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細川ほそかわみつるひさ

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細川ほそかわみつるひさ
時代じだい 室町むろまち時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん もとなか3ねん/至徳しとく3ねん1386ねん
死没しぼつ えいとおる2ねん9月28にち1430ねん10月15にち
官位かんい 讃岐さぬきもり兵部ひょうぶしょう
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ 阿波あわ守護しゅご
主君しゅくん 足利あしかが義持よしもち義量よしかず義教よしのり
氏族しぞく 細川ほそかわ備中びっちゅう守護しゅご細川ほそかわ阿波あわ守護しゅご
父母ちちはは ちち細川ほそかわ満之まんし養父ようふ細川ほそかわ義之よしゆき
兄弟きょうだい たよおも満久まく基之もとゆき
もちつねきょうゆう成就じょうじゅいんぞうかん
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細川ほそかわ みつるひさ(ほそかわ みつひさ)は、室町むろまち時代ときよ前期ぜんき守護しゅご大名だいみょう阿波あわこく守護しゅご細川ほそかわ阿波あわ守護しゅご3だい当主とうしゅ

生涯しょうがい

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細川ほそかわ備中びっちゅう守護しゅご当主とうしゅ細川ほそかわ満之まんし次男じなん一説いっせつには三男さんなん)として誕生たんじょう細川ほそかわ義之よしゆき養子ようしとなる。

元服げんぷくさいして、ちち同様どうよう、3だい将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつよりへんいみな授与じゅよけて満久まく名乗なのる(義満よしみつ退任たいにんするおうひさし元年がんねん1394ねん)までのこととおもわれる)。

4だい将軍しょうぐん足利あしかが義持よしもち義満よしみつ嫡男ちゃくなん)の近習きんじゅとしてつかえて信任しんにんけ、おうひさし29ねん1422ねん)に義持よしもちこう小松こまついん名代なだいとして伊勢神宮いせじんぐう参詣さんけいしたさいきょうしゅえらばれている(『はなさんだい』)。このとし養父ようふ義之よしゆきぼっしており、それに先立さきだって家督かとく継承けいしょうした。おうなが35ねん1428ねん)にぜん将軍しょうぐん将軍しょうぐん代理だいり)の義持よしもちぼっするとほどなく出家しゅっけするが、つづく6だい将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのり義持よしもちおとうと)からの信任しんにんあつく、えいとおる元年がんねん1429ねん)に鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが持氏もちうじ反抗はんこう問題もんだいとされたさいには満久まく義教よしのりから意見いけん具申ぐしんもとめられている。

病弱びょうじゃくであったらしく、当時とうじ記録きろくでは度々たびたび満久まく病気びょうきかんする記事きじ[1]登場とうじょうし、おうなが34ねん1427ねん)の赤松あかまつ満祐みつすけ討伐とうばつにも嫡男ちゃくなんもちつねわりに出陣しゅつじんし、守護しゅごしょく継承けいしょう領国りょうごくである阿波あわこく下向げこうした記録きろくのこされていない。

えいとおる2ねん1430ねん)に45さい病死びょうしした。死後しご家督かとくもちつねいだ。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 聞御おうなが31ねん6がつ15にちじょう・『まんすみじゅんきさき日記にっきえいとおる2ねん2がつ24にちじょうなど

参考さんこう文献ぶんけん

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