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細川 斉護(ほそかわ なりもり)は、江戸時代後期の大名。肥後国宇土藩8代藩主、のち肥後熊本藩12代藩主。官位は従四位下・中務少輔、越中守、左近衛権中将、侍従。熊本藩細川家12代。宇土藩主時代は細川 立政(ほそかわ たつまさ)と名乗る。
宇土藩主・細川立之の長男として誕生した。幼名は与松。
文政元年(1818年)、父の死により跡を継いで宇土藩主となる。文政9年(1826年)に叔父の熊本藩主・細川斉樹の養嗣子となって本家の家督を継いだ。この時、諱を立政から斉護(「斉」は将軍・徳川家斉からの偏諱、斉護以降「護」は細川家の通字となり現在に至っている)に改め、宇土藩は弟の行芬が継いでいる。
当時、熊本藩では代々の藩主による出費などで、既に80万両という膨大な借金を抱え、財政は破綻寸前となっていた。しかもこのような中で、アメリカやイギリスなどの日本接近もあって、幕府から天草地方や相模湾警備を命じられ、その出費で財政はさらに悪化した。このため、斉護は財政再建のために藩政改革に取りかかるが、その方針をめぐって横井小楠・長岡是容ら改革派と松井佐渡(=10代当主松井章之(てるゆき))ら保守派が対立し、かえって藩内が二分された。
安政7年3月3日(1860年3月24日)、桜田門外の変の水戸浪士8人が熊本藩邸へ趣意書を提出し自訴したが、細川家でも江戸城で宗孝が襲撃により落命しており[1]、間を置かず全員が他家に預け替えられている[2]。
このような混乱と苦悩の中で、万延元年(1860年)4月17日、斉護は57歳で死去した。長男の慶前は早世していたため、跡は次男の護順改め慶順(のちの韶邦)が継いだ。
- 父:細川立之(1784年 - 1818年)
- 母:富、栄昌院 - 土井利厚の娘
- 養父:細川斉樹(1797年 - 1826年)
- 正室:益姫 - 浅野斉賢の娘
- 室:久 - 上村氏
- 室:比企氏
- 次男:細川韶邦(1835年 - 1876年) - 前名:護順、慶順
- 五男:友之丞 - 早世
- 室:田鶴 - 興願院
- 室:青木甚之助の娘
- 室:長 - 飯銅氏
- 養子
- ^ 危篤状態ということにして後に死亡を届けたのは直弼の場合と同じ(これで改易を回避している)。
- ^ 菊地明『幕末証言 史談会速記録を読む』(2017年)など
細川氏宇土藩8 代藩主 (1818 年 - 1826 年) |
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細川家熊本藩10代 藩主 (1826 年 - 1860 年) |
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加藤家 | |
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