細川ほそかわ基之もとゆき

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細川ほそかわ 基之もとゆき
時代じだい 室町むろまち時代ときよ
生誕せいたん 明徳めいとく元年がんねん/もとなか7ねん1390ねん
死没しぼつ ぶんやす5ねん10月12にち1448ねん11月8にち[1]
別名べつめい 官途かんとめい兵部ひょうぶ大輔だいすけ受領じゅりょうめい阿波あわもり
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ備後びんごはんこく土佐とさはんこく和泉いずみ守護しゅご
主君しゅくん 足利あしかが義持よしもち義量よしかず義教よしのり義勝よしかつ
氏族しぞく 細川ほそかわ和泉いずみ守護しゅご
父母ちちはは ちち細川ほそかわ満之まんし養父ようふ細川ほそかわよりゆきこれ
兄弟きょうだい たよおも満久まく基之もとゆき
よりゆきひさきょうひさし
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細川ほそかわ基之もとゆき(ほそかわ もとゆき)は、室町むろまち時代ときよ守護しゅご大名だいみょう備後びんごはん国守くにもりまもる土佐とさはん国守くにもりまもる和泉いずみ守護しゅご官途かんとめい兵部ひょうぶ大輔だいすけ受領じゅりょうめい阿波あわもり、。細川ほそかわ和泉いずみ守護しゅご初代しょだい当主とうしゅ

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

細川ほそかわ満之まんしとして誕生たんじょう兄弟きょうだいたよおも満久まく

基之もとゆきは、細川ほそかわよりゆきちょうとも備後びんごこく土佐とさこく和泉いずみこく守護しゅごとして分割ぶんかつ共同きょうどう統治とうちしている。そして備後びんごこく土佐とさこく2人ふたり統治とうちする以前いぜん嫡流ちゃくりゅうきょうちょういえ)の所領しょりょうであった(備後びんご細川ほそかわよりゆきこれ土佐とさ細川ほそかわみつるもと)。これは、守護しゅごとしての権益けんえき1人ひとり独占どくせんさせず、細川ほそかわ庶流同士どうし勢力せいりょく牽制けんせいする目的もくてきがあったとかんがえられる。また、和泉いずみこくにはさかいがあり、当時とうじさかい拠点きょてんとして反乱はんらん明徳めいとくらんおうながらん)が発生はっせいするほどさかえた土地とちであったため、室町むろまち幕府ばくふ崩壊ほうかいまで2人ふたり守護しゅご共同きょうどう統治とうちする体制たいせいとなった[2]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 史料しりょう綜覧そうらん まき7』(朝陽あさひかい、1932ねん)p.779
  2. ^ すえゆたか細川ほそかわ同族どうぞく連合れんごう体制たいせい解体かいたい畿内きない領国りょうごく石井いしいすすむへん中世ちゅうせいほう政治せいじ』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1992ねん