田辺たなべじょう (丹後たんごこく)

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田辺たなべしろ
京都きょうと
二層櫓
そう
別名べつめい 舞鶴まいづるじょう
城郭じょうかく構造こうぞう 輪郭りんかくしき平城ひらじろ
天守てんしゅ構造こうぞう 不明ふめい
築城ちくじょうぬし 細川ほそかわ藤孝ふじたか
築城ちくじょうねん 天正てんしょう10ねん1582ねん
おも改修かいしゅうしゃ   
おも城主じょうしゅ 細川ほそかわ京極きょうごく牧野まきの
はいじょうねん 明治めいじ7ねん1873ねん
遺構いこう 石垣いしがきほり庭園ていえん
指定してい文化財ぶんかざい 指定してい史跡しせき
再建さいけん造物ぞうぶつ もんへい模擬もぎ
位置いち 北緯ほくい3526ふん44.81びょう 東経とうけい13519ふん51.51びょう / 北緯ほくい35.4457806 東経とうけい135.3309750 / 35.4457806; 135.3309750
地図ちず
田辺城 (舞鶴城)の位置(京都府内)
田辺城 (舞鶴城)
田辺たなべしろ
舞鶴まいづるじょう
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田辺たなべしろ(たなべじょう)は、京都きょうと舞鶴まいづるにある日本にっぽんしろ

鎌倉かまくら幕府ばくふ室町むろまち幕府ばくふ八田はった守護しゅごしょ丹後たんご守護しゅごしょ)の後身こうしんともいわれ、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだいにかけて存在そんざいした。別名べつめい舞鶴まいづるじょう(ぶがくじょう)。舞鶴まいづる指定してい史跡しせき[1]

沿革えんかく[編集へんしゅう]

室町むろまち時代ときよ[編集へんしゅう]

室町むろまち幕府ばくふ丹後たんご守護しゅごしょ加佐かさぐん八田はったであり、丹後たんご守護しゅご一色いっしき八田はった守護しゅごかんにおいて政務せいむをとっていた(若狭わかさ武田たけだとのこうそうちゅうのぞく)。このかん平地ひらちにあるため、有事ゆうじさい背後はいご建部たけべさんにある建部たけべ山城やましろこもってたたかうこととされていた。

戦国せんごく時代じだい[編集へんしゅう]

1578ねん天正てんしょう6ねん織田おだ信長のぶながいのちによって守護しゅご大名だいみょう一色いっしき義道よしみちほろぼし、丹後たんご制圧せいあつした長岡ながおか藤孝ふじたか幽斎ゆうさい)は、はじめは宮津みやづしろ居城きょじょうとしたが、京都きょうとちか交通こうつう要所ようしょであったきゅう丹後たんご守護しゅごしょ加佐かさぐん八田はったに、地名ちめい田辺たなべあらためたうえ田辺たなべしろきずき、経営けいえい中心ちゅうしんとした。隠居いんきょは、忠興ただおき入城にゅうじょうさせた。

田辺たなべじょうおさむ防戦ぼうせん[編集へんしゅう]

1600ねん慶長けいちょう5ねん関ヶ原せきがはらたたか勃発ぼっぱつすると、当主とうしゅになっていた細川ほそかわ忠興ただおき石田いしだ三成みつなりひきいる西にしぐんさそいを退しりぞけ、徳川とくがわ家康いえやすひきいるひがしぐん加勢かせいした。隠居いんきょしていた藤孝ふじたか自分じぶん居城きょじょうである宮津みやづじょうでは西にしぐん攻勢こうせいふせげないとかんがえ、宮津みやづじょうはらい、田辺たなべじょう入城にゅうじょう西にしぐんむかった。田辺たなべじょう石田いしだ三成みつなり家老がろうしま清興せいきょう親族しんぞくにあたる小野木おのぎ重勝しげかつ豊臣とよとみ重臣じゅうしん前田まえだ玄以げんい茂勝しげかつひきいる西にしぐん・1まん5せんにん包囲ほういされると、50にちおよせんとなった。戦闘せんとうすえ藤孝ふじたか自身じしんのもつ「古今ここん伝授でんじゅしょ」が戦火せんか忘却ぼうきゃくされるのをおそれ、それをこう陽成ようぜい天皇てんのう献上けんじょうした。藤孝ふじたか戦死せんしうれいたのち陽成ようぜい天皇てんのう仲介ちゅうかい西にしぐん攻撃こうげきをするのをやめ、いのちたすけられた。田辺たなべしろ開城かいじょうした藤孝ふじたかてきはた前田まえだ茂勝しげかつ丹波たんば亀山かめやまじょうはいった。なお、7がつ15にち田辺たなべじょう入城にゅうじょうしたさんがたなたに孝和こうわ見聞けんぶん叙述じょじゅつ記述きじゅつしたものが『さんがたな谷田辺やたべ』である。子細しさい城内きうち事情じじょうくわしくつたえており、当時とうじ一般いっぱん部将ぶしょう時局じきょく認識にんしき素朴そぼく実態じったい物語ものがたったものである[2]

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

明倫めいりんかん正門せいもん

こののち細川ほそかわ忠興ただおき豊前ぶぜんこく小倉おぐらてんふうされ、京極きょうごく高知こうち丹後たんごいちこく12まん3せんせきあたえられかり田辺たなべじょう入城にゅうじょうしたが、宮津みやづじょう再築さいちく宮津みやづじょう本拠地ほんきょちうつした。このとき田辺たなべじょう建造けんぞうぶつは、ことごとく破壊はかいされたとつたえられている(一国一城いっこくいちじょうれい)。京極きょうごく高知こうち遺言ゆいごんによって京極きょうごく嫡男ちゃくなん高広たかひろ宮津みやづはん7まん5せんせき次男じなん高三こうさん田辺たなべはん舞鶴まいづるはん)3まん5せんせき養子ようし高信たかのぶ峰山みねやまはん1まん3せんせき相続そうぞくした。

初代しょだい舞鶴まいづる藩主はんしゅとなった京極きょうごくだかさんにより石垣いしがき修復しゅうふく再建さいけんはかられ、荒廃こうはいしていた田辺たなべじょう再興さいこうされた。再建さいけんされた田辺たなべじょうは、絵図えずによるとまる中心ちゅうしん再建さいけんされ、まるみなみ御殿ごてんまるきたじゅうまる櫓門やぐらもん2さんまる櫓門やぐらもんが3てられていた。

京極きょうごくは3だいつづいたのち豊岡とよおかはんてんふうとなり、わって牧野まきのが1668ねん寛文ひろふみ8ねん)3まん5せんせきにゅうふうすると、田辺たなべじょう大手門おおてもんその城門じょうもん石垣いしがきなどが改築かいちくされ、それを代々だいだい世襲せしゅう明治めいじ時代じだいまで繁栄はんえいした。1869ねん明治めいじ2ねん)には版籍はんせき奉還ほうかんおこなわれ、その紀伊田辺きいたなべはんとのどういちはんめい解消かいしょうするため太政官だじょうかんより田辺たなべはん名称めいしょう変更へんこうめいじられ、同年どうねん6がつ田辺たなべじょう雅号がごう舞鶴まいづるじょうちなんで舞鶴まいづるはん改称かいしょうした。

現在げんざい田辺たなべじょう[編集へんしゅう]

1992ねん模擬もぎ復興ふっこうされた城門じょうもん

現在げんざい田辺たなべ城跡じょうせき舞鶴まいづる公園こうえんになっており、1940ねん昭和しょうわ15ねん)に復興ふっこうされたそうあきら古館ふるだて本来ほんらい外堀そとぼり跡地あとちに1992ねん平成へいせい4ねん)に模擬もぎ復興ふっこうされた城門じょうもんには田辺たなべしろ資料しりょうかん天守てんしゅたいせきるいなどがある。またほりはすべててられていて存在そんざいしない。

アクセス[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 舞鶴まいづる市内しない指定してい登録とうろく文化財ぶんかざい一覧いちらん 舞鶴まいづる
  2. ^ 宮本みやもと義己よしみ「「さんがたな谷田辺やたべ」がかた田辺たなべじょうの60にち」『歴史れきし読本とくほん』45かん12ごう、2000ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]