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太平寺たいへいじたたか

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太平寺たいへいじたたか

石神いしがみしゃ境内けいだいにある楠木くすのき大阪おおさか指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ
戦争せんそう戦国せんごく時代じだい (日本にっぽん)
年月日ねんがっぴ天文てんもん11ねん1542ねん3月17にち
場所ばしょ太平寺たいへいじ周辺しゅうへん現在げんざい石神いしがみしゃ
結果けっか細川ほそかわはるもと畠山はたけやま稙長たねなが連合れんごうぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
細川ほそかわはるもとぐん
畠山はたけやま稙長たねながぐん
木沢きさわ長政ながまさぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
三好みよし政長まさなが
三好みよし長慶ちょうけい
遊佐ゆさちょうきょう
木沢きさわ長政ながまさ 
戦力せんりょく
8000へい以上いじょう やく7000へい
損害そんがい
不明ふめい やく300へい
三好みよし長慶ちょうけいたたか

太平寺たいへいじたたか(たいへいじのたたかい)は天文てんもん11ねん1542ねん3月17にち現在げんざい大阪おおさか柏原かしわばら太平寺たいへいじ周辺しゅうへんおこなわれたたたかいで、10年間ねんかん畿内きない権勢けんせいをふるっていた木沢きさわ長政ながまさ三好みよし長慶ちょうけい遊佐ゆさちょうきょうらにられた。

開戦かいせん経緯けいい

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足利義晴像
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足利あしかが義晴よしはるぞう

飯盛めしもりじょうたたかちち三好みよし元長もとながたれた三好みよし長慶ちょうけいは、そのいのちくだした細川ほそかわはるもと仇敵きゅうてきおもっていたが、天文てんもん8ねん1539ねん)6がつ、その時期じき到来とうらいしたとおもったのか阿波あわ細川ほそかわもちたかしとしめしあわせてはれもと打倒だとうぐんげた。これにおどろいたのが近江おうみ守護しゅご六角ろっかく定頼さだよりで、室町むろまち幕府ばくふ対策たいさく要請ようせい、このほういた12だい将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはる六角ろっかく定頼さだより木沢きさわ長政ながまさ調停ちょうていめいじる一方いっぽうで、自身じしん長慶ちょうけいはれもとにそれぞれないしょおく自重じちょうもとめた。

しかしこれを無視むしするかたち同年どうねん6がつなかば、三好みよしぐん摂津せっつ島上しまがみ周辺しゅうへんまでぐんし、先鋒せんぽうたい西岡にしおかこう神社じんじゃまでへいすすめた。これにたいはれはじめ三好みよし政長まさながぐんめいじ、西ノ京にしのきょうへいをすすめ、はれもと自身じしんいちたいひきいて同年どうねん7がつ25にち山崎やまざきしろぐんした。りょうぐん摂津せっつ山城やましろ国境こっきょう対峙たいじ合戦かっせん様相ようそうになったが、六角ろっかく定頼さだより室町むろまち幕府ばくふ政所まんどころだい蜷川にながわちかししゅんらの仲介ちゅうかいりょうぐん撤退てったい同意どういし、その条件じょうけんとして三好みよしぐん芥川あくたがわ山城やましろわたし、8がつ14にちこし水城みずき入城にゅうじょうした。このとき講和こうわ条件じょうけんとして長慶ちょうけいには越水こしみずしろあたえられ摂津せっつはんこく守護しゅごだいとなった。

三好みよし長慶ちょうけいはこのときわずか17さい。「器量きりょう軍事ぐんじてき才幹さいかんは、はやくも深淵しんえん蛟竜こうりょう(こうりゅう)ぶりをのぞかしていた」と評価ひょうかされている[1]

一方いっぽう仲介ちゅうかい奔走ほんそうした木沢きさわ長政ながまさは、河内かわうち北半きたはんこく守護しゅごだい畿内きないさい要地ようちである信貴しぎ山城やましろあたえられた。大和やまと国人くにびとしゅう味方みかたにしていた長政ながまさは、天文てんもん10ねん1541ねん)7がつ笠置かさぎしろ修築しゅうちくして居城きょじょうとした。またはれもと長慶ちょうけい自分じぶんちから和睦わぼくさせ、その同年どうねん8がつ高屋たかやしろ畠山はたけやまちょうけいころしてしまった。

三好長慶像
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三好みよし長慶ちょうけいぞう

はれもと一旦いったん和睦わぼくした長慶ちょうけいは、はれもといのちにより三好みよし政長まさなが池田いけだ信正のぶまさ池田いけだしろおも)、波多野はたの秀忠ひでただはち上城かみしろおも)らととも細川ほそかわだかこくいもうと婿むこになる塩川しおかわまさしねん居城きょじょう一庫ひとくらじょうを8がつ12にちおさむじょうした。細川ほそかわだかこく大物おおものくずはれもとられたもと管領かんりょうで、残党ざんとうこう国勢こくせい一掃いっそうしたいとのおもいがあったようである。しかし、塩川しおかわまさしねん姻戚いんせきになる伊丹いたみちかしきょう伊丹いたみじょうおも)や三宅みやけこくむら三宅みやけしろおも)らが同年どうねん9がつ29にち将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるにこのおさむしろせん不法ふほうせいうったえる一方いっぽう木沢きさわ長政ながまさ援軍えんぐん要請ようせい山城やましろ大和やまと河内かわうち大軍たいぐんひきいて三好みよしぐんこうまきにしようとした。しかし、このうごきを察知さっちした三好みよしぐん同年どうねん10がつ12にち越水こしみずじょうじょうした。

このときくわしいたたかいの様子ようす一庫ひとくらじょうたたか参照さんしょう

これをって木沢きさわぐん越水こしみずしろ攻囲こういする一方いっぽう、その前日ぜんじつの10がつ11にち義晴よしはるまえすすて、京都きょうと警固けいごおおせつけられたいともうた。しかし、笠置かさぎじょう築城ちくじょう畠山はたけやまちょうけいの弑殺、一庫ひとくらじょうたたかいなど裁可さいか無視むしした長政ながまさ専横せんおう嫌悪けんおかんをもっていた室町むろまち幕府ばくふは、10月29にち管領かんりょうはれもときた岩倉いわくらに、よく10がつ30にちには将軍しょうぐん義晴よしはる慈照寺じしょうじ退しりぞき、そのしろ川口かわぐちより近江おうみ坂本さかもとのがれてった。警護けいごすべく将軍しょうぐんがいなくなったために長政ながまさ河内かわうちげていった。

きた岩倉いわくら退しりぞいたはれもとは11月18にち義晴よしはる伊賀いが守護しゅご仁木にき御内おんうちしょ送付そうふし、笠置かさぎしろおさむしろするようにめいじた。いのちをうけた仁木にきぼうは11月下旬げじゅん伊賀いが甲賀こうが忍者にんじゃ部隊ぶたい70~80にん笠置かさぎじょうしのみ、城郭じょうかく一部いちぶ焼討やきうちしたが、その2にちぎゃく撃退げきたいされてしまった。「このとき戦闘せんとうは、記録きろくじょう忍者にんじゃ部隊ぶたい活動かつどうみとめられる最古さいこのもの」とされている[2]

証如影像
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あかし如影ぞう

その南河内みなみかわち守護しゅごだい遊佐ゆさちょうきょうはれもとは、義晴よしはるふたたうて畠山はたけやま稙長たねなが畠山はたけやままさしこく(または畠山はたけやまわたる九郎くろう討伐とうばつ御内おんうちしょおくるよう請願せいがんし、石山いしやま本願寺ほんがんじあかしてに木沢きさわ長政ながまさ味方みかたしないよう要請ようせいする書簡しょかんをそれぞれおくった。

準備じゅんびととのったはれもとは、長政ながまさ討伐とうばつするべく自身じしんへいげ、同年どうねん12がつ8にちきた岩倉いわくらぐん芥川あくたがわ山城やましろ入城にゅうじょうし、三好みよししゅ集結しゅうけつさせた。これに木沢きさわぐん即応そくおうし、笠置かさぎしろ出立しゅったつ木津川きづがわくだ山城やましろ井出いであたりに布陣ふじんした。りょうぐん木津川きづがわ淀川よどがわはさ対峙たいじしたまま越年えつねんした。もう一方いっぽう同盟どうめいしゃである遊佐ゆさちょうきょう紀伊きい国人くにびとしゅ懐柔かいじゅうすすみつつあり、根来寺ねごろじ高野寺たかのじ粉河寺こかわでら僧兵そうへいまで動員どういんさせ、はれもといきおいであった和泉いずみうえなかば国守くにもりまもる細川ほそかわもとつねは、よく天文てんもん11ねん1542ねん)2がつ帰国きこくへいあつ変事へんじそなはじめた。

たたかいの状況じょうきょう

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同年どうねん3がつ8にち遊佐ゆさちょうきょう行動こうどうこした。畠山はたけやままさしこく被官ひかんであった斎藤さいとう山城やましろまもる父子ふし暗殺あんさつ畠山はたけやま稙長たねながへの帰属きぞく明確めいかくにした。これにおどろいたせいこく同年どうねん3がつ10日とおか身辺しんぺん危険きけんおよぶのをおそれ、高屋たかやしろ信貴山しぎさんじょう逃亡とうぼうした。3月13にち稙長たねなが紀州きしゅうへいやく10000をしたがえ8ねんぶりにじょうした。

稙長たねながに10000ものへい動員どういんできる能力のうりょくなどのこっていないとおもっていた長政ながまさは、すぐさまじんはら大和やまと山城やましろへいひきい、信貴山しぎさんじょうより堅固けんご二上ふたかみ山城やましろ入城にゅうじょうした。高屋たかやじょうからは南東なんとうがわ位置いちする。また二上山にじょうざんじょう信貴山しぎさんじょう大和やまとがわはさんでかい位置いちにあり、せいこく信貴山しぎさんじょうから、長政ながまさじょう山城やましろから高屋たかやしろ挟撃きょうげきできる体制たいせいととのえたとおもわれている。これに対応たいおうするためはれもと三好みよしぜい救援きゅうえんかうようにめいじ、芥川あくたがわ山城やましろ出立しゅったつ高野たかの街道かいどう南下なんかしていった。

同年どうねん3がつ17にちだか屋城やしろから出立しゅったつした先発せんぱつたいと、二上山にじょうざんじょうから高屋たかやじょうかっていた偵察ていさつたい激突げきとつした。この状況じょうきょうをみていた長政ながまさ自軍じぐん不利ふり判断はんだんし、二上山にじょうざんじょうに3000のへいのこし、のこやく7000へい前線ぜんせん投入とうにゅうした。りょうぐん高野たかの街道かいどうから飯盛山いいもりさん方面ほうめん北進ほくしんし、落合川おちあいがわ上畠うえばたけという場所ばしょ白兵戦はくへいせんとなった。わざわざ北進ほくしんしたのは信貴山しぎさんじょうにいるせいこく増援ぞうえんぐん期待きたいしての行動こうどうだとおもわれている。戦闘せんとうさるこく午後ごご3ごろ)より開始かいし半時はんとき(1あいだ)が経過けいかしたころせいこく援軍えんぐんけてきたと長政ながまさおもったが、援軍えんぐんけたのは三好みよしぜいであった。

側面そくめんかれた木沢きさわぐんくずはじめた。自軍じぐん崩壊ほうかい認識にんしきした長政ながまさ飯盛めしもり山城やましろ退却たいきゃくするようにぜんぐんめいじた。飯盛山いいもりさんじょうには長政ながまさ君主くんしゅである畠山はたけやまざいがおり、庇護ひごもとめるためとおもわれている。しかし、遊佐ゆさぐん三好みよしぐん追撃ついげきにより長政ながまさられた。首級しゅきゅうげたのはゆうちょうきょう被官ひかん小嶋こじまぼうとい人物じんぶつであった。

戦後せんご影響えいきょう

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戦後せんごはんこく守護しゅごめになり、畠山はたけやま稙長たねながかわ内国ないこく守護しゅご任官にんかんされ、三好みよし長慶ちょうけいかたであった芥川あくたがわまごじゅうろう芥川あくたがわ山城やましろあたえられた。このたたかいによりこの10年間ねんかん畿内きない権勢けんせいをふるっていた木沢きさわぜい没落ぼつらくし、わか長慶ちょうけいちから一段いちだんつよまった[3]。その舎利寺しゃりじたたかへとつづいていく。

せつ

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石神いしがみしゃ境内けいだいにある智識ちしき寺東てらひがしとう礎石そせき

長政ながまさ最後さいごられた場所ばしょは、大和やまとがわ北岸ほくがん高野たかの街道かいどう沿いにある太平寺たいへいじ付近ふきんであったとおもわれており、その地名ちめいをとって「太平寺たいへいじたたかい」とばれている。

太平寺たいへいじ現在げんざい廃寺はいじとなっている。古来こらいこの周辺しゅうへんには智識ちしきてら山下やましたてら大里おおさとてら三宅みやけてら家原寺えばらじろくてらがあり、それらを総称そうしょうして河内かわうちろくてらばれていた。そのろくてらなか智識ちしきてらにはだい規模きぼいおりしゃぼとけがあり、それをみた聖武天皇しょうむてんのう奈良なら大仏だいぶつつくるきっかけとなったと柏原かしわばら教育きょういく委員いいんかいでは解説かいせつしている。出土しゅつどぶつから飛鳥あすか時代ときよ末期まっきから創建そうけんされ室町むろまち時代ときよには廃絶はいぜつしていたようで、この太平寺たいへいじたたか地名ちめいのみのこっていたとかんがえられている。現在げんざい太平寺たいへいじ周辺しゅうへんには石神いしがみしゃがある。

石神いしがみしゃいししるべ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 今谷いまたにあきら戦国せんごくさんこう一族いちぞく 天下でんか号令ごうれいした戦国せんごく大名だいみょうよういずみしゃ、2007ねん4がつ、119-126ぺーじ 
  2. ^ 諏訪すわ雅信まさのぶさん芳野よしのはなさんこう長慶ちょうけい生涯しょうがい-』近代きんだい文芸ぶんげいしゃ、2003ねん6がつ、162-168ぺーじ 
  3. ^ 戦国せんごく合戦かっせん研究けんきゅうかい へん戦国せんごく合戦かっせんだい事典じてん よん 大阪おおさか奈良なら和歌山わかやま三重みえ新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1989ねん1がつ、61-62ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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