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安威あいじょう

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安威あいじょう
大阪おおさか
安威城跡
安威あい城跡じょうせき
別名べつめい 安威あいかん
城郭じょうかく構造こうぞう 山城やましろおかじょう
天守てんしゅ構造こうぞう なし
築城ちくじょうぬし 不明ふめい
築城ちくじょうねん えいただし年間ねんかん1504ねん1521ねん
おも改修かいしゅうしゃ 不明ふめい
おも城主じょうしゅ 安威あい弥四郎やしろう
はいじょうねん 天正てんしょう14ねん1586ねん
遺構いこう るいあと
指定してい文化財ぶんかざい なし
埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい
包蔵ほうぞう番号ばんごう
茨木いばらぎNo.65[1]
再建さいけん造物ぞうぶつ なし
位置いち 北緯ほくい3450ふん55.881びょう 東経とうけい13533ふん55.166びょう / 北緯ほくい34.84885583 東経とうけい135.56532389 / 34.84885583; 135.56532389
地図ちず
安威城の位置(大阪府内)
安威城
安威あいじょう
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安威あいじょう(あいじょう)は、大阪おおさか茨木いばらぎあんたけしにあった日本にっぽんしろ安威あいとりでつめとりでではなかったかとかんがえられているのにたいして、安威あいじょう平時へいじ居館きょかんであった[2]

概要がいよう

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城跡じょうせきないじゅん日本にっぽんふう建築けんちくぶつ
安威あい城跡じょうせき説明せつめいばん

安威あいがわ西岸せいがん丘陵きゅうりょうきずかれた山城やましろで、『大阪おおさかぜんこころざし』によると東西とうざい180メートル×南北なんぼく270メートルの規模きぼがあったとおもわれ、『ひがし城址じょうし』によると内郭ないかく本丸ほんまるあと中心ちゅうしんには「御殿ごてんだい」というだんがあったとの記載きさい見受みうけられるが、現在げんざい宅地たくちされわずかに北東ほくとうるいあと見受みうけられる。

沿革えんかく

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古代こだい、この周辺しゅうへんあい(アイ)のようしたちゅうしんあいれん一族いちぞくがいたようだが、ふたた歴史れきしにあらわすのは、16世紀せいきはじめに摂津せっつこく守護しゅご細川ほそかわから安威あいりょう安堵あんどされた安威あい右近うこん太夫たゆうという人物じんぶつで、おそらくこのころ安威あい弥四郎やしろうによって安威あいじょう築城ちくじょうされたというせつもある。

またべつせつとして、土豪どごうあんたけしとこの地域ちいきむすびつきのふるさをかんがえるならば、本格ほんかくてき城郭じょうかくではなかったものの、居館きょかんとしてもっとはやくから存在そんざいしていたのではないかというせつもある。

波多はた野元のもときよし反乱はんらんはしはっしたあらそいは、細川ほそかわだかこく細川ほそかわはるもとあらそいまで発展はってんしていった。波多はた野元のもときよし山崎やまざきしろおそいかかり、山崎やまざきじょうめていた薬師寺やくしじ国長くにおさ高槻たかつきじょう逃亡とうぼうしてしまった。このとき細川ほそかわだかこくかたについていた、安威あいじょうをはじめ、芥川あくたがわ山城やましろ太田おおたじょう茨木いばらぎじょう福井ふくいじょう三宅みやけしろしょしろ次々つぎつぎ陥落かんらくしていき、その有名ゆうめいかつら川原かわらたたかへと発展はってんしていく。

かつら川原かわらたたかいで細川ほそかわだかこく大敗たいはいし、今度こんど細川ほそかわはるもとについたようであるが、三好みよし長慶ちょうけい台頭たいとうともない、安威あい弥四郎やしろう次第しだい三好みよし長慶ちょうけいぞくしていったようで、江口えぐちたたかでは三好みよし長慶ちょうけいかた武将ぶしょうとしてそのえる。

最後さいご城主じょうしゅ安威あい弥四郎やしろう安威あいりょう豊臣とよとみ秀吉ひでよしつか信頼しんらいあつかったようである。天正てんしょう14ねん1586ねん)に中川なかがわ清秀きよひで茨木いばらぎじょううつり、安威あいじょうはいじょうとなったとおもわれていたが、1983ねん昭和しょうわ58ねん)7がつあんたけし系譜けいふ発見はっけんされ、安威あいりょう嫡男ちゃくなん安威あいかちむね最後さいご城主じょうしゅとなったらしいことがわかった。中川なかがわ清秀きよひで嫡男ちゃくなん中川なかがわ秀成ひでなりおかはんてんふうされたときに、安威あいかちむね行動こうどうをともにし、安威あいからは姿すがたす。

城郭じょうかく

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安威あいじょう城郭じょうかく外郭がいかく内郭ないかく(100メートル×70メートル)からなる縄張なわばりとおもわれている。

安威あいじょうはかつて大手門おおてもんがあった場所ばしょより進入しんにゅうし、ここから城内きうち中心ちゅうしん進入しんにゅうしていく。この大手おおてもんりょうわきに、農業のうぎょうよう水路すいろ確保かくほされているが、これが外郭がいかくしろがいへだてるほりのような役割やくわりたしていたのではないかと指摘してきされているが詳細しょうさいについては不明ふめいである。

城内きうち完全かんぜん宅地たくちされており、城跡じょうせきをしのばされるものはすくないが、北東ほくとうに150メートルのるいあと、また南側みなみがわにも見受みうけられるが北東ほくとうるいほど保存ほぞん状態じょうたいはよくない。それ以外いがい南東なんとう円形えんけいしろ井戸いどつたわるものがあり、現在げんざい用水ようすいとして使用しようされている。

茨木いばらぎ市立しりつ安威あい小学校しょうがっこう外郭がいかく一部いちぶち、西にしげんではないかとおもわれている。

安威あい城跡じょうせき」として周知しゅうち埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい包蔵ほうぞうになっている範囲はんいでは、大阪おおさか茨木いばらぎにより2002ねん平成へいせい14ねん以来いらい[3]すうかい発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれているが、調査ちょうさ範囲はんいでは近世きんせい古墳こふん時代じだい集落しゅうらく遺跡いせき遺物いぶつ多量たりょう検出けんしゅつされているものの、中世ちゅうせい城郭じょうかく明確めいかく関連かんれんする遺構いこう遺物いぶつ発見はっけんされていない[4]

ギャラリー

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城跡じょうせきへのアクセス

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電車でんしゃでのアクセス

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バスでのアクセス

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くるまでのアクセス

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 大阪おおさか教育きょういく委員いいんかい 2015 抄録しょうろく
  2. ^ 茨木いばらぎ教育きょういく委員いいんかい 2012 p.31
  3. ^ 茨木いばらぎ 2003 p.21
  4. ^ 大阪おおさか教育きょういく委員いいんかい 2015 pp.1-2

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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