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細川ほそかわはるもと

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細川ほそかわ はるもと
細川ほそかわはるもとぞう細川ほそかわ右京大夫うきょうのだいぶはれはじめ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん えいただし11ねん1514ねん
死没しぼつ えいろく6ねん3月1にち1563ねん3月24にち
改名かいめい 聡明そうめいまる幼名ようみょう)→はれはじめ
別名べつめい 六郎ろくろう通称つうしょう
戒名かいみょう りゅうのぼるいん殿どのぜん右京うきょう兆心月清公大居士
墓所はかしょ 大阪おおさか高槻たかつきもんてら
官位かんい したがえよん右京大夫うきょうのだいぶ
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ山城やましろこく摂津せっつこく丹波たんばこく讃岐さぬきこく土佐とさこく守護しゅご
主君しゅくん 足利あしかが義晴よしはる義輝よしてる
氏族しぞく 細川ほそかわきょうちょういえ
父母ちちはは ちち細川ほそかわきよしもとはは清泰きよやすいん
兄弟きょうだい はれはじめ畠山はたけやまよし正室せいしつ有馬ありま重則しげのり正室せいしつ
つま 正室せいしつ三条さんじょうこうよりゆきむすめ
継室けいしつ六角ろっかく定頼さだよりむすめ
あきらもと晴之はるゆき?、むすめ朝倉あさくら義景よしかげ正室せいしつ)、
むすめ飯尾いいお定宗さだむねしつ)、むすめあらわさかえしつ
養女ようじょ如春あま
猶子ゆうし越智おちぼう細川ほそかわもとつね[1]
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細川ほそかわ はるもと(ほそかわ はるもと)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう大名だいみょう山城やましろこく摂津せっつこく丹波たんばこく讃岐さぬきこく土佐とさこく守護しゅご細川ほそかわきょうちょういえ17だい当主とうしゅ室町むろまち幕府ばくふ重鎮じゅうちんでもあり、宿敵しゅくてき細川ほそかわだかこくとしその地位ちいてから家臣かしんだった三好みよし長慶ちょうけいによる下克上げこくじょう失脚しっきゃくするまでのあいだきょう畿内きない君臨くんりんしていた。

概要がいよう

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ちち細川ほそかわきよしもとはは清泰きよやすいん嫡男ちゃくなん細川ほそかわあきらもと正室せいしつ三条さんじょうこうよりゆき長女ちょうじょであり、そのえんから武田たけだ信玄しんげん本願寺ほんがんじ法主ほっしゅ顕如けんにょ義兄ぎけいたる人物じんぶつでもある。

当時とうじ畿内きない内乱ないらん状態じょうたいにあった細川ほそかわきょうちょういえをまとめ、みずからの政権せいけん確立かくりつさせた。のち、家臣かしん三好みよし長慶ちょうけい反乱はんらん没落ぼつらく勢威せいいもどせないままぼっした。管領かんりょう就任しゅうにんしたとするせつがあるが、史実しじつではない[よう出典しゅってん]詳細しょうさい後述こうじゅつおよ管領かんりょう項目こうもく参照さんしょうのこと)。

はれはじめいみな室町むろまち幕府ばくふ12だい将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるへんいみなけたものであるが、義晴よしはるへんいみなけるまえや、義晴よしはる敵対てきたい関係かんけいであった時期じきには六郎ろくろう通称つうしょう仮名かめい)をいみなわりにもちいた。ほん記事きじでの呼称こしょうはれもと統一とういつする。

生涯しょうがい

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こうこくとの決戦けっせん

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細川ほそかわだかこく

えいただし11ねん1514ねん)に細川ほそかわきよしもととして誕生たんじょうえいただし17ねん1520ねん)6がつちちきよしもと阿波あわこく死去しきょし、はれもとあといだ[2]。ただ、細川ほそかわきょうちょういえ家督かとくめぐ細川ほそかわだかこくとのあらそいをつづけていたちちは、こうこく幾度いくどまされつづけたまま死去しきょし、はれもと継承けいしょう劣勢れっせいくつがえせていないくるしい状況じょうきょうつづいていた。一方いっぽう仇敵きゅうてきこうこく将軍しょうぐん足利あしかが義稙よしたね追放ついほうわって足利あしかが義晴よしはる将軍しょうぐん擁立ようりつしてえを断行だんこうするなど事実じじつじょう天下てんかじんとして君臨くんりんしており、反撃はんげき機会きかいとおのいていた。

だがだいひさし6ねん7がつ13にち1526ねん8がつ20日はつか)、従弟じゅうてい細川ほそかわいんけんからの讒言ざんげんしんじたこうこく配下はいか香西こうざいもともりったためもともり兄弟きょうだい波多はた野元のもときよし柳本やなぎもと賢治けんじたちそむかれ、勢力せいりょく内部ないぶ分裂ぶんれつみずかまねいた。そんな収拾しゅうしゅうのつかないてきかた窮状きゅうじょうにつけむべく、13さいはれもと三好みよし元長もとながようされて、同年どうねん10がつこうこく打倒だとうへいげた。どう年内ねんないには畿内きないまで進出しんしゅつし、こうこくそむいた波多野はたのぐん合流ごうりゅうした。

こうこくはれもとあらそいは、細川ほそかわ家督かとくうば私闘しとうであるにもかかわらず、こうこく現職げんしょく管領かんりょうであることを利用りようして将軍しょうぐん義晴よしはる擁立ようりつしていたために、名目めいもくじょう官軍かんぐんしょうすることができた。それでははれもとがわ賊軍ぞくぐんあつかいをけてしまい、保身ほしんに奔る味方みかた離反りはんされるおそれをはらんでいたため、はれはじめがわ義晴よしはるおとうと足利あしかがよし擁立ようりつすることでそなえている。そもそもだいなが3ねん1523ねん)に足利あしかが義稙よしたね阿波あわこく撫養むや下向げこうしてきたとき細川ほそかわさんしゅう助力じょりょくようとしたが、当時とうじはれもとは10さい少年しょうねんであったため助力じょりょくすることかなわず、失意しついのうちに義稙よしたねぼっした。その当時とうじ阿波あわ守護しゅごはれもと従弟じゅうてい細川ほそかわ阿波あわ細川ほそかわかんで、将軍しょうぐん継嗣けいしとしての維と、細川ほそかわ宗家そうけ継嗣けいしとしてのはれもと一緒いっしょ養育よういくしていた(ただし、近年きんねんになってうま隆弘たかひろはれもと実弟じっていきよしもと次男じなん)であったとするせつ提示ていじしている[3])。

だいなが7ねん1527ねん)2がつ12にちこうこくとの決戦けっせん勝利しょうりかつら川原かわらたたか)。義晴よしはるようしたままのこうこく近江おうみこくとすと、和泉いずみこくさかい本拠ほんきょとしたはれもとは、都落みやこおちにより実態じったいうしなったこう国政こくせいけんわるべく、よし維を将軍しょうぐんいただく「さかい公方くぼう」という擬似ぎじ幕府ばくふ創設そうせつした[4][5][6]

ここまで三好みよし元長もとなが功績こうせき抜群ばつぐんだったが、元長もとなが柳本やなぎもと賢治けんじ傍流ぼうりゅう三好みよし政長まさながらと対立たいりつし、はれはじめ元長もとなが細川ほそかわだかこくとの和睦わぼくはかったことで不満ふまんいだき、賢治けんじらの讒言ざんげんれていたため、とおるろく2ねん1529ねん)に憤慨ふんがいした元長もとなが阿波あわ下向げこうという事態じたいまねさかい公方くぼう軍事ぐんじりょく低下ていかさせてしまった。こうこく備前びぜんこく守護しゅごだい浦上うらかみ村宗むらむね結託けったくして再起さいきはか挙兵きょへい迎撃げいげきかった賢治けんじとおるろく3ねん1530ねん)にこうこく刺客しかく暗殺あんさつされ、いきおいにったこうこく村宗むらむねらが摂津せっつこく侵攻しんこうしてさかい公方くぼう窮地きゅうちたせた。

とおるろく4ねん1531ねん)になると細川ほそかわだかこく摂津せっつ大半たいはん制圧せいあつされたうえ京都きょうとこうこく内藤ないとう彦七ひこしち奪回だっかいされさかい公方くぼう攻撃こうげき危機ききさらされるものの、同年どうねん2がつ三好みよし元長もとなが和睦わぼく。3月に元長もとながこう国軍こくぐん進撃しんげきはばませて膠着こうちゃくむ(中嶋なかじまたたか)と、6月4にち7がつ17にち)には来援らいえん赤松あかまつまさしゆうはれまさし)によるこうこくへの支援しえんよそおっただまちがとなって、細川ほそかわだかこく浦上うらかみ村宗むらむねぐん壊滅かいめつさせた(天王寺てんのうじたたか)。

戦後せんごこうこくには逃亡とうぼうされるも6がつ5にちには潜伏せんぷくちゅう摂津せっつこく尼崎あまがさき捕縛ほばくし、8にちには尼崎あまがさき広徳寺こうとくじ自害じがいさせ(大物おおものくず)、亡父ぼうふかたきった[7][8][9]

権力けんりょく基盤きばん確立かくりつけて

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足利あしかが義晴よしはる

それまでの権力けんりょくしゃだった細川ほそかわだかこくほろぼしたはれもとだったが、さかい公方くぼうとしての政権せいけん奪取だっしゅというこれまでの方針ほうしん転換てんかんげん将軍しょうぐん義晴よしはる和睦わぼくし、その管領かんりょうこうとしたため、三好みよし元長もとなが対立たいりつする。細川ほそかわきょうちょういえ家督かとく管領かんりょうさえはいれば、べつ義晴よしはる将軍しょうぐんのままでもかったということである。共通きょうつうてきこうこくほろぼしてわずか2ヶ月かげつ内部ないぶ対立たいりつ表面ひょうめんしたさかい公方くぼうであったが、こうこく討伐とうばつ功労こうろうしゃであった元長もとながたいし、それを邪魔じゃましゃ畿内きないくにしゅはれもとした結集けっしゅうした。

とおるろく5ねん1532ねん)、はれもと肩入かたいれする木沢きさわ長政ながまさ攻撃こうげきする元長もとなが排除はいじょすべく、茨木いばらぎちょうたかし摂津せっつこくしゅ策謀さくぼうらして本願寺ほんがんじだい10せい法主ほっしゅあかし一向いっこう一揆いっき蜂起ほうき依頼いらい提言ていげんあかし如の快諾かいだく蜂起ほうきした一揆いっきぐんによってみずからのけがことなく元長もとながさかいはいさせただけでなく、不和ふわになった足利あしかがよし維の阿波あわへの放逐ほうちくにも成功せいこうした(飯盛めしもりじょうたたか)。長政ながまさ主君しゅくんで、元長もとなが支援しえんけていた畠山はたけやまよしまれ、一向いっこう一揆いっきたれている。

内部ないぶ反対はんたい排除はいじょし、将軍しょうぐん義晴よしはる和睦わぼくできたはれもとは、蜂起ほうきしたまま乱行らんぎょうかさねた一向いっこう一揆いっきぐん鎮圧ちんあつ神経しんけいついやした。一向いっこうむね対立たいりつ宗派しゅうはであった法華宗ほっけしゅうとも協力きょうりょくして法華ほっけ一揆いっき誘発ゆうはつさせ、ほかにも領内りょうない一向いっこうむね活動かつどうなやまされていた近江おうみこく六角ろっかく定頼さだよりとも協力きょうりょくして山科やましな本願寺ほんがんじめた(山科やましな本願寺ほんがんじたたか)。山科やましな本願寺ほんがんじ焼亡しょうぼう石山いしやま本願寺ほんがんじ移転いてんした一向いっこう一揆いっきたたかい、天文てんもん2ねん1533ねん)に一向いっこう一揆いっき反撃はんげきさかいから淡路あわじこく亡命ぼうめいしたが、摂津せっつ池田いけだしろ復帰ふっきして体勢たいせいなおし、天文てんもん4ねん1535ねん)に和睦わぼくした(とおるろく天文てんもんらん)。天文てんもん3ねん1534ねん)に木沢きさわ長政ながまさ仲介ちゅうかい三好みよし元長もとなが嫡男ちゃくなん三好みよし長慶ちょうけいとも和睦わぼくして家臣かしんれた。

天文てんもん5ねん1536ねん)、京都きょうと勢力せいりょくばした法華ほっけしゅうたいし、比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ六角ろっかく定頼さだより連合れんごうして壊滅かいめつさせた(天文てんもん法華ほっけらん)。同年どうねん細川ほそかわだかこく残党ざんとうひきいて敵対てきたいしていたこうこくおとうとはれこく畿内きない安定あんていさせた。同年どうねん管領かんりょう就任しゅうにん[2]天文てんもん6ねん1537ねん)に右京大夫うきょうのだいぶ任官にんかんされた。なお、このとしの4がつ19にちには六角ろっかく定頼さだより猶子ゆうしとなっていた三条さんじょうこうよりゆきむすめはれもととついでいる[10][11][12]

一方いっぽう足利あしかが義晴よしはる本来ほんらいてきかたであるはれもと対抗たいこうするために権力けんりょく機構きこう整備せいびしたこと、六角ろっかく定頼さだより幕府ばくふないでの発言はつげんりょくたかまったこと、りょう細川ほそかわらん以前いぜんからの細川ほそかわきょうちょういえ譜代ふだい家臣かしんうちしゅ)のおおくが細川ほそかわだかこく配下はいかとして運命うんめいともにしたことによるきょうちょういえ政治せいじてきノウハウの喪失そうしつなどによって幕政ばくせいにおける細川ほそかわきょうちょういえ発言はつげんりょくおおきく低下ていかしたとする指摘してきもある[13]

はれもと政権せいけん時代じだい

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三好みよし長慶ちょうけい

天文てんもん8ねん1539ねん)、上洛じょうらくした三好みよし長慶ちょうけい同族どうぞく三好みよし政長まさなが河内かわうちじゅうなな箇所かしょめぐってあらそい、はれもと政長まさなが肩入かたいれして長慶ちょうけい対立たいりつしたが、義晴よしはる六角ろっかく定頼さだより仲介ちゅうかい長慶ちょうけい和睦わぼくした。このとき小競こぜいにわったが、天文てんもん10ねん1541ねん)には増長ぞうちょうした木沢きさわ長政ながまさ造反ぞうはんし、政長まさなが排除はいじょうったえられたとき拒絶きょぜつ京都きょうと郊外こうがい岩倉いわくらのがれ、よく天文てんもん11ねん1542ねん)に摂津せっつ芥川あくたがわ山城やましろうつ反撃はんげき長慶ちょうけい政長まさなが河内かわうちこく遊佐ゆさちょうきょうによる活躍かつやく長政ながまさっている(太平寺たいへいじたたか)。

しかし反乱はんらんはなおもつづき、天文てんもん12ねん1543ねん)、細川ほそかわだかこく養子ようし細川ほそかわ氏綱うじつなはれもと打倒だとうかかげて和泉いずみこく挙兵きょへい。この反乱はんらん同年どうねんうちおさまったが、天文てんもん14ねん1545ねん)には山城やましろこくこうくに細川ほそかわ元治もとはるげんあきらくにけい3だい丹波たんばこく内藤ないとう国貞くにさだらが挙兵きょへい三好みよし長慶ちょうけい政長まさながしょ軍勢ぐんぜいひきいて反乱はんらん鎮圧ちんあつした。天文てんもん15ねん1546ねん)8がつ氏綱うじつな畠山はたけやままさしこくゆうちょうきょう援助えんじょさい挙兵きょへい長慶ちょうけいうごきをふうじて摂津せっつこくほとんどをうばった。氏綱うじつな畠山はたけやままさしこく遊佐ゆうさちょうきょうらがむすんだだけでなく、9月に上野うえのこくけいさい挙兵きょへいして京都きょうとはいったためはれもと丹波たんばこく逃亡とうぼうする。

このとしの12月に将軍しょうぐん義晴よしはる滞在たいざいさき近江おうみこく坂本さかもと嫡男ちゃくなんきく幢丸元服げんぷくさせたうえ将軍しょうぐんしょくゆずるが、このさい六角ろっかく定頼さだより管領かんりょうだいにんじられ、本来ほんらい管領かんりょうおこなうべき加冠かかんやく烏帽子えぼしおや)をつとめた(『光源院こうげんいん殿御とのご元服げんぷく』)。これは、従来じゅうらい管領かんりょうであるはれもと出陣しゅつじんちゅうであったため定頼さだより代行だいこうしたとほぐされていたが、近年きんねんでは文字通もじどお管領かんりょう空席くうせきであった(=はれもと管領かんりょうではなかった)とかいするせつされている。このせつによれば、当時とうじ管領かんりょう職務しょくむ儀礼ぎれいてき分野ぶんやまり、もしはれもと坂本さかもとけつけられる状態じょうたいであればこの元服げんぷく先立さきだって管領かんりょう任命にんめいされたはずであるが、実際じっさいにはそれが不可能ふかのうであったために近江おうみ守護しゅごである定頼さだより管領かんりょうだいにんじられ、はれもと最後さいごまで管領かんりょうにんじられなかったとされる。いずれにしても、慣例かんれいはんして細川ほそかわよりも家格かかくがる六角ろっかく当主とうしゅ将軍しょうぐん烏帽子えぼしおやにする行為こういはれもと面子めんつみにじるものであった[14]。また、よしふじ元服げんぷく翌日よくじつおこなわれた将軍しょうぐん宣下せんげ儀式ぎしき遊佐ゆさちょうきょう氏綱うじつな畠山はたけやままさしこく重臣じゅうしん)が参列さんれつしていることに注目ちゅうもくし、氏綱うじつなちょうきょうつうじて管領かんりょう就任しゅうにんしてふじ烏帽子えぼしおやになろうと工作こうさくはかっており、もし氏綱うじつな坂本さかもとけつけられる状態じょうたいであればこの元服げんぷく先立さきだって管領かんりょう任命にんめいされたはずであるが、実際じっさいにはそれが不可能ふかのうであったこととはれもとしゅうとである定頼さだよりがこれに反対はんたいする意図いと管領かんりょうだいとして烏帽子えぼしおやつとめたとする見方みかたもある[15]。やがて義晴よしはる父子ふし氏綱うじつな支持しじてんじて、はれもと敵対てきたいする。

これにたいして、はれもとは11月に三好みよし長慶ちょうけい居城きょじょうである摂津せっつこし水城みずきからきた神呪かんのうてらうつり、越水こしみずじょう待機たいきしていた長慶ちょうけい協議きょうぎしてよく天文てんもん16ねん1547ねん)に反撃はんげき摂津せっつ細川ほそかわ氏綱うじつなかたやぶ摂津せっつ平定へいてい7がつ21にち長慶ちょうけい細川ほそかわ氏綱うじつな遊佐ゆうさちょうきょうらに舎利寺しゃりじたたか勝利しょうり義晴よしはるともうるう7がつ定頼さだより協力きょうりょく和睦わぼくして氏綱うじつな反乱はんらんをようやく鎮圧ちんあつした[16][17][18]

天文てんもん17ねん1548ねん5月6にち、かつて細川ほそかわ氏綱うじつな寝返ねがえった摂津せっつ国人くにびと池田いけだ信正のぶまさ切腹せっぷくさせたことにより三好みよし長慶ちょうけい摂津せっつ国人くにびとしゅ離反りはんまねき、8がつ三好みよし一族いちぞくみだ三好みよし政長まさなが討伐とうばつ認可にんか要請ようせい長慶ちょうけいからされても拒否きょひすると、10月には氏綱うじつながわ転属てんぞくした長慶ちょうけい挙兵きょへいされ、摂津せっつ榎並えなみしろ攻囲こういされる。その榎並えなみじょうこもっていた政長まさなが政勝まさかつ見捨みすてては畿内きないくにしゅから見限みかぎられるおそれがあるため、はれもと戦力せんりょくおとるまま摂津せっつこく江口えぐちにおいて長慶ちょうけいらとたたかうこととなった。しかし、正面しょうめんからの主力しゅりょく決戦けっせん回避かいひし、あくまでもろくかくぐん到来とうらいってから決戦けっせんのぞもうとしたため、機先きせんせいせられたはれもと主力しゅりょくたたかわないまま敗北はいぼくする(江口えぐちたたか)。このたたかいで三好みよし政長まさなが高畠たかはたちょうただしおおくの配下はいかうしなったはれもと追撃ついげきおそれて、将軍しょうぐん義輝よしてるらととも近江おうみこく坂本さかもとまでのがれた[19][20][21]

没落ぼつらく晩年ばんねん

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相国寺しょうこくじ ほうどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい

はれもと足利あしかが義輝よしてる現職げんしょく将軍しょうぐん管領かんりょう不在ふざいとなった京都きょうとには三好みよし長慶ちょうけい細川ほそかわ氏綱うじつな上洛じょうらく長慶ちょうけい幕府ばくふ京都きょうと実権じっけんにぎった(三好みよし政権せいけん)。近江おうみ逃亡とうぼうしたはれもと天文てんもん19ねん1550ねん)に足利あしかが義晴よしはる死去しきょしてからは義輝よしてる擁立ようりつし、香西こうざい元成もとなり三好みよし政勝まさかつなどはれもととう残党ざんとうひきいて東山ひがしやま中尾なかおじょう丹波たんばこく拠点きょてん京都きょうと奪回だっかいこころみたが成功せいこうせず中尾なかおしろ破棄はき中尾なかおじょうたたか)。

天文てんもん20ねん1551ねん)、丹波たんばしゅひきいた元成もとなり政勝まさかつ長慶ちょうけいぐんやぶれ(相国寺しょうこくじたたか)、天文てんもん21ねん1552ねん)1がつ長慶ちょうけい義輝よしてる和睦わぼくして義輝よしてる上洛じょうらく氏綱うじつな細川ほそかわ当主とうしゅとなり嫡男ちゃくなん聡明そうめいまるあきらもと)が長慶ちょうけい人質ひとじちになってもはれもと和睦わぼくみとめず出家しゅっけし、若狭わかさこく守護しゅご武田たけだしんゆたかたよ若狭わかさこく下向げこうする。しんゆたか細川ほそかわ領国りょうごくである丹波たんば派兵はへいする。

それからは丹波たんばこくから度々どど南下なんかして三好みよしぐんおどかし、天文てんもん22ねん1553ねん)3がつ義輝よしてる三好みよし長慶ちょうけい決別けつべつ、7がつ義輝よしてるから赦免しゃめんされると再度さいど義輝よしてるとも長慶ちょうけい交戦こうせんした。

しかし、8がつ義輝よしてるかた霊山れいざんじょう三好みよしぐんとされると、義輝よしてるとも近江おうみこく朽木くちき逃亡とうぼうした。

丹波たんばこくでは香西こうざい元成もとなり三好みよし政勝まさかつらが波多野はたの元秀もとひでむす長慶ちょうけい内藤ないとう国貞くにさだったが、国貞くにさだ養子ようし長慶ちょうけい部将ぶしょう松永まつながちょうよりゆき反撃はんげきされて丹波たんばほとんどを平定へいていされ、弘治こうじ3ねん1557ねんごろもとしゅうちょうよりゆき没落ぼつらくさせられ丹波たんば三好みよし領国りょうごくとなった。播磨はりまこくでももとなり明石あかしむすんだが、弘治こうじ元年がんねん1555ねん)に明石あかし三好みよしぐん攻撃こうげきされ降伏ごうぶく勢力せいりょく拡大かくだいした長慶ちょうけいまえあしせなくなった[22][23][24]

えいろく元年がんねん1558ねん)、上洛じょうらくはか将軍しょうぐん山城やましろ三好みよしぐん交戦こうせんするも(北白川きたしらかわたたか)、六角ろっかく義賢よしかた仲介ちゅうかい義輝よしてる三好みよし長慶ちょうけいふたた和睦わぼくむすぶと坂本さかもとまる。

えいろく4ねん1561ねん)、隠居いんきょはれもと次男じなん細川ほそかわ晴之はるゆき細川ほそかわ当主とうしゅ見立みたてて、ろくかく畠山はたけやまぐんとも近江おうみはん三好みよしへいげさせる。三好みよしぐん敗退はいたい晴之はるゆき戦死せんし三好みよし長慶ちょうけい和睦わぼくするも、摂津せっつもんてらじょう幽閉ゆうへいされた。

細川ほそかわはるもとたから篋印とう

えいろく6ねん1563ねん)3がつ1にちひろしもんてら死去しきょした[25][26][27]享年きょうねん50。

はれもと死後しごあきらもと信良のぶよし)が家督かとく相続そうぞくしたが、かつての威勢いせいもどせず没落ぼつらくしていった[28]細川ほそかわ氏綱うじつな管領かんりょう就任しゅうにんしたとされるものの史料しりょうてきうらづけはなく、ほどなく死去しきょ以降いこうだれ管領かんりょう任命にんめいされなかった。のちに、あきらもと織田おだ信長のぶながつかえ、子孫しそん縁者えんじゃ秋田あきたたより、三春みはるはん家老がろうとしてぐうされた。

側近そっきん

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はれもとには、はれもと自身じしんつかえて取次とりつぎをするものと、将軍しょうぐんしょ大名だいみょうといった部外ぶがいしゃ交渉こうしょうおこなえるものの2種類しゅるい側近そっきんがいた。前者ぜんしゃは、湯浅ゆあさこく古津ふるつ元幸もとゆき高畠たかはた長信ながのぶなどが、後者こうしゃは、木沢きさわ長政ながまさ三好みよし政長まさなが三好みよし長慶ちょうけいなどがいた。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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  1. ^ 朝倉あさくらひろし奈良ならけん だいじゅういちかん 大和やまと武士たけし名著めいちょ出版しゅっぱん、1993ねん、335ぺーじISBN 4-626-01461-5 
  2. ^ a b 善通寺ぜんつうじ企画きかく 1977, p. 520.
  3. ^ うま隆弘たかひろ細川ほそかわきよしもと陣営じんえい再編さいへん上洛じょうらくせん」『ふみさとしだい14ごう、2016ねん /所収しょしゅう:うま隆弘たかひろ戦国せんごく細川ほそかわ権力けんりょく研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2018ねん、217-219ぺーじISBN 978-4-642-02950-6 
  4. ^ 長江ちょうこう 1989, p. 34-44.
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  6. ^ 福島ふくしま 2009, pp. 70–73.
  7. ^ 長江ちょうこう 1989, pp. 44–55.
  8. ^ 今谷いまたに 2007, pp. 93–104.
  9. ^ 福島ふくしま 2009, pp. 73–76.
  10. ^ 長江ちょうこう 1989, pp. 55–70.
  11. ^ 今谷いまたに 2007, pp. 105–118.
  12. ^ 福島ふくしま 2009, pp. 76–91.
  13. ^ 浜口はまぐち 2014, p. 287.
  14. ^ 浜口はまぐち 2014, pp. 112–116, 121–122, 280–282.
  15. ^ 木下きのしたあきらぶんまわし戦国せんごく足利あしかが将軍家しょうぐんけ任官にんかん天皇てんのう足利あしかが義晴よしはる譲位じょういみぎ大将たいしょう任官にんかん中心ちゅうしんに―」『日本にっぽん歴史れきし』793ごう、2014ねん。/所収しょしゅう:木下きのしたあきらぶんまわし へん足利あしかが義晴よしはる』戒光さち出版しゅっぱん〈シリーズ・室町むろまち幕府ばくふ研究けんきゅう だいさんかん〉、2017ねん、285-287ぺーじISBN 978-4-86403-253-7 
  16. ^ 長江ちょうこう 1989, pp. 71–95.
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  18. ^ 福島ふくしま 2009, pp. 91–102.
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  22. ^ 長江ちょうこう 1989, pp. 106–127, 132–137, 152–155.
  23. ^ 今谷いまたに 2007, pp. 151–163, 169–188, 197–204.
  24. ^ 福島ふくしま、p.105-115
  25. ^ 長江ちょうこう 1989, pp. 155–161, 193–195, 224.
  26. ^ 今谷いまたに 2007, pp. 204–211, 235.
  27. ^ 福島ふくしま 2009, pp. 115–116, 121.
  28. ^ 善通寺ぜんつうじ企画きかく 1977, p. 521.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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