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三好みよし長慶ちょうけい

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三好みよし 長慶ちょうけい
三好みよし長慶ちょうけいぞう[注釈ちゅうしゃく 1]
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん だいひさし2ねん2がつ13にち1522ねん3がつ10日とおか
死没しぼつ えいろく7ねん7がつ4にち1564ねん8がつ10日とおか[1]
改名かいめい せんくままる幼名ようみょう)、利長としながはんちょう長慶ちょうけい
別名べつめい せんぐま[2]孫次まごじろう通称つうしょう)、三筑さんちく
渾名あだな日本にっぽんふくおう
戒名かいみょう 聚光いん殿どのぜんたくみさくねむりむろすすむ近大きんだい禅定ぜんじょうもん
墓所はかしょ 聚光いん京都きょうときた
官位かんい 伊賀いがまもる筑前ちくぜんもりしたがえしたがえよん修理しゅうり大夫たいふ
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ摂津せっつこく守護しゅごだい御供ごくうしゅ相伴しょうばんしゅ
主君しゅくん 細川ほそかわはるもと氏綱うじつな足利あしかが義輝よしてる
氏族しぞく 三好みよし
父母ちちはは ちち三好みよし元長もとながははけいはるいん[注釈ちゅうしゃく 2]
兄弟きょうだい 長慶ちょうけいじつきゅう安宅あたかふゆやすし十河そごう一存いちぞん野口のぐちふゆちょうおんな大西おおにしよりゆきたけしつ)、おんな小笠原おがさわらしげるすけしつ)、おんな塩田えんでんいちしつ[3]
つま 正室せいしつ波多野はたの波多野はたの秀忠ひでただむすめ
継室けいしつ遊佐ゆさ遊佐ゆさちょうきょうむすめ
義興よしおき石川いしかわとおるきよししつ[4]島田しまだひさしつ[5]
養子ようし義継よしつぎ
花押かおう 三好長慶の花押
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三好みよし 長慶ちょうけい(みよし ながよし)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう畿内きない阿波あわこく戦国せんごく大名だいみょう室町むろまち幕府ばくふ摂津せっつこく守護しゅごだい相伴しょうばんしゅ

細川ほそかわ政権せいけん事実じじつじょう崩壊ほうかいさせ、室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはる足利あしかが義輝よしてる共々ともども京都きょうとより放逐ほうちくし、三好みよし政権せいけん樹立じゅりつする[6]。その足利あしかが義輝よしてる六角ろっかく義賢よしかたはたけ山高やまたかまさしらとときあらそい、とき和議わぎむす畿内きない支配しはいしゃとして君臨くんりんした。

出自しゅつじ

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山城やましろこく下五しもごぐん守護しゅごだいであった三好みよし元長もとなが嫡男ちゃくなんで、えいただし3ねん1506ねん)に細川ほそかわきよしもとぞくして阿波あわこくより上洛じょうらくした三好みよしなが曾孫そうそん三好みよしみのるきゅう安宅あたかふゆやすし十河そごう一存いちぞん野口のぐちふゆちょうあに正室せいしつ波多野はたの秀忠ひでただむすめ波多野はたの)、継室けいしつ遊佐ゆさちょうきょうむすめ遊佐ゆさ)。

通称つうしょうまご次郎じろう官位かんいしたがえよん伊賀いがまもる筑前ちくぜんもりのち修理しゅうり大夫たいふ史料しりょうでは「三筑さんちく(=三好みよし筑前ちくぜんもり)」の略称りゃくしょうかれおおのこっている。いみな長慶ちょうけいは「ちょうけい」とばれることもある。

生涯しょうがい

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出生しゅっしょう家督かとく相続そうぞく

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だいひさし2ねん1522ねん)2がつ13にち細川ほそかわはるもと重臣じゅうしんである三好みよし元長もとなが嫡男ちゃくなんとして現在げんざい徳島とくしまけん三好みよしにある芝生しばふじょうまれる。三好みよし歴代れきだい居館きょかんつたわる阿波あわこく三好みよしぐん芝生しばふ三野みのまち芝生しばふ)では、生母せいぼけいはるいん長慶ちょうけいはらんだときかんみなみ吉野川よしのがわって天下てんか英雄えいゆう出生しゅっしょう大願たいがんをかけたという伝承でんしょうがある。

ちち細川ほそかわはるもと配下はいか重臣じゅうしん三好みよし元長もとながで、主君しゅくんはれもとてきであった細川ほそかわだかこくほろぼした功労こうろうしゃであった。本国ほんごく阿波あわだけでなく山城やましろこくにも勢力せいりょくほこっていたが、その勢威せいいおそれたはれはじめたちおよ一族いちぞく三好みよし政長まさなが木沢きさわ長政ながまさらの策謀さくぼう蜂起ほうきした一向いっこう一揆いっきによって、とおるろく5ねん1532ねん)6がつ殺害さつがいされた。当時とうじ10さい長慶ちょうけい両親りょうしんともさかいにいたが、一向いっこう一揆いっき襲来しゅうらいまえちちわかれ、ははとも阿波あわ逼塞ひっそくした[7]

若年じゃくねん活動かつどう

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細川ほそかわはるもと元長もとなが殺害さつがいするためにりた一向いっこう一揆いっき勢力せいりょくはやがてはれもとでもおさえられなくなりとおるろく天文てんもんらんとなる。

そのため天文てんもん2ねん1533ねん6がつ20日はつか長慶ちょうけい一向いっこう一揆いっきはれもと和睦わぼく斡旋あっせんした。「三好みよしせんぐまに扱(=和睦わぼく)をまかせて」(『ほんぶくてらあきらそうあとしょ』)とあり、当時とうじ12さいぎない長慶ちょうけいことせんくままる和睦わぼく周旋しゅうせんしたというのである。交渉こうしょう自体じたいせんぐまりて、叔父おじ三好みよし康長やすながなど代理だいりものがした可能かのうせいもある。

この直後ちょくご元服げんぷくしたとされる。理由りゆう長慶ちょうけい嫡男ちゃくなん三好みよし義興よしおきや13だい将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてるはれもと細川ほそかわあきらもとなどが11さい元服げんぷくしているためである。

せんくままる元服げんぷくして孫次まごじろう利長としなが名乗なのり、伊賀いがまもるしょうした。ただし天文てんもん5ねん(1536ねん)11月の『鹿しかえんろく』ではせんぐましるされているため、15さいまでは世間せけんではまだ幼名ようみょうばれていたようである[8]

8がつ本願寺ほんがんじ分離ぶんりしていた一揆いっきしゅ講和こうわおうじずなおも蜂起ほうきしたため、長慶ちょうけい一揆いっきたたかって摂津せっつこし水城みずき奪回だっかいした。よく天文てんもん3ねん1534ねん)になると本願寺ほんがんじ味方みかたして8がつ11にち細川ほそかわはるもとぐんたたかい、10月には潮江しおえしょう尼崎あまがさき)ではれ元方もとかた三好みよし政長まさながたたかったが、河内かわうち守護しゅごだいでもあった木沢きさわ長政ながまさ仲介ちゅうかいや、年少ねんしょうであるという理由りゆうからゆるされてはれもとした帰参きさんした。こののち10月22にちはれもと命令めいれい長慶ちょうけい家臣かしん京都きょうと平野ひらの神社じんじゃ年貢ねんぐとう横領おうりょうしているのをめて還付かんぷするようにされている。

そのはれもと武将ぶしょうとなり、天文てんもん5ねん1536ねん)3がつ細川ほそかわはるこく本願寺ほんがんじ武断ぶだんしもあいだよりゆきもりらが摂津せっつ中島なかじま一揆いっき攻撃こうげきするも敗北はいぼく。このとき木沢きさわ長政ながまさしたのがれ、長政ながまさ三好みよし政長まさなが支援しえん中島なかじま攻撃こうげきし、りつぜいばかりだった一揆いっきぐん7がつ29にちまでに全滅ぜんめつさせた(『ぞく応仁おうにん後記こうき』)[9]

勢力せいりょく拡大かくだい

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足利あしかが義晴よしはるぞういにしえ類聚るいじゅう

三好みよし政長まさながは、高畠たかはた長信ながのぶ京都きょうとった天文てんもん7ねん1538ねん以降いこう京都きょうと支配しはいした。しかし、これにたいし、三好みよし元長もとなが嫡男ちゃくなん長慶ちょうけいが、ちち旧跡きゅうせきである京都きょうとされたことを不服ふふくとした。翌年よくねん1がつ14にち摂津せっつこくこし水城みずきにいた長慶ちょうけい上洛じょうらくし、翌日よくじつには細川ほそかわはるもと幕府ばくふ出仕しゅっし御供ごくうをしている。うま隆弘たかひろは、このさい政長まさながによる京都きょうと支配しはいかんする談合だんごうがあり、幕府ばくふ政長まさながだんぜに賦課ふかこころよおもっていなかったとしている。結果けっかとして政長まさなが天文てんもん8ねん1539ねん)4がつには丹波たんばこく蟄居ちっきょしていることが確認かくにんされている[10]

従来じゅうらい天文てんもん8ねん1539ねん)には政長まさなが長慶ちょうけいとは河内かわうちじゅうなな箇所かしょ代官だいかんしょくめぐって対立たいりつしたとかんがえられていた。しかし、うま隆弘たかひろ研究けんきゅうによってこれは否定ひていされた。長慶ちょうけい前述ぜんじゅつ上洛じょうらくさい幕府ばくふから赤松あかまつはれまさし支援しえんのための出兵しゅっぺい依頼いらいされており、長慶ちょうけい配下はいか三好みよしれんもり出兵しゅっぺいした。その対価たいかとして、同年どうねん6がつ長慶ちょうけいかわないじゅうなな箇所かしょ代官だいかんのぞみ、幕府ばくふはこれにおうじている。つまり、長慶ちょうけいかわないじゅうなな箇所かしょ代官だいかんしょく就任しゅうにんできたのは、幕府ばくふ長慶ちょうけい接近せっきんしたためであって、政長まさなが無関係むかんけいであった[10]

なお、長慶ちょうけい将軍しょうぐん代官だいかんしょく要請ようせいする以前いぜんから、河内かわうちじゅうなな箇所かしょ代官だいかん派遣はけんしていた。『天文てんもん日記にっき天文てんもん7ねん5がつ3にちじょうに「吉田よしだはじめかい じゅうななカ所かしょさんこう代官だいかん」とあり、従来じゅうらいこれは三好みよし政長まさなが代官だいかんであると推測すいそくされてきたが、みなもとかい翌年よくねんには長慶ちょうけい代官だいかんとして登場とうじょうすることから、『天文てんもん日記にっき』の三好みよしとは長慶ちょうけいのことであるとあきらかになった[10]

長慶ちょうけい政長まさなが対立たいりつしたのは、政長まさながによる京都きょうと支配しはいや、たけのきしゅうさとし木沢きさわ長政ながまさあと長政ながまさ拠点きょてん南山城みなみやましろ河内かわうちこく大和やまとこく国境こっきょう沿いにうつしていた)、はれもとたいする政長まさなが影響えいきょうりょくおおきさであるとされる。実際じっさいに、政長まさなが京都きょうと支配しはいをしているさいには、長慶ちょうけいだけでなく、その同僚どうりょうで、天文てんもん初年しょねんから7ねんごろまで京都きょうと支配しはいしていた高畠たかはた長信ながのぶ柳本やなぎもともとしゅん政長まさなが反発はんぱつしている[10]

天文てんもん8ねん1539ねん1がつ15にち長慶ちょうけい細川ほそかわはるもときょうをしたとき尾張おわりこく織田おだ信秀のぶひでから前年ぜんねん献上けんじょうされていたたかあたえられた。10日とおか25にち長慶ちょうけいはれもと酒宴しゅえんまねき、そのせき室町むろまち幕府ばくふりょうしょである河内かわうちじゅうなな箇所かしょ守口もりぐち)の代官だいかんしょくみずからにあたえるようにせまったが、はれもとはききいれず、長慶ちょうけい直接ちょくせつ幕府ばくふうったえた。このりょうしょ代官だいかん元々もともとちち任命にんめいされていたのだが、その死後しごには長慶ちょうけい同族どうぞくながら政敵せいてきであった三好みよし政長まさなが任命にんめいされていたのである。

幕府ばくふ内談ないだんしゅであるだいたてしょう長慶ちょうけい要求ようきゅう正当せいとうとしたが、12だい将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはる近江おうみ守護しゅご六角ろっかく定頼さだよりつうじてはれはじめ長慶ちょうけいあいだ和睦わぼく交渉こうしょう斡旋あっせんするも不首尾ふしゅびわる。長慶ちょうけいは1がつ上洛じょうらくに2,500の人数にんずうひきいていたため、このかず石山いしやま本願寺ほんがんじ法主ほっしゅあかしうしたて入京にゅうきょうし、細川ほそかわはるもとうるう6月17にち退京たいきょうして高雄たかおうつり、細川ほそかわもとつね細川ほそかわ晴賢はるかた一族いちぞくあつめた。義晴よしはる畠山はたけやまよしそう武田たけだもとひかりなどのしょ大名だいみょう出兵しゅっぺいめいじる一方いっぽう六角ろっかく定頼さだよりとも長慶ちょうけい三好みよし政長まさなが和睦わぼくけた工作こうさくつづけ、夫人ふじんけい寿ことぶきいん嫡子ちゃくし義輝よしてるはち避難ひなんさせた。この混乱こんらん京都きょうと治安ちあん悪化あっかしたため、長慶ちょうけい義晴よしはるから京都きょうと治安ちあん維持いじめいじられている。

長慶ちょうけい名指なざしされた三好みよし政長まさながは4がつ丹波たんばこく蟄居ちっきょしていたが、細川ほそかわはるもとけて京都きょうと進出しんしゅつ7がつ14にちには和談わだん不首尾ふしゅびわり長慶ちょうけい政長まさなが妙心寺みょうしんじ付近ふきん小規模しょうきぼ戦闘せんとうこしている。7がつ28にち長慶ちょうけいろくかく武田たけだなどのしょ大名だいみょうてきまわすことをおそれて和睦わぼく承諾しょうだくし、摂津せっつ山城やましろ国境こっきょう山崎やまざきから撤退てったいした。結局けっきょくじゅうなな箇所かしょ代官だいかんしょくあたえられず、8がつ摂津せっつ越水うてみじょう入城にゅうじょうした。これまで三好みよし当主とうしゅはあくまでも阿波あわ本拠ほんきょとし、畿内きないにおいて政治せいじてきあるいは軍事ぐんじてき苦境くきょうつと四国しこく退しりぞいて再起さいき事例じれいがあったが、長慶ちょうけいはこの入城にゅうじょう以降いこう生涯しょうがい阿波あわ帰国きこくすることなく、摂津せっつあらたな本拠ほんきょとして位置いちづけることになる[11]。こののち長慶ちょうけい摂津せっつ守護しゅごだいとなり幕府ばくふ出仕しゅっしするようになるが、陪臣ばいしん将軍しょうぐんまでも周章しゅうしょうさせて摂津せっつ河内かわうち北陸ほくりく近江おうみ軍勢ぐんぜい上洛じょうらくさせ、主君しゅくんはれもと脅威きょういあたえるほど長慶ちょうけい実力じつりょく強大きょうだいなものとなっていた[12]

こし水城みずき石碑せきひ

天文てんもん9ねん1540ねん)12月15にちはち上城かみしろ城主じょうしゅ波多野はたの秀忠ひでただむすめ波多野はたの)をつまむかえた(「天文てんもん日記にっき」)[13]天文てんもん11ねん1542ねん)9がつには、嫡子ちゃくし義興よしおき誕生たんじょうしている[13]

天文てんもん10ねん(1541ねん)9がつごろちょうからはんちょう改名かいめい、このとしの6がつ長慶ちょうけい独自どくじうさぎはらぐん都賀つがそうからだんぜに徴収ちょうしゅうおこない、はれもとから停止ていしめいじられている。はれもとみずからの側近そっきんである垪和道祐どうゆうだんぜに徴収ちょうしゅう責任せきにんしゃとしていたためである。だが、長慶ちょうけいはこれを無視むししたためにかれ影響えいきょうにあった摂津せっつ国下こくがぐん豊島としまぐん川辺かわべぐん南部なんぶ武庫むこぐんうさぎはらぐんはちぐん)では長慶ちょうけい道祐どうゆうからじゅうだんぜに徴収ちょうしゅうめいじられる事態じたい相次あいつぎ、長慶ちょうけいはれもととの対立たいりつふかめる要因よういんとなった。だが、下郡しもごおり中心ちゅうしん都市としであった西宮にしのみや管轄かんかつ越水うてみじょう支配しはいする長慶ちょうけい影響えいきょうりょく次第しだい下郡しもごおり国人くにびと百姓ひゃくしょうおよびつつあった[14]。また、7がつ19にちには三好みよし政長まさなが共同きょうどうして摂津せっつ国人くにびと上田うえだぼうめて自害じがいさせしろうばった。8がつ12にちには細川ほそかわはるもと命令めいれい細川ほそかわだかこくいもうとつまとする一庫ひとくらじょう塩川しおかわまさしねんくにまん)を三好みよし政長まさなが池田いけだ信正のぶまさらとともめた。しかしせいねん縁戚えんせきである摂津せっつ国人くにびと三宅みやけこくむら伊丹いたみちかしきょう、そして木沢きさわ長政ながまさらがはん細川ほそかわとして後詰ごづめしたため、長慶ちょうけい背後はいごてきけることとなって10月2にち越水うてみじょう帰還きかんした。このとき伊丹いたみぐん越水こしみずじょうせるが長慶ちょうけい撃退げきたいし、その与党よとうしろである富松とまつじょう尼崎あまがさき)をぎゃくとした。

細川ほそかわはるもと反逆はんぎゃくした木沢きさわ長政ながまさ上洛じょうらくして将軍しょうぐん義晴よしはるはれもとうなどしたため、河内かわうち守護しゅごだい遊佐ゆさちょうきょう長政ながまさ擁立ようりつした河内かわうち守護しゅご畠山はたけやままさしこく追放ついほうしてそのあにである畠山はたけやま稙長たねながむかえ、長慶ちょうけい味方みかたすることを表明ひょうめいした。このためよく天文てんもん11ねん(1542ねん3月17にち長政ながまさ稙長たねながのいる河内かわうち高屋たかやしろ攻撃こうげきしようとして太平寺たいへいじたたかったが、政長まさなが長慶ちょうけい援軍えんぐんくわわったちょうきょうやぶ討死うちじにした(太平寺たいへいじたたか[15]

太平寺たいへいじたたかいから9ヵ月かげつの12月、細川ほそかわだかこくしたがえおいたる細川ほそかわ氏綱うじつな畠山はたけやま稙長たねなが支援しえんこうこく旧臣きゅうしんあつめて蜂起ほうきよく天文てんもん12ねん1543ねん7がつ25にちさかい攻撃こうげきしたが、細川ほそかわもとつね家臣かしん松浦まつうら肥前ひぜんもり日根野ひねの景盛かげもりらにやぶれて和泉いずみこくのがれた。長慶ちょうけい8がつ16にち細川ほそかわはるもと命令めいれいさかい出陣しゅつじん氏綱うじつなたたかっている。このころになると長慶ちょうけい実力じつりょく石山いしやま本願寺ほんがんじにも一目いちもくかれており、天文てんもん13ねん1544ねん6月18にちちちの13回忌かいき法要ほうよう費用ひようあかしから長慶ちょうけいおくられている。

天文てんもん14ねん1545ねん)4がつ細川ほそかわだかこく上野うえのもとぜんらが氏綱うじつな呼応こおう丹波たんばから進軍しんぐんして山城やましろ井手いでしろとし、もとぜんちち上野うえの元治もとはる槇島まきしままで進出しんしゅつしたため、細川ほそかわはるもと大軍たいぐんひきいて出兵しゅっぺいし、長慶ちょうけい従軍じゅうぐんして山城やましろ宇治田原うじたわらたたかった。その直後ちょくご岳父がくふ波多野はたの秀忠ひでただ支援しえん要請ようせいおうじて丹波たんば出兵しゅっぺいし、氏綱うじつな内藤ないとう国貞くにさだもる丹波たんば木城きじょう7がつ25にち包囲ほういして27にちとした。氏綱うじつな後援こうえんしゃだった畠山はたけやま稙長たねなが死去しきょしたため当面とうめん政権せいけん安泰あんたいとなった。

しかし、よく天文てんもん15ねん1546ねん)8がつ稙長たねながのちいだ畠山はたけやままさしこく遊佐ゆうさちょうきょう細川ほそかわ氏綱うじつな援助えんじょし、氏綱うじつなせいこく、そして足利あしかが義晴よしはるらが連携れんけいして細川ほそかわはるもと排除はいじょうごきをせると、長慶ちょうけい8がつ16にちはれもと命令めいれいけて越水うてみじょうからさかいはいった。しかしさかい20日はつか河内かわちだか屋城やしろから出撃しゅつげきした細川ほそかわ氏綱うじつな遊佐ゆうさちょうきょう筒井つついなどのぐん包囲ほういされ、準備じゅんび不足ふそくであり戦況せんきょう不利ふりさとった長慶ちょうけい会合かいごうしゅ依頼いらいしてぐん解体かいたいし、氏綱うじつならも包囲ほういいて撤兵てっぺいした。こののち氏綱うじつならの攻勢こうせいつづいてはれはじめ長慶ちょうけい敗北はいぼくかさねたが、長慶ちょうけい実弟じっていである三好みよしみのるきゅう安宅あたかふゆやすしかもふゆ)、十河そごう一存いちぞん四国しこく軍勢ぐんぜい到着とうちゃくすると一気いっき逆転ぎゃくてんし、義晴よしはるは12月に近江おうみのがれて嫡子ちゃくし義輝よしてる将軍しょうぐんしょくゆずり、長慶ちょうけいじつきゅう阿波あわ守護しゅご細川ほそかわもちたかしらととも摂津せっつ原田はらだしろ三宅みやけしろ三宅みやけこくむらなどの将軍しょうぐんかたしろとし、摂津せっつうばかえした。

舎利しゃり尊勝寺そんしょうじ

そして天文てんもん16ねん1547ねん7がつ21にち舎利寺しゃりじたたか細川ほそかわ氏綱うじつな遊佐ゆうさちょうきょうぐん勝利しょうり敗報はいほういた足利あしかが義晴よしはるうるう7がつ1にち帰京ききょうして細川ほそかわはるもと六角ろっかく定頼さだより和睦わぼく長慶ちょうけいじつきゅうは8がつ河内かわち氏綱うじつなちょうきょうぐん対陣たいじんしたが、義晴よしはる離脱りだつしていたため氏綱うじつならは戦意せんい喪失そうしつちょう滞陣たいじんすえよく天文てんもん17ねん1548ねん)4がつ両者りょうしゃ定頼さだより斡旋あっせん和睦わぼく長慶ちょうけいは5月に越水うてみじょうかえりじょうした。

なお、将軍家しょうぐんけ近江おうみのがれたことで幕府ばくふ政所まんどころ執事しつじである伊勢いせさだこう天文てんもん16ねん(1547ねん)3がつ幕臣ばくしん所領しょりょう保護ほごもとめている。このことから陪臣ばいしんながら、さらには将軍しょうぐんたたかおうとしている管領かんりょういえ家臣かしんである長慶ちょうけい実力じつりょくみとめられていたことがわかる。また、長慶ちょうけいは4がつ足利あしかが義晴よしはる援助えんじょしていた六角ろっかく定頼さだより味方みかたにつけたため、義晴よしはる敗北はいぼくおよ細川ほそかわはるもと和睦わぼく帰京ききょうつながり、長慶ちょうけい定頼さだより斡旋あっせんけてゆうちょうきょうらと和睦わぼくしている。

この直後ちょくご長慶ちょうけいちょうきょうむすめ継室けいしつむかえた。さき和談わだんにおける政略せいりゃく結婚けっこんであったという[16]

はれはじめ政長まさながとの対立たいりつ

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細川ほそかわはるもとぞう

天文てんもん17ねん1548ねん8がつ12にち以前いぜん、あるいは12がつ以前いぜん孫次まごじろうはんちょうから筑前ちくぜんもり長慶ちょうけい改名かいめい同年どうねん7がつ三好みよし政長まさながとうとした。理由りゆうは「むねさん父子ふし曲事きょくじ」、つまり政長まさなが息子むすこ三好みよし政勝まさかつ不祥事ふしょうじであるとするせつ[注釈ちゅうしゃく 3]ちち殺害さつがいうら暗躍あんやくした政長まさなが存在そんざいゆうちょうきょうからいたためとも、政長まさなが婿むこである摂津せっつ国人くにびと池田いけだ信正のぶまさ5月6にちはれもと切腹せっぷくさせられ、遺児いじ政長まさなが外孫そとまごたる池田いけだ長正ながまさ後継こうけいかれたことが摂津せっつ国人くにびとたち反感はんかんい、長慶ちょうけいはん政長まさながされたことも一因いちいんとされている。政長まさながはれもとからの信任しんにんあつく、越水こしみずじょう長慶ちょうけいひらいたぐんでははれもと政長まさながかばうのであれば、はれはじめてきとすること決議けつぎしたという(『細川ほそかわ両家りょうけ』)。

8がつ12にち長慶ちょうけい細川ほそかわはるもと三好みよし政長まさなが父子ふし追討ついとうねがたが、うったえはれられなかったため、10月28にちにかつてのてきである細川ほそかわ氏綱うじつな遊佐ゆうさちょうきょうむすはれもと反旗はんきひるがえし、因縁いんねんかわないじゅうなな箇所かしょへい三好みよし政勝まさかつ籠城ろうじょうする榎並えなみしろ包囲ほういした。長慶ちょうけい行為こういはれ元方もとかた六角ろっかく定頼さだよりから「三好みよし筑前ちくぜんもり長慶ちょうけい謀反むほん」とされ(『 足利あしかが』)、『ちょう享年きょうねん畿内きない兵乱へいらん』でも「三好みよし長慶ちょうけい謀反むほん」としるされている。よく天文てんもん18ねん1549ねん)2がつ長慶ちょうけい本隊ほんたい出陣しゅつじん、4がつからはれはじめ政長まさなが政勝まさかつ救援きゅうえんのため摂津せっつかい、長慶ちょうけいぐん政長まさながぐん摂津せっつ対陣たいじんすると、はれもと三宅みやけじょうへ、政長まさなが江口えぐちしろ布陣ふじんして近江おうみろくかくぐん到着とうちゃくとうとしたが、長慶ちょうけい江口えぐちじょう糧道りょうどうち、おとうと安宅あたかふゆやすし十河そごう一存いちぞんらに別府べっぷがわ布陣ふじんさせた。六角ろっかくぐんは6がつ24にち山城やましろ山崎やまざき到着とうちゃくしたが、その当日とうじつ江口えぐちじょうたたかいがあり長慶ちょうけい政長まさながおもだったものを800めいった(江口えぐちたたか)。

戦後せんご細川ほそかわはるもと三好みよし政勝まさかつらは摂津せっつから逃亡とうぼうろくかくぐん撤退てったいはれもと足利あしかが義晴よしはる義輝よしてる父子ふしらをれて近江おうみこく坂本さかもとのがれた。長慶ちょうけいはれもとわる主君しゅくんとして細川ほそかわ氏綱うじつな擁立ようりつし、7がつ9にち入京にゅうきょう。6にち15にち氏綱うじつなのこして摂津せっつもどり、はれはじめ伊丹いたみおやきょう籠城ろうじょうする伊丹いたみじょう包囲ほうい天文てんもん19ねん1550ねん)3がつゆうちょうきょう仲介ちゅうかい開城かいじょうさせ摂津せっつこく平定へいていした。これにより細川ほそかわ政権せいけん事実じじつじょう崩壊ほうかいし、三好みよし政権せいけん誕生たんじょうすることになった[17]

主君しゅくんさらに将軍しょうぐんとの対立たいりつ

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足利あしかが義輝よしてるぞう国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかんくら

近江おうみこく亡命ぼうめいしていた足利あしかが義晴よしはる京都きょうと奪回だっかいはかり、天文てんもん19ねん1550ねん)2がつ京都きょうと東側ひがしがわ慈照寺じしょうじ裏山うらやま中尾なかおしろきずいたが、5月に義晴よしはるくなったのちは6がつ足利あしかが義輝よしてる細川ほそかわはるもととも中尾なかおじょうはいり、徹底てってい抗戦こうせんかまえをせた。りょうぐん小規模しょうきぼ戦闘せんとう終始しゅうししたが、長慶ちょうけい近江おうみにも遠征えんせいぐん派遣はけんして義輝よしてるらをさぶり、退路たいろたれることをおそれた義輝よしてるは11月に中尾なかおしろみずか放火ほうかして、坂本さかもとからきた堅田かただ逃亡とうぼうした(中尾なかおじょうたたか)。このあいだの10がつ長慶ちょうけい義輝よしてる和談わだんもうんだが、はれはじめ義輝よしてるらの面目めんぼくからかこのとき不首尾ふしゅびわる。将軍しょうぐん管領かんりょう不在ふざいになった京都きょうとでは長慶ちょうけい治安ちあん維持いじし、公家くげ所領しょりょう寺社じしゃ本所ほんじょりょう保護ほごしながら義輝よしてるはれはじめらとたたかった。

天文てんもん20ねん1551ねん)3がつ義輝よしてる計画けいかくにより、長慶ちょうけい暗殺あんさつ未遂みすい遭遇そうぐうしている[18]。3月7にちよる長慶ちょうけい吉祥院きっしょういんじん伊勢いせさだこうまね酒宴しゅえんちゅう放火ほうか未遂みすいがあった[18]同月どうげつ14にちには、伊勢いせていまねかれた長慶ちょうけいが、幕臣ばくしん進士しんしけんこうりつけられ、負傷ふしょうした(『げんつぎきょう』ほか)[18]。その翌朝よくあさには、はれ元方もとかた三好みよし政勝まさかつ香西こうざい元成もとなり東山ひがしやま一帯いったい放火ほうかした[18]。5月5にちには、長慶ちょうけい同盟どうめいしゃであり、つま養父ようふでもある遊佐ゆさちょうきょうが、みずからが帰依きえしていた時宗じしゅう僧侶そうりょたま阿弥あみ暗殺あんさつされた[19]。このような事態じたいてか、7がつには三好みよし政勝まさかつ香西こうざい元成もとなり主力しゅりょくとした足利あしかが細川ほそかわぐん京都きょうと奪回だっかいはかって侵入しんにゅうするも、長慶ちょうけい松永まつなが久秀ひさひでとそのおとうと松永まつながちょうよりゆき内藤ないとう宗勝むねかつ丹波たんば守護しゅごだい)にめいじてこれをやぶった(相国寺しょうこくじたたか)。

天文てんもん21ねん1552ねん)1がつ義輝よしてる支援しえんしてきた六角ろっかく定頼さだより死去しきょした[20]後継こうけいしゃ六角ろっかく義賢よしかたは、義輝よしてる長慶ちょうけいあいだはいり、和睦わぼく成立せいりつさせた[20]天野あまの忠幸ただゆきは、この和睦わぼく意義いぎとして、(1)長慶ちょうけいが、三好みよし関係かんけいふかかった足利あしかがよし維ではなく、義輝よしてるえらんだこと、(2)細川ほそかわ氏綱うじつな正式せいしき細川ほそかわきょうちょういえ家督かとくみとめられたこと、(3)長慶ちょうけいが、陪臣ばいしんにんじられない御供ごくうしゅとなったことで、細川ほそかわ被官ひかんから将軍しょうぐんちょくしんになったこと、(4)せい長流ちょうりゅうはたけ山高やまたかまさしとの同盟どうめい堅持けんじしたこと、をげる[21]。これらの内容ないようにより、将軍家しょうぐんけりょう管領かんりょう細川ほそかわ畠山はたけやま)の分裂ぶんれつ収束しゅうそくした[22]幕府ばくふ将軍しょうぐん義輝よしてる管領かんりょう細川ほそかわ当主とうしゅ氏綱うじつなに、実権じっけんにぎ実力じつりょくしゃである長慶ちょうけいという構図こうずになった[23]

同年どうねん天文てんもん21ねん)4がつ細川ほそかわはるもとくみする波多野はたの元秀もとひではち上城かみしろ包囲ほういしたところ、三好みよしかたとして従軍じゅうぐんしていた池田いけだ長正ながまさ芥川あくたがわまごじゅうろうらが離反りはんした[24]5月23にち包囲ほういいて越水うてみじょう撤退てったいする。またこれで聡明そうめいまる京都きょうといておくことに不安ふあんかんじ、6月5にち越水うてみじょううつしている。10月に長慶ちょうけい再度さいど丹波たんばめ、はれもと味方みかたするしょしょうたたかった。11月にもはれもととううごきはあったが、小規模しょうきぼ戦闘せんとう放火ほうか程度ていどわっている。

芥川あくたがわ山城やましろ石碑せきひ

天文てんもん22ねん1553ねんうるう1がつ1にち長慶ちょうけい義興よしおき父子ふし義輝よしてる面会めんかいした[25]。このとき長慶ちょうけい暗殺あんさつうわさがあり、長慶ちょうけいよどみじょうのがれた[26]丹波たんば細川ほそかわはるもととの衝突しょうとつもあったことから、同年どうねん2がつ26にち長慶ちょうけい義輝よしてる会談かいだんし、義輝よしてる側近そっきん和睦わぼく反対はんたい上野うえの信孝のぶたからから人質ひとじちをとった[27]同年どうねん3がつ義輝よしてる霊山れいざんじょう籠城ろうじょうし、はれもとむすんだ[27]帰参きさんしていた芥川あくたがわまごじゅうろう再度さいど反乱はんらんこして摂津せっつ芥川あくたがわ山城やましろ籠城ろうじょう丹波たんば摂津せっつ山城やましろからさん方向ほうこう脅威きょういかかえた長慶ちょうけい松永まつなが久秀ひさひでめいじてはれ元方もとかたぐんやぶった。7月に長慶ちょうけい芥川あくたがわ山城やましろ包囲ほういしている最中さいちゅう義輝よしてるはれもと連合れんごうして入京にゅうきょう計画けいかくするが、長慶ちょうけい芥川あくたがわ山城やましろおさえのへいのこ上洛じょうらくするとはれもとぐんいちせんもすること敗走はいそう義輝よしてる近江おうみ朽木くちき逃走とうそうした(東山ひがしやま霊山れいざんじょうたたか)。長慶ちょうけい将軍しょうぐん随伴ずいはんするもの知行ちぎょう没収ぼっしゅうすると通達つうたつしたため、随伴ずいはんしゃおおくが義輝よしてる見捨みすてて帰京ききょうしたという。

以後いご5ねんにわたって義輝よしてる朽木くちき滞在たいざいをすることになり、京都きょうと事実じじつ上長じょうちょうけい支配しはいはいった。長慶ちょうけい芥川あくたがわ山城やましろ兵糧ひょうろうめにしてとし包囲ほういもうやぶると、芥川あくたがわまごじゅうろう没落ぼつらくしたのち芥川あくたがわ山城やましろはい居城きょじょうとした。越水うてみじょう摂津せっつ下郡しもごおり政治せいじてき拠点きょてんであったのにたいして、芥川あくたがわ山城やましろこうこくはれもと時代じだいつうじて摂津せっつ上郡かみごおり政治せいじてき拠点きょてんから細川ほそかわ政権せいけん畿内きない支配しはい拠点きょてん上昇じょうしょうしつつあり、長慶ちょうけいもその拠点きょてんいだのである[28]。また、禁裏きんり交渉こうしょうおこない、土塀どべい修理しゅうりなどもおこなっている。以後いご三好みよしぐん天文てんもん22ねん(1553ねん)に松永まつなが兄弟きょうだい丹波たんばに、天文てんもん23ねん1554ねん)に三好みよし長逸ちょういつ播磨はりま出兵しゅっぺいするなど軍事ぐんじ活動かつどう積極せっきょくてきだった[29]

えいろく元年がんねん1558ねん)6がつ義輝よしてる細川ほそかわはるもと三好みよし政勝まさかつ香西こうざい元成もとなりらをしたがえて京都きょうと奪還だっかんうごき、将軍しょうぐん山城やましろ三好みよしぐん交戦こうせんした(北白川きたしらかわたたか)。しかし戦況せんきょう叔父おじ三好みよし康長やすながはじさんこうじつきゅう安宅あたかふゆやすし十河そごう一存いちぞんら3にんおとうとひきいる四国しこく軍勢ぐんぜい摂津せっつ渡海とかいするにおよんで三好みよしかた優位ゆういとなったため、六角ろっかく義賢よしかた義輝よしてる援助えんじょしきれないと和睦わぼくはかった。このとき和談わだん11月6にち成立せいりつし、義輝よしてるは5ねんぶりに帰京ききょうした。このとき長慶ちょうけい細川ほそかわ氏綱うじつな伊勢いせさだこうとも義輝よしてる出迎でむかえている。以後いご長慶ちょうけい幕府ばくふ主導しゅどうしゃとして、幕政ばくせい実権じっけん掌握しょうあくしたのである。

全盛期ぜんせいき

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えいろく年間ねんかん初期しょきまでにおける長慶ちょうけい勢力せいりょくけん摂津せっつ中心ちゅうしんにして山城やましろ丹波たんば和泉いずみ阿波あわ淡路あわじ讃岐さぬき播磨はりまなどにおよんでいた(近江おうみ伊賀いが河内かわうち若狭わかさなどにも影響えいきょうりょくっていた)。当時とうじ長慶ちょうけい勢力せいりょく匹敵ひってきする大名だいみょう相模さがみこく北条ほうじょう氏康うじやすくらいだったといわれるが、関東かんとう畿内きないでは経済けいざいりょく文化ぶんか政治せいじてき要素ようそなどで当時とうじおおきながあったため、長慶ちょうけい勢力せいりょくけんほう優位ゆういだったといえる。

この全盛期ぜんせいきえいろく2ねん1559ねん)2がつ織田おだ信長のぶなががわずかなきょうれて上洛じょうらくしているが、長慶ちょうけいとは面会めんかいせずに3がつ帰国きこくした。4月には上杉うえすぎ謙信けんしん当時とうじ長尾ながお景虎かげとら)が上洛じょうらくしているが、長慶ちょうけい謙信けんしん面識めんしきがあり、6ねんまえ上洛じょうらくでは石山いしやま本願寺ほんがんじ物品ぶっぴんおくりあったりしたというが、このとき上洛じょうらくでは面会めんかいかったようである。

松永まつなが久秀ひさひでぞう落合おちあいかおるいく

このころ河内かわちこくではゆうちょうきょう暗殺あんさつされたのちあらたに守護しゅごだい任命にんめいされた安見やすみ宗房むねふさ直政なおまさ)がえいろく元年がんねん1558ねん11月30にちはたけ山高やまたかまさし紀伊きいこく追放ついほうするという事件じけんがあった。これを長慶ちょうけい松永まつなが久秀ひさひでえいろく2ねん1559ねん5月29にち和泉いずみこく出兵しゅっぺいさせたがやす見方みかた根来ねごろしゅう敗北はいぼく久秀ひさひで摂津せっつこく撤退てったいし、長慶ちょうけい久秀ひさひで合流ごうりゅうして6月26にちに2まん大軍たいぐん河内かわうち進出しんしゅつした。そして8がつ1にちこう屋城やしろ8がつ4にち飯盛めしもり山城やましろなどをとし、こうせい河内かわうち守護しゅごとして復帰ふっきさせ、宗房むねふさ大和やまとこく追放ついほうしてみずからとつうじた湯川ゆかわ直光なおみつ守護しゅごだいとした。また、宗房むねふさ追討ついとう口実こうじつ久秀ひさひで大和やまと進軍しんぐん河内かわうち大和やまと国境こっきょう付近ふきんにそびえる信貴しぎ山城やましろ拠点きょてんとして大和やまと制圧せいあつ開始かいしした[30]

三好みよし義興よしおきぞう京都きょうと大学だいがく総合そうごう博物館はくぶつかんくら

細川ほそかわ家家いえいえちゅうにおいても三好みよし権力けんりょく頂点ちょうてんきわめた。このながろく2ねん(1559ねん)は長慶ちょうけい権勢けんせい絶大ぜつだいとなり、長慶ちょうけい嫡男ちゃくなんけいきょう将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてるから「よし」のたまわ義長よしながあらためた(のち義興よしおき改名かいめい)。このころにはかつての管領かんりょうである細川ほそかわ畠山はたけやま両家りょうけ長慶ちょうけい実力じつりょくまえくっし、えいろく3ねん1560ねん)1がつには相伴しょうばんしゅ任命にんめいされ、1がつ21にち長慶ちょうけい修理しゅうり大夫たいふに、義興よしおき筑前ちくぜんもり任官にんかんした。1がつ27にちには正親町おおぎまち天皇てんのう即位そくいしき警護けいごつとめ、財政難ざいせいなん朝廷ちょうていたいして献金けんきんおこなっている。このためもあってか、2がつ1にち義興よしおき御供ごくうしゅ任命にんめいされている。

えいろく3ねん(1560ねん)、長慶ちょうけい居城きょじょう芥川あくたがわ山城やましろから飯盛山いいもりさんじょううつした[31]芥川あくたがわ山城やましろ息子むすこ義長よしなが義興よしおき)に譲渡じょうとした。居城きょじょう飯盛山いいもりさんじょううつした理由りゆうについては、「京都きょうとちかく、大坂おおさか平野へいやおさえることが出来できる、くわえて、大和やまとこくへの進軍しんぐん円滑えんかつおこなえる」という根拠こんきょ指摘してきされている[31]。また、三好みよし本領ほんりょう阿波あわこくだが、飯盛山いいもりさんであればさかい経由けいゆして本領ほんりょう阿波あわへの帰還きかんもより迅速じんそくに、らく出来できるという理由りゆうもあった[31]。ただし、芥川あくたがわ山城やましろよりも、京都きょうととの距離きょりはなれていたとする永原ながはらけい指摘してきもある[31]永原ながはら京都きょうととの距離きょりこそはなれるようになったが、大和やまと和泉いずみ河内かわうち方面ほうめんへのつよ進撃しんげき進出しんしゅつ意欲いよくせた拠点きょてん変更へんこうであり、そこには長慶ちょうけい自信じしんあふれていたとも指摘してきしている[32]。このほか天野あまの忠幸ただゆきによれば、拠点きょてん候補こうほとして高屋たかやしろ飯盛山いいもりさんふたつがあったが、高屋たかやじょう河内かわうち国一くにいちこく政治せいじてき拠点きょてんであるのにたいし、飯盛山いいもりさんじょう河内かわうちのみならず、大和やまと山城やましろ視野しやえて合計ごうけいさんヶ国かこく政治せいじてき影響えいきょうおよぼすことが出来でき政治せいじてき拠点きょてんであり、ゆえにこちらを拠点きょてん選択せんたくしたと指摘してきされる[32](ただし、後述こうじゅつのように天野あまのべつ論文ろんぶんで、三好みよし家督かとく芥川あくたがわ山城やましろについての見解けんかいはなして表明ひょうめいしている)。

一方いっぽう飯盛めしもりさんへの拠点きょてん移行いこうについて、こうした政治せいじてき観点かんてんとはべつ長慶ちょうけい精神せいしんてき観点かんてんからの研究けんきゅうもある。杉山すぎやまひろしは「長慶ちょうけいしんはこのころぎんふう弄月ろうげつぶん世界せかいけられていた」と指摘してき[32]鶴崎つるさき裕雄ひろお須藤すとう茂樹しげきは、「長慶ちょうけい精神せいしんには隠者いんじゃてき傾向けいこうられる」とも指摘してきしている[32]。また、天野あまの忠幸ただゆき長慶ちょうけい嫡男ちゃくなんである義興よしおき将軍しょうぐんからいちあたえられ、三好みよし歴代れきだい官途かんとである筑前ちくぜんもりにんぜられたことを重視じゅうしして、長慶ちょうけい拠点きょてん移行いこう三好みよし本拠地ほんきょち問題もんだいべつ問題もんだいとしてとらえ、飯盛山いいもりさんへの移転いてんによって三好みよし家督かとく事実じじつ上長じょうちょうけいから義興よしおきへとゆずられ、同時どうじ三好みよし本拠ほんきょであった芥川あくたがわ山城やましろあたらしい当主とうしゅである義興よしおき継承けいしょうされたといている[33]。なお、天野あまのはこの時期じき家督かとく継承けいしょうおこなわれた背景はいけいとして、将軍しょうぐん義輝よしてる三好みよし長年ながねん対立たいりつ収拾しゅうしゅうさせるためにしん当主とうしゅ義興よしおき義輝よしてるとのあらたな関係かんけいつくるのが構築こうちくさせ、自分じぶん将軍しょうぐん権威けんい一定いってい距離きょりたもつのがのぞましいと判断はんだんしたと推測すいそくしている[34]

ところが、このながろく3ねん(1560ねん)に河内かわちこく情勢じょうせい激変げきへんした。長慶ちょうけい支援しえん守護しゅご復帰ふっきした畠山はたけやまだかせい守護しゅごだい湯川ゆかわ直光なおみつ罷免ひめんしてふたた安見やすみ宗房むねふさ復帰ふっきさせたためであり、長慶ちょうけいこうせい背信はいしん激怒げきどだかせい義絶ぎぜつ、7がつ東大阪ひがしおおさか一帯いったい畠山はたけやまぐんたたかって勝利しょうりした。7がつ22にちには八尾やお一帯いったい安見やすみぐんやぶり、高屋たかやしろ後詰ごづめしようとした香西こうざい波多野はたのぐん根来ねごろしゅうなども丹波たんばから来援らいえんした松永まつながちょうよりゆきやぶった。このため10月24にち飯盛めしもり山城やましろ宗房むねふさが、10月27にちこう屋城やしろこうせい降伏ごうぶく開城かいじょうして長慶ちょうけい河内かわうち完全かんぜん平定へいていし、高屋たかやじょう河内かわうち平定へいてい功労こうろうしゃであったおとうとじつきゅうあたえ、みずからは飯盛山いいもりさんじょう居城きょじょうにした。また畠山はたけやま影響えいきょうりょくつよかった大和やまとたいしても松永まつなが久秀ひさひでめいじてこのとし侵略しんりゃくさせ、11月までに大和やまと北部ほくぶ制圧せいあつして久秀ひさひで統治とうちまかせた。

えいろく4ねん1561ねん3月30にちには義輝よしてる将軍しょうぐん御成おなりとしてみずからの屋敷やしきむかえ、5月6にち義輝よしてる勧告かんこく細川ほそかわはるもととも和睦わぼく摂津せっつもんてらむかれた。また嫡子ちゃくし義興よしおきはこのとししたがえよん相判あいばんしゅ昇任しょうにんするなど、三好みよしたいする幕府ばくふ朝廷ちょうてい優遇ゆうぐうつづいた。このとしまでに長慶ちょうけい勢力せいりょくけんさきげた8カ国かこくほか河内かわうち大和やまと領国りょうごくして10カ国かこく増大ぞうだいし、東部とうぶ2ぐん支配しはい山城やましろ南部なんぶ支配しはいなども強化きょうかしている。この長慶ちょうけい強大きょうだい勢力せいりょくまえ伊予いよ河野こうのなどおおくのしょ大名だいみょう長慶ちょうけいよしみつうじていた[35]

晩年ばんねん

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三好みよしみのるきゅう戦没せんぼついししるべ
教興寺きょうこうじ山門さんもん

長慶ちょうけい衰退すいたいえいろく4ねん(1561ねん)4がつからはじまった。おとうと十河そごう一存いちぞん急死きゅうししたのである。このため和泉いずみ支配しはい脆弱ぜいじゃくとなり(和泉いずみ岸和田きしわだじょう一存いちぞんじょうである)、その間隙かんげきをついて畠山はたけやまだかせい六角ろっかく義賢よしかたつうじて、細川ほそかわはるもと次男じなん晴之はるゆき盟主めいしゅにすえ7がつ挙兵きょへいし、南北なんぼくから三好みよし攻撃こうげきをしかけた。このたたかいはえいろく5ねん1562ねん)までつづき、3月5にち三好みよしみのるきゅうこうせいやぶれて戦死せんしした(久米田くめたたたか)。

しかし京都きょうとでは義興よしおき松永まつなが久秀ひさひで三好みよしぐんひきいて善戦ぜんせんし、一時いちじてき京都きょうとろくかくぐんうばわれながらも、義興よしおき久秀ひさひでらは安宅あたかふゆやすしさんこう一族いちぞく大軍たいぐんようして反抗はんこうてんじ、5がつ20日はつか教興寺きょうこうじたたか畠山はたけやまぐん大勝たいしょうして畠山はたけやまだかせい再度さいど追放ついほう河内かわうちさい平定へいていし、六角ろっかくぐんは6がつ三好みよし和睦わぼくして退京たいきょうした。なお、この一連いちれんたたかいで長慶ちょうけい出陣しゅつじんした形跡けいせきく、三好みよしぐん指揮しき義興よしおき久秀ひさひでふゆやすしらが担当たんとうしていることからこのころ長慶ちょうけいやまいにかかっていた(やまいにかかったのはえいろく4ねん(1561ねんごろとも)のではないかといわれている。以後いご和泉いずみ十河そごう一存いちぞんわって安宅あたかふゆかんが、河内かわうち高屋たかや城主じょうしゅには三好みよし康長やすなが任命にんめいされて支配しはいけんさい構築こうちくおこなわれた。

えいろく5ねん(1562ねん)8がつには幕府ばくふ政所まんどころ執事しつじである伊勢いせさだこう畠山はたけやまろくかく両家りょうけつうじて京都きょうと挙兵きょへいしたため、9月に松永まつなが久秀ひさひで三好みよし義興よしおきひきいる三好みよしぐんによってさだこうたれた。えいろく6ねん1563ねん)1がつには和泉いずみ根来ねごろしゅう三好みよしぐん激突げきとつし、最終さいしゅうてきには10がつ三好みよし康長やすながとのあいだ和談わだん成立せいりつ大和やまとでも久秀ひさひで三好みよしぐんみね宗徒しゅうと衝突しょうとつがあり、また細川ほそかわはるもと残党ざんとうによる反乱はんらんが2がつからかけてこるなど、はん三好みよしうごきが顕著けんちょになってきた。

さらにえいろく6ねん(1563ねん)8がつには義興よしおきが22さい早世そうせい唯一ゆいいつ嗣子ししうしなった長慶ちょうけい十河そごう一存いちぞん息子むすこ、すなわちおいであるじゅうそん義継よしつぎ)を養子ようしむかえた。本来ほんらいであれば一存いちぞん死後しご十河そごうぐべきじゅうそん後継こうけいしゃえらばれたのは、かれ生母せいぼ関白かんぱくつとめた九条くじょう稙通むすめでありその血筋ちすじさがであったとみられる[36]。12月には名目めいもくじょう主君しゅくんであった細川ほそかわ氏綱うじつな病死びょうし、このすこまえには細川ほそかわはるもと病死びょうししており、三好みよし政権せいけん政権せいけん維持いじうえ形式けいしきてき必要ひつようとしていた傀儡かいらい管領かんりょうまでうしなことになった[37]。ただし、氏綱うじつなについては、有力ゆうりょく支持しじしゃであった内藤ないとう国貞くにさだ健在けんざいであった天文てんもん22ねん(1553ねん)までは長慶ちょうけいよりも上位じょういにあり、その義輝よしてるはれもと対抗たいこうするために長慶ちょうけい政治せいじてき権力けんりょくゆずわりに摂津せっつ守護しゅごとしての立場たちば保持ほじしたもので、傀儡かいらいではなくむしろ積極せっきょくてき協力きょうりょくしゃであったとする見解けんかいされている[38]

最期さいご

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飯盛めしもり山城やましろ模型もけい
三好みよし義継よしつぎぞう京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく芸術げいじゅつ資料しりょうかんぞう

えいろく7ねん(1564ねん)5がつ9にち長慶ちょうけいおとうと安宅あたかふゆやすし居城きょじょう飯盛めしもり山城やましろして誅殺ちゅうさつした。松永まつなが久秀ひさひで讒言ざんげんしんじての行為こういであったとされているが、このころ長慶ちょうけい相次あいつ親族しんぞく周囲しゅうい人物じんぶつらの心身しんしん異常いじょうたしてやまいになり、思慮しりょうしなっていた。ふゆやすし殺害さつがいしたのち久秀ひさひで讒言ざんげんって後悔こうかいし、やまいがさらにおもくなってしまったという(『 足利あしかが』)。ただし、久秀ひさひで讒言ざんげんとするはなし出典しゅってんはいずれも軍記ぐんきぶつであり、ふゆかん義継よしつぎへの家督かとく継承けいしょう障害しょうがいになるとする判断はんだんから長慶ちょうけいみずからがくだした可能かのうせい指摘してきされている[39][40]

このため6月22にちには嗣子ししとなった義継よしつぎ家督かとく相続そうぞくのために上洛じょうらくしているが、23にち義輝よしてるらへの挨拶あいさつわるとすぐに飯盛めしもり山城やましろかえっていることから、長慶ちょうけいやまいはこのころにはすで末期まっきてきだったようである。そして11にちの7がつ4にち長慶ちょうけい飯盛めしもり山城やましろ病死びょうしした。享年きょうねん43。義継よしつぎ若年じゃくねんのため松永まつなが久秀ひさひで三好みよしさんにんしゅ三好みよし長逸ちょういつ三好みよしまさしやすしいわ成友しげともどおり)が後見こうけんやくとして三好みよしささえたが、やがて久秀ひさひで独自どくじうごきをせはじめ、えいろく8ねん1565ねん)からえいろく11ねん1568ねん)までの3年間ねんかん内紛ないふん状態じょうたいおちいった。その久秀ひさひでがわ鞍替くらがえした義継よしつぎ久秀ひさひでは、あらたに台頭たいとうした織田おだ信長のぶながかれ推戴すいたいする足利あしかが義昭よしあき協力きょうりょく三好みよしさんにんしゅ信長のぶながやぶれ、三好みよし政権せいけん崩壊ほうかいした[41]。その義継よしつぎ久秀ひさひで信長のぶなが対立たいりつし、ほろぼされた。

葬儀そうぎ墓所はかしょ

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長慶ちょうけい死後しご嗣子しし義継よしつぎ若年じゃくねんであることから松永まつなが久秀ひさひで篠原しのはら長房ながふさ三好みよしさんにんしゅらはして重病じゅうびょうであるとし、2ねんえいろく9ねん1566ねん)6がつ24にち葬儀そうぎいとなんだが、そのさい参列さんれつしょなみだながしてそのしんだという(『鹿しかえんろく』)。なお、その2年間ねんかん遺骸いがいはかなりいたんでいた(『 足利あしかが』)[42]

墓所はかしょ八尾やおしんかんてら京都きょうと大徳寺だいとくじ聚光いんさかいみなみむねてらなど[43]

長慶ちょうけい肖像しょうぞう大徳寺だいとくじ聚光いんみなみはじめてら存在そんざいする。聚光いんのものは戦国せんごく武将ぶしょうのように不敵ふてきさ、するどさ、泥臭どろくささがけており、学問がくもんがあり風流ふうりゅうかいすといった教養きょうようじん印象いんしょうつよ[44]。聚光いん肖像しょうぞう昭和しょうわ9ねん(1934ねん)1がつ30にち重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている[43]。聚光いんみなみはじめてら肖像しょうぞうともわらいみねはじめによるさん付記ふきされている[45]

経歴けいれき

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日付ひづけ旧暦きゅうれき

参考さんこう系図けいず纂要、「ざつ々聞撿しょひのととし」(内閣ないかく文庫ぶんこ架蔵かぞう写本しゃほん

人物じんぶつ逸話いつわ

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軍事ぐんじりょく

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三好みよし長慶ちょうけい画像がぞう英雄えいゆうひゃくにんいちしゅ
  • 長慶ちょうけい織田おだ信長のぶながおなじくさかい経済けいざいりょくをつけており、そこでの貿易ぼうえきによる富裕ふゆうとみ莫大ばくだい軍費ぐんぴ軍需ぐんじゅひん容易ようい入手にゅうしゅした。また祖父そふ三好みよしこれちょうちち元長もとなが以来いらいによる細川ほそかわ領国りょうごくけんでの国侍くにざむらいとの関係かんけい有能ゆうのう実弟じっていらの統治とうちする四国しこく軍事ぐんじりょくとく強力きょうりょく水軍すいぐんようしており、さらに優秀ゆうしゅう長慶ちょうけい個人こじんてき才能さいのうくわわって全盛期ぜんせいきにおける三好みよしぐん軍事ぐんじりょく大変たいへん強大きょうだいであった。また阿波あわ小笠原おがさわらしょうしていたころから三好みよし血族けつぞく意識いしき強固きょうこであり、そのため長慶ちょうけい時代じだいにはおとうとじつきゅうがしっかり阿波あわまもることで他国たこく進出しんしゅつ可能かのうにした[46]

性格せいかく

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たくみな政治せいじ軍略ぐんりゃく展開てんかいしながらも下克上げこくじょうゆうではなく旧来きゅうらい人物じんぶつであった[47]われる。保守ほしゅてき優柔不断ゆうじゅうふだんった評価ひょうかおお[48] が、こうした長慶ちょうけい人物じんぶつぞうへの評価ひょうかたいして、「戦国せんごく時代じだい常識じょうしきへの理解りかいもとづくまった妥当だとうではない評価ひょうかだ」という反論はんろんもある[48]

長慶ちょうけい将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてる長年ながねんあらそったが、長慶ちょうけい義輝よしてるたいする対応たいおう寛容かんよう微温びおんてきであったとされる。義輝よしてる細川ほそかわはるもと合戦かっせんやぶ近江おうみこく朽木くちき放逐ほうちくしたおり追撃ついげき困難こんなんではなかったにもかかわらず、長慶ちょうけい義輝よしてる執拗しつよう追撃ついげきをしようとしなかった[49]。さらにその5年間ねんかん朽木くちき攻撃こうげきした形跡けいせきられない。義輝よしてる避難ひなんした場所ばしょ細川ほそかわはるもと義兄ぎけい六角ろっかく義賢よしかた勢力せいりょく圏内けんないであり、さらに義輝よしてるいもうと婿むこである若狭わかさこく武田たけだ義統よしむね勢力せいりょくけんからもちかかったことも影響えいきょうしているとかんがえられる[49] が、『ぞく応仁おうにん後記こうき』は、てき執拗しつようめない長慶ちょうけい方針ほうしんゆえだと記述きじゅつしており、長江ながえ正一しょういちも、てき徹底的てっていてきめない長慶ちょうけい性格せいかく反映はんえいされた措置そち推定すいていしている[49]。また長江ながえ長慶ちょうけい性格せいかくについて、「下剋上げこくじょう標本ひょうほんのようにわれるが、自己じこ権益けんえき主張しゅちょうする以外いがいは、ふる伝統でんとう秩序ちつじょ尊重そんちょうする律義りちぎしゃである」とひょうしている[50]ほりたかしはこの長江ちょうこう寸評すんぴょう引用いんようし、みずからも、長慶ちょうけい義輝よしてる追及ついきゅう追撃ついげきしなかった理由りゆうとして、「先祖せんぞせん起因きいんして斬首ざんしゅ自害じがいったかなしみをかれ性格せいかく」の結果けっかとして、朽木くちきいやられた将軍しょうぐん過剰かじょう追撃ついげきしないという結果けっかした、という論拠ろんきょ提示ていじしている[51]

今谷いまたにあきらはこうした長慶ちょうけい義輝よしてるとのやりりを「柔弱にゅうじゃく果断かだんける」とひょうしており[52]、また後年こうねん織田おだ信長のぶなが足利あしかが義昭よしあきたいする「果断かだん」と比較ひかくすれば、柔弱にゅうじゃくそしりをけるのも「さもありなん」とべている[52]一方いっぽう天野あまの忠幸ただゆきは、その信長のぶながも、義昭よしあきたいしては最終さいしゅうてき追放ついほうこそしたが、和睦わぼく提案ていあんしたり極力きょくりょく寛容かんようであったこと、徳川とくがわ家康いえやす追放ついほうした旧主きゅうしゅ今川いまがわ氏真うじざね一時いちじ家臣かしんとしてむかれていたこと、北条ほうじょう氏康うじやす敵対てきたいした旧主きゅうしゅ足利あしかが晴氏はるうじ軟禁なんきんするにとどめたことなどを根拠こんきょとして提示ていじし、「敵対てきたいしたかつての主君しゅくんころさない、執拗しつようめないことは、柔弱にゅうじゃくでも保守ほしゅてきでもない、戦国せんごく時代じだい常識じょうしきである」とべ、長慶ちょうけい義輝よしてる寛容かんよう態度たいどったからとって、それを根拠こんきょ長慶ちょうけい保守ほしゅてき優柔不断ゆうじゅうふだん人物じんぶつ評価ひょうかするのは妥当だとうではないと指摘してきしている[48]

長慶ちょうけい大変たいへん寛大かんだいであったが[53]一方いっぽう決断けつだんりょくけているとおもわれるめんもあった。

  • 三好みよし政長まさながさい主君しゅくん細川ほそかわはるもと政長まさなが支持しじして長慶ちょうけい謀反むほんじんとみなされた。江口えぐちたたかいのさいおとうと十河そごう一存いちぞんはれもと三宅みやけじょうにいることじょうとそうと提言ていげんしたが長慶ちょうけいれなかった。しかも戦後せんごはれもと帰京ききょうするさいおとうと安宅あたかふゆやすし配下はいか淡路あわじぐん警護けいごさせているうえ、そのはれもと義輝よしてる近江おうみのがれると圧倒的あっとうてき優位ゆういでありながら和睦わぼく懇望こんぼうしている[54]
  • 細川ほそかわはるもといちとうはたびたび長慶ちょうけい反乱はんらんこしたが、長慶ちょうけい人質ひとじちであるはれもと長男ちょうなんあきらもとけっしてころさずに弘治こうじ4ねん1558ねん)2がつみずか加冠かかんやくとして元服げんぷくさせており[55]えいろく4ねん(1561ねん)5がつはれもと義輝よしてる仲介ちゅうかい摂津せっつもどってきたときには次男じなん晴之はるゆき六角ろっかくあづけながら(この晴之はるゆきろくかく擁立ようりつされてはん三好みよしへいげることになる)、あきらもと再会さいかいさせ隠居いんきょりょう支払しはら庇護ひごするという厚遇こうぐうをしたうえ長慶ちょうけい旧主きゅうしゅ和睦わぼくできてなみだながしたとしている(『 足利あしかが』)[56]

宗教しゅうきょう

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  • 長慶ちょうけいちち菩提ぼだいとむらうため、弘治こうじ3ねん1557ねん)、臨済宗りんざいしゅう大徳寺だいとくじ寺院じいんりゅうおきさんみなみはじめてら長慶ちょうけい尊敬そんけいする大徳寺だいとくじ90せい大林おおばやしはじめ開山かいさんとして創建そうけんした。茶人ちゃじん武野むの紹鴎千利休せんのりきゅう修行しゅぎょうし、沢庵たくあん和尚おしょう住職じゅうしょくつとめたこともあり、さかい町衆まちしゅう文化ぶんか発展はってん寄与きよした寺院じいんである。長慶ちょうけいつねに「ひゃくまん大軍たいぐんこわくないが、大林おおばやしはじめ套の一喝いっかつほどおそろしいものはない」と常々つねづねかたっていたほどに大林おおばやしはじめ套にふか帰依きえしており、みなみはじめてらまわりはかなら下馬げばしてあるいたといわれている[57]
  • 長慶ちょうけいちち菩提ぼだいとむらうため、ちち最期さいごむかえた法華宗ほっけしゅうにちたかし門流もんりゅう寺院じいんあらわ本寺ほんじ庇護ひごした。また、長慶ちょうけい旧主きゅうしゅであった細川ほそかわはるもと法華ほっけ一揆いっき鎮圧ちんあつして法華宗ほっけしゅう寺院じいんやその信徒しんとである商人しょうにんらを京都きょうとから追放ついほうしたが、かれらはさかい尼崎あまがさき兵庫ひょうごなど現在げんざい大阪湾おおさかわん沿岸えんがんしょ都市としのがれた。長慶ちょうけいあらわ本寺ほんじ同地どうち商人しょうにんとの関係かんけい重視じゅうししてこれらの寺院じいん信徒しんと庇護ひごしたことで、都市としたいする影響えいきょうりょくつよめることになった[58]
  • 長慶ちょうけいキリスト教きりすときょうをよく理解りかいし、畿内きないでの布教ふきょう活動かつどうなどをゆるしてキリシタンを庇護ひごしている。このため家臣かしん池田いけだ教正のりまさ(シメアン)などおおくのものがキリシタンとなっているが、みずからはキリシタンにはなっていない。ただし長慶ちょうけいきゅう体制たいせい人物じんぶつでありながら信長のぶながのように半面はんめんあたらしさもっていた[59]

教養きょうよう

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  • 朝廷ちょうていとの関係かんけいおもんじてたびたび連歌れんがかいひらくなど、ゆたかな文化ぶんかじんであった。大林おおばやしはじめ套は、長慶ちょうけいさん回忌かいきさいし「しんまんよう古今ここんをそらんじ、風月ふうげつぎんろうすることさんせん」とたたえた[60]長慶ちょうけい正座せいざ日常にちじょうからただしく、連歌れんが行跡ぎょうせきなどは細川ほそかわ藤孝ふじたか幽斎ゆうさい)や松永まつなが貞徳さだのり敬仰けいぎょうして模範もはんにしたという[61]
  • 晩年ばんねんにはぜん半生はんせい成功せいこうした理由りゆうであった猛々たけだけしさをうしなっていたが、これは長慶ちょうけい連歌れんが没頭ぼっとうしたためともみなされている[47]松永まつなが貞徳さだのり随筆ずいひつしゅう『戴恩』によれば、どう時代じだいにも長慶ちょうけい教養きょうようじんとしてのめん文弱ぶんじゃくとしてあげつらうひともいたようであるが、長慶ちょうけいは「うた連歌れんがぬるきものぞとうもののあずさ弓矢ゆみやりたるもなし」という和歌わかでそれに反論はんろんしている[60]
  • 長慶ちょうけい連歌れんがについて、細川ほそかわ藤孝ふじたか幽斎ゆうさい)は「修理しゅうり大夫たいふ長慶ちょうけい連歌れんがはいかにもあんじてしたる連歌れんがなりしなり」との評価ひょうか烏丸からすま光広みつひろかたっている[62]
  • 長慶ちょうけい久米田くめたたたかいでおとうと三好みよしじつきゅう戦死せんししたとき連歌れんがかいひらいていたという。そしてじつきゅう戦死せんし報告ほうこくはいると一句いっくんで周囲しゅういにいた面々めんめんをうならせたという。ただし後代こうだいかれたものであり信憑しんぴょうせい疑問ぎもんたれている[63]
  • 三井みつい記念きねん美術館びじゅつかんには、かつ長慶ちょうけい所持しょじしたというこな茶碗ちゃわん別名べつめい三好みよし引」がつてせいしている。

家族かぞく

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ははけいはるいんで、出自しゅつじはわかっていない[64]つま一人ひとり波多野はたの秀忠ひでただむすめである波多野はたの二人ふたり遊佐ゆさちょうきょうむすめである遊佐ゆさ[64]。いずれも政略せいりゃく結婚けっこんかんがえられ[64][65]一人ひとりつまとは、長慶ちょうけい細川ほそかわ氏綱うじつな結託けったくしたことが契機けいき離縁りえんされた[64]。『ぞく応仁おうにん後記こうき』は、一人ひとりつまとの離縁りえんについて、「不縁ふえん子細しさいりて、妻女さいじょ別離べつり」と記述きじゅつしている[66]

二人ふたりつまについても、公家くげ寺社じしゃ長慶ちょうけい交流こうりゅうする過程かていわされた書状しょじょう名前なまええず、はやくに病没びょうぼつしたか、遊佐ゆさちょうきょう暗殺あんさつされたのち実家じっかかえったのではないかと推定すいていされる[64]

長慶ちょうけい側室そくしつめとったことは確認かくにんされていない。子供こども義興よしおき一人ひとりのみで、義興よしおき最初さいしょつまとのあいだまれただとかんがえられる[67]

その

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名将めいしょう言行げんこうろく』によれば、17さいとき、「これより3ねんなつぶしに100日間にちかん虚空蔵こくぞうもとめといほう荒行あらぎょうおこない、それによって記憶きおくりょくきたえる」と宣言せんげんし、3ねんかけて実行じっこうした。また、修行しゅぎょう達成たっせいした19さいとしに、四国しこく巡礼じゅんれいしたという逸話いつわつたえている[68]。また同書どうしょによれば、息子むすこ松永まつなが久秀ひさひでころされた、足利あしかが義輝よしてるいもうとつまめとった、と記述きじゅつしている[69]

和歌わか

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末裔まつえい

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長慶ちょうけい末裔まつえい三好みよし義興よしおき長慶ちょうけいによって断絶だんぜつしたとされているが、江戸えど時代じだいには長慶ちょうけいの4だいまご三好みよし三省みつよし長久ちょうきゅう三好みよしちょうなだめちょう実相院じっそういんぼうかんとなっており、ちょうなだめ子孫しそん幕末ばくまつちょうけいまで代々だいだいぼうかんつとめている[70]

評価ひょうか

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どう時代じだい評価ひょうか

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朝倉あさくらはじめしずくはなし』『きのえようぐんかん』『北条ほうじょうだい』『当代とうだい』などの書物しょもつ三好みよし長慶ちょうけいへの言及げんきゅうがある[71]。これらの書物しょもつはいずれも江戸えど時代じだい初期しょきまでに成立せいりつしたものだが、いずれも長慶ちょうけいたいしては好意こういてきえがいており、『北条ほうじょうだい』は、織田おだ信長のぶなが明智あけち光秀みつひで豊臣とよとみ秀吉ひでよしならしょうしている[72]江戸えど時代じだい初期しょきまでに成立せいりつした書物しょもつは、長慶ちょうけい名将めいしょうとして礼賛らいさんしているものがけっしてすくなくなかった。

江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこう評価ひょうか

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しかし、江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこうより、家臣かしん松永まつなが久秀ひさひであわせて、根拠こんきょあやしい逸話いつわなどをまじえてかたられるようになった。その代表だいひょうが、『常山つねやまおさむだん』における、「松永まつなが久秀ひさひでしゅころし」を織田おだ信長のぶなが紹介しょうかいした、という逸話いつわである[73]。そして、所謂いわゆるさん英傑えいけつ」と比較ひかくしていつしか長慶ちょうけい存在そんざいかえりみられることはなくなってゆき、田中たなか義成よしなりの『足利あしかが時代じだい』『織田おだ時代じだい』などでは言及げんきゅうすらされなくなった[72]よりゆき山陽さんようは『日本にっぽん外史がいし』のなかで「いて恍惚こうこつとしてひとらず」と紹介しょうかいしている[72]。また今谷いまたにあきらは、有吉ありよし佐和子さわこの『恍惚こうこつひと』のモデルのひとつが長慶ちょうけいだとわれていると伝聞でんぶんかたち指摘してきしている[74]

ただし、よりゆき山陽さんよう長慶ちょうけいひょうについては、まった根拠こんきょがなく、その根拠こんきょ評価ひょうか批判ひはんされている[72]

現代げんだい研究けんきゅうさい評価ひょうか

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武田たけだ北条ほうじょう毛利もうりなどとくらべると、三好みよしおよびその主君しゅくんであった細川ほそかわきょうちょういえ史料しりょうとぼしく[75]史料しりょう豊富ほうふ分野ぶんや大名だいみょう研究けんきゅうかたよりがちであった。また、小此木おこのぎはじめこくなど、長慶ちょうけい被官ひかん発給はっきゅうした文書ぶんしょ京都きょうと寺社じしゃ中心ちゅうしんにそれなりに現存げんそんしているが[76]、そのおおくは活字かつじ翻刻ほんこくされておらず、文書ぶんしょおおくも京都きょうとかたよっている。発給はっきゅう文書ぶんしょでさえすべてが解明かいめいされていないため三好みよし政権せいけん政策せいさく長慶ちょうけい思想しそうなどについてはいまだに不明ふめいところおお[77]昭和しょうわ43ねん(1968ねん)には長江ながえ正一しょういち吉川弘文館よしかわこうぶんかんより人物じんぶつ叢書そうしょ三好みよし長慶ちょうけい』を刊行かんこう、これは先駆せんくてき研究けんきゅうひょうされ[75]今谷いまたにあきら参考さんこうにしたという。今谷いまたには、(その当時とうじ)「長江ながえのこの書籍しょせき以外いがい参考さんこうになるべき図書としょなどほとんどなかった」とかたっている[75]。その今谷いまたにがいくつか三好みよし政権せいけんならびにそれとふか関連かんれん室町むろまち幕府ばくふ末期まっきかんする著作ちょさくすが、ながらく、長慶ちょうけい三好みよし政権せいけん研究けんきゅう停滞ていたいしていた。

しかし、平成へいせい12ねん(2000ねん)に山田やまだ康弘やすひろ論文ろんぶんしゅう戦国せんごく室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2000ねん)をし、翌年よくねんからは今谷いまたに室町むろまち幕府ばくふ末期まっきならびに「げんつぎきょう」を研究けんきゅうした書籍しょせき文庫ぶんことしてつづけに再版さいはんされる[78]。さらにこのころから、天野あまの忠幸ただゆき論文ろんぶんおおやけ発表はっぴょうされるようになり、三好みよし研究けんきゅう活気かっきづく[78]

平成へいせい16ねん(2004ねん)、「戦国せんごく政治せいじ体制たいせい畿内きない社会しゃかい」が日本にっぽん研究けんきゅうかいのテーマとなり、天野あまの忠幸ただゆき論文ろんぶん三好みよし畿内きない支配しはいとその構造こうぞう」(『ヒストリア』198ごう、2006ねん)が発表はっぴょうされる。これによって、三好みよし長慶ちょうけい三好みよし政権せいけんへの学会がっかい注目ちゅうもくあつまるようになっていった[78]

現在げんざいでは、松永まつなが久秀ひさひで壟断ろうだん横暴おうぼうゆるし、下剋上げこくじょうされてしまった凡庸ぼんよう君主くんしゅとしての評価ひょうかが、「一般いっぱんてき評価ひょうかとして」定着ていちゃくしてしまっている[注釈ちゅうしゃく 4]。 そして、織田おだ信長のぶながの「革新かくしんてき」なイメージと比較ひかくされ、旧主きゅうしゅ保守ほしゅてき文弱ぶんじゃく柔弱にゅうじゃくというレッテルをられてしまっている[79]

しかし、こうした通俗つうぞくてき見解けんかいたいして、「織田おだ信長のぶなが先駆せんくしゃ[80][81]信長のぶなが先行せんこうする斬新ざんしん政策せいさくおこなった」[82]長慶ちょうけいたせなかった『下剋上げこくじょう』を、信長のぶなが成就じょうじゅした」[83] という評価ひょうかもある。

家臣かしん

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三好みよし家臣かしんだん一覧いちらん

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ

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漫画まんが

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  • 監修かんしゅう天野あまの忠幸ただゆき作画さくが濱野はまのさき乃『飯盛めしもり城主じょうしゅ三好みよし長慶ちょうけい大東だいとう歴史れきし 戦国せんごく時代じだいへん』(大東だいとう産業さんぎょう文化ぶんか生涯しょうがい学習がくしゅう、2022ねん10がつ。ISBNなし)
  • 監修かんしゅう須藤すとう茂樹しげき作画さくが:あるまじろ『三好みよし長慶ちょうけい 阿波あわんだ戦国せんごく最初さいしょ天下てんかじん』(一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん徳島とくしま経済同友会けいざいどうゆうかい、2023ねん5がつ。ISBNなし)

テレビ番組ばんぐみ

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テレビドラマ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 絹本けんぽんちょしょくわらいみねはじめさんえいろく9ねん1566ねん)、聚光いんぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
    大紋だいもんえがかれたきりもんは、えいろく4ねん1562ねん)に足利あしかが義輝よしてるから許可きょかされたもの。あかるい色彩しきさい面貌めんぼう描写びょうしゃから土佐とさ絵師えしさくられる。なお、みなみはじめてらにはほん画像がぞうとほぼどう図様ずようで、もとかめ2ねん1671ねん)7がつ4にちわらいみねはじめ訢がべつさんをした作品さくひんつたわっている(『国宝こくほう 大徳寺だいとくじ聚光いんふすまてん図録ずろくP90、東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん、2003ねん)。
  2. ^ 生母せいぼについては姓名せいめい出身しゅっしん不明ふめいで聚光いんに「けいはるいん殿どの南岸なんがん智英ともひで大姉だいし」の位牌いはい存在そんざいする(長江ちょうこう 1968, p. 2)
  3. ^ 合戦かっせん最中さいちゅう政勝まさかつ戦場せんじょう放棄ほうきして放火ほうかしたり、政長まさなが長慶ちょうけいこと細川ほそかわはるもと讒言ざんげんしたといわれる(『細川ほそかわ両家りょうけ』)(長江ちょうこう 1968, p. 97)
  4. ^ 天野あまの忠幸ただゆきは『街道かいどうをゆく』で司馬しばりょう太郎たろうべた、「三好みよし人々ひとびとには風流ふうりゅうはあったが大志たいし野望やぼうがなかった」という寸評すんぴょう引用いんようし、こうした司馬しば評価ひょうかが、残念ざんねんながら世間せけん一般いっぱん長慶ちょうけい三好みよし政権せいけんたいする評価ひょうかだとべている(天野あまの 2014, p. じょ4)。
  5. ^ 阿波あわ以来いらい家臣かしんおおくは阿波あわ支配しはいしたおとうとじつきゅうつかえたが、塩田しおだおおくはそのまま長慶ちょうけい随行ずいこうして畿内きない活動かつどうした。ただし、松永まつなが久秀ひさひでいわ成友しげともどおりら、畿内きないあらたに登用とうようした家臣かしんたち台頭たいとうして活躍かつやくし、そのかれらは後塵こうじんはいしていたようである(天野あまの 2014, pp. 149–145)。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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