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細川ほそかわあきらもと

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細川ほそかわ あきらもと
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん17ねん1548ねん
死没しぼつ ぶんろく元年がんねん1592ねん)あるいは元和がんわ元年がんねん1615ねん
改名かいめい 聡明そうめいまる幼名ようみょう)→あきらもとしんじもと信良のぶよしあきらもと
別名べつめい 六郎ろくろう通称つうしょう
官位かんい せいじょう右京大夫うきょうのだいぶ
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ 阿波あわこく摂津せっつこく丹波たんばこく守護しゅご
主君しゅくん 足利あしかが義栄よしひで義昭よしあき織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよし
氏族しぞく 細川ほそかわきょうちょういえ
父母ちちはは ちち細川ほそかわはるもとはは六角ろっかく定頼さだよりむすめ
兄弟きょうだい あきらもと晴之はるゆき?、朝倉あさくら義景よしかげ正室せいしつ
飯尾いいお定宗さだむねしつあらわさかえしつ
つま 正室せいしついぬほう織田おだ信長のぶながいもうと
もとかち円光えんこういん女子じょし
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細川ほそかわ あきらもと(ほそかわ あきもと)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう大名だいみょう阿波あわこく摂津せっつこく丹波たんばこく守護しゅご官位かんいせいじょう右京大夫うきょうのだいぶ細川ほそかわきょうちょういえ19だい当主とうしゅ

幼名ようみょう聡明そうめいまる。のち、足利あしかが義昭よしあきへんいみなけてあきらもと名乗なのるが、織田おだ信長のぶなが政権せいけんではしんもと(のぶもと)、信良のぶよし(のぶよし)と名乗なのっていた(最終さいしゅうてきにはあきらもともどしている)。義昭よしあきへんいみなけるまえは、六郎ろくろう通称つうしょう仮名かめいいみなわりにもちいていた。

生涯しょうがい

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ち、足利あしかが義昭よしあきへの臣従しんじゅう

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室町むろまち幕府ばくふ34だい管領かんりょう細川ほそかわはるもととして誕生たんじょうはは六角ろっかく定頼さだよりむすめ

幼少ようしょう天文てんもん21ねん1552ねん)、ちち三好みよし長慶ちょうけい一時いちじてき和睦わぼくしたさい人質ひとじちとなる[注釈ちゅうしゃく 1]ちちふたた長慶ちょうけい敵対てきたいすると管領かんりょう細川ほそかわ氏綱うじつなとも山城やましろこくよどみじょう軟禁なんきんされ、えいろく元年がんねん1558ねん)に11さい長慶ちょうけいのもとで元服げんぷくした。

えいろく4ねん1561ねん)、実弟じってい細川ほそかわ晴之はるゆきろくかく畠山はたけやまぐん擁立ようりつされ、将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてるいのち近江おうみこくいてはん三好みよしへいげるが戦死せんしした(将軍しょうぐん地蔵山じぞうさんたたか)。えいろく5ねん1562ねん)、ちち長慶ちょうけい和睦わぼくすると父子ふし久々ひさびさ対面たいめんたしている(久米田くめたたたか)。

えいろく6ねん1563ねん)3がつ摂津せっつこく富田とみたもんてら病没びょうぼつしたちちあとぐものの、勢力せいりょくもどせず、管領かんりょうであった氏綱うじつな没後ぼつご管領かんりょうしょく任命にんめいされることはなかった。

えいろく8ねん1565ねん)、えいろくへん将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてる殺害さつがいされたのち足利あしかが義栄よしひで室町むろまち幕府ばくふ14だい将軍しょうぐん擁立ようりつする三好みよしさんにんしゅにより名目めいもくじょう管領かんりょうとして処遇しょぐうけた。

えいろく11ねん1568ねん)、織田おだ信長のぶなが足利あしかが義昭よしあきようして上洛じょうらくすると、さんにんしゅ筆頭ひっとうである三好みよし長逸ちょういつとも摂津せっつ芥川あくたがわ山城やましろ籠城ろうじょうした。だが、さんにんしゅほかしろ織田おだぐん次々つぎつぎとされると、9月30にちしろてて長逸ちょういつとも阿波あわこく逃亡とうぼう義栄よしひで急死きゅうしもあり義昭よしあきが15だい征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんじられると敵対てきたい行動こうどうつづけた。

もとかめ元年がんねん1570ねん)、野田城のだじょう福島ふくしまじょうたたかにおいてさんにんしゅ加勢かせいして当初とうしょ織田おだぐん対峙たいじした。同年どうねんさんにんしゅ信長のぶなが和睦わぼくする。もとかめ2ねん1571ねん)12月17にち上洛じょうらくし、義昭よしあきより右京大夫うきょうのだいぶとされた[1]。また、へんいみなけてあきらもと名乗なのった[1]

義昭よしあきより重用じゅうようされ、三好みよし勢力せいりょく後退こうたいしたのち名目めいもくじょう摂津せっつ旗頭はたがしらとされた[2]名門めいもん出身しゅっしんであったあきらもとはしばしば外交がいこうかんとしての役割やくわりたしている。よんしょくいえ当主とうしゅでもある丹後たんごこく一色いっしき義道よしみち義昭よしあき臣従しんじゅうし、よしみもとめて信長のぶながとの面会めんかいもとめたときあきらもとはこれにい、ともにさかい見物けんぶつした。

信長のぶなが政権せいけんのなかで

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槇島まきしま城跡じょうせき標柱ひょうちゅうせき
現在げんざいは、児童じどう公園こうえんとなっている

信長のぶなが勢力せいりょくでは、もとかめ3ねん1572ねん)に摂津せっつ本願寺ほんがんじぼうかんしもあいだよりゆきりゅうしもあいだよりゆきじゅん交戦こうせんして敗北はいぼくしたり、よくもとかめ4ねん1573ねん2がつ17にちはん信長のぶなが三好みよし義継よしつぎ松永まつなが久秀ひさひでらに居城きょじょう摂津せっつ中嶋なかじましろとされるなど武功ぶこうにはめぐまれなかったが、足利あしかが将軍家しょうぐんけ武門ぶもん名門めいもんであったため、織田おだ信長のぶなが利用りようされることとなる。

7がつ義昭よしあき追放ついほうされたときあきらもと京都きょうとまり、義昭よしあきったのち槇島まきしましろ京都きょうと宇治うじ)をまかされた。槇島まきしまじょう山城やましろ守護しゅごしょだったので、信長のぶながあきらもと山城やましろ守護しゅごにんじることにより山城やましろにおける将軍しょうぐん権力けんりょく否定ひていしたともいわれている。細川ほそかわきょうちょういえ当主とうしゅであるあきらもと存在そんざいは、義昭よしあきったのち織田おだ政権せいけんにとり、重要じゅうよう存在そんざいとなった。同族どうぞく細川ほそかわふじけん近江おうみこくさか本城ほんじょうまかされている。

天正てんしょう3ねん1575ねん)、信長のぶなが推挙すいきょにより、正式せいしき右京大夫うきょうのだいぶにんじられる。このことにより、朝廷ちょうていからもきょうちょういえ当主とうしゅとしてみとめられた。信長のぶなが服属ふくぞくは「捨扶持すてぶち」をあたえられた存在そんざいにすぎないとされてきたが[3]、これはあやまりで、『信長のぶながこうまきはち天正てんしょう3ねん9がつ2にちこうに、丹波たんばこくのうち桑田くわたぐん船井ふないぐんぐん信長のぶながからあたえられていることがかる[4]

天正てんしょう5ねん1577ねん)、羽柴はしば秀吉ひでよし尽力じんりょくにより(『みどりちくいんどう三之さんの手簡しゅかん』)(『だい雲山くもやま稿こう』)[5]信長のぶながいもうといぬめと[6]信長のぶながからのへんいみなけてしんもと(のぶもと)、さらに信良のぶよし(のぶよし)とあらためた。おいぬほうにとっては2度目どめ結婚けっこんであり、信良のぶよしよりも年長ねんちょうであった。以後いご織田おだ親族しんぞくとして織田おだ政権せいけんない厚遇こうぐうされることとなるが、反対はんたい信長のぶながは「きょうちょういえ当主とうしゅ義兄ぎけい」として立場たちばれることとなる。信良のぶよし丹波たんばこく桑田くわたぐん船井ふないぐん支配しはいゆるされ、名目めいもくじょう丹波たんば旗頭はたがしら地位ちいゆだねられた。しかし丹波たんばこく支配しはい実権じっけんは、次第しだい信長のぶなが家臣かしん明智あけち光秀みつひでうつっていった[7]

天正てんしょう9ねん1581ねん)2がつ28にち正親町おおぎまち天皇てんのう御前ごぜん信長のぶながおこなった京都きょうと御馬おんまそろいにおいては、「公家くげしゅ」の一人ひとりとして参加さんかしている。

本能寺ほんのうじへん以降いこう晩年ばんねん

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天正てんしょう10ねん1582ねん)の本能寺ほんのうじへん直後ちょくご正室せいしつのおいぬほうとは死別しべつした。

天正てんしょう13ねん1585ねん)の羽柴はしば秀吉ひでよしによる四国しこくまでのあいだにかけて、本来ほんらい細川ほそかわ家臣かしん家系かけいであった長宗我部ちょうそかべ阿波あわにおいて連絡れんらくりあい、秀吉ひでよし抵抗ていこうした記録きろくのこされている。また、長宗我部ちょうそかべ元親もとちか織田おだ信雄のぶお連携れんけいはかって、はん秀吉ひでよし勢力せいりょく結集けっしゅうつとめているが実現じつげんできなかった[8]

しかし、やがて秀吉ひでよしぞくすると、信長のぶながからのへんいみな解消かいしょうし、ふたたもとあきらもともどした[注釈ちゅうしゃく 2]関白かんぱくとなった秀吉ひでよしから貴人きじん1人ひとりとしてぐうされ、斯波しばよしぎん山名やまな豊国ほうこくらととも御伽おとぎしゅくわえられた。

ただし、本願寺ほんがんじ法主ほっしゅ顕如けんにょもとせていたともいわれ、天正てんしょう17ねん1589ねん3月9にち京都きょうと聚楽第じゅらくだいかべかれた落書らくがき犯人はんにん天満てんま本願寺ほんがんじ寺内てらうちまちんだ事件じけんで、斯波しばよしぎん尾藤びとうともせんとも逮捕たいほのち釈放しゃくほうされたとされる[9]

晩年ばんねんしょう部分ぶぶんおおいが、天正てんしょう20ねん(1592ねん)に病没びょうぼつしたとつたわる[注釈ちゅうしゃく 3]

子孫しそん三春みはるはん秋田あきた家老がろうである年寄としよりしゅより上席じょうせきとして、大老たいろうまたは城代じょうだいとして代々だいだいつとめた。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 信良のぶよしがまだ2さいだった天文てんもん18ねん1549ねん)、ちち京都きょうとわれ、細川ほそかわきょうちょういえ事実じじつじょう滅亡めつぼうした。
  2. ^ この当時とうじは(室町むろまち幕府ばくふ事実じじつじょう滅亡めつぼうしているものの)足利あしかが義昭よしあき征夷大将軍せいいたいしょうぐん在職ざいしょくちゅうであり、「関白かんぱく秀吉ひでよし将軍しょうぐん義昭よしあき」という時代じだい相当そうとうする。このため、秀吉ひでよしではなくふたた義昭よしあきからへんいみなけることを秀吉ひでよしからゆるされていたものと推測すいそくされる。
  3. ^ 没年ぼつねん月日つきひについては、「細川ほそかわ系図けいず」「武徳ぶとくへんねん集成しゅうせい」の天正てんしょう20ねん(1592ねん)5がつ7にち、「高野山こうのやま過去かこちょう」の天正てんしょう20ねん(1592ねん)11月7にち、「寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか」の元和がんわ元年がんねん1615ねん)11月7にちなど、複数ふくすう記録きろくがある。

参照さんしょう

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  1. ^ a b 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく 1944, pp. 178–179.
  2. ^ 森田もりた, p. 124-128.
  3. ^ 谷口たにぐち克広かつひろしる高木たかぎ昭作しょうさく監修かんしゅう織田おだ信長のぶなが家臣かしん人名じんめい事典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1995ねん 
  4. ^ 宮本みやもと 2010, p. 117.
  5. ^ 宮本みやもと 1971.
  6. ^ 宮本みやもと 2010, p. 100-101,118-119.
  7. ^ 森田もりた, p. 128-129.
  8. ^ 山下やました知之ともゆき天正てんしょう後期こうき細川ほそかわ信良のぶよし長宗我部ちょうそかべとの関係かんけい -細川ほそかわ信良のぶよし書状しょじょう分析ぶんせきつうじて-」『戦国せんごく研究けんきゅう』2016ねん、12-23ぺーじ 
  9. ^ 森田もりた, p. 129-130.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく へんだい日本にっぽん史料しりょうだいじゅうへんなな東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ史料しりょう編纂へんさんしょ、1944ねん3がつ7にちNDLJP:12210518 (よう登録とうろく)
  • 宮本みやもと義己よしみ曲直瀬まなせはじめけいどうさん茶道さどう(いち)()(さん)」『茶道さどう雑誌ざっし』35かん8ごう・9ごう・10ごう、1971ねん 
  • 宮本みやもと義己よしみだれらなかったこう毎日まいにちコミュニケーションズ、2010ねん 
  • 野沢のざわ隆一りゅういち細川ほそかわあきらもとこう」『栃木とちぎ史学しがく』2ごう、1988ねん 
  • 永原ながはらけい ちょ細川ほそかわはるもと」、日本にっぽん歴史れきしだい辞典じてん編集へんしゅう委員いいんかい へん日本にっぽん歴史れきしだい辞典じてんだい8かん は-ま、河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1979ねん11月。 
  • 森田もりた恭二きょうじ戦国せんごく歴代れきだい細川ほそかわ研究けんきゅう和泉いずみ書院しょいん、1994ねん 
  • 歴史れきしぐんぞう編集へんしゅう戦国せんごく時代じだい人物じんぶつ事典じてん学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2009ねん、205ぺーじISBN 4054042902 

関連かんれん項目こうもく

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