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福井ふくいじょう (摂津せっつこく)

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福井ふくいじょう
大阪おおさか
本丸下の台地跡
本丸ほんまる台地だいちあと
別名べつめい 福井ふくいじょう
城郭じょうかく構造こうぞう 山城やましろおかじょう
天守てんしゅ構造こうぞう なし
築城ちくじょうぬし 不明ふめい楠木くすのき正成まさしげという伝承でんしょうあり)
築城ちくじょうねん 南北なんぼくあさ時代じだい
おも改修かいしゅうしゃ 不明ふめい
おも城主じょうしゅ 秋庭あきば元明もとあき
はいじょうねん だいひさし7ねん1528ねん)2がつ
遺構いこう 本丸ほんまるまるさんまるなど連曲れんきょく
指定してい文化財ぶんかざい なし
再建さいけん造物ぞうぶつ なし
位置いち 北緯ほくい3451ふん5.018びょう 東経とうけい13533ふん1.44びょう / 北緯ほくい34.85139389 東経とうけい135.5504000 / 34.85139389; 135.5504000
地図ちず
福井城の位置(大阪府内)
福井城
福井ふくいじょう
テンプレートを表示ひょうじ

福井ふくいじょう(ふくいじょう)は、大阪おおさか茨木いばらぎにあった日本にっぽんしろ

概要がいよう

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現在げんざい福井ふくい城跡じょうせきは殆んどが田畑たはたになっており、一見いっけんしたところ城跡じょうせき判断はんだんしがたいが、土地とち高低こうていほり構造こうぞう、そして現在げんざい使用しようされている「めい本丸ほんまる城ケ谷じょうがたにかまえ」などの地名ちめいからしろ概要がいようはかることができる。地理ちりは、茨木いばらぎがわ東岸とうがん北側きたがわには福井ふくいさん支脈しみゃく突端とったん台地だいちきずかれた、山城やましろもしくはおかじょうかんがえられている。また近隣きんりんには、追手門学院大学おうてもんがくいんだいがくはさ直線ちょくせん距離きょりやく1.5 km場所ばしょ安威あいじょうがある。

沿革えんかく

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このしろ歴史れきしについてはおおくはわかっていない。明治めいじ時代じだい初期しょきごろ作成さくせいされた『ひがし摂津せっつしろ』によると、たてたけし元年がんねん1334ねん摂津せっつこく河内かわうちこく和泉いずみこく楠木くすのき正成まさしげ守護しゅごきずいたとあるが、楠木くすのき正成まさしげ摂津せっつこく守護しゅごしょくについた史実しじついので伝承でんしょうレベルで記載きさいされたとおもわれる。ただ西国さいごく街道かいどう丹波街道たんばかいどうおさえとしてきずいた、としているてん可能かのうせい十分じゅうぶんあり、楠木くすのき正成まさしげせつ否定ひていできない。

細川ほそかわよりゆきこれぞう

おなじ『ひがし摂津せっつしろ』には、細川ほそかわよりゆきこれ福井ふくいじょう摂津せっつこく守護しゅごだいを、また細川ほそかわ勝元かつもとときには秋庭あきば元明もとあき守護しゅごだいとしてはいしたと記載きさいされている。また福井ふくいじょう西側にしがわに、古来こらい矢上やがみ」としょうする場所ばしょがあったようで、『福井ふくいむら』によると「だいひさし5ねん1525ねん)から翌年よくねんまで、四国しこくかた三好みよしぜいきょうかた薬師寺やくしじぜいすう合戦かっせんありし古跡こせき」とあるが、これは、だいなが6ねん1527ねん)から翌年よくねんあやまりで、かつら川原かわらたたかこと波多はた野元のもときよしぐんがこのあたりまで戦線せんせん拡大かくだいしていたとおもわれる。この『福井ふくいむら』によると「矢上やがみ」としょうする場所ばしょは、武士ぶし稽古けいこをしていた場所ばしょ、との記載きさいもある。

はいじょうは、このかつら川原かわらたたかいのだいなが7ねん1528ねん)2がつことで、細川ほそかわはるもとかた降服こうふく開城かいじょうした。その史上しじょうからそのしたので、このときはいじょうになったものとおもわれている。

城郭じょうかく

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福井ふくいじょう城郭じょうかく部分ぶぶん
国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい

規模きぼ南北なんぼくに400 m東西とうざいに250 mほどで、東西とうざいかわはさまれほりのような役割やくわりたしたとおもわれている。

おも曲輪くるわ

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  • 本丸ほんまる
    • 東西とうざい50 m×南北なんぼく44 m すみまる方形ほうけいんぼ ひがし南側みなみがわがけ
  • まる
    • 東西とうざい70 m×南北なんぼく90 m Lがたんぼ
  • さんまる
    • まる南側みなみがわ位置いちする
  • だい手跡しゅせき
    • 南側みなみがわ位置いちする
  • 出丸でまるあと
    • 東側ひがしがわ位置いちする
  • 搦手からめてあと
    • 北側きたがわ位置いちする

本丸ほんまるした5 mの台地だいちには、わずかではあるが石垣いしがき残存ざんそんみとめられる。また、『わがまち茨木いばらぎ城郭じょうかくへん)』 よると、まる北西ほくせい部分ぶぶん室町むろまち時代ときよかわらへん検出けんしゅつされたとの記載きさい見受みうけられる。

茨木いばらぎがわ

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搦手からめてあと
茨木いばらぎがわ

現在げんざい大阪おおさかどう114ごう忍頂寺にんじょうじ福井ふくいせん城内きうちあと敷設ふせつされ西側にしがわ一部いちぶ分断ぶんだんされているが、茨木いばらぎがわまでが城郭じょうかくであったと推察すいさつされる。みぎ写真しゃしんからひだり写真しゃしんにつながり護岸ごがん工事こうじほどこされているが、当時とうじおおきながけになっており、西側にしがわからの侵入しんにゅうふせ効果こうかがあったのではないかと推察すいさつされている。

城跡じょうせきへのアクセス

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バス

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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