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会合かいごうしゅ

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会合かいごうしゅ(えごうしゅう、かいごうしゅう[1])とは、室町むろまち時代ときよから安土あづち桃山ももやま時代じだい都市とし自治じち指導しどうてき役割やくわりたした評定ひょうじょう組織そしきまたはその組織そしき構成こうせいいん。とくにさかいにおけるものが有名ゆうめい

おな時期じき山田やまだ伊勢いせ)、大湊おおみなと伊勢いせ)、博多はかた酒田さかたなどの都市としにも類似るいじした組織そしきられた。

概要がいよう

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会合かいごうしゅ名前なまえ由来ゆらいは、てら集会しゅうかい(しゅうえ)にあったとされる。会合かいごうしゅは、さかい有徳うとくしゃ有力ゆうりょく商人しょうにん)で構成こうせいされ、能登のと臙脂えんじ(べにや)などの有力ゆうりょく商人しょうにんがそのにんにあたった。

さかい会合かいごうしゅはつされるのはひろしだい叔の『蔗軒ろく』で、1484ねん文明ぶんめい16ねん)8がつ1にちさん村社そんしゃ開口かいこう神社じんじゃ)の祭礼さいれいあたまつとめたのが「会合かいごうしゅない、カスエ(材木ざいもくしょう三宅みやけ主計かずえ)、イスミ(和泉いずみ両人りょうにん」としるされている。

会合かいごうしゅかずは36にんとされるが、文明ぶんめい年間ねんかんは10にんえる(『蔗軒ろく』)。また、納屋なやしゅう倉庫そうこぎょう)として10にん訴訟そしょう評定ひょうじょうした(『いとらん』)とする資料しりょうもある。これらのことから、36にん会合かいごうしゅなかでもとりわけ有力ゆうりょくものが10にん納屋なやしゅであるとするきがおおい。

さかい摂津せっつさかいそう和泉いずみさかい南荘なんそうかれていたが、会合かいごうしゅあつまる会所かいしょはそれぞれにあった。さかいそうでは「北庄きたしょう経堂きょうどう」(『蔗軒ろく』)とあるが場所ばしょ不明ふめいである。さかい南荘なんそう会所かいしょは、発掘はっくつ調査ちょうさなどで開口かいこう神社じんじゃ境内けいだい念仏ねんぶつてら廃寺はいじ)にあったと推定すいていされている。

類似るいじ制度せいど

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おなじころ、伊勢いせ山田やまだには年寄としよりによる自治じち制度せいど山田やまださんぽう)があったほか、伊勢いせ大湊おおみなとにも会合かいごうしゅによる自治じち組織そしきが、また博多はかたは12にんとし行司ぎょうじまちおさめ、庄内しょうない酒田さかたにはまちせい仕切しきったさんじゅうろくにんしゅがいるなど、それぞれの都市としおうじた制度せいど自治じちおこなわれた。

1556ねん弘治こうじ2ねん)に日本にっぽん宣教師せんきょうしガスパル・ヴィレラは、さかい様子ようすて、『耶蘇やそかい日本にっぽん通信つうしん』の1561ねん8がつ17にち書簡しょかんに、「このまちベニスごと執政しっせいかんによりておさめらる」としるした。この「執政しっせいかん」とは、会合かいごうしゅのことをしている[2]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 従来じゅうらいは「えごうしゅう」のみが一般いっぱんてきであったが、そのようにまれていたという裏付うらづけがないため、一部いちぶ教科書きょうかしょでは「かいごうしゅう」のみを採用さいようしている。(→東京書籍とうきょうしょせきホームページより
  2. ^ 中学ちゅうがく社会しゃかい 歴史れきしてき分野ぶんや」(日本にっぽん文教ぶんきょう出版しゅっぱん発行はっこう平成へいせい18年度ねんどばん)より

関連かんれん項目こうもく

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