(Translated by https://www.hiragana.jp/)
中川清秀 - Wikipedia コンテンツにスキップ

中川なかがわ清秀きよひで

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
中川なかがわ 清秀きよひで
中川なかがわ清秀きよひで画像がぞう梅林寺ばいりんじ所蔵しょぞう
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん11ねん1542ねん
死没しぼつ 天正てんしょう11ねん4がつ20日はつか1583ねん6がつ10日とおか
改名かいめい 虎之助とらのすけ幼名ようみょう)、清秀きよひで
別名べつめい せら兵衛ひょうえ
戒名かいみょう くだりほまれそうだけきよしひかりいん
墓所はかしょ 梅林寺ばいりんじ大阪おおさか茨木いばらぎ
大岩おおいわ山砦さんさいあと滋賀しがけん長浜ながはま
主君しゅくん 池田いけだ勝正かつまさ池田いけだ知正ともまさ荒木あらき村重むらしげ織田おだ信長のぶなが羽柴はしば秀吉ひでよし
氏族しぞく 清和せいわはじめ 頼光よりみつりゅう 中川なかがわ
父母ちちはは ちち中川なかがわしげるきよし高山たかやましげるきよし
はは中川なかがわきよしむらむすめ
兄弟きょうだい 清秀きよひでじゅうつぎ重良しげよししん兵衛ひょうえ女子じょし古田ふるたしげるしかしつ
つま 正室せいしつ熊田くまだはじめしろむすめ
秀政ひでまさ秀成ひでなり糸姫いとひめ池田いけだ輝政てるまさしつ
テンプレートを表示ひょうじ

中川なかがわ 清秀きよひで(なかがわ きよひで)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう

本姓ほんせいみなもと家系かけい清和せいわはじめ嫡流ちゃくりゅう摂津せっつ源氏げんじながれを多田ただこうつなあきらつな(あるいは河内かわうちはじめ傍系ぼうけい石川いしかわはじめ)の後裔こうえいしょうした。秀政ひでまさ秀成ひでなり池田いけだ輝政てるまささきしつ池田いけだ利隆としたかはは)・糸姫いとひめいもうと古田ふるたしげるしか織部おりべ)の正室せいしつ

中川なかがわ摂津せっつこくちいさな武士ぶしだったが清秀きよひですぐれた武勇ぶゆう立身りっしんし、中川なかがわいえ最大さいだいで12まんせきりょうする大名だいみょうみちびいた。その武勇ぶゆう鬼瀬おにがせ兵衛ひょうえたたえられた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

天文てんもん11ねん1542ねん)、摂津せっつこくきゅう福井ふくいむら中河原なかかはらげん大阪おおさか茨木いばらぎ)でまれた[1](『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』は山城やましろこくまれたとする[2])。ちち中川なかがわしげるきよしはは中川なかがわきよしむらむすめ[3][注釈ちゅうしゃく 1]幼名ようみょう虎之助とらのすけ通称つうしょうせら兵衛ひょうえ[2](せひょうえ)。

はじめ摂津せっつ国人くにびとであった池田いけだ勝正かつまさぞく[2]織田おだ信長のぶなが上洛じょうらくしてくるとそれにしたがった。

もとかめ元年がんねん1がつ1569ねん)、本圀寺ほんごくじへんでは摂津せっつしゅとして明智あけち光秀みつひで加勢かせいし、5にち桂川かつらがわ三好みよしさんにんしゅたたかうも敗走はいそう清秀きよひで提案ていあんにより、6にち早朝そうちょう奇襲きしゅうける。三好みよしさんにんしゅ不意ふいかれ敗走はいそう清秀きよひで執拗しつよう追撃ついげき三好みよしかた多大ただい被害ひがいあたえた。

のち主家しゅか池田いけだ内紛ないふんこり、勝正かつまさ追放ついほうされ池田いけだ知正ともまさ当主とうしゅとなるといち信長のぶなが敵対てきたいする。もとかめ2ねん1571ねん)8がつおなじく池田いけだ部将ぶしょう荒木あらき村重むらしげ共同きょうどうして織田おだかた和田わだ惟政これまさはいさせた[4]白井しらい河原かわはらたたか)。戦後せんごはこのたたかいでほろんだ茨木いばらぎ居城きょじょうであった茨木いばらぎじょう城主じょうしゅとなった[注釈ちゅうしゃく 2]

摂津せっつ和田わだ茨木いばらぎ伊丹いたみ池田いけだ相次あいついで衰退すいたい没落ぼつらくすると、村重むらしげ高山たかやま右近うこんとも摂津せっつにて独立どくりつ勢力せいりょくとなる。のち信長のぶなが村重むらしげ摂津せっつ国主こくしゅえると清秀きよひでもそれにしたがった。旧領きゅうりょうわせて4まん400せきりょうした[2]

天正てんしょう6ねん1578ねん)10がつ村重むらしげ信長のぶながたいして反旗はんきひるがえすと[5]有岡ありおかじょうたたか)、とも信長のぶなが敵対てきたいした。同年どうねん11がつ織田おだぜい茨木いばらぎじょう包囲ほういされ、降伏ごうぶくした[6]。そのは、丹羽にわ長秀ながひで池田いけだひさしきょう旗下きか転戦てんせんする。

天正てんしょう10ねん1582ねん)、本能寺ほんのうじへんこう羽柴はしば秀吉ひでよしにつき、右近うこんとも山崎やまざきたたか先鋒せんぽうつとめた[1]清秀きよひでは3,000のへいひきいて参戦さんせんし、天王山てんのうざん占領せんりょうではへい600を派遣はけんしている。松田まつだまさしちかせたさい堀尾ほりお吉晴よしはるとも鉄砲てっぽうたい迎撃げいげきしている。てきしょうさんまきさん左衛門さえもんぼう伊勢いせさだきょうった[2]。しかし相次あいつたたかいで疲弊ひへいし、追撃ついげきせんには参戦さんせんできなかった。

天正てんしょう11ねん(1583ねん)4がつ20日はつか賤ヶだけ合戦かっせん戦死せんしした[7][2]。42さい[2]清秀きよひで大岩山おおいわやまとりで守備しゅびしていたところ、同日どうじつ早朝そうちょう柴田しばた勝家かついえかた佐久間さくまもりまさし急襲きゅうしゅうした[7][2]応戦おうせんし、余呉湖よごこきしまでかえすが力尽ちからつきた[7]

くだりほまれそうだけきよしひかりいんごう[2]墓所はかしょは、梅林寺ばいりんじげん大阪おおさか茨木いばらぎ[1]大岩おおいわ山砦さんさいあと[2]げん滋賀しがけん長浜ながはま[7]

家督かとく長男ちょうなん秀政ひでまさ相続そうぞく秀吉ひでよしから清秀きよひでこうをから13まんせき加増かぞうされ、重用じゅうようされたが、朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいにて鷹狩たかがり最中さいちゅう戦死せんししたため改易かいえきおそれた家臣かしんたちがこれを隠蔽いんぺいしたことに秀吉ひでよしから激怒げきどされ、播磨はりま6まんせきげんふうされる。次男じなん秀成ひでなり関ヶ原せきがはらたたかひがしぐんき、戦後せんご豊後ぶんごおかはん初代しょだい藩主はんしゅとなり、中川なかがわ藩主はんしゅとして幕末ばくまつまで存続そんぞくした。なお、秀成ひでなり秀吉ひでよし命令めいれいによってちち清秀きよひでった佐久間さくまもりまさしむすめめとることになった。

ギャラリー[編集へんしゅう]

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • 和田わだ惟政これまさ準備じゅんびをしていたさいおさなかった息子むすこ秀政ひでまさ秀成ひでなりまくらあそび「これこそ和田わだくびだ」とはなしていた。清秀きよひでは「これは門出かどでがよい」とってすうはいさけんだのち、出陣しゅつじんしたという。
  • 和田わだ惟政これまささい荒木あらきぐん馬塚まづかという場所ばしょに2,500、和田わだぐん糠塚ぬかづかという場所ばしょに1,000のへい布陣ふじんし、荒木あらきぐんかずっていたが、せん上手じょうず惟政これまさ警戒けいかい戦局せんきょく停滞ていたいしていた。村重むらしげは「せん上手じょうず惟政これまさのことだ、かずすくなくとも伏兵ふくへいいている。明日あしためよう」とったが清秀きよひでは「もうしょう名高なだか惟政これまさ左様さよう小細工こざいくはしておるまい。さら惟政これまさ糠塚ぬかづかにおる。ぬかうまうのだ、けるはずない。いますぐめかかろう」とうと荒木あらき正面しょうめんから、中川なかがわ側面そくめんから攻撃こうげきし、奮戦ふんせんすえ中川なかがわぐん惟政これまさたしだい勝利しょうりをおさめている。戦後せんご清秀きよひで一番いちばんやり称号しょうごう呉服ごふくだい所領しょりょうを、そしてこのせんられた茨木いばらぎ重朝しげともしろをもている。
  • 荒木あらき村重むらしげ謀反むほんうたがいをかけられ、安土あづち釈明しゃくめいおとずれる途中とちゅう清秀きよひでは「信長のぶながうたがいをいちでもければうたがうことをめないおとこ、きっと村重むらしげ殿どの手筈てはずととのえているはずです」と進言しんげんし、信長のぶなが自身じしん出兵しゅっぺい準備じゅんびをしていたため村重むらしげ謀反むほん決意けついしたという。
  • 荒木あらき村重むらしげから離反りはんするさいはなしつたわっている。清秀きよひで武勇ぶゆうほっした織田おだ信長のぶなが清秀きよひでいもうと婿むこ古田ふるたしげるしかつうじて12まんせき所領しょりょう自身じしんむすめつるひめ清秀きよひで嫡男ちゃくなん秀政ひでまさとつがせるという破格はかく条件じょうけん寝返ねがえりを工作こうさくするも清秀きよひで返事へんじをせずに、村重むらしげにありのままをつたえた。しかし村重むらしげ敗戦はいせん状況じょうきょう清秀きよひでしたがわせるわけにはいかないと「荒木あらき武運ぶうんけっし、おおくのもの離反りはんした。中川なかがわ殿どのもすぐに織田おだかれよ」とうので清秀きよひで織田おだしたがったという。
  • 山崎やまざき合戦かっせん織田おだ信孝のぶたかが「ちち信長のぶながかたきである光秀みつひでたすことができたが、これは清秀きよひで奮戦ふんせんのおかげである」と称賛しょうさんしている。
  • 一方いっぽう羽柴はしば秀吉ひでよし馬上もうえから「せら兵衛ひょうえ骨折ほねおり、骨折ほねお」とからりなかった。秀吉ひでよしが「ご苦労くろう」とってさい清秀きよひで秀吉ひでよし態度たいどたいして「筑前ちくぜん(秀吉ひでよし)、はやくも天下てんかじんになったつもりか!」と怒鳴どなったが秀吉ひでよし無視むししてったという。下記かき義兄弟ぎきょうだいちぎりから一転いってんし、天下てんかじんごと態度たいどをとった秀吉ひでよし嫌悪けんおする姿すがたられる。

秀吉ひでよしとのうち誓紙せいし[編集へんしゅう]

中川なかがわ年譜ねんぷ付録ふろく)』によると天正てんしょう8ねん1580ねん)のうち誓紙せいしがある。

太平たいへいえいいさみでんじゅうなな中川なかがわせら兵衛ひょうえ清秀きよひで落合おちあいかおるいく

秀吉ひでよしうち誓紙せいし
公儀こうぎ疎略そりゃくたいなかさるけいこうじょう向後きょうこう兄弟きょうだい契約けいやくさるていこうしかしゃもと知之ともゆきしゃ及申、
河内かわうちこく摂津せっつこく、かけのぐんさるじょう進之しんのこう
如斯さるだんじょうしゃ聊以表裏ひょうり公事こうじゆうあいだじきこうしゃ也。
みぎむねわかにせ於有これしゃかたじけな日本にっぽんこくちゅう大小だいしょう神祇じんぎ八幡はちまんだい菩薩ぼさつあいひろし白山はくさんばっやめこうむしゃ也。
仍如けん
    六月ろくがつにち
                          羽柴はしば藤吉郎とうきちろう
中川なかがわせら兵衛ひょうえ 殿しんがり — 中川なかがわ年譜ねんぷ

これにより秀吉ひでよし清秀きよひで兄弟きょうだいちぎりをむすんだことになり、両者りょうしゃ親密しんみつさをうかがわせる。

小説しょうせつ漫画まんが[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 中川なかがわ年譜ねんぷ』によると、ちちじゅうきよし高山たかやま重利しげとし二男じなんで、嫡男ちゃくなん戦死せんしした中川なかがわきよしむら婿養子むこようしになったとされる[3]。『中川なかがわ年譜ねんぷ』よりはやくに成立せいりつした『はん翰譜』によると、じゅうきよしもと常陸ひたちこく住人じゅうにんという[3]
  2. ^ 城主じょうしゅとなったのははじ荒木あらき村重むらしげむら父子ふしであったが、実質じっしつてきしろもり中川なかがわ清秀きよひでであり、このとき修復しゅうふく拡充かくじゅう実施じっしし、天正てんしょう5ねん1577ねん)になって清秀きよひで正式せいしき茨木いばらぎ城主じょうしゅとなった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 中川なかがわ清秀きよひで由緒ゆいしょ”. 茨木いばらぎ観光かんこう協会きょうかいアイランド. 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん 茨木いばらぎ観光かんこう協会きょうかい. 2024ねん5がつ18にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h i j 寛政かんせい 1923, p. 386.
  3. ^ a b c 中西なかにし裕樹ゆうき戦国せんごく摂津せっつ下克上げこくじょう 高山たかやま右近うこん中川なかがわ清秀きよひでえびすひかりさち出版しゅっぱん中世ちゅうせい武士ぶし選書せんしょ だい41かん〉、2019ねん、14–15ぺーじISBN 978-4-86403-331-2 
  4. ^ 大阪おおさか編集へんしゅう専門せんもん委員いいんかい 1981, p. 878.
  5. ^ 大阪おおさか編集へんしゅう専門せんもん委員いいんかい 1981, p. 474.
  6. ^ 大阪おおさか編集へんしゅう専門せんもん委員いいんかい 1981, p. 476.
  7. ^ a b c d 中川なかがわ清秀きよひではか”. 滋賀しが・びわ観光かんこう情報じょうほう. 公益社こうえきしゃだん法人ほうじんびわこビジターズビューロー (2021ねん7がつ28にち). 2024ねん5がつ18にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 『わがまち茨木いばらぎ城郭じょうかくへん)』茨木いばらぎ教育きょういく委員いいんかい1987ねん3がつ
  • 大阪おおさか編集へんしゅう専門せんもん委員いいんかい へん大阪おおさかだい4かん中世ちゅうせいへん II》、大阪おおさか、1981ねん5がつ30にちNDLJP:9574696 (よう登録とうろく)
  • まきだいひゃくろくじゅう 清和せいわ源氏げんじ 頼光よりみつりゅう」『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかだい輯、國民こくみん圖書としょ、1923ねん4がつ23にちNDLJP:1082719 オープンアクセス

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]