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小笠原おがさわらちょうただし

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小笠原おがさわらちょうただし
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき
生誕せいたん たてひとし2ねん4がつ26にち1202ねん5月19にち[1]
死没しぼつ ぶんひさし元年がんねん11月3にち1264ねん11月23にち[1][2]
別名べつめい 松尾まつおちょうただしまた二郎じろうじょうはちす[2]
官位かんい したがえよん[2]みぎすけ[2]信濃しなのもり[2]
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
氏族しぞく 小笠原おがさわら
父母ちちはは ちち小笠原おがさわらちょうけいはは黒坂くろさかちょうしんむすめ[1]
兄弟きょうだい 小笠原おがさわら長村おさむら小笠原おがさわらちょうただし小笠原おがさわら長房ながふさ赤沢あかざわきよしけい
小笠原おがさわら長政ながまさ[2]
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小笠原おがさわら ちょうただし(おがさわら ながただ)は、鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき信濃しなのこく武将ぶしょう鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにん小笠原おがさわら3だい当主とうしゅ小笠原おがさわらちょうけい[2]松尾まつおちょうただしともしょうされる。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ちちちょうけい承久じょうきゅうらん功績こうせきげ、阿波あわ守護しゅごしょくたもの、のちおとうとちょうけいちちちょうきよし養子ようしとも)の小笠原おがさわら長房ながふさ守護しゅごしょくゆずり、自身じしん信濃しなの帰国きこくし、伊那いなぐん伊賀いがりょうそう松尾まつお居住きょじゅうした。長房ながぶさ子孫しそん阿波あわ小笠原おがさわらとなる。小笠原おがさわらいえによるとちょうただし松尾まつおまれたとされる。あに長村おさむらたからおさむ合戦かっせん三浦みうらかたにつき、やぶれて逐電ちくでんした。

ちょうただしとその長政ながまさ時代じだい信濃しなのにおいて幕府ばくふから重用じゅうようされたのは小笠原おがさわらの嫡家である伴野とものちょうきよし伴野ともの時長ときなが)であったが、霜月しもづき騒動そうどう姻戚いんせき関係かんけいにあった安達あだち連座れんざして伴野とものちょうやすし殺害さつがいされるなど没落ぼつらくしたため、ちょうただしまご長政ながまさ長氏ながうじ惣領そうりょう復帰ふっきした。

これにたいして、近年きんねん研究けんきゅうにおいては、長房ながぶさちょうけい嫡男ちゃくなんちょうただし三男さんなん長房ながふさちょうけい兄弟きょうだい関係かんけい反対はんたいである)とかんがえられている。また、信濃しなの小笠原おがさわら所領しょりょう伴野とものさえており伊賀いがりょうそう鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう討幕とうばく恩賞おんしょうとして北条ほうじょうから小笠原おがさわらうつったこと、さら長政ながまさろく探題たんだい評定ひょうじょうしゅにんぜられていた事実じじつ確認かくにんされることから、ちょうただしからちょうまでの系統けいとう信濃しなのではなく京都きょうと根拠こんきょっていたと推定すいていされている[3]

長氏ながうじ子孫しそん室町むろまち時代ときよには信濃しなの守護しゅごつとめ(信濃しなの小笠原おがさわら)、江戸えど時代じだいには小倉こくらはんなど、譜代ふだい大名だいみょうとしてぐうされることとなる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 小笠原おがさわら系図けいず」(『系図けいず綜覧そうらん所収しょしゅう
  2. ^ a b c d e f g 今井いまいたかし 1984, p. 273.
  3. ^ 花岡はなおか康隆やすたか 2016, §信濃しなの小笠原おがさわら研究けんきゅう軌跡きせき成果せいか.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 今井いまいたかし小笠原おがさわら系図けいず」『日本にっぽん総覧そうらん』 3(中世ちゅうせい 2)、新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1984ねんNCID BN00172373 
  • 花岡はなおか康隆やすたか信濃しなの小笠原おがさわらだい18かんえびすひかりさち出版しゅっぱん中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう〉、2016ねん1がつISBN 9784864031837NCID BB20390099全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:22686218