小笠原おがさわらただしもと

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小笠原おがさわらただしもと
小笠原おがさわらただしもとぞう
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん 天和てんわ2ねん7がつ4にち1682ねん8がつ6にち
死没しぼつ たかられき2ねん2がつ5にち1752ねん3がつ20日はつか
改名かいめい ゆたか松丸まつまる幼名ようみょう)、せいさだはつ)、せいはるかちゅうもと
戒名かいみょう ひろしずみてら殿どのりょういわおぎわひとし
墓所はかしょ 東京とうきょう台東たいとうまつうみぜんてら
官位かんい したがえ織部おりべただし遠江とおとうみまもるしたがえよん侍従じじゅう左近さこん将監しょうげん
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ吉宗よしむね家重いえしげ
はん 豊前ぶぜん小倉こくらはんあるじ
氏族しぞく 府中ふちゅう小笠原おがさわら
父母ちちはは ちち小笠原おがさわら忠雄ただおはは浅野あさのひかりあきらむすめひさひめ
兄弟きょうだい ひめ清姫きよひめぶくひめしみひめちゅうもと
稲葉いなばきよしあや貞通さだみちちょうしん、須免ひめ
つま 正室せいしつ浅野あさのつなちょうむすめうめ
側室そくしつつねまつしつ井手いで
ちゅうさだ長吉ちょうきちちょう久吉ひさよし長良ながらちゅうそうちょうあまねだいひめいくひめこうひめ多賀たがひめ
養子ようしえいひめ
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小笠原おがさわら ただしもと(おがさわら ただもと)は、豊前ぶぜんこく小倉こくらはんだい3だい藩主はんしゅ小笠原おがさわら宗家そうけ4だい

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

天和てんわ2ねん(1682ねん)7がつ4にちだい2だい藩主はんしゅ小笠原おがさわら忠雄ただお長男ちょうなんとして江戸えど屋敷やしきまれる。元禄げんろく4ねん1691ねん)、せいさだ名乗なのる。元禄げんろく9ねん1696ねん)からちちげん政治せいじおこない、したがえ織部おりべただし叙任じょにんされた。元禄げんろく10ねん1697ねん)に遠江とおとうみまもる転任てんにんする。元禄げんろく11ねん1698ねん)、せいさだからせいはるか改名かいめいする。とおる10ねん1725ねん)、ちち死去しきょによりあといだ。

藩政はんせいにおいては文治ぶんじ奨励しょうれいし、とおるだい飢饉ききんで4まんにん死者ししゃ盗賊とうぞくなどが蔓延はびこったために治安ちあん回復かいふくつとめる一方いっぽうで、とおる13ねん1728ねん)に差別さべつ部落ぶらくたいする部落ぶらく差別さべつてき法令ほうれい制定せいていするなどしている。ひろし元年がんねん1741ねん)にちゅうもと改名かいめいする。

たかられき2ねん(1752ねん)2がつ5にち死去しきょした。享年きょうねん71。

嫡男ちゃくなんちゅうさだひろし元年がんねん(1741ねん)に早世そうせいしていたため、ろくなんちゅうそうあといだ。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]