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かつら川原かわらたたか

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かつら川原かわらたたか

現在げんざい桂川かつらがわ河原かわはら周辺しゅうへん
戦争せんそうりょう細川ほそかわらん
年月日ねんがっぴだいなが7ねん1527ねん2がつ12にち - 2がつ13にち
場所ばしょ桂川かつらがわはら一帯いったい
結果けっか柳本やなぎもと賢治けんじ細川ほそかわはるもと連合れんごうぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
細川ほそかわはるもとぐん
柳本やなぎもと賢治けんじぐん
室町むろまち幕府ばくふぐん
細川ほそかわだかこくぐん
武田たけだもとひかりぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
柳本やなぎもと賢治けんじ
波多野はたの秀忠ひでただ
三好みよしちょう
三好みよし政長まさなが
足利あしかが義晴よしはる
細川ほそかわだかこく
武田たけだもとひかり
戦力せんりょく
不明ふめい 不明ふめい
損害そんがい
やく80 やく400
りょう細川ほそかわらん

かつら川原かわらたたか(かつらかわらのたたかい)は、だいひさし7ねん2がつ12にち1527ねん3月14にち夜中よなかから2がつ13にちまで京都きょうと桂川かつらがわはら一帯いったいおこなわれたたたかい。このたたかいはさかい公方くぼう誕生たんじょうのきっかけとなった。桂川かつらがわたたかともう。

開戦かいせんまでの経緯けいい[編集へんしゅう]

はちじょう神尾かみおさん両城りょうじょうたたか[編集へんしゅう]

香西こうざいもともり管領かんりょう細川ほそかわだかこく家臣かしんだったが、同族どうぞく細川ほそかわいんけん讒訴ざんそしんじたこうこくによって、だいなが6ねん1526ねん)7がつ13にち自害じがいさせられた。これにたいして香西こうざいもともり2人ふたり兄弟きょうだい波多はた野元のもときよし柳本やなぎもと賢治けんじもともり自害じがいさせられたことをり、丹波たんばはち上城かみしろ神尾かみお山城やましろ両城りょうじょう反旗はんきひるがえした。

10月23にち、これにおどろいたこうこくは、神尾かみお山城やましろそう大将たいしょう細川ほそかわいんけんぐんを、はちうえじょうには瓦林かわらばやし修理しゅうりあきら池田いけだ弾正だんじょうとうけ、それぞれのしろ包囲ほういした。また、10月28にちには将軍しょうぐん義晴よしはる若狭わかさ守護しゅごである武田たけだもとひかり救援きゅうえん要請ようせいする使者ししゃおくっている(『実隆さねたかおおやけ』)[1]

その小規模しょうきぼ戦闘せんとうつづいていたが、波多はた野元のもときよし同情どうじょうてきであった丹波たんば守護しゅごだい内藤ないとう国貞くにさだは、11月5にち神尾かみおてらじょう包囲ほういぐんから離脱りだつした。また、11月30にち黒井くろいしろしゅ赤井あかい五郎ごろうが3000のへいひきいて神尾かみおてらじょう包囲ほういぐん背後はいごから攻撃こうげきし、赤井あかいぐんにも損害そんがいがでたが、包囲ほういぐんやぶっている。

この敗報はいほうったはち上城かみしろ包囲ほういぐんよく12がつ1にちかこみをいて退却たいきゃくした。この退却たいきゃく途中とちゅう阿波あわ守護しゅご細川ほそかわはるもとつうじていた池田いけだ弾正だんじょう瓦林かわらばやし修理しゅうりあきららにかけ、細川ほそかわいんけんぐんきょう逃走とうそうした。

落城らくじょうする摂津せっつしょしろ[編集へんしゅう]

高槻たかつき城跡じょうせき

波多はた野元のもときよしよりらせをうけた細川ほそかわはるもと三好みよしちょう三好みよし政長まさなが出陣しゅつじんめいじ、阿波あわよりさかい上陸じょうりく同年どうねん12がつ13にち中嶋なかじまほりしろ占領せんりょう越年えつねんした。一方いっぽう、12月29にちには細川ほそかわだかこくから救援きゅうえん要請ようせいけていた若狭わかさ守護しゅご武田たけだもとひかりへいひきいて入京にゅうきょうしている(『二水にすい』)。だが、義晴よしはるこうこく同様どうよう支援しえん要請ようせいしていた六角ろっかく定頼さだより赤松あかまつまさしむら斯波しば義統よしむねしょ大名だいみょうつい上洛じょうらくすることはなかった[1]

波多野はたのぐん行動こうどう開始かいし丹波たんば出国しゅっこくよくだいなが7ねん(1527ねん)1がつ28にち野田城のだじょうを7日間にちかん陥落かんらくさせた。波多野はたのぐんはそのまま京都きょうとかうとせかけて南下なんかし、2がつ4にち山崎やまざきしろおとしいれた。山崎やまざきじょうめていた摂津せっつ守護しゅごだい薬師寺やくしじ国長くにおさ高槻たかつきじょう逃亡とうぼうした。

その

しょしろ次々つぎつぎとしたり、降伏ごうぶくさせたりした。

2がつ11にち波多野はたのぐん三好みよしぐん山崎やまざきじょう合流ごうりゅうよく2がつ12にち桂川かつらがわはさんで細川ほそかわだか国軍こくぐん対峙たいじした。一方いっぽうで、上洛じょうらく要請ようせいおうじてなかった六角ろっかく定頼さだよりはようやく被官ひかん三雲みくも馬淵まぶち2000ないし3000を派遣はけんしたが定頼さだより本人ほんにん上洛じょうらくせず、六角ろっかくぐん被官ひかん本国ほんごく近江おうみから桂川かつらがわからはなれた北白川きたしらかわとどまっている[1][2][3]

なお、『みなみぎょう雑録ざつろく』にみられるこのたたかいの直前ちょくぜんのものとおもわれる2がつ2にちづけ和泉いずみじょう守護しゅごだい松浦まつうらまもる書状しょじょうによれば、六角ろっかく定頼さだよりがこの時点じてん細川ほそかわはるもととの縁談えんだんすすめているというはなしがっており、六角ろっかく消極しょうきょくてき姿勢しせいもそれによるものだとおもわれる。 また、どう書状しょじょうでは波多野はたのぐん後背こうはいくためこうこくかた但馬たじま守護しゅご山名やまなまことゆたか丹波たんば乱入らんにゅうさせようとしたが、守護しゅごだいかき波多野はたのかた同心どうしんし、また因幡いなば守護しゅご山名やまなまことどおり但馬たじま乱入らんにゅうしたため没落ぼつらくしたことと、 こうこくむすめ婿むこである伊勢いせ国司くにじ北畠きたばたけはるこうこく合力ごうりょくしようとするも、長野ながのなどくにしゅおうじずにうごけなかったことがかれており、はれ元方もとかた事前じぜん調しらべりゃくおこなってたことがうかがえる[4]

なお、波多はた野元のもときよしはこの時期じきびょうわずらっていたようで[5]上洛じょうらく賢治けんじ波多野はたの秀忠ひでただのみが上洛じょうらくしており[6]、この合戦かっせんにも不参加ふさんかだった可能かのうせいがある。そのためか、このたたかいにかんしての史料しりょう丹波たんばぜい主体しゅたいとされるのは柳本やなぎもと賢治けんじだった。

たたかいの状況じょうきょう[編集へんしゅう]

現在げんざい川勝かわかつてら周辺しゅうへん

細川ほそかわだか国軍こくぐんは、主力しゅりょくとして鳥羽とばからさぎもりあたりまでかわ沿いに隙間すきま一文字ひともじじんをしき、本陣ほんじんはそこからすこ後方こうほうろくじょうに12だい将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるみずからがじんをしき、後詰ごづめぐんとして本陣ほんじんから北側きたがわ桂川かつらがわ川勝かわかつてら武田たけだもとひかりぐんじんをひいた。

2がつ12にち夜中よなか戦闘せんとうかわはさんだ応酬おうしゅうからはじまった。

よく2がつ13にち主力しゅりょくへの攻撃こうげき予想よそうした細川ほそかわだか国軍こくぐんたいして、三好みよしぐんうらをかいて桂川かつらがわ渡河とか後詰ごづめ武田たけだぐんおそかった。武田たけだぐん死者ししゃ80めい敗退はいたいした。これに危機ききかんおぼえたこうこくみずか武田たけだぐん救援きゅうえんかったが、こうこく親戚しんせきちち政春まさはる従兄弟いとこ)にあたる大納言だいなごん日野ひの内光うちみつ戦死せんししてしまい、荒木あらき父子ふし戦死せんし

うしな撤退てったいした。柳本やなぎもと三好みよし連合れんごうぐん三好みよしちょう重傷じゅうしょうったほか、香西こうざい源蔵げんぞう[注釈ちゅうしゃく 1]ら80めい戦死せんししゃたが、合戦かっせん柳本やなぎもと三好みよし連合れんごうぐん勝利しょうりした。 なお、これまでたたかいを観望かんぼうしていたろくかくぐんばんあたまになってからようやく加勢かせいし、柳本やなぎもとぜい交戦こうせんしたという[1][8]

戦後せんご状況じょうきょう[編集へんしゅう]

2がつ14にちこうこく義晴よしはるほうじて坂本さかもとった。この逃亡とうぼうにはおおきな意味いみがある。将軍しょうぐん管領かんりょう京都きょうとびることはいままでなんかいもあったが、評定ひょうじょうしゅ奉行ぶぎょうじんといったものまでしてしまったため、京都きょうと幕府ばくふ崩壊ほうかいしてしまったのである。これがのちさかい公方くぼう誕生たんじょうがねともなった。また、このたたかいで打撃だげきけた武田たけだもとひかり若狭わかさ退しりぞき、若狭わかさ武田たけだ中央ちゅうおう政治せいじへの影響えいきょうりょく低下ていかさせる一方いっぽう消極しょうきょくてき姿勢しせいせた六角ろっかく定頼さだより以降いこう義晴よしはるささえつつもこうこくかたからはれ元方もとかた鞍替くらがえしていき、六角ろっかく中央ちゅうおう政治せいじへの影響えいきょうりょく上昇じょうしょうさせることになった[1]

2がつ16にち柳本やなぎもと三好みよし連合れんごうぐん京都きょうと進軍しんぐん治安ちあん維持いじ宣撫せんぶ工作こうさくかったが、細川ほそかわはるもと入京にゅうきょうちとなった。

備考びこう[編集へんしゅう]

  • 山科やましなげんまましは、細川ほそかわぐん1まん2せん武田たけだぐんを2せんわせて1まん4せん)と記録きろくしているが、誇張こちょうかんがえられている[9]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 柳本やなぎもと賢治けんじ養子ようしはいった岩崎いわさきもしくは柳本やなぎもと出身しゅっしん賢治けんじ弟分おとうとぶんとしてあつかわれ、もともり死後しご香西こうざい継承けいしょうしたとみられる[7]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 笹木ささき康平やすひら戦国せんごく畿内きない政治せいじ若狭わかさ武田たけだ在京ざいきょう」『日本にっぽん歴史れきし』768ごう、2012ねん /所収しょしゅう:木下きのしたさとし へん若狭わかさ武田たけだえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい西国さいこく武士ぶし研究けんきゅう だいよんかん〉、2016ねんISBN 978-4-86403-192-9 
  2. ^ じょうてら主家しゅか抜萃ばっすいだいなが7ねん2がつ10日とおかじょう
  3. ^ 二水にすいだいなが7ねん2がつ12にちじょう
  4. ^ うま隆弘たかひろ桂川かつらがわ合戦かっせん前夜ぜんや細川ほそかわはる元方もとかたによる京都きょうと包囲ほういもう」『戦国せんごく研究けんきゅうだい61ごう、2011ねん /所収しょしゅう:うま 2018
  5. ^ 二水にすいだいなが7ねん2がつ13にち
  6. ^ 二水にすいだいなが7ねん2がつ16にち
  7. ^ うま隆弘たかひろ細川ほそかわだかこく近習きんじゅうちしゅ再編さいへん」『ふみさとし』13ごう、2015ねん /所収しょしゅう:うま 2018
  8. ^ 二水にすいだいなが7ねん2がつ13にちじょう
  9. ^ 今谷いまたにあきら戦国せんごく時代じだい貴族きぞくげんつぎきょう』がえが京都きょうと』〈講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉2002ねん、79ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]