさ萬里子まりこ佐藤さとう紅緑こうろく夫人ふじん)、椿東ちんとう杉江すぎえ久松ひさまつ喜世子きよこ)、村田むらたみのる青山あおやま杉作すぎさく小沢おざわ得二とくじやなぎ永二郎えいじろうらもくわわったが、1916ねん大正たいしょう5ねん)6がつ解散かいさん[4]1917ねん大正たいしょう6ねん)9がつ浅草あさくさ常盤ひたち新派しんぱにまじって出演しゅつえんしたのをきっかけにしん日本にっぽんげき再建さいけんし、よく1918ねん大正たいしょう7ねん)にはしん日本にっぽんげき主宰しゅさいしながらはら信子のぶこまねいてはら信子のぶこ歌劇かげきだん結成けっせいさせ、観音かんのん劇場げきじょう拠点きょてん活動かつどうする[4]1919ねん大正たいしょう8ねん)、松竹しょうちく新派しんぱまねかれて新劇しんげきはなれ、同年どうねん2がつ明治めいじ井上いのうえ正夫まさおらと一座いちざ組織そしきしたのをはじめ、1921ねん大正たいしょう10ねん)には花柳はなやぎ章太郎しょうたろうやなぎ永二郎えいじろう志井しいひろしらと新劇しんげき結成けっせいする。しかし、1925ねん大正たいしょう14ねん)にどう劇団げきだん解散かいさんして以降いこう武田たけだ東京とうきょう大阪おおさかだい劇場げきじょうから姿すがたした[4]。このあいだ吉沢よしざわ商店しょうてん日活にっかつ向島むこうじま撮影さつえいしょなどの映画えいが作品さくひんにも出演しゅつえんしていたというが、詳細しょうさい不明ふめいである[4]

戦後せんご山村やまむらさとし監督かんとく映画えいが蟹工船かにこうせん』や、阿部あべゆたか監督かんとく映画えいが日本にっぽんやぶれず』などの映画えいが出演しゅつえんし、また1955ねん昭和しょうわ30ねん)に伊藤いとう大輔だいすけ監督かんとく映画えいが明治めいじいちだいおんな』で退役たいえきろう将軍しょうぐんやく起用きようされてからは、伊藤いとう監督かんとくわれて『下郎げろうくび』『おんな海賊かいぞく』などに出演しゅつえんした[4]以後いご東映とうえい時代じだいげきなどにとき出演しゅつえんしていたが、1962ねん昭和しょうわ37ねん3月3にち午後ごご115ふん老衰ろうすいのため、東京とうきょう文京ぶんきょう大塚おおつか日通にっつう病院びょういん死去しきょした[1]まん71さいぼつ著書ちょしょに『諸国しょこくおんなばなし』がある[5]

出演しゅつえん作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

テレビドラマ[編集へんしゅう]

  • ミュージカルショウ / それでもほしうまれる(1957ねんNHK) - リエのちちあずかなな
  • ウロコ だい66かいひめ重態じゅうたい」(1957ねんKR
  • いまえず かつ海舟かいしゅう(1958ねんNTV) - 男谷おだにつばめひとし
  • 東芝とうしば日曜にちよう劇場げきじょう だい101かい写楽しゃらくだいくび」(1958ねん、KR)
  • 夫婦ふうふひゃくけい だい67かい拍子木ひょうしぎ夫婦ふうふ」(1959ねん、NTV)
  • ここにひとあり だい113かい付箋ふせんのかげに」(1959ねん、NHK)
  • サンヨーテレビ劇場げきじょう / わらい(1959ねん、KR)
  • とうレサンデーステージ だい7かい最後さいご大本営だいほんえい発表はっぴょう」(1960ねん、NTV)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 讀賣新聞よみうりしんぶん昭和しょうわ37ねん3がつ4にちづけ
  2. ^ a b c d e f g h キネマ旬報きねまじゅんぽう1979、p.335
  3. ^ 細江ほそえひかり上山うえやま草人そうじん年譜ねんぷ稿こういち): 谷崎たにざき潤一郎じゅんいちろうとの交友こうゆう中心ちゅうしん」『甲南女子大学こうなんじょしだいがく研究けんきゅう紀要きよう. 文学ぶんがく文化ぶんかへんだい38ごう甲南女子大学こうなんじょしだいがく、2002ねん3がつ、45-57ぺーじCRID 1050282813387323136ISSN 1347121X 
  4. ^ a b c d e キネマ旬報きねまじゅんぽう1979、p.336
  5. ^ 武田たけだ正憲まさのり新撰しんせん 芸能人げいのうじんぶつ事典じてん 明治めいじ平成へいせいコトバンク、2015ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]