細川ほそかわ忠興ただおき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
細川ほそかわ 忠興ただおき
細川ほそかわ忠興ただおきぞうえいあお文庫ぶんこくら
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん えいろく6ねん11月13にち1563ねん11月28にち
死没しぼつ 正保まさやす2ねん12月2にち1646ねん1がつ18にち
改名かいめい 細川ほそかわくませんだい長岡ながおかぐませんだい幼名ようみょう)→ 忠興ただおき細川ほそかわ忠興ただおきさんときむねりつごう
別名べつめい 与一よいちろう通称つうしょう)、丹後たんご宰相さいしょう丹後たんご侍従じじゅう丹後たんご少将しょうしょう
戒名かいみょう 松向しょうこうてら殿どのぜん参議さんぎさんときそう立大りつだい居士こじ
墓所はかしょ 熊本くまもとけん熊本くまもと中央ちゅうおう黒髪くろかみたいかち寺跡てらあと
京都きょうと京都きょうときた紫野むらさきの大徳寺だいとくじまちこうきりいん
官位かんい したがええつちゅうもりしたがえよん侍従じじゅうひだり近衛このえ少将しょうしょうしたがえさん参議さんぎおくせいさん
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 織田おだ信長のぶなが信忠のぶただ豊臣とよとみ秀吉ひでよし秀頼ひでより徳川とくがわ家康いえやす秀忠ひでただ
はん 豊前ぶぜん中津なかつはんおも豊前ぶぜん小倉こくらはんあるじ
氏族しぞく 長岡ながおか肥後ひご細川ほそかわ
父母ちちはは ちち細川ほそかわ藤孝ふじたか幽斎ゆうさいはは沼田ぬまた麝香じゃこう
兄弟きょうだい 忠興ただおききょうもと也、幸隆ゆきたかせん孝之たかゆき
加賀かがぐり
つま 正室せいしつ明智あけち玉子たまこ
側室そくしつぐんそうたもつむすめ清田きよた鎮乗むすめ真下ましももといえむすめ
ながちゅうたかしきょうあきたもて忠利ただとしばんたてこうきょうこう松井まついよせ
テンプレートを表示ひょうじ
細川ほそかわ九曜くよう

細川ほそかわ 忠興ただおき(ほそかわ ただおき) / 長岡ながおか 忠興ただおき(ながおか ただおき)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい前期ぜんきにかけての武将ぶしょう大名だいみょう丹後たんごこく宮津みやづしろあるじて、豊前ぶぜんこく小倉こくらはん初代しょだい藩主はんしゅ肥後ひご細川ほそかわ初代しょだい

佐々木ささき支流しりゅう大原おおはらながれ細川ほそかわ出身しゅっしんである。正室せいしつ明智あけち光秀みつひでむすめ玉子たまご通称つうしょう細川ほそかわガラシャ)。室町むろまち幕府ばくふ15だい将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき追放ついほう長岡ながおかしょうし、その羽柴はしばしょうしたが、大坂おおさかじんのち細川ほそかわふくした。

足利あしかが義昭よしあき織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやすと、とき有力ゆうりょくしゃつかえて、現在げんざいまでつづ肥後ひご細川ほそかわ基礎きそきずいた。またちち幽斎ゆうさいおなじく、教養きょうようじん茶人ちゃじん細川ほそかわさんとき(ほそかわ さんさい)としても有名ゆうめいで、利休りきゅうななあきら一人ひとりかぞえられる。茶道さどう流派りゅうはさんときりゅう開祖かいそである。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

幼少ようしょう[編集へんしゅう]

えいろく6ねん1563ねん)11月13にち室町むろまち幕府ばくふ13だい将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてるつかえる細川ほそかわ藤孝ふじたか幽斎ゆうさい)の長男ちょうなんとして京都きょうとにて誕生たんじょうはは沼田ぬまたひかりけんおんな麝香じゃこう(のちのひかり寿ことぶきいん[1]

えいろくへんのち藤孝ふじたか明智あけち光秀みつひでらは尾張おわりこく美濃みのこく大名だいみょう織田おだ信長のぶながたよって義輝よしてるおとうと義昭よしあきを15だい将軍しょうぐん擁立ようりつしたが、やがて信長のぶなが義昭よしあき対立たいりつすると信長のぶなが臣従しんじゅうした。忠興ただおき信長のぶなが嫡男ちゃくなん信忠のぶただつかえた。

織田おだ時代ときよ[編集へんしゅう]

天正てんしょう5ねん1577ねん)3がつ、15さい紀州きしゅう征伐せいばつくわわり初陣ういじんかざる。10月に信長のぶながから離反りはんした松永まつなが久秀ひさひで武将ぶしょうもり秀光ひでみつもる大和やまとこく片岡かたおかしろちちやその僚友りょうゆう明智あけち光秀みつひでともとし(信貴山しぎさんじょうたたか)、10月2にち信長のぶなが直筆じきひつ感状かんじょうけた[2]

天正てんしょう6ねん1578ねん)に元服げんぷく[2]信忠のぶただよりへんいみなけ、忠興ただおき名乗なのった[2]。また、同年どうねん8がつには信長のぶなが仲介ちゅうかいけて、光秀みつひでさんじょ玉子たまご(ガラシャ)と勝竜寺しょうりゅうじじょう結婚けっこんする。主君しゅくん信長のぶなが構想こうそうもとづく命令めいれいによる婚姻こんいんであったことに特徴とくちょうがある[3]

なお、信長のぶなが天正てんしょう6ねん8がつ11にち明智あけち光秀みつひでしたはんぶつがあり(『細川ほそかわ』)、光秀みつひで軍功ぐんこう激賛げきさん幽斎ゆうさい文武ぶんぶ兼備けんびとなえ、忠興ただこう武門ぶもん棟梁とうりょうとしてのうつわめた内容ないようで、それらの実績じっせき信長のぶなが評価ひょうかしたうえですすめた政略せいりゃく結婚けっこんであったことがられるが、ただ懸念けねんされるのは、このはんぶつ文体ぶんたい拙劣せつれつであり、戦国せんごく書式しょしきいちじるしくことなっている[4]。このことから偽作ぎさく可能かのうせいたか古文書こもんじょとされている[5]

天正てんしょう7ねん1579ねん)には信長のぶながいのちけて、ちち光秀みつひでとも丹後たんごこく守護しゅごだった建部たけべ山城やましろあるじ一色いっしき義道よしみちほろぼした。

天正てんしょう8ねん1580ねん)、ちち藤孝ふじたかこうにより丹後たんご南半みなみはんこく領主りょうしゅとなる(北半きたはんこく一色いっしょくまんしん領国りょうごく)。

天正てんしょう9ねん1581ねん)の京都きょうと御馬おんまそろいにも若年じゃくねんながら一色いっしょくまんしんらとともに参加さんかする。このさい信長のぶながた「しょくべににしき小袖こそで」は、忠興ただこうきょうさがもとめて信長のぶなが献上けんじょうしたものだという(『信長のぶながこう』)。

本能寺ほんのうじへん[編集へんしゅう]

天正てんしょう10ねん1582ねん)6がつ岳父がくふ明智あけち光秀みつひで本能寺ほんのうじへん藤孝ふじたか忠興ただこう父子ふし味方みかたさそったが[注釈ちゅうしゃく 1]細川ほそかわ父子ふし信長のぶながふくこと表明ひょうめい剃髪ていはつすることで、これを拒否きょひしたうえ玉子たまご忠興ただこう正室せいしつで、光秀みつひでむすめ)を丹後たんごこくあじ土野つちの現在げんざいきょう丹後たんご弥栄やさかまち須川すがわ付近ふきん)に幽閉ゆうへいした。幽閉ゆうへいされていた屋敷やしきあとに「おんな城跡じょうせき御殿屋敷ごてんやしき)」が現在げんざいっている。

これにたいして、玉子たまご丹波たんばこく船井ふないぐんさん滞在たいざいしており、丹後たんごこくあじ土野つちの幽閉ゆうへいせつ史実しじつとしてはほとんど成立せいりつする余地よちがないとする反論はんろんがある[7]

細川ほそかわ父子ふし協力きょうりょくことわられたことは、光秀みつひで滅亡めつぼう決定的けっていてきにしたといわれ、光秀みつひでは13にち山崎やまざきたたかはいしている。このように本能寺ほんのうじへんにおいて、すみやかに剃髪ていはつして弔意ちょういをあらわし、光秀みつひでにはくみせずの姿勢しせい明確めいかくにしたため、忠興ただこうおなじく光秀みつひで婿むこだった津田つだしんきよしとはことなり、光秀みつひでとの内通ないつううたがわれ討伐とうばつされることもなかった[8]。また忠興ただおきはこのとき、ちち隠居いんきょしたので領国りょうごくである丹後たんご南半みなみはんこくゆずられ、丹後たんご宮津みやづしろおもとなった。

その次期じき天下でんかじん地位ちいねら羽柴はしば秀吉ひでよしよしみつうじ、同年どうねん9がつには織田おだ政権せいけんでは実父じっぷ藤孝ふじたか同僚どうりょうであった北丹ほくたん一色いっしょくまんしんころしたのち一色いっしょく旧臣きゅうしんほろぼし、秀吉ひでよしから丹後たんご全域ぜんいき領有りょうゆうゆるされた(一色いっしょくまんしん山崎やまざきたたかいで秀吉ひでよしくみせず、光秀みつひでがわいていたため、秀吉ひでよしにも敵対てきたいされていた)。そして、北丹ほくたんもと一色いっしょくかたしょしろ軍勢ぐんぜいひきいた重臣じゅうしん派遣はけんし、丹後たんごいちこく平定へいていげた。

豊臣とよとみ政権せいけん[編集へんしゅう]

天正てんしょう12ねん1584ねん)の小牧こまき長久手ながくてたたか参加さんかし、天正てんしょう13ねん1585ねん)にはしたがえよん侍従じじゅう叙任じょにんし、秀吉ひでよしから羽柴はしばせいあたえられななしょうかぞえられた[9]

その天正てんしょう15ねん1587ねん)の九州きゅうしゅう征伐せいばつ天正てんしょう18ねん1590ねん)の小田原おだわら征伐せいばつ従軍じゅうぐんした。天正てんしょう16ねん1588ねん)、豊臣とよとみせい下賜かしされる[10]ぶんろく元年がんねん1592ねん)からのぶんろくやくではきゅうばんたいぞくして上陸じょうりくし、けい尚道なおみちなどの制圧せいあつ担当たんとうした。10月には長谷川はせがわ秀一ひでかずらとだいいちすすむしゅうじょうおさむ防戦ぼうせん参加さんかし、前哨ぜんしょうせんけいなおみぎへい使やなぎたかしひとしったが、おさむしろせんすすむしゅうじょうとすことは出来できなかった。ぶんろく2ねん1593ねん)6がつだい二次晋州城攻防戦にも参加さんかしてすすむしゅうじょう陥落かんらくさせた。

ぶんろく4ねん1595ねん)の秀次しゅうじ事件じけんでは、秀吉ひでよしおい豊臣とよとみ秀次しゅうじ借金しゃっきんがあったために秀吉ひでよし嫌疑けんぎをかけられたが松井まつい康之やすゆき奔走ほんそうし、金子かねこ用立ようだて秀吉ひでよし返納へんのうした。このとき金子かねこようてにちからしたのが徳川とくがわ家康いえやすである[11](『細川ほそかわ』『松井まつい』)。

慶長けいちょう3ねん1598ねん)8がつ秀吉ひでよし死去しきょすると、石田いしだ三成みつなりらと対立たいりつし、徳川とくがわ家康いえやすよしみつうじた。慶長けいちょう4ねん1599ねん)には加藤かとう清正きよまさ福島ふくしま正則まさのり加藤かとう嘉明よしあき浅野あさの幸長よしなが池田いけだ輝政てるまさ黒田くろだ長政ながまさらととも三成みなり襲撃しゅうげきくわわった。

同年どうねん豊臣とよとみ大老たいろう筆頭ひっとうであった家康いえやす推挙すいきょで、丹後たんご12まんせきくわ豊後ぶんごこく杵築きつき6まんせき加増かぞうされ、城代じょうだいとして重臣じゅうしん松井まつい康之やすゆき有吉ありよしりつぎょういた。これにより、都合つごう18まんせき大名だいみょうとなった。

関ヶ原せきがはらたたか[編集へんしゅう]

細川ほそかわさんとき画像がぞう

加賀かが征伐せいばつでは早期そうき徳川とくがわかた姿勢しせいしめした。徳川とくがわ家康いえやすはこのいちけん前田まえだけい勢力せいりょく吸収きゅうしゅうし、徳川とくがわとうはより強力きょうりょくとなった[12]忠興ただおき前田まえだけい勢力せいりょく徳川とくがわとう衝突しょうとつ回避かいひさせただけでなく、徳川とくがわとう前田まえだけい勢力せいりょくしたがわせていく過程かていにおいても貢献こうけんしている[12]

慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかではひがしぐんくみした。このとき、豊臣とよとみ恩顧おんこ有力ゆうりょく大名だいみょうであるうえちち正室せいしつ在京ざいきょうしていたため、その去就きょしゅう注目ちゅうもくされたが、ひがしぐんはいることをいちはや表明ひょうめいしたため、豊臣とよとみ恩顧おんこ大名だいみょう影響えいきょうあたえたとわれている。

大坂おおさか城内きうち玉造たまつくり細川ほそかわ屋敷やしきにいたつま玉子たまご(ガラシャ)は西にしぐん石田いしだ三成みつなり襲撃しゅうげきけ、人質ひとじちとなることをこばみ、自殺じさつキリスト教きりすときょうきんじられているため、家老がろう小笠原おがさわらしげるきよししょうとき)がガラシャを介錯かいしゃくし、ガラシャの遺体いたいのこらぬように屋敷やしき爆薬ばくやく仕掛しかけて自刃じじんした。護衛ごえいであったはずの稲富いなとみゆうただし包囲ほうい部隊ぶたい弟子でし多数たすうためげるように懇願こんがんされ、ガラシャをりにして逃亡とうぼうした。忠興ただおきのち追討ついとうをかけるが家康いえやす家来けらいとしてかかえたため断念だんねんした。また、この事件じけんさいして忠興ただおき嫡男ちゃくなんちゅうたかし廃嫡はいちゃくしている。

また、おとうと幸隆ゆきたかちち幽斎ゆうさい忠興ただこう留守るすをよくまもり、丹後たんご田辺たなべしろ籠城ろうじょうしたが(田辺たなべじょうたたか)、こう陽成ようぜい天皇てんのうからの勅命ちょくめいにより関ヶ原せきがはらたたかいのまえ開城かいじょうし、てきしょう前田まえだ茂勝しげかつ丹波たんば亀山かめやまじょうはいった。豊後ぶんごこくでは杵築きつききね築城ちくじょうきゅう領主りょうしゅもと豊後ぶんご国主こくしゅ)である大友おおとも吉統よしむね攻撃こうげきされたが、松井まつい康之やすゆき有吉ありよしりつぎょう防戦ぼうせんくし、やがて救援きゅうえんけつけた黒田くろだ如水じょすいにより石垣原いしがきはらたたか吉統よしむねやぶられた。一方いっぽう松井まつい康之やすゆき居城きょじょうである久美浜くみはましろ留守るすまもっていた忠興ただおきのかつての養父ようふ細川ほそかわあきらけい西にしぐんさそいをけて久美浜くみはまじょう占拠せんきょしたが、合戦かっせん康之やすゆきからめられて自害じがいしたという[13]

9月15にち関ヶ原せきがはら本戦ほんせん忠興ただこうは、黒田くろだ長政ながまさらととも石田いしだ三成みつなり本隊ほんたい戦闘せんとうとなり、首級しゅきゅうを136げたとされる。

うたてふう[編集へんしゅう]

徳川とくがわ家康いえやす重臣じゅうしんからの進言しんげんにより但馬たじまいちこく加増かぞう実行じっこうしなかったものの、慶長けいちょう5ねん1600ねん)の論功行賞ろんこうこうしょう丹後たんご12まんせきから豊前ぶぜんこく中津なかつ33まん9,000せき国替くにがえのうえ加増かぞうした。豊後ぶんご杵築きつき6まんせきは、そのまま細川ほそかわりょうとされたので39まん9,000せき大名だいみょうとなった。豊前ぶぜんこくではぜん領主りょうしゅである黒田くろだ長政ながまさによって年貢ねんぐられており、返還へんかんをめぐって筑前ちくぜん商人しょうにん抑留よくりゅうするなど関係かんけいがこじれている。なお、長政ながまさうつった筑前ちくぜんこく年貢ねんぐ小早川こばやかわ秀秋ひであきによってられている。慶長けいちょう7ねん1602ねん)より、小城おぎであった小倉こくらじょう九州きゅうしゅうようとすべくだい規模きぼ改修かいしゅうかる。

その中津なかつじょうから完成かんせいした小倉こくらじょうはんちょううつし、小倉こくらはん初代しょだい藩主はんしゅとなる。

また、幸隆ゆきたかりゅう王城おうじょう城主じょうしゅとしておなじくおとうと孝之たかゆき香春岳かわらだけじょう城主じょうしゅとしてさらにまた重臣じゅうしん松井まつい康之やすゆききね築城ちくじょう城主じょうしゅとしてはいし、領内りょうないまもりをかためた。

徳川とくがわ時代ときよ[編集へんしゅう]

慶長けいちょう16ねん1611ねん)3がつ24にち伏見ふしみじょう徳川とくがわ家康いえやすのもとへ祗候しこうするために上洛じょうらくをしたときやまいたおれた。このとき忠興ただこうしゃく持病じびょうがあることをっていた家康いえやすは、本多ほんだ正純まさずみとおして漢方薬かんぽうやく万病まんびょうえん忠興ただこうつかわしており[14]快復かいふくした忠興ただおきがそののうちに家康いえやすのもとに祗候しこうし、れいべている[15]

慶長けいちょう20ねん1615ねん)の大坂おおさかなつじんでも参戦さんせんする。戦後せんご松平まつだいら苗字みょうじ下賜かし辞退じたいする[16]元和がんわ6ねん1620ねん)、病気びょうきのため、三男さんなん忠利ただとし家督かとくゆずって隠居いんきょする[17]。このころ出家しゅっけしてさんときむねりつ名乗なのった。

寛永かんえい9ねん1632ねん)、忠利ただとし豊前ぶぜん小倉おぐら40まんせきから肥後ひごこく熊本くまもと54まんせき領主りょうしゅとして加増かぞううつりふうされると忠利ただとしに44まん5,000せきのこし、みずからははちだいじょうはい[18]、9まん5,000せき隠居いんきょりょうとしきたまる隠居いんきょしょ本丸ほんまるには忠興ただこうよんなんたてこうれる)とした。

このとき忠興ただこうしたがって八代やしろぐん高田郷こうだごううつった上野うえの喜蔵よしぞう長男ちょうなん忠兵衛ちゅうべえによって高田たかだしょう創始そうしされた。

忠興ただおきたてこう自分じぶん隠居いんきょりょう9まん5,000せきがせてたてはんさせることをつよのぞんでいたようであるが[19]正保まさやす2ねん1645ねんうるう5がつたてこう早世そうせいし、忠興ただおき同年どうねん12がつ2にち死去しきょしたため[20]かなわなかった。臨終りんじゅうさいには「みなども忠義ちゅうぎ 戦場せんじょうこいしきぞ」とべており、最後さいごまで武将ぶしょうとしてのしんわすれていなかった。享年きょうねん83。

はちだいじょうにはまごたてこう宮松みやまつくだりこう)がのこされたが、従兄じゅうけい熊本くまもと藩主はんしゅひかりひさし忠利ただとし忠興ただこう嫡孫ちゃくそん)はこれに宇土うとぐん益城ましきぐんないから3まんせきあたえて宇土うどささえはんとし、筆頭ひっとう家老がろう松井まついきょうちょう長岡ながおかたすく渡守わたしもり松井まつい康之やすゆき次男じなん)をはちだいじょう3まんせき城主じょうしゅ正式せいしきには城代じょうだい)とした。きょうちょうあと忠興ただこうろくなんよせ(よりゆき)がその養子ようしとなっていでいる。

人物じんぶつぞう[編集へんしゅう]

性格せいかく[編集へんしゅう]

家臣かしんしるしたとかんがえられる『茶道さどうよん伝書でんしょ』のなかで、「忠興ただおき天下てんか一気いっきみじかひとで、反対はんたいながいのは蒲生がもうきょうである」とかれている[21]。また光秀みつひでから丹波たんば平定へいていさいに「降伏ごうぶくしてくるもの無闇むやみころしてはならぬ」とさとされている。

足利あしかが将軍家しょうぐんけ織田おだ豊臣とよとみ徳川とくがわおおくの主君しゅくんつかえながら細川ほそかわびさせた政治せいじ手腕しゅわん反面はんめん身内みうちものにも容赦ようしゃくわえない苛烈かれつ側面そくめんもあり、関ヶ原せきがはら合戦かっせんちゅうちち幽斎ゆうさい居城きょじょうてきわたした(詳細しょうさい田辺たなべじょうたたかこう参照さんしょう)ことからいち不和ふわになっている。また、おとうときょうもととも不仲ふなかであった。

丹後たんご攻略こうりゃくせんでは、おな足利あしかが一門いちもんである一色いっしきだまちにしたすえ敗残はいざんへい皆殺みなごろしにするなど残忍ざんにん手法しゅほうった。一色いっしきよしじょうとついでいた忠興ただおきいもうと也はそのことをうらみ、戦後せんごあにりかかったという逸話いつわ存在そんざいする。

以上いじょうのように短気たんきであったとされる忠興ただおきであるが、晩年ばんねんかくれてまるくなったという。徳川とくがわ秀忠ひでただから天下てんか政務せいむについてわれると「かくなるものまるぶたをしたようになされませ」とこたえた。さらに秀忠ひでただが「どんな人物じんぶつ登用とうようするのがよいか」とたずねると「明石あかしうらの蠣殻のようなひとがよいでしょう(明石あかししおながれははげしいが、そのしおにもまれた蠣はあじがいいから、ひとひとにもまれたものこそよき人柄ひとがらになる)」とこたえたという。

情報じょうほうせんにもけていたが、その背景はいけいには後述こうじゅつのように当代とうだい一流いちりゅう文化ぶんかじん一人ひとりとして、すうおおくの文化ぶんかじん大名だいみょう公卿くぎょうたちとの交流こうりゅうさかんだったという事情じじょうがあり、土井どい利勝としかつ遠戚えんせき関係かんけいにあった春日局かすがのつぼねなどをとおしておおくの情報じょうほうていたとされる。また隠居いんきょも、忠利ただとし交互こうご国許くにもと江戸えどしており、忠利ただとしとは書状しょじょう頻繁ひんぱん連絡れんらくっていた。ちなみに、忠興ただこう生涯しょうがいいた手紙てがみ枚数まいすうは、『だい日本にっぽん近世きんせい史料しりょう 細川ほそかわ史料しりょう』の成果せいかによると慶長けいちょう書状しょじょうすくないが、その急増きゅうぞうして合計ごうけい1820つうで、そのほとんどが忠利ただとしてのものである[22]

文化ぶんかじんとして[編集へんしゅう]

ちちおな教養きょうようじんでもあり、和歌わか能楽のうがく絵画かいがにもつうじた文化ぶんかじんであった。『細川ほそかわさんときちゃしょ』という著書ちょしょのこしている。千利休せんのりきゅう師事しじし、利休りきゅうもっとられていた弟子でしで、利休りきゅうななあきら一人ひとりかぞえられる。利休りきゅう切腹せっぷくめいじられたとき、利休りきゅうにゆかりのあるしょ大名だいみょうなか見舞みまいにったものは、忠興ただこう古田ふるた織部おりべだけであったとされる。北野きたのだいちゃおりには松向しょうこうあんという茶席ちゃせきもうけ、それに由来ゆらいして後年こうねん松向しょうこう殿でん」とばれることもあった。

また、忠興ただおきは、キリストきょう改宗かいしゅうはしなかったが、南蛮なんばん文化ぶんか興味きょうみふかかったらしく、発布はっぷした書状しょじょうなかに「tadauoqui」としるされたしるし使つかうことがあった。「(あるいは)」を「uo」、「」を「qui」としるすのは、当時とうじにち葡辞しょにて頻繁ひんぱん確認かくにんできるイエズスかい表記ひょうきほうである[23]

医学いがくへの造詣ぞうけい[編集へんしゅう]

徳川とくがわ家康いえやす製剤せいざいさせた漢方薬かんぽうやくむらさきゆき関心かんしんち、江戸えどめていた忠利ただとしたのんでくすり能書のうがききのこれの製法せいほう入手にゅうしゅし、たまわたるというおかか医師いし指導しどうのもと、みずか製剤せいざいしている[14][24]

みゃく結滞けったい心配しんぱいする息子むすこ細川ほそかわ忠利ただとし症状しょうじょうしゃくたん原因げんいん判断はんだんし、いのち別状べつじょうはないから心配しんぱいはないと書状しょじょうおくっている。つまり自己じこ体験たいけんをもとに、そうであれば生命せいめいさわりのないことなので、心配しんぱいのないことといたのである[25]

徳川とくがわ秀忠ひでただ胸部きょうぶ表皮ひょうひかたまりができ、身体しんたいのほうぼうに移動いどうするというやまいにかかり、万病まんびょうえん回復かいふくしたときに、忠興ただおきくすりやいと効果こうかがなく万病まんびょうえん回復かいふくしたのはすんしろ寄生虫きせいちゅう)が原因げんいんだんじている。この忠興ただこう予知よち秀忠ひでただ治療ちりょう専念せんねんしていた幕府ばくふ医師いししゅ同様どうよう結論けつろんす5ヶ月かげつ以上いじょうまえのことであった[26]

食事しょくじのありかたにもしんしており、偏食へんしょくきらい、その弊害へいがい重視じゅうししている。息子むすこ忠利ただとしにバランスのとれた食事しょくじをとるようにいさめた書状しょじょうおくっている。実際じっさい忠利ただとしやまいにかかったときには、どうぶつをたくさんべないようにねんして忠告ちゅうこくし、鶏卵けいらんたんによくないこと、疱瘡ほうそうあわびだいどくであることを指摘してきしている[27]

武具ぶぐへの造詣ぞうけい[編集へんしゅう]

越中えっちゅう具足ぐそくいちれい

幾多いくた合戦かっせん従軍じゅうぐんした忠興ただおき自身じしん使用しようする武具ぶぐにもふか関心かんしんしめし、独自どくじ考案こうあんらしたが、とくかたなこしらえ外装がいそう)では「肥後ひごこしらえ」とばれる様式ようしきを、甲冑かっちゅうにおいては「越中えっちゅう具足ぐそく」(「えつ中流ちゅうりゅう具足ぐそく」ないし「さんときりゅう具足ぐそく」とも)としょうされる形式けいしき確立かくりつしたことでられる。

肥後ひごこしらえ忠興ただこうおさめていた片山かたやま伯耆ほうきりゅう居合いあいじゅつかたなほうてきするように工夫くふうされており、刀身とうしんみじかめに仕立したてて、片手かたてでのちを志向しこうしているてんや、さや金具かなぐ装飾そうしょくにも茶道さどうわび・さび感覚かんかく反映はんえいされているてんおおきな特徴とくちょうである。また、忠興ただこうかかえられてつばなどかたな装具そうぐ製作せいさくたったはやし又七またしち西垣にしがきかんよんろう平田ひらた彦三ひこぞう志水しみず甚五といった金工きんこう家系かけいは「肥後ひご金工きんこう」として幕末ばくまつまで熊本くまもとはんないつづいた。忠興ただこう自身じしん所用しょようした肥後ひごこしらえれいとしては、「信長のぶながこしらえ」や「歌仙かせんこしらえ[28]」などがあいがたなあいだ著名ちょめいである[29]

越中えっちゅう具足ぐそくもまた、忠興ただこう実戦じっせんでの経験けいけんまえて、家臣かしん西村にしむら与左衛門よざえもん春田はるたまた左衛門さえもん協力きょうりょくして考案こうあん製作せいさくした、機能きのうせいんだ簡素かんそ構造こうぞう当世とうせい具足ぐそくのスタイルである。とく忠興ただおき関ヶ原せきがはらたたかいで使用しようしたもの(くろいとまいどう具足ぐそく[30])は勝利しょうりおさめたさいちゃくりょうということから「吉例きちれい甲冑かっちゅう」として細川ほそかわ家中かちゅうたっとばれ、以後いご越中えっちゅう具足ぐそく歴代れきだい熊本くまもと藩主はんしゅ藩士はんし甲冑かっちゅう踏襲とうしゅうされた[31]

夫婦ふうふなか家族かぞくたいして[編集へんしゅう]

正室せいしつ玉子たまごへの愛情あいじょうふかく、そのちち明智あけち光秀みつひで本能寺ほんのうじへんこしたときも離縁りえんせずに、幽閉ゆうへいしてるいおよぶのをけている。『フロイス日本にっぽん』によると島津しまつめから帰還きかんすると忠興ただこう以前いぜんよりも残忍ざんにん悪辣あくらつ異教徒いきょうとになったとされ、キリシタンの乳母うばのごく些細ささいあやまちにたいして、はなみみをそぎ、したとされる[32]。このような状況じょうきょう玉子たまご離婚りこんかんがはじめる[32]朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいちゅう忠興ただおき玉子たまごなんつうもの手紙てがみいているが、その内容ないようは「秀吉ひでよし誘惑ゆうわくらないように」というものだったという。

次男じなんきょうあき大坂おおさかじん豊臣とよとみかた協力きょうりょくしたため、戦後せんご忠興ただこう自害じがいさせた。家康いえやす伏見ふしみ潜伏せんぷくしているきょうあきゆるそうとしたが、忠興ただおきみずからの意思いし切腹せっぷくめいじたとされる[33]

後継こうけいしゃ三男さんなん忠利ただとしたいして「家中かちゅうものどもは将棋しょうぎこまおもえ。将棋しょうぎこまにはそれぞれのはたらきがある。桂馬けいまあたまをつかれると、ることものがれることもできないこまだが、いちまいへだすじたがえびのはたらきをする。それは飛車ひしゃかくおよばぬものだ。ひともこのように、ひとつの役目やくめでは不調法ぶちょうほうでも、のことで役立やくだつことがある。なにもかも、ただ一人ひとりでできるものひゃくにんいてもおらぬものだ。主君しゅくんたるしゃは、このことを心得こころえておくべきである」と訓戒くんかいしている(『名将めいしょう言行げんこうろく』)。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

玉子たまご(ガラシャ)とのあいだには3なん2じょまれているが、あといだ忠利ただとし三男さんなんである。忠利ただとし関ヶ原せきがはらたたかいに前後ぜんごして、江戸えど人質ひとじちており、そのさい徳川とくがわ秀忠ひでただやその家臣かしんたちと親交しんこうふかめていたことも、嫡子ちゃくしとしてえらばれるさい有利ゆうりはたらいた。しばらくは忠利ただとし子孫しそん嫡流ちゃくりゅうとしてつづいたが、わかくして死去しきょした熊本くまもとはん7だい藩主はんしゅ細川ほそかわおさむねんには男子だんしがおらず、養子ようしりして嫡流ちゃくりゅう熊本くまもと藩主はんしゅ)をいで熊本くまもとはん8だい藩主はんしゅとなった細川ほそかわひとし忠利ただとし異母弟いぼてい忠興ただこうよんなんたてこう系統けいとうであるささえはん宇土うとはんからの養子ようしである。したがってひとし茲の子孫しそんとなるそれ以後いご熊本くまもと藩主はんしゅやその子孫しそんである細川ほそかわまもるは、ガラシャのをひく忠利ただとし男系だんけい直系ちょっけい子孫しそんではない。なおガラシャとのあいだまれた稲葉いなばいちつう正室せいしつとなり、その子孫しそん仁孝天皇にんこうてんのうつながる。

忠興ただこうあと忠利ただとしまましいだのは、長男ちょうなんちゅうたかし廃嫡はいちゃくされたからである。ちゅうたかし正室せいしつ千世ちよ前田まえだ利家としいえむすめであったが、関ヶ原せきがはらたたかいのさいにガラシャが大坂おおさか屋敷やしき自害じがいしたさいせんせい脱出だっしゅつしてびていた。忠興ただおきはこれをとがめ、せんせい離縁りえんして前田まえだえんるようちゅうたかしめいじた。しかしちゅうたかしせんせいかばい、離縁りえん承知しょうちしなかったため、忠興ただおきちゅうたかし追放ついほう廃嫡はいちゃくとした。そのためのちに、ただしたかしせんせい長男ちょうなんれ、祖父そふである幽斎ゆうさいたよって京都きょうと隠居いんきょした。

次男じなんきょうあきは、一時いちじ叔父おじきょうもと養子ようしされていた背景はいけいもあって、やはり嫡子ちゃくしとされなかった。これに不満ふまんいたきょうあき慶長けいちょう10ねん1605ねん)、忠利ただとしわって江戸えどへの人質ひとじちされる途中とちゅう細川ほそかわから出奔しゅっぽんした。その元和がんわ元年がんねん(1615ねん)の大坂おおさかなつじん豊臣とよとみかたくみしたため、戦後せんごちちいのちけて自害じがい余儀よぎなくされている。

おも家臣かしん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 光秀みつひで藤孝ふじたか忠興ただこう父子ふしたいしては「領地りょうち摂津せっつあたえるが、若狭わかさのぞむなら若狭わかさあたえ、ほかにもしいものがあればかなら約束やくそく履行りこうする。100にちうち近国きんごく平定へいていして地盤じばん確立かくりつしたら、じゅうろう光秀みつひで嫡男ちゃくなんひかりけい)や与一よいちろう忠興ただおき)にすべてをゆずって隠居いんきょする」などと6がつ9にちづけされた書状しょじょう誓約せいやくするといったように[6]破格はかく条件じょうけん提示ていじし、味方みかたになることをうた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 米原まいばら 2000, 諏訪すわ勝則かつのり幽斎ゆうさい忠興ただこう関係かんけい年譜ねんぷ」 , p.226.
  2. ^ a b c 米原まいばら 2000, 野澤のざわ隆一りゅういち細川ほそかわ藤孝ふじたか忠興ただこう信長のぶながと」 , p.79.
  3. ^ 田端たばた, p. 88.
  4. ^ 米原まいばら 2000, 宮本みやもと義己よしみ細川ほそかわ幽斎ゆうさい忠興ただこう本能寺ほんのうじへん」 , p.87.
  5. ^ 米原まいばら 2000, 宮本みやもと義己よしみ細川ほそかわ幽斎ゆうさい忠興ただこう本能寺ほんのうじへん」 , p.88.
  6. ^ 高柳たかやなぎひかり寿ことぶき明智あけち光秀みつひで』(新装しんそうばん吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、1986ねん、243-244ぺーじ 
  7. ^ 森島もりしま康雄やすお細川ほそかわガラシャのあじ土野つちの幽閉ゆうへいせつうたがう」『丹後たんご郷土きょうど資料しりょうかん調査ちょうさだより』9ごう、2020ねん
  8. ^ 奥村おくむら, p. 96.
  9. ^ 村川むらかわ, p. 27.
  10. ^ 村川むらかわ, p. 36.
  11. ^ 奥村おくむら, p. 109.
  12. ^ a b 水野みずの 2019.
  13. ^ 福原ふくはらとおる角田つのだ因幡いなばまもる入道にゅうどうそう細川ほそかわ陸奥むつもり入道にゅうどうそうけん事蹟じせきについて」『熊本くまもと史学しがく』74・75ごう、1998ねん /所収しょしゅう:木下きのしたあきら へん足利あしかが義輝よしてるえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・室町むろまち幕府ばくふ研究けんきゅう だいよんかん〉、2018ねん、130-132ぺーじISBN 978-4-86403-303-9 
  14. ^ a b 宮本みやもと 1995.
  15. ^ 宮本みやもと 2017.
  16. ^ 村川むらかわ, p. 103.
  17. ^ 永尾ながお, p. 171.
  18. ^ 永尾ながお, p. 174.
  19. ^ 永尾ながお, p. 177.
  20. ^ 永尾ながお, p. 178.
  21. ^ 矢部やべ, p. 34.
  22. ^ 矢部やべ, p. 102.
  23. ^ 大島おおしま明秀あきひで細川ほそかわマ字まじしるし文書ぶんしょしゅ熊本くまもと歴史れきし資料しりょう」『ぶんいろどりだい15かん熊本県立大学くまもとけんりつだいがく文学部ぶんがくぶ、2019ねん3がつ、32-36ぺーじ 
  24. ^ 笠谷かさだに, 宮本みやもと義己よしみ徳川とくがわ家康いえやす本草学ほんぞうがく」.
  25. ^ 宮本みやもと 2002, p. 138-140.
  26. ^ 宮本みやもと 2002, p. 141.
  27. ^ 宮本みやもと 2002, p. 142.
  28. ^ えいあお文庫ぶんこ所蔵しょぞうひん 簡易かんいデータベース 歌仙かせんこしらえこしこくくろうるしけんいずるさめがたなこしらえ、2014ねん7がつ26にち閲覧えつらん
  29. ^ しょうくぼ健一けんいち図鑑ずかん がたなそうのすべて』ひかりげい出版しゅっぱん、1971、55-56ぺーじ 
  30. ^ えいあお文庫ぶんこ所蔵しょぞうひん 簡易かんいデータベース くろいとまいどう具足ぐそく、2014ねん7がつ26にち閲覧えつらん
  31. ^ 山岸やまぎし素夫もとお日本にっぽん甲冑かっちゅう論集ろんしゅう』つくばねしゃ、1991ねん、242ぺーじ 
  32. ^ a b 田端たばた, p. 152.
  33. ^ 戸田とだ敏夫としお戦国せんごく細川ほそかわ一族いちぞく新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1982ねん、296-297ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

書籍しょせき
  • 桑田くわたただしおや細川ほそかわ幽斎ゆうさい日本にっぽん書院しょいん、1948ねん 
  • 森田もりた恭二きょうじ戦国せんごく歴代れきだい細川ほそかわ研究けんきゅう和泉いずみ書院しょいん、1994ねん 
  • 宮本みやもと義己よしみ徳川とくがわ家康いえやすおおやけ医学いがく」『大日だいにちこう』66ごう、1995ねん 
  • 宮本みやもと義己よしみ歴史れきしをつくったひとびとの健康けんこうほう生涯しょうがい現役げんえきをつらぬく―』中央ちゅうおう労働ろうどう災害さいがい防止ぼうし協会きょうかい、2002ねん 
  • 宮本みやもと義己よしみられざる戦国せんごく武将ぶしょうの「健康けんこうじゅつ医療いりょう」」『歴史れきしじん』8かん9ごう、2017ねん 
  • べいはら正義まさよし へん細川ほそかわ幽斎ゆうさい忠興ただこうのすべて』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2000ねん 
    • 宮本みやもと義己よしみ細川ほそかわ幽斎ゆうさい忠興ただこう本能寺ほんのうじへん
    • 奥村おくむら徹也てつや細川ほそかわ幽斎ゆうさい忠興ただこう秀吉ひでよしと」。 
    • 永尾ながおただしつよし細川ほそかわ忠興ただおき北九州きたきゅうしゅう」。 
  • 田端たばた泰子やすこ細川ほそかわガラシャ』ミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2004ねんISBN 978-4823105289 
  • 村川むらかわ浩平こうへい日本にっぽん近世きんせい武家ぶけ政権せいけんろん日本にっぽん図書としょ刊行かんこうかい、2000ねんISBN 978-4823105289 
  • 山本やまもと博文ひろぶみ宮廷きゅうてい政治せいじ 江戸城えどじょうにおける細川ほそかわのこ戦略せんりゃく角川書店かどかわしょてん角川かどかわ新書しんしょ〉、2021ねんISBN 9784040823904 (1993ねん読売新聞社よみうりしんぶんしゃより刊行かんこうされ、1996ねん講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ、2004ねん講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ刊行かんこうされた『江戸城えどじょう宮廷きゅうてい政治せいじ』を改題かいだいうえ復刊ふっかんしたもの)
  • 矢部やべ誠一郎せいいちろう利休りきゅう随一ずいいち弟子でし さんとき細川ほそかわ忠興ただおきみやたい出版しゅっぱんしゃ、2015ねん 
  • りゅうたに和比古かずひこ へん徳川とくがわ家康いえやす―その政治せいじ文化ぶんか芸能げいのう―』みやたい出版しゅっぱんしゃ、2016ねん 
    • 宮本みやもと義己よしみ徳川とくがわ家康いえやす本草学ほんぞうがく」。 
  • 水野みずのとうと関ヶ原せきがはら前夜ぜんや長岡ながおか」『研究けんきゅう論集ろんしゅう 歴史れきし文化ぶんか』4ごう、2019ねん
  • 森島もりしま康雄やすお細川ほそかわガラシャのあじ土野つちの幽閉ゆうへいせつうたがう」『丹後たんご郷土きょうど資料しりょうかん調査ちょうさだより』9ごう、2020ねん
  • 福原ふくはら とおる細川ほそかわさんとき天下てんかいちみぢかきじん」の実像じつぞうみやたい出版しゅっぱんしゃ、2023ねん
史料しりょう
  • 名将めいしょう言行げんこうろく

忠興ただこう主題しゅだいとする作品さくひん[編集へんしゅう]

文学ぶんがく作品さくひん
楽曲がっきょく

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

テレビドラマ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]