(Translated by https://www.hiragana.jp/)
小笠原貞慶 - Wikipedia コンテンツにスキップ

小笠原おがさわら貞慶じょうけい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小笠原おがさわら 貞慶じょうけい
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん15ねん8がつ12にち1546ねん9月6にち
死没しぼつ ぶんろく4ねん5がつ10日とおか1595ねん6月17にち[1]
改名かいめい 小僧こぞうまる[2]幼名ようみょう)、小笠原おがさわらさだとら貞慶じょうけい
別名べつめい 通称つうしょう喜三郎きさぶろう[2]右近うこん大夫たいふ[1]
官位かんい したがえ[1][2]
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 足利あしかが義栄よしひで義昭よしあき織田おだ信長のぶなが徳川とくがわ家康いえやす豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやす
氏族しぞく 府中ふちゅう小笠原おがさわら
父母ちちはは ちち小笠原おがさわらちょう[1]はは江間えま[3]
兄弟きょうだい ちょうたかし貞次ていじ[4]おんなおんな風間かざましつ)、貞慶じょうけい
つま 正室せいしつ日野ひのあきら養女ようじょ高畠たかはた長成ちょうせいむすめ
秀政ひでまさ[1]
テンプレートを表示ひょうじ

小笠原おがさわら 貞慶じょうけい(おがさわら さだよし/さだのり)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう大名だいみょう信濃しなの守護しゅご大名だいみょう小笠原おがさわらちょう三男さんなん信濃しなの深志ふかしじょう城主じょうしゅ小笠原おがさわらりゅう弓馬きゅうばじゅつ礼法れいほう宗家そうけ

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

天文てんもん15ねん1546ねん)、小笠原おがさわらちょう三男さんなん庶子しょし)としてはやししろまれる[3]

ちちちょう時代じだい甲斐かいこく武田たけだ晴信はるのぶ信玄しんげん信濃しなの侵攻しんこう開始かいしし、ながとき小県ちいさがたぐん村上むらかみ義清よしきよらととも武田たけだ対抗たいこうするが、天文てんもん17ねん1548ねん)の塩尻しおじりとうげたたかにおいて敗退はいたいすると、以後いご諸国しょこく放浪ほうろうした。

小笠原おがさわら系譜けいふ』『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』など近世きんせい系譜けいふ史料しりょうれば、ながとき親子おやこ信濃しなの没落ぼつらく上杉うえすぎ越後えちご長尾ながお)をたよ[2]天文てんもん21ねん1552ねん)にちゅうとうじょうてて越後えちごこくのがれたのち[3]、7さいのときに伊勢いせこくきょうのが[3]叔父おじしんじょう清鑑せいかんさだしゅともに、三好みよしたよったという[3]

きょうにおいてながとき親子おやこ信濃しなの復帰ふっきのぞ運動うんどうして、えいろく4ねん1561ねん)にさだとら貞慶じょうけい)はながときとともに本山寺ほんざんじ大阪おおさか高槻たかつき)にたい旧領きゅうりょう復帰ふっきさいには寺領じりょう寄進きしん約束やくそくしている[5]。なお、本山寺ほんざんじ文書ぶんしょれば貞慶じょうけいいみなを「さだとら」から「貞慶じょうけい」に改名かいめいしており、「とら」の越後えちご亡命ぼうめい時代じだい元服げんぷくしたさい長尾ながお景虎かげとら上杉うえすぎ謙信けんしん)からへんいみな拝領はいりょうし、きょう三好みよし長慶ちょうけいから「けい」の拝領はいりょうして「貞慶じょうけい」に改名かいめいした可能かのうせいかんがえられている[6]本山寺ほんざんじたいして祈願きがん文書ぶんしょ発給はっきゅうされたえいろく4ねんには上杉うえすぎ武田たけだあいだ川中島かわなかじまたたかおこなわれているが、えいろく4ねんだいよん合戦かっせん契機けいき北信ほくしんめぐあらそいは収束しゅうそくし、ながとき親子おやこ旧領きゅうりょう回復かいふくにはいたっていない。

ながとき三好みよし長慶ちょうけいえいろく7ねん越後えちごこく上杉うえすぎ謙信けんしんのもとへふたた寄寓きぐうしたのち会津あいづあしめいのもとに寄寓きぐうしたが、貞慶じょうけいきょうのこった。

えいろく12ねん1569ねん)のろくじょう合戦かっせん本圀寺ほんごくじへん)では三好みよしさんにんしゅぐん一員いちいんとして参戦さんせんし、多聞たもん山城やましろ籠城ろうじょうしたが[7][3]三好みよしとう織田おだ信長のぶながやぶれたので、以後いご織田おだがわについた。

さらもとかめ4ねん1573ねん)に信長のぶなが義昭よしあき追放ついほうすると、天正てんしょう3ねんからどう9ねんごろにかけて、信長のぶなが使者ししゃとして東国とうごくしょ大名だいみょうへのたい武田たけだたい上杉うえすぎたい北条ほうじょう交渉こうしょう担当たんとうし、信濃しなの筑摩つかまぐん所領しょりょう約束やくそくされた。

天正てんしょう7ねん1579ねん)、貞慶じょうけい会津あいづおとずれてちちちょう対面たいめんして、家宝かほうなどをいで、家督かとく相続そうぞくした[8][9]

天正てんしょう10ねん1582ねん)の甲州こうしゅう征伐せいばつでは深志ふかしじょう落城らくじょうさせた織田おだちょうえき拝謁はいえつしたが[10]小笠原おがさわら旧領きゅうりょう戦功せんこうあった木曾きそ義昌よしまさ安堵あんどされたため、その回復かいふく実現じつげんしなかった。同年どうねん6がつ本能寺ほんのうじへん信長のぶなが横死おうししたのち天正てんしょうみずのえうまらんにおいて旧領きゅうりょう回復かいふくねら徳川とくがわ家康いえやす家臣かしんとなる。

北信ほくしんではこのころ伯父おじ小笠原おがさわらほらゆきとき上杉うえすぎ景勝かげかつ後援こうえんけて木曾きそ追放ついほう深志ふかしじょうさえていたが、小笠原おがさわら旧臣きゅうしん上杉うえすぎ傀儡かいらいであったほらゆきときからはなれていたとわれ、貞慶じょうけい徳川とくがわ小笠原おがさわら旧臣きゅうしん支援しえん深志ふかしじょう奪還だっかんする。これにより大名だいみょうとして復帰ふっきたした。そのさい長男ちょうなん小笠原おがさわら秀政ひでまさ人質ひとじちとしてし、家康いえやす宿老しゅくろうであった石川いしかわすうただしあづけられた。またこのとき深志ふかしじょう松本まつもとじょう改名かいめいしている。

天正てんしょう11ねん1583ねん)には筑摩つかまぐん北部ほくぶ青柳あおやぎじょう麻績おみしろ上杉うえすぎあらそい、天正てんしょう12ねん(1584ねん)には木曾きそ義昌よしまさ本領ほんりょう木曽福島きそふくしまじょうめた。

天正てんしょう13ねん1585ねん)、突如とつじょとしてすうせい人質ひとじち秀政ひでまされて豊臣とよとみ秀吉ひでよしもと出奔しゅっぽんすると、貞慶じょうけいもそれにしたがって豊臣とよとみ家臣かしんとなった。一説いっせつに、貞慶じょうけい真田さなだ昌幸まさゆきとともに秀吉ひでよし内通ないつうしていた形跡けいせきがあって、その内通ないつう家康いえやす発覚はっかくしたことによって、責任せきにんわれたことがすうせい出奔しゅっぽん一因いちいんになったともする[11]しかし「三河みかわ物語ものがたり」や「松平まつだいら」ではすうせい天正てんしょう12ねんはる時点じてんですでに秀吉ひでよし篭絡ろうらくされつつあったと記述きじゅつされており、依然いぜんとしてすうせい出奔しゅっぽん貞慶じょうけい徳川とくがわ離反りはん直接ちょくせつ原因げんいんである可能かのうせいのこされる。[よう出典しゅってん]

天正てんしょう18ねん1590ねん)、小田原おだわら征伐せいばつ前田まえだ利家としいえぐんしたがって軍功ぐんこうげた[12]。このこうによって、秀吉ひでよしから讃岐さぬきはんこくあたえられたが、九州きゅうしゅうやくさい秀吉ひでよし追放ついほうされたかまわれしゃとなっていた尾藤びとうともせんを、そのあいだ客将かくしょうとして庇護ひごしていたことが露見ろけんしたため、秀吉ひでよしいかりをって、所領しょりょうすべ没収ぼっしゅうされて改易かいえきされた[2]松本まつもと所領しょりょう石川いしかわすうまさあたえられた[13]

その秀政ひでまさとともにふたた家康いえやす家臣かしんとなり[14]家康いえやす関東かんとうりにしたがって、秀政ひでまさ領地りょうちとしてあたえられた下総しもうさ古河ふるかわ3まんせきうつった[2]ぶんろく4ねん1595ねん)に死去しきょ享年きょうねん50[1]茨城いばらきけん古河ふるかわりゅういわてら供養くようとうがある。

家臣かしん

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d e f 今井いまいたかし 1984, p. 273.
  2. ^ a b c d e f 阿部あべ & 西村にしむら 1990, p. 196.
  3. ^ a b c d e f 堀田ほった 1922, p. 1105.
  4. ^ あにちょうたかし同腹どうふくで、武田たけだ信玄しんげん養子ようし実質じっしつてきには人質ひとじち)となるが、のち出家しゅっけした。
  5. ^ えいろく4ねんうるう3がつづけ小笠原おがさわらさだとら貞慶じょうけい書状しょじょう本山寺ほんざんじ文書ぶんしょ
  6. ^ 平山ひらやま 2011, pp. 43–44.
  7. ^ せんじもと増夫ますお徳川とくがわ家康いえやす家臣かしんだん事典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2015ねん[ようページ番号ばんごう]
  8. ^ 阿部あべ & 西村にしむら 1990, pp. 196–197.
  9. ^ かさけい大成たいせい』による。
  10. ^ 平山ひらやま 2011, p. 51.
  11. ^ しば裕之ひろゆき石川いしかわやすしてるすうせい出奔しゅっぽん政治せいじ背景はいけい」『戦国せんごく研究けんきゅう』60ごう、2010ねん /所収しょしゅう:しば裕之ひろゆき戦国せんごくゆたか大名だいみょう徳川とくがわ領国りょうごく支配しはい岩田いわた書院しょいん、2014ねんISBN 978-4-87294-884-4 
  12. ^ 阿部あべ & 西村にしむら 1990, p. 1967.
  13. ^ 福山ふくやま寿久としひさ 1912, pp. 268–269.
  14. ^ 阿部あべ & 西村にしむら 1990, p. 197.

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]