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春香はるかいん

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春香はるかいん(しゅんこういん、天正てんしょう8ねん5月7にち1580ねん6月18にち) - 寛永かんえい18ねん11月20にち1641ねん12月22にち))は、安土あづち桃山ももやま時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょき女性じょせい前田まえだ利家としいえななじょ生母せいぼはまつ(芳春よしはるいん)。はおちよ。前田まえだ 千世ちよ(まえだ ちよ)。せんせいひめ千代ちよひめ長姫おさひめとも。愛称あいしょうはおちよ、かもじ:村井むらいつま、しゅんもじ:春香はるかいん

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

慶長けいちょう2ねん1597ねん)2がつ豊臣とよとみ秀吉ひでよし指示しじにより細川ほそかわ忠興ただおき嫡男ちゃくなんちゅうたかし結婚けっこんする[1]関ヶ原せきがはら合戦かっせんぜんせんせいあねごうひめ指図さしずによりもの大坂おおさか屋敷やしき脱出だっしゅつし、前田まえだ屋敷やしきげたが[2]、このことが細川ほそかわ印象いんしょうがいし、細川ほそかわわれ前田まえだかえることになった[3]おっとちゅうたかしせんせいかばったため細川ほそかわわれ、前田まえだたよろうとしたが、前田まえだもこの夫妻ふさい保護ほごしなかったため離婚りこんすることになった[4]。なお、史料しりょうでは慶長けいちょう10ねん(1605ねん)からどう14ねん(1609ねん)に京都きょうとちゅうたかしまれた子供こどもとくのち左大臣さだいじん西園寺さいおんじみのるはれしつ)、よしぶくのち久世くぜ初代しょだいつうしきしつ)、ばん早世そうせい)の4子女しじょははせんせいであるとしている[5]

慶長けいちょう10ねん1605ねん)、1まん7せんせきあまり知行ちぎょうするひと組頭くみがしら村井むらい長次ちょうじ再嫁さいかしたとされる。

再嫁さいか長次ちょうじとのあいだはなかったものの、養子ようし長光ちょうこう織田おだちょうたかしで、織田有楽斎おだうらくさいまごにあたる)をとり、慶長けいちょう18ねん(1613ねん)に長次ちょうじ死去しきょしたあとは、落飾らくしょくして村井むらい春香はるかいん名乗なのる。また、春香はるかいん村井むらい長次ちょうじ能登のとりょうぐまかぶと神社じんじゃ再建さいけんなどもしている[6]

1641ねん金沢かなざわ死去しきょ享年きょうねん62、墓地ぼち野田山のだやま

春香はるかいん芳春よしはるいん末子まっしでもあり、子供こどものうちでもっと可愛かわいがられたようで、春香はるかいんあて芳春よしはるいん自筆じひつじょう金沢かなざわえつ能文のうぶん前田まえだ土佐とさまもる資料しりょうかんなどにおお現存げんそんする。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 岩沢いわさわ 1988, p. 340.
  2. ^ 黒田くろだ慶一けいいち鉄砲てっぽう荷札にふだ木簡もっかん玉造たまつくり大名だいみょう屋敷やしき大阪おおさか女学院じょがくいん小出こいで吉政よしまさていあとか-」『大阪おおさか歴史れきし』48ごう、1996ねん 
  3. ^ 岩沢いわさわ 1988, p. 340-341.
  4. ^ 岩沢いわさわ 1988, p. 341.
  5. ^ 細川ほそかわただしたかし」(熊本大学くまもとだいがく(ざい)えいあお文庫ぶんこおよび細川ほそかわわた所蔵しょぞう
  6. ^ 岩沢いわさわ 1988, p. 343.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]