細川ほそかわけん

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細川ほそかわけん
細川ほそかわけん
時代じだい 室町むろまち時代ときよ後期こうき
生誕せいたん おうひさし10ねん1403ねん
死没しぼつ 応仁おうにん2ねん10月7にち1468ねん10月31にち
改名かいめい もちけんみちけん法名ほうみょう
別名べつめい わたる九郎くろう通称つうしょう
戒名かいみょう たかしぶくてらどうけん
官位かんい みぎすけみぎ馬頭めず
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ 摂津せっつぶんぐん守護しゅご
主君しゅくん 足利あしかが義勝よしかつ
氏族しぞく 細川ほそかわきょうちょういえ細川ほそかわのりうまや
父母ちちはは ちち細川ほそかわみつるもと
兄弟きょうだい もともちけん
吉良きらよししんしつかつ?
養子ようしなりけんせいこく
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細川ほそかわ けん(ほそかわ もちかた)は、室町むろまち時代ときよ後期こうき武将ぶしょう摂津せっつこくぶんぐん守護しゅご細川ほそかわのりうまや初代しょだい当主とうしゅ細川ほそかわみつるもと三男さんなんで、もとおとうと

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

おうひさし10ねん1403ねん)、細川ほそかわみつるもと三男さんなんとして誕生たんじょう

元服げんぷくさいして室町むろまち幕府ばくふ4だい将軍しょうぐん足利あしかが義持よしもちよりへんいみなけてもちけん名乗なのる。

嘉吉よしきち元年がんねん1441ねん)、6だい将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのり義持よしもちおとうと)が赤松あかまつ満祐みつすけ殺害さつがいされると嘉吉よしきちらん発生はっせい戦後せんご処理しょり赤松あかまつ領国りょうごくのうち摂津せっつ中島なかじまぐん室町むろまち幕府ばくふ直轄ちょっかつりょうとなり、もちけん代官だいかん任命にんめいされ実質じっしつじょうぶんぐん守護しゅごになった。翌年よくねん次兄じけいこれくなり、いだおい)の細川ほそかわ勝元かつもと幼少ようしょうのため後見人こうけんにんとして幕政ばくせい参加さんか管領かんりょう畠山はたけやま持国もちくに対立たいりつした。

嘉吉よしきち3ねん1443ねん)、出家しゅっけし、みちけん(どうけん)とごうした。

義教よしのり介入かいにゅう大名だいみょういえ騒動そうどう続発ぞくはつ持国もちくにけん勝元かつもと援助えんじょ事態じたい深刻しんこくした。信濃しなのこく加賀かがこくでは小笠原おがさわら富樫とかし家督かとくあらそいをこし、持国もちくに小笠原おがさわらちょう富樫とかしきょうなりはる父子ふしたいけん勝元かつもと小笠原おがさわらそうやすし光康みつやす兄弟きょうだい富樫とかしやすしだか支援しえん混乱こんらん拍車はくしゃをかけた。

ぶんやす4ねん1447ねん)、京都きょうとこった徳政とくせい一揆いっき鎮圧ちんあつ出陣しゅつじん戦後せんご勝元かつもと後見こうけんりやめた。

応仁おうにん元年がんねん1467ねん)、応仁おうにんらんはじまると土佐とさこく軍勢ぐんぜいひがしぐんとして参戦さんせんしたが、翌年よくねん死去しきょ享年きょうねん66。

養子ようしとしておい勝元かつもとおとうと)のなりけん(しげかた)と分家ぶんけしゅうからせいこくむかえ、家督かとくせいこくいだ。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]