細川ほそかわまさしこく

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細川ほそかわまさしこく
時代じだい 室町むろまち時代ときよ後期こうき - 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん せいちょう元年がんねん1428ねん
死没しぼつ あかりおう4ねん8がつ23にち1495ねん9月11にち
改名かいめい せいこくみちしょう別名べつめい
別名べつめい 六郎ろくろう通称つうしょう)、もとくに
戒名かいみょう 禅昌院ぜんしょういんどう勝大かつおお
官位かんい 中務なかつかさしょうみぎ馬頭めず
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ 摂津せっつぶんぐん守護しゅご
主君しゅくん 足利あしかが義政よしまさ義尚よしなお
氏族しぞく 細川ほそかわ野洲やす細川ほそかわのりうまや
父母ちちはは ちち細川ほそかわはる養父ようふ細川ほそかわけん
兄弟きょうだい きょうはるせいこくけんはる
せいけん
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細川ほそかわ まさしこく(ほそかわ まさくに)は、室町むろまち時代ときよ後期こうきから戦国せんごく時代じだいにかけての武将ぶしょう細川ほそかわのりうまや2だい当主とうしゅ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

細川ほそかわ野洲やす2だい当主とうしゅ細川ほそかわはるとして誕生たんじょう

てんうまや当主とうしゅ細川ほそかわけん養子ようしとなり、応仁おうにん2ねん1468ねん)に養父ようふ死去しきょしたため家督かとくいで当主とうしゅとなった。応仁おうにんらんではひがしぐん細川ほそかわ勝元かつもと支持しじした。西にしぐん一色いっしき義直よしなお丹後たんご守護しゅごかれると、文明ぶんめい元年がんねん1469ねん)に若狭わかさ武田たけだ武田たけだしんけん丹後たんご守護しゅごにんじられた。このときせいこく丹後たんごこく与謝よさぐんぶんぐん守護しゅごにんじられたため、てんうまや家臣かしん天竺てんじくまごよんろう出兵しゅっぺいさせ、しんけん家臣かしん逸見いつみ駿河するがまもるらとともはいらせた。文明ぶんめい5ねん1473ねん)に勝元かつもと死去しきょして幼少ようしょう嫡男ちゃくなんせいもと家督かとくぐと、その後見人こうけんにんとして補佐ほさつとめた。

文明ぶんめい17ねん1485ねん)、8だい将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさしたがって出家しゅっけした。文明ぶんめい18ねん1486ねん)には摂津せっつ西成にしなりぐんぶんぐん守護しゅごにんじられている。

あかりおう4ねん1495ねん)8がつ23にち死去しきょせいけんいだ。

系譜けいふ[編集へんしゅう]