佐久間さくまもりまさし

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佐久間さくまもりまさし
佐久間さくまもりまさし楊斎のべいちさく
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん23ねん1554ねん[1]
死没しぼつ 天正てんしょう11ねん5月7にち[1]または5月12にち[2]1583ねん6月26にちまたは7がつ1にち
改名かいめい 幼名ようみょう理助りすけかい)、もりまさしぜんしゅん法名ほうみょう
別名べつめい 通称つうしょう玄蕃げんば/玄蕃げんばまこと/玄蕃げんばすけ
渾名あだなおに玄蕃げんば夜叉やしゃ玄蕃げんば
戒名かいみょう えいはくぜんしゅんだい禅定ぜんじょうもん
もりおにいん殿どの俊道としみちさいかちはくだい居士こじ[3]
墓所はかしょ 英雄えいゆうてら大分おおいたけん竹田たけだかい[注釈ちゅうしゃく 1]
はたたけしてら滋賀しがけん高島たかしまマキノまち
海蔵寺かいぞうじ愛知あいちけん西尾にしお吉良きらまち萩原はぎはら[注釈ちゅうしゃく 2]
主君しゅくん 織田おだ信長のぶなが柴田しばた勝家かついえ
氏族しぞく 佐久間さくま
父母ちちはは ちち佐久間さくまもりはは柴田しばた勝家かついえあね[注釈ちゅうしゃく 3]
兄弟きょうだい もりまさし安政あんせい柴田しばた勝政かつまさ勝之かつゆき
つま 正室せいしつ佐久間さくま盛重もりしげむすめ
側室そくしつ徳山とくやまのりしゅういもうと[6]
虎姫とらひめ中川なかがわ秀成ひでなりしつ)、徳山とくやま英行ひでゆき[注釈ちゅうしゃく 4]
特記とっき
事項じこう
もりまさし刑死けいし遺児いじたちは、つま同士どうし姉妹しまいである新庄しんじょうただしよりゆきむすめを、義理ぎりあににあたる徳山とくやまのりしゅう息子むすこを、それぞれ養育よういくした。
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佐久間さくま もりまさし(さくま もりまさ)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだい武将ぶしょう大名だいみょう織田おだ家臣かしん加賀かが金沢かなざわじょう尾山おやましろあるじ[8]通称つうしょう玄蕃げんばまことで、佐久間さくま玄蕃げんばでもられ、夜叉やしゃ玄蕃げんばおに玄蕃げんば[注釈ちゅうしゃく 5]異名いみょうでもられた勇将ゆうしょうであった[9][注釈ちゅうしゃく 6][注釈ちゅうしゃく 8]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

不確ふたしかな前歴ぜんれき[編集へんしゅう]

神社じんじゃ御器所ごきしょ西城にししろ

天文てんもん23ねん1554ねん)、 尾張おわりこく愛知あいちぐん御器所ごきしょ/うつわしょ(ごきそ)[注釈ちゅうしゃく 9]佐久間さくまもり長男ちょうなんとしてまれた[12][1][2]安政あんせい勝政かつまさ勝之かつゆきあにはは柴田しばた勝家かついえあね[注釈ちゅうしゃく 3]であり、そと叔父おじかちとは父子ふしのような親密しんみつ関係かんけいにあった[13]

もりまさし尾張おわり勝城かつき[注釈ちゅうしゃく 10]おもであったという[14]尾張おわり御器所ごきしょ[注釈ちゅうしゃく 9]佐久間さくま一族いちぞくだが、佐久間さくませい名乗なの親族しんぞくおおく、かれだいだれ御器所ごきしょ西城にししろ御器所ごきしょむらじょう/御器所ごきしょじょうおもだったのか記述きじゅつがなくあきらかではないし、尾張おわり山崎やまざき[注釈ちゅうしゃく 11]佐久間さくまである佐久間さくましんもりとは遠縁とおえんであるが、どこでかれたのかはわからず、関係かんけいせい不明ふめいである[15]。『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』(以下いかじゅうおさむ』)ではしんじもりもり従弟じゅうていとするが、これはたしかではない[16]

前歴ぜんれき不明ふめいなことがおおく、たしかな史料しりょうとはいえないが『佐久間さくま軍記ぐんき』によれば、えいろく11ねん1568ねん)9がつ12にち観音寺かんおんじじょうたたかで、ちちもりしたがってろくかくうけたまわただし軍勢ぐんぜいまも箕作みつくりじょうのぼったのが初陣ういじんといい[17]もとかめ元年がんねん1570ねん)4がつ越前えちぜん朝倉あさくらめに従軍じゅうぐんし、とう山城やましろめで信長のぶながは、柴田しばた勝家かついえもりまさし羽柴はしば秀吉ひでよし池田いけだしんてる先鋒せんぽうめいじたとする[18]。6月の長光寺ちょうこうじじょうたたかでは、おとうと保田やすだ安政あんせいとも敵陣てきじん突入とつにゅうしたという[19]天正てんしょう元年がんねん1573ねん)7がつ足利あしかが義昭よしあき挙兵きょへいした槇島まきしまじょうたたかにおいて、18にち信長のぶなが軍勢ぐんぜいさんけ、柴田しばた勝家かついえしょうとするいちたいもりまさし柴田しばたさん左衛門さえもん勝政かつまさ西にし美濃みのさんにんしゅ)は平等院びょうどういんほうから宇治川うじがわめて、もりまさし勝政かつまさ先陣せんじんあらそいをしつつわたり、そう攻撃こうげき槇島まきしましろ攻略こうりゃくした[20]

しかし佐久間さくま兄弟きょうだいのこれらの武功ぶこう活躍かつやく年齢ねんれいてきわかすぎるようにおもわれ、まだ少年しょうねん兄弟きょうだい年寄としよりしゅけをらない武将ぶしょうのように記述きじゅつされるなど、不自然ふしぜん立場たちば功績こうせき強調きょうちょうされており、『佐久間さくま軍記ぐんき』のはなし史料しりょう裏付うらづけることはできない。

北陸ほくりく転戦てんせん[編集へんしゅう]

加賀かが平定へいていせん[編集へんしゅう]

天正てんしょう3ねん1575ねん)9がつ信長のぶなが越前えちぜん一向いっこう一揆いっき鎮圧ちんあつすると柴田しばた勝家かついえ越前えちぜん8ぐんきたしょうじょうあたえたが[21]、そのさいもりまさし与力よりきはいされた。おなごろ加賀かがこくやなでん広正ひろまさべつ右近うこん)にまかされたが、かれ平定へいてい失敗しっぱいして召喚しょうかんされたので、天正てんしょう4ねん1576ねん)、かちわって加賀かが征伐せいばつはじめた[22]もりまさしかち先鋒せんぽうとして加賀かが平定へいてい尽力じんりょくする[13][12]信長のぶなが大聖寺だいしょうじじょうあるじべつ右近うこんからもりまさし変更へんこうしたが、もりまさし敷地しきち天神山てんじんやま一揆いっきぜい撃破げきはして幸塚こうづか[注釈ちゅうしゃく 12]った[23]

同年どうねん5がつ23にち高田たかだ専修寺せんしゅうじ誓紙せいし要求ようきゅうするかち書状しょじょうふくじょうしたのが、たしかな史料しりょうもりまさしえるはつである[13]

太平たいへいえいいさみでんじゅういち佐久間さくま玄蕃げんばもりまさし慶応けいおう3ねん落合おちあいかおるいくさく

天正てんしょう5ねん1577ねん)8がつ8にち能登のとななじょうもるながぞくれん救援きゅうえんもとめてきたので、信長のぶなが柴田しばた勝家かついえそう大将たいしょうとして秀吉ひでよし滝川たきがわ一益かずます丹羽にわ長秀ながひで斎藤さいとう利治としはるなどに加賀かが出陣しゅつじんめいじた[24]途中とちゅう秀吉ひでよし無断むだん帰陣きじんなどがあって、越後えちご上杉うえすぎ謙信けんしん南下なんかしてきたさいに、勝家かついえ手取川てどりがわたたか大敗たいはいしたが、謙信けんしんげると、信長のぶなが幸塚こうづか[注釈ちゅうしゃく 12]とりできずいてもりまさしざいばんさせ[12]大聖寺だいしょうじじょう修復しゅうふくしてかちへいれて上杉うえすぎそなえとして、10月3にち北国きたぐにぜいには帰陣きじんめいじた[25][26]かちはいきょうよしみ大聖寺だいしょうじ城主じょうしゅとした[27]

天正てんしょう8ねん1580ねんうるう3がつもりまさし上杉うえすぎしょう河田かわた長親ながちか帰順きじゅん工作こうさくかかわるが[13]長親ながちか拒否きょひした。またうるう3がつ7にち朝廷ちょうてい介入かいにゅうによって信長のぶなが顕如けんにょ和睦わぼくし、11にちづけ信長のぶなが戦闘せんとう中止ちゅうし命令めいれいのため、加賀かがでも一時いちじ停戦ていせんとなる[22]

ところが、これにしたがわぬ一揆いっきぜい抵抗ていこうつづけたので、勝家かついえは、尾山おやま御坊ごぼう尾山おやましろ金沢かなざわじょう)を攻略こうりゃくし、本拠ほんきょうしなった一揆いっきぜいは、鳥越とりこししろべつ宮城みやぎ[28]拠点きょてんうつし、きょくじょうとうげじょう[29]とともに継続けいぞくして徹底てってい抗戦こうせんしようとしたが、まず若林わかばやし長門ながともる舟岡ふなおかじょう[注釈ちゅうしゃく 13]もりまさしによって攻略こうりゃくされ[30]鳥越とりこししろかち猛攻もうこうけて落城らくじょうして城主じょうしゅ鈴木すずき出羽守でわのかみとその一族いちぞく謀殺ぼうさつされた[28]。これによって加賀かが鎮圧ちんあつはひとまず完了かんりょうした。

佐久間さくま軍記ぐんき』によれば、10月、もりまさし勝政かつまさ一揆いっきぜい首魁しゅかいくびって安土あづち派遣はけんされ、信長のぶながから勝家かついえもりまさし勝政かつまさ感状かんじょうたまわった[31]

同年どうねん11がつもりまさし加賀かが金沢かなざわじょう初代しょだい城主じょうしゅとされ、加賀かがなかばこく支配しはいけんあたえられた[12][注釈ちゅうしゃく 14]

天正てんしょう9ねん1581ねん)2がつ京都きょうと御馬おんまそろいのときには、佐々ささしげるせい越中えっちゅうもりまさし加賀かがにそれぞれ在国ざいこくして参加さんかしなかったが[13]、3月になりせい神保じんぼ長住ながずみ越中えっちゅうしゅれて京都きょうと安土あづち出向でむくと[32]織田おだぜい不在ふざいねらって一揆いっきふたた蜂起ほうきして上杉うえすぎ景勝かげかつ軍勢ぐんぜいまねれ、一揆いっきぜい連合れんごうぐん加賀かが越中えっちゅう侵入しんにゅうした。一揆いっきぜい加賀かが白山はくさんふもときょくじょう(ふとうげのとりで[29]占領せんりょうしたので、もりまさし果敢かかんむかい、いそ金沢かなざわじょうより出撃しゅつげきして、きょくじょう奪還だっかんした[33]大日川だいにちがわをはさんだ対岸たいがんにある鳥越とりこししろ一揆いっきぜいちていたのでこれもあわせて奪還だっかんした[34]。このときの織田おだぜい一揆いっきたいする弾圧だんあつ熾烈しれつをきわめ、山内やまうち7ヵ村かそん門徒もんとしゅらえて磔刑たっけいにしたといわれる[28](または石川いしかわぐんはち邑を火攻ひぜめしてくしたという[35])。

佐久間さくま軍記ぐんき』では、同年どうねん2がつ河田かわた長親ながちか毛利もうり九郎兵衛くろべえ[注釈ちゅうしゃく 15]まも鳥越とりこししろめて九郎兵衛くろべえはいさせたといているが[36]実際じっさいには河田かわた長親ながちか上杉うえすぎぜい越中えっちゅう活動かつどうしてしょう出城でしろ包囲ほういちゅうであり、佐々ささしげるせい帰還きかんすると包囲ほういいて、松倉まつくらしろ退却たいきゃくしていて、長親ながちかは4がつ8にち病死びょうししている。またどう荒山あらやま合戦かっせん後述こうじゅつ)を同年どうねん天正てんしょう9ねん)としている[37]が、翌年よくねん天正てんしょう10ねん)の間違まちがいで、長親ながちかもすでにくなっていた。

同年どうねん9がつ12にちもりまさし家臣かしん後藤ごとうわたるみぎ衛門えもんじょう加賀かが石川いしかわぐん河北かほくぐんうち知行ちぎょうあてった[13]

越中えっちゅう能登のと平定へいていせん[編集へんしゅう]

天正てんしょう10ねん1582ねん)2がつ信長のぶなが甲州こうしゅう征伐せいばつたいして武田たけだ勝頼かつより虚報きょほうながして越中えっちゅう一揆いっきぜい扇動せんどうしたところ、3月、これをしんじたくにしゅ小島こじま六郎ろくろう左衛門さえもんしょく鎮)ろう式部しきぶ一揆いっきぜい指揮しきして蜂起ほうきし、神保じんぼ長住ながずみ監禁かんきんして富山とやまじょううばった。3月11にち勝家かついえなるせい前田まえだ利家としいえもりまさししろ包囲ほういして「すぐに落城らくじょうするでしょう」と報告ほうこくしたが、信長のぶなが甲州こうしゅう征伐せいばつ成功せいこうげて、そちらの一揆いっききびしく処罰しょばつするようにと、この4めい不破ふわ直光なおみつ指示しじした[38]

同年どうねん6月2にち本能寺ほんのうじへんこったとき勝家かついえ山本やまもとてら景長かげなが中条ちゅうじょうけいやすしもる越中えっちゅう魚津うおづじょう包囲ほういちゅうで、3にちどうしろ落城らくじょうして守将しゅしょう自害じがい[39]かちぐんすすめて、須田すだみつるおやもる松倉まつくらしろ包囲ほういちゅうもりまさし合流ごうりゅうしたが[40]、『前田まえだ』や『北陸ほくりくななこくこころざし』によれば、6月4にちへんほうとどいたといい[41][42]織田おだぜいただちに松倉まつくらじょうかこみをいて後退こうたいし、8にちには魚津うおづじょうてて海路かいろ富山湾とやまわんわたって放生津ほうじょうづへと撤退てったいした[43]

佐久間さくまもりまさし/信長のぶながこうさんじゅうろく功臣こうしん京都きょうとたていさお神社じんじゃくら
村井むらい重頼しげより覚書おぼえがき[注釈ちゅうしゃく 16]では、きたしょうもどった勝家かついえのもとに前田まえだ利家としいえから(明智あけち光秀みつひでつため)上方かみがたへの出陣しゅつじんすすめる使者ししゃ派遣はけんされたが、もりまさし情勢じょうせいいて諫止したために、躊躇ためらった勝家かついえ出陣しゅつじんおくれてついに秀吉ひでよしさきされたのだと説明せつめいしているが、これは多少たしょう事実じじつことなる[44]かちきたしょうもどった日時にちじははっきりしないが、11にちから13にちあいだとされるうえに、6月17にちづけ利家としいえ書状しょじょう[注釈ちゅうしゃく 17]によると、まず上方かみがたへの先鋒せんぽうとして柴田しばたかつゆたか勝政かつまさ安政あんせいらを先発せんぱつさせて、勝家かついえ越前えちぜんこくかためたえたのち出陣しゅつじんするという計画けいかくで、実際じっさい柴田しばたぜい先頭せんとうは18にちきた近江おうみたっしたが、13にちには山崎やまざきたたかこっていたのであるから、反対はんたい意見いけん有無うむかかわらず、出発しゅっぱつまえ時点じてんですでに出遅でおくれていたからである[44]

柴田しばた勝家かついえきたしょうじょうもどってから近江おうみ経由けいゆ尾張おわり清洲きよすしろかうことになるが、もりまさし能登のとななじょうおも前田まえだ利家としいえ石動山せきどうやま(いするぎやま)めの援軍えんぐんたのまれたので北陸ほくりくとどまった[13]。これは石動山せきどうさん天平てんぴょうてら僧徒そうとへんじょうじて、きゅう畠山はたけやま家臣かしん温井ぬくいけいたかし三宅みやけちょうもりまねいて蜂起ほうきしたもので、温井ぬくいらは上杉うえすぎ景勝かげかつ援助えんじょけてあら山城やましろ[注釈ちゅうしゃく 18]修復しゅうふくしてもった。6月26にち金沢かなざわはっしたもりまさし荒山あらやまじょう攻略こうりゃくして温井ぬくい三宅みやけ斬首ざんしゅし、利家としいえ石動山せきどうさんめて僧徒そうとらを鎮圧ちんあつした[46][13]

同年どうねん8がつ16にちもりまさし依然いぜんとして北陸ほくりくとどまって、越中えっちゅうのこてき掃討そうとうしていた[13]

賤ヶだけやく[編集へんしゅう]

清洲きよす会議かいぎ以後いご柴田しばた勝家かついえ羽柴はしば秀吉ひでよしとの対立たいりつふかめたが、織田おだ内紛ないふんさいして、もりまさし叔父おじかちしんとしてこれを補佐ほさした[13]

同年どうねん11がつ2にち織田おだ信孝のぶたか神戸かんべ信孝のぶたか)・柴田しばた勝家かついえ滝川たきがわ一益かずますらは共謀きょうぼうして羽柴はしば秀吉ひでよし排除はいじょ決意けついしたが、主力しゅりょくとなる北陸ほくりくぜい越前えちぜんふかゆきざされてへいすことができなくなるのを見越みこして、前田まえだ利家としいえ不破ふわ直光なおみつ勝光かつみつ)・金森かなもりちょうちか山城やましろ山崎やまざきじょうたからてらじょう派遣はけんして、秀吉ひでよし和議わぎ協議きょうぎさせることで時間じかんかせぎをすることにしたが[47]さんしょうぞろいもそろって秀吉ひでよし籠絡ろうらくされて内応ないおう約束やくそくをしてしまい[48]、12月2にち岐阜ぎふじょう信孝のぶたか決起けっきすると、秀吉ひでよし和議わぎなどはおかまいなしに、大軍たいぐんをもって長浜ながはまじょうかこんだ。そして同月どうげつ9にち守将しゅしょう柴田しばたかつゆたかはさしたる抵抗ていこうもせずに降伏ごうぶくする[49][50]。『 賤岳合戦かっせんはじめあん太閤たいこう該当がいとう部分ぶぶんとほぼおなじ)』や『 佐久間さくま軍記ぐんき』では、おいであり養子ようしであるかつゆたかは、養父ようふかちと、従兄弟いとこであるもりまさしうらみがあったとされている[51][52] が、柴田しばた陣営じんえい目論見もくろみはあっけなくくずれたわけである。さらに秀吉ひでよし丹羽にわ長秀ながひで柴田しばたかつゆたかきた近江おうみのこしてぐんひきいて美濃みのむかい、12月20にち岐阜ぎふじょう包囲ほういして孤立こりつ無援むえん信孝のぶたか降伏ごうぶくさせると、さん法師ほうし安土あづち織田おだ信雄のぶお北畠きたばたけ信雄のぶお)もとへおくったが、信孝のぶたか家臣かしんだんからは以後いご離反りはんしゃ相次あいついだ。

天正てんしょう11ねん1583ねん)1がつ伊勢いせ亀山かめやましろおもせきもりしん一政かずまさ父子ふし信孝のぶたか見限みかぎって秀吉ひでよしがわ寝返ねがえったので、滝川たきがわ一益かずます亀山かめやましろおさめて家臣かしん佐治さじしんかい一説いっせつ滝川たきかわえき)をれた[53]うるう1がつ10日とおかもりまさし伊賀いがしゅう調しらべりゃくをしていた山中やまなか長俊ながとしより書状しょじょうがきたことを、小島こじま志摩しままもる織田おだ信孝のぶたか異父いふけい小島こじま兵部ひょうぶしょう輔の老臣ろうしん)に報告ほうこくする[54]が、和睦わぼく信孝のぶたかとの連携れんけいつづいており、これにたいして2がつ16にち秀吉ひでよしぐんひきいて伊勢いせはいっていちえき配下はいかしょしろとし、みねじょうくわ名城めいじょう亀山かめやましろ包囲ほういした[55]

賤ヶだけ山頂さんちょうから見下みおろす余呉湖よごこ

同年どうねん2がつ28にち柴田しばた勝家かついえはついにきたしょう出陣しゅつじんしてきた近江おうみ目指めざ[56]もりまさしらは3がつ3にち近江おうみ柳瀬やなせ余呉よごまちやなぎ)に着陣ちゃくじんした[13][57]同日どうじつ佐治さじしんかい亀山かめやましろてて滝川たきがわ一益かずますのいる長島ながしましろ退しりぞいたので、秀吉ひでよし亀山かめやまおさめて安土あづちから出陣しゅつじんした織田おだ信雄のぶお合流ごうりゅうし、蒲生がもうきょうらにはつづみねじょう攻略こうりゃくめいじた[58]。そこでかちきた近江おうみ進出しんしゅつ報告ほうこくいて、秀吉ひでよし伊勢いせしょしょうまかせて近江おうみむかうこととし、3月11にち長浜ながはまじょうはいった[50]同日どうじつもりまさしはおれをして徳山とくやましげるげんのりしゅうめいじてへい狼藉ろうぜきして近江おうみ加田かだむら[注釈ちゅうしゃく 19]うち放火ほうか略奪りゃくだつ)することをきんじている[59]かちは12にち着陣ちゃくじんしてさい後尾こうびにあたる内中うちなか尾山おやま玄蕃げんば尾城おじろ)に本陣ほんじんき、もりまさしはその南西なんせいとなり行市山ぎょういちやまとりできずいた[50]。18にち木之本きのもと[注釈ちゅうしゃく 20]進出しんしゅつした秀吉ひでよしは、偵察ていさつ出向でむいて柴田しばたぜいそなえが堅固けんごであることをり、余呉湖よごこ見下みおろす周辺しゅうへん山々やまやましょしろきずかせて長期ちょうきせんかまえをとることにして、しょしょうはいしたのちで27にち長浜ながはまじょう一旦いったん退しりぞいた[50]

同年どうねん4がつ4にちかつゆたか家臣かしん大鐘おおがねふじはち木下きのした一元いちげん、および(羽柴はしば家臣かしん木村きむらしげるまも神明しんめい山砦さんさいたいして攻撃こうげきがあったが、小競こぜ程度ていどわる。5にちかちみずか出陣しゅつじんして、ひだり禰山とりで攻撃こうげきしたが、これをまもほり秀政ひでまさによって撃退げきたいされた[60]秀吉ひでよし挑発ちょうはつおうじないので、勝家かついえ足利あしかが義昭よしあきらに書状しょじょうおくって対陣たいじん好機こうきのがさずにへいひきいて上洛じょうらくして足利あしかが将軍家しょうぐんけ再挙さいきょあおったり[61]毛利もうり輝元てるもとにはきた近江おうみ戦況せんきょう報告ほうこくして出兵しゅっぺいかさねて催促さいそくしている[62]。13にちかつゆたかべつ家臣かしん山路やまじただしこくどう山砦さんさいはいっていたが、もりまさし調しらべりゃく内応ないおうしていたのが露見ろけんしたので柴田しばたがわ逃亡とうぼうし、おこった秀吉ひでよしせいこくからっていた人質ひとじちはりつけにさせた[63]。16にち美濃みの岐阜ぎふじょう信孝のぶたかふたた挙兵きょへいしたという急報きゅうほうがあったので、秀吉ひでよしきた近江おうみ指揮しきおとうと羽柴はしば秀長ひでなが一任いちにんすると、17にち大垣おおがきじょうはいった[50]

中入なかい
佐久間さくまもりまさしの「中入なかいり」という有名ゆうめい逸話いつわは、講談こうだん種本たねほんである『真書しんしょ太閤たいこう』の場面ばめんがもとになっている[64]もりまさしは、秀吉ひでよし不在ふざいいて攻勢こうせいをかけようとかんがえ、山路やまじただしこく大岩おおいわ山砦さんさいはまだ戦備せんびととのっていないという情報じょうほうをもたらしたので、これを攻撃こうげきしようとかち進言しんげんした。かちはこの意見いけん最初さいしょ反対はんたいしたが、もりまさし熱心ねっしん雄弁ゆうべんされて許可きょかするというあらすじである。これは通説つうせつのようになっているが、実際じっさいには史料しりょうは(『川角かわすみ太閤たいこう』もふくめて)皆無かいむで、軍記ぐんきぶつにおいてもおおくにはかち反応はんのうもりまさしとのやりりはかれていない。言及げんきゅうがある『絵本えほん太閤たいこう』『 佐久間さくま軍記ぐんき』『 賤岳合戦かっせん』でも、かち反対はんたいしたりもりまさし雄弁ゆうべん披露ひろうする場面ばめんはなく、「たたかいがわったらすみやかに帰陣きじんするように」とだけかちもりまさし指示しじをしている[65][66][67]

賤ヶだけ合戦かっせん[編集へんしゅう]

同年どうねん4がつ20日はつかもりまさし中川なかがわ清秀きよひでまも大岩おおいわ山砦さんさい急襲きゅうしゅうした[68][69]もりまさし集福寺しゅうふくじざかから余呉湖よごこ西岸せいがんみなみまわる。(丹羽にわ家臣かしん桑山くわやま重晴しげはるまもる賤ヶだけとりでしたとおってりょはまいたり、そこから防備ぼうび手薄てうすだい岩山いわやまのぼった。重晴しげはると(大岩おおいわ山砦さんさいづけじょうである)岩崎いわさき山砦さんさいまも高山たかやま右近うこんは、より防御ぼうぎょてきした賤ヶだけとりで籠城ろうじょうするか本陣ほんじんへの撤退てったい主張しゅちょうしたが、清秀きよひではこれらを拒否きょひして、かれらの再三さいさん制止せいしかずにわずかな手勢てぜいだけで迎撃げいげきすることを決意けついとりで中川なかがわたい猛然もうぜんもりまさしたい激突げきとつし、高山たかやま右近うこん援軍えんぐんもあっていち撃退げきたいするものの、そのかえされた[70]激戦げきせんのなかで清秀きよひで討死うちじに[71][72][注釈ちゅうしゃく 21]高山たかやま右近うこんとりでてて敗走はいそうして木之本きのもと本陣ほんじん退しりぞいた[74]もりまさしだい岩山いわやま岩崎いわさきさんとりで占領せんりょうすると、つぎ羽柴はしば秀長ひでなが本陣ほんじん攻撃こうげきしようとおもったともいうが[66]、賤ヶだけとりでじゅうはれ和議わぎ提案ていあんしてきたので、よるってとりでから退去たいきょすることをゆるした。

絵本えほん太閤たいこう』『 賤岳合戦かっせん』『 志津しつだけ合戦かっせんごと小須賀こすかきゅう兵衛ひょうえばなし』などは、勝家かついえは、5、6使者ししゃおくって撤退てったいうながしたが、もりまさししたがわずに「勝家かついえいて分別ふんべつうしなったか」とって拒否きょひしている[75][76]
賤ヶだけ合戦かっせん戦没せんぼつしゃ霊地れいち

一方いっぽう秀吉ひでよしは、大岩山おおいわやま落城らくじょうほういてぎゃくよろこび、大軍たいぐんひきいて正午しょうご大垣おおがきつと、5あいだあまりできた近江おうみ木之本きのもと本陣ほんじんまでもどってきた[77]。またこれとはべつに、近江おうみさか本城ほんじょうにいたおもんみじゅう長秀ながひで丹羽にわ長秀ながひで)は援軍えんぐんひきいて琵琶湖びわこわたり、海津かいづからすでに賤ヶだけふもとにまでていて、中川なかがわ高山たかやま敗北はいぼくり、桑山くわやま重晴しげはるとりでてたといて激怒げきどし、いそとりでかってのぼはじめた。長秀ながひでじゅうはれ部隊ぶたいもどすと、重晴しげはる丹羽たんばたい後詰ごづめるとはおもいもよらなかったとって、これと合流ごうりゅうしてよるあいだに賤ヶだけとりでふたた確保かくほした[78][79][80]もりまさし秀吉ひでよしあまりのはや帰陣きじんおどろき、孤立こりつおそれてりょうとりで放棄ほうきして真夜中まよなか余呉湖よごこ西岸せいがんへの山道さんどう撤退てったいはじめた。秀吉ひでよし即座そくざ追撃ついげきめいじたが、もりまさしなにとかこれをって飯浦いいのうらざか飯浦いいのうらえつ)にいた後詰ごづめ柴田しばた勝政かつまさのもとにみ、勝政かつまさがそれ以上いじょう追撃ついげきはばんだので、これにまもられて撤収てっしゅうできた。

21にちあさ、賤ヶだけ本陣ほんじんうつした秀吉ひでよしは、勝政かつまさ権現ごんげんざかほう撤退てったいはじめるところを見計みはからって攻撃こうげきをかけ、近習きんじゅしゅ(いわゆる賤ヶだけななほんやり)にも突撃とつげきめいじる。勝政かつまさたいおおいにくずれ、実弟じってい勝政かつまさ討死うちじにした。もりまさし敗残はいざんへい収容しゅうようしてさい編成へんせいをしようとするが、背後はいご茂山しげやまとりで前田まえだ利家としいえ利長としなが父子ふし戦場せんじょうから離脱りだつはじめたため、本陣ほんじんからはもりまさし部隊ぶたい全体ぜんたい総崩そうくずれになったようにみえて柴田しばたぐん動揺どうようはしった。のがさず秀吉ひでよしそう攻撃こうげきをかける。狐塚きつねづかまで前進ぜんしんしていた勝家かついえ奮戦ふんせんしていたが、味方みかた敗北はいぼくらせがとどき、かずおとるため包囲ほういされてきたので、総崩そうくずれになるまえもう受勝あきら馬印うまじるしわたして脱出だっしゅつし、北国きたぐに街道かいどうきたしょう逃走とうそうした。

絵本えほん太閤たいこう』にはもりまさし戦場せんじょう離脱りだつするか1人ひとり秀吉ひでよし本陣ほんじんんで討死うちじにするかを逡巡しゅんじゅんする場面ばめんがある[81]

最期さいご[編集へんしゅう]

もりまさし越前えちぜん山中さんちゅうらえられた[13]府中ふちゅう付近ふきんともいう[12]

川角かわすみ太閤たいこう』では、もりまさし越前えちぜん敦賀つるが山中さんちゅう主従しゅうじゅう3にんびる途上とじょう百姓ひゃくしょういえしょくもとめたところ、落人おちうど見破みやぶられ、寝込ねこみをつかまった[82][83]秀吉ひでよしきたしょうにいたが、合戦かっせんけは世間せけんのならいで明日あしたであるとして、もりまさしなわいてかごせて宇治うじ槇島まきしま丁重ていちょう護送ごそうするようにめいじる一方いっぽうで、もりまさし生捕いけどりにしてした百姓ひゃくしょうたいしては、褒美ほうびをやるとって12にん全員ぜんいんおびせ、処刑しょけいした[84]
佐久間さくま軍記ぐんき』では、もりまさし合戦かっせんさい険峻けんしゅんはばまれ勝家かついえ合流ごうりゅうできなかったので、蔵王ざおう権現ごんげん権現ごんげんざか)をて、きたしょうじょうこうまき[注釈ちゅうしゃく 22]するために、加賀かがむかったところ中村なかむら[注釈ちゅうしゃく 23]さとみんつかまった。命運めいうんきたことをさとったもりまさしは「藤吉ふじよし猿面さるめんろう[注釈ちゅうしゃく 24]」に一言ひとこといいたいのでわたすようにとった。きたしょう対面たいめんした浅野あさの長政ながまさが「おに玄蕃げんばともわれたあなたが、どうして自害じがいしていないのか」とうので、もりまさしわらって「みなもと頼朝よりともおおやけ大庭景親おおばのかげちかやぶれたときにほらかくれてび、足利あしかが義昭よしあき(※原文げんぶんのまま)は細川ほそかわまさしもと[注釈ちゅうしゃく 25]らわれたがついには脱出だっしゅつして大功たいこうてた。はたたるしゃ容易たやすてき自分じぶんいのちあたえてはならない」といいかえし、周囲しゅういをうならせた[85]

秀吉ひでよしは、らえたもりまさし勇武ゆうぶたか評価ひょうかしていたので、さとして味方みかたにしようとしたという逸話いつわがある。いずれの場合ばあいもりまさし拒否きょひして死罪しざいのぞんだ。

川角かわすみ太閤たいこう』では、勝家かついえ滅亡めつぼう秀吉ひでよし滝川たきがわ一益かずますたいしていたので、わりに蜂須賀はちすか正勝まさかつ槇島まきしま派遣はけんして家臣かしんになれば大国たいこくいちこくあたえようと説得せっとくさせたが、もりまさしかち自害じがいした以上いじょう浮世うきよまることはできず、たとえ天下てんかゆずられてもかちへのおもいにえることはできないとことわった。もりまさしがいうには、自殺じさつしようとなんおもったが、の苛責をおそれて自殺じさつしたとおもわれては心外しんがいなのでおもとどまったのであり、早々そうそう死罪しざいにするようにということであった[86][87]返事へんじつたいた秀吉ひでよしは、その誠心せいしん感心かんしんして、もり勘八かんぱち使者ししゃにしてもりまさし切腹せっぷくめいじたが、のぞみがあれば一言ひとこといてやれとも指示しじしたので、もりまさしは「ねがいわくば、くるませ、縄目なわめけているさま上下じょうげもの見物けんぶつさせ、一条いちじょうつじより下京しもぎょうまわされればありがたい、そうなれば秀吉ひでよし威光いこう天下てんかひびわたるでしょう」とべた[88][89]秀吉ひでよしはこれをききとどけて(死装束しにしょうぞくのために)小袖こそでじゅうおくるが、もりまさし紋柄もんがら仕立したてがらず、大紋だいもんいた紅色こうしょく広袖ひろそでうら紅梅こうばいをあしらった小袖こそで所望しょもうして、「これをくるまれば、あれこそ玄蕃げんばぞと戦場せんじょうでのだい指物さしもののように目立めだつが、いまのものは鉄砲てっぽう足軽あしがるのもつ指物さしもののようだ」とった。秀吉ひでよし最期さいごまで武辺ぶへんしんわすれぬものだとして「よしよし」とって、のぞどおりの広袖ひろそで小袖こそで紅白こうはくじゅうもんをこさえさせたものをあたえた[90]
佐久間さくま軍記ぐんき』では、もりまさし山口やまぐち甚兵衛じんべえ副田そえだ甚左衛門えもん与左衛門よざえもん警固けいごされて京都きょうとれてこられた。秀吉ひでよしは、浅野あさの長政ながまさ使者ししゃとして、ころすにはしいのでうらみをてて家臣かしんになれとつよさそい、九州きゅうしゅうしょしょうはまだしたがっておらず肥後ひごいちこくあたえるので九州きゅうしゅう討伐とうばつするためにはたらけとつたえさせた。もりまさしは「大国たいこくさづけられることは名誉めいよなことで、1ねんもあれば九州きゅうしゅう鎮定ちんていできるが、上洛じょうらくして秀吉ひでよし対面たいめんすれば、かなら憤怒ふんぬ感情かんじょうこってりかかるか、肥後ひご下向げこうして反乱はんらんこすだろう。だいおんあたえてもかえってわざわいとなるだけだから、はや死刑しけいにしたほうがいい」とこたえた。長政ながまさもどって復命ふくめいすると、秀吉ひでよしふたた長政ながまさ使者ししゃにして、てんあきら大神おおがみちかって(恩賞おんしょう約束やくそくを)だますことはないからしたがうようにとつたえさせた。しかしもりまさしは「うたがっているわけではない。勇士ゆうしたるものはいちったことをひるがえさないものだ。明日あしたかなら洛中らくちゅうくるままわして河原かわら処刑しょけいされるべきだ」ともう一度いちどきっぱり拒絶きょぜつしたので、ようやく秀吉ひでよしあきらめた[91]
英雄えいゆうさんじゅう六歌撰佐久間盛政』右田みぎた年英としひでさく
辞世じせいなかを めぐりもてぬ しょうくるま火宅かたくもんづるなりけり」がかれている。

5月12にち洛中らくちゅうまわしのうえ槇島まきしまられた[13][12]。『じゅうおさむ』では三条さんじょう河原かわはらで誅されたとある[2]梟首きょうしゅとされた。『尾張おわりぐんしょ系図けいずしゅう』『太閤たいこうとうでは、処刑しょけいされた日付ひづけを5月7にちともする[1][92]

川角かわすみ太閤たいこう』では、もりまさし希望きぼうどおりになわけられてくるませられ、きょういちじょうから下京しもぎょうまでの市中しちゅうまわされたが、見物けんぶつ群衆ぐんしゅうおどろくほどのかず非常ひじょうなものであった[93]槙島まきしまもどったときにはれていたが、かまわずに頸を刎ねよという指示しじだったので、もり勘八かんぱち地面じめん敷皮しきがわいて脇差わきざしして切腹せっぷくするようにうながしたが、もりまさしはこれを拒否きょひして斬首ざんしゅするようにといったので、勘八かんぱちもりまさしの頸を刎ねさせて、遺体いたいねんごろにほうむって石堂いしどうえた[94]
佐久間さくま軍記ぐんき』では、もりまさし衣裳いしょうたまわり、小袖こそでうえ染物そめものあかうらけただい広袖ひろそでて、くるませられてまわされた。こえたるおに玄蕃げんばようと、上下じょうげなく馬車ばしゃどう男女だんじょ多数たすうならんだが、もりまさしはこれをにらまわしてとおり、河原かわらたれた[95]
絵本えほん太閤たいこう』では、もりまさしけんろく勝敏かつとし山口やまぐち甚兵衛じんべえ副田そえだ甚左衛門えもん護送ごそうされて、秀吉ひでよしじんとも坂本さかもと城下じょうかまでれてこられた。5月7にち秀吉ひでよし命令めいれい洛中らくちゅうを引まわしのうえろくじょう河原かわはら梟首きょうしゅにされるということになり、奉行ぶぎょう浅野あさの長政ながまさによってりょう京都きょうとをひきまわされたが、洛外らくがい洛中らくちゅう人々ひとびとおとこえたるおに玄蕃げんば最後さいごようとあつまってて、隙間すきまもないほどであった。そこで長政ながまさは、六条ろくじょう河原かわらいちまちほどしがらみかこんで、200めいほどの鉄砲てっぽう足軽あしがる厳重げんじゅう警備けいびした。もりまさしは、自分じぶんうんきたからかちの(大岩おおいわとりで攻撃こうげきしたらすぐに退却たいきゃくせよという)命令めいれいまもらずにこうなったとやみ「嗚呼ああ果報かほういみじき筑前ちくぜんかな」となげいたが、長政ながまさは「未練みれんこえこう」とつれなくはや覚悟かくごめるようにうながした[96]
『賤嶽合戦かっせん』では、浅野あさの長政ながまさは、もりまさしけんろく勝敏かつとし)を洛中らくちゅうまわしてろくじょう河原かわら処刑しょけいせよとめいじられた。(わかい)けんろくこころここにあらずという様子ようすであったが、もりまさし中川なかがわやぶったあとかち命令めいれいしたがわずにそこなったことをやんで、上方かみがたぜい侮蔑ぶべつし「嗚呼ああ果報かほういみじき筑前ちくぜんかな」と自分じぶん捕虜ほりょになったのは秀吉ひでよしうんかったからだとうので、いていた長政ながまさは(おこって)散々さんざん悪口わるぐちった。もりまさしかえって「だいにんこころざし」をおのれごときにかせるものではないがとののしり、「頼朝よりともとりこになったとき池禅尼いけのぜんにゆるしの便たよりをい、平家へいけけてちちうらみをらした。きて諸侯しょこうふうじられることなければ、かなえなかられてんだほうがましだ[注釈ちゅうしゃく 26]。これが大丈夫だいじょうぶこころざしというものだ。らんのか」と大喝だいかつして長政ながまさしろたので、人々ひとびともりまさし大志たいしあるこうものだと感心かんしんした[97]

絵本えほん太閤たいこう』『 賤岳合戦かっせん』にあるもりせい辞世じせい

なかを めぐりもてぬ しょうくるま火宅かたくもんを いづるなりけり[98][97]

じゅうおさむとうしょ系図けいずによれば、享年きょうねん30[12][1][2]。『絵本えほん太閤たいこう』によれば、28[99]

その[編集へんしゅう]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

佐久間さくま玄蕃げんばもりせいぞう人物じんぶつぞう定型ていけいだが、花押かおう実物じつぶつうつし)
西尾にしお海蔵寺かいぞうじのこさくあさづか

名城大学めいじょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ高木たかぎもと尾張おわり出身しゅっしん著名ちょめい武将ぶしょう50にんあつめた自著じちょ尾張おわり武人ぶじん物語ものがたり』で「尾張おわりんだもうしょうたけしそつのうち、つよ武将ぶしょうを以ってそのひともとめるなら佐久間さくまもりまさしごときは、その随一ずいいちされるべきひとである」 とひょうした。

子孫しそん[編集へんしゅう]

佐久間さくま
中川なかがわ
  • 賤ヶだけたたかいでくびをとられた中川なかがわ清秀きよひでには、秀政ひでまさ秀成ひでなり2人ふたり息子むすこがおり、ちち戦死せんしいた兄弟きょうだいはすぐに近江おうみさんじたが、すでに秀吉ひでよしもりまさしとりこにしており、これを兄弟きょうだいあたえるからきにしていいとったが、兄弟きょうだい固辞こじして「大丈夫だいじょうぶいさみ戦場せんじょうあらそうや、死生しせいいのちあり、なんうらみかこれあらん[注釈ちゅうしゃく 27]」とった。もりまさしはこれをいて感動かんどうして「一女いちじょあり、かれほうき(きじゅう)のわらわたるをれば、もまた憾なし[注釈ちゅうしゃく 28]」とった。このとき、秀政ひでまさはすでに織田おだ信長のぶながむすめめとっていたので、秀吉ひでよしもりまさしむすめ虎姫とらひめ)を新庄しんじょうただしよりゆき[注釈ちゅうしゃく 29]養女ようじょとなしてやしなわせ、のち秀成ひでなりとつがせた[102]秀政ひでまさ朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい戦死せんしするため、秀成ひでなり豊後ぶんごおかはん初代しょだい藩主はんしゅとなり、虎姫とらひめはその正室せいしつとなった。彼女かのじょねがいでどうはんにはだい藩主はんしゅ久盛ひさもりによってもりまさし菩提寺ぼだいじとして曹洞宗そうとうしゅう英雄えいゆうてら大分おおいたけん竹田たけだ)が建立こんりゅうされた[4]
  • 虎姫とらひめ死後しご五男いつお内記ないきを(もりまさし末弟ばってい佐久間さくま勝之かつゆき養子ようしとして[103]そのむすめわせた。しかしのち2人ふたり離縁りえんして内記ないき中川なかがわもどり、勝之かつゆきむすめはその、(中川なかがわおかはん家老がろうしょく熊田くまたくま田藤たふじすけ再婚さいこんした。この人物じんぶつのち藩主はんしゅ内膳ないぜんせい久盛ひさもり)より中川なかがわせい下賜かしされ、中川なかがわおも隼人はやと)となった[104][105]
  • 尾張おわりぐんしょ系図けいずしゅう』によれば、虎姫とらひめむすめ佐久間さくま重行しげゆきである。この佐久間さくまは、じゅうじきうえしゅう安中あんなかざか奉行ぶぎょう)、重勝しげかつ尾張おわり徳川とくがわ家臣かしん)、重賢しげかたじゅうゆたかまさしげるつづいたという[106]
徳山とくやま
  • かち滅亡めつぼう徳山とくやまのりしゅう一時いちじ高野たかのさん蟄居ちっきょしたが、ゆるされて前田まえだ利家としいえつかえた。のりしゅういもうともりまさし側室そくしつであったことから、ひそかにもりまさしいちなん養育よういくしていたが、成長せいちょうむすめ婿むこむかえて徳山とくやま英行ひでゆき名乗なのらせた。慶長けいちょう11ねん(1606ねん)にのりしゅうくなったとき家督かとく嫡男ちゃくなん直政なおまさ若年じゃくねんであったため、幕府ばくふねがて(直政なおまさあね婿むこである)英行ひでゆきに2せんせきぶんし、直政なおまさには3せんせき相続そうぞくさせることになった。しかし英行ひでゆきのち出家しゅっけしてそうになるとして逐電ちくでんしたので、さい没収ぼっしゅうとなり、のりしゅうむすめ渡辺わたなべ勘兵衛かんべえぼう再嫁さいかした[7]

伝承でんしょう[編集へんしゅう]

もりまさし武勇ぶゆう忠義ちゅうぎ人物じんぶつとして有名ゆうめいになったので、各地かくち伝承でんしょうまれた。

  • さくあさづか(さくまずか)

家臣かしん鈴木すずき八郎はちろうが「賤ヶだけたれた[注釈ちゅうしゃく 30]佐久間さくまもりまさし遺骸いがい背負せおってて、ひそかに自分じぶん郷里きょうり三河みかわこく吉良きら愛知あいちけん西尾にしお吉良きらまち萩原はぎはら)にめたという民間みんかん伝承でんしょうがある。佐久間さくま文字もじはばかり、さくあさ(さくま)の文字もじいしり、鈴木すずきぼうそうになってこれをとむらったという[5]

  • 佐久間さくま地蔵じぞう

和歌山わかやまけん有田ありたぐん有田ありた川町かわまちに「佐久間さくま地蔵じぞう」というものがある。『金屋かなやまち』によると「もりまさしには3にん息子むすこがおり、長男ちょうなんもりまさし運命うんめいともにしたが、おとうとにん高野たかのさんにとどまったのち江戸えど時代じだい金屋かなやむら現在げんざい金屋かなや地区ちく)で医者いしゃになった」と民間みんかん伝承でんしょうがある。次男じなん紀州きしゅうはんはんとなり、三男さんなん金屋かなやむら医者いしゃつづけたといい、佐久間さくま地蔵じぞうは、医者いしゃとなった佐久間さくま屋敷やしきでおまつりしていたものとつたえられており、いまもおはなそなえられるなど地元じもと人々ひとびと信仰しんこうされている[107]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

小説しょうせつ
  • 伊東いとうじゅん 「毒蛾どくがまい」(『くにったおとこ収録しゅうろく短編たんぺん
  • 吉原よしはらみのる攻防こうぼう金沢かなざわ御堂みどう」「火宅かたくもん」(『きた國文こくぶんはな』69ごう・75ごう収録しゅうろく短編たんぺん)「湖水こすいやり」(『きた國文こくぶんはな』87ごう収録しゅうろく短編たんぺん
  • 吉原よしはらみのる最後さいご忠臣ちゅうしん」(『きた國文こくぶんはな』90ごう収録しゅうろく短編たんぺん
  • くすのき義昭よしあき『賤ケだけ鬼神きじん 佐久間さくまもりまさしISBN 978-4620315614

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 豊後ぶんごこくおかしろ対岸たいがんにある。初代しょだい藩主はんしゅ秀成ひでなり正室せいしつ虎姫とらひめねがいで、だい藩主はんしゅ久盛ひさもり建立こんりゅうしたもりまさし菩提寺ぼだいじ[4]
  2. ^ 家臣かしんが賤ヶだけから遺体いたいかえってはかきずいて供養くようしたという「さくあさづか(さくまづか)」がある[5]討死うちじにした柴田しばた勝政かつまさ佐久間さくま勝政かつまさ)の誤伝ごでんか。
  3. ^ a b あねせついもうとせつせつあり。『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』ではあねとしており、通説つうせつではあね
  4. ^ 徳山とくやまのりしゅう女婿じょせいとなる[7]
  5. ^ おなじ「おに玄蕃げんば」の異名いみょうつものとしては、有名ゆうめいなものでは、木村きむらしげるられる。
  6. ^ 名将めいしょう言行げんこうろく』は、賤ヶだけたたか敗軍はいぐんしょうとしてとらわれのになるが、羽柴はしば秀吉ひでよし助命じょめいもうって勇敢ゆうかん最期さいごげたことからおに玄蕃げんばたたえられた[10]というはなしにしているが、なに由来ゆらいかというはなし実際じっさいにはつたわっていない。戦国せんごく時代じだいにおいても、おに〇〇は勇猛ゆうもう人物じんぶつたいする一般いっぱんてき形容詞けいようしである。
  7. ^ これは処刑しょけいまえ場面ばめんであるが、現代げんだいやくは「身長しんちょうは182センチメートルで、血走ちばしり、かおはしゃくれ、頬髭ほおひげをはやしていた」となる。
  8. ^ 佐久間さくま軍記ぐんき』が「其姿ちょうろくしゃく血眼ちまなこめんシャクミホウヒケアリ[注釈ちゅうしゃく 7]」と姿すがた描写びょうしゃして巨漢きょかん髭面ひげづらとしてえがいたことから[11]その姿すがたでよく認識にんしきされる。
  9. ^ a b げん名古屋なごや昭和しょうわ御器所ごきしょ
  10. ^ 場所ばしょ名古屋なごや昭和しょうわ伊藤いとうまち
  11. ^ げん名古屋なごやみなみ山崎やまざき山崎やまざきしろ
  12. ^ a b げん石川いしかわけん小松こまつ今江いまえ町内ちょうない今江いまえじょうともいう。
  13. ^ 石川いしかわけん白山はくさん八幡やはたまちふね岡山おかやまにあった山城やましろ白山はくさんふもとではあるがかなりとお平地ひらちちか大日川おびかわなか流域りゅういきにある。
  14. ^ 佐久間さくま玄蕃げんばでん』によれば金沢かなざわ所領しょりょうは20まんせき
  15. ^ 総見そうけん』によると、柴田しばた勝家かついえ家子いえこという。ものあたまとして300にんともいたとある。
  16. ^ 織田おだ信長のぶなが総合そうごう事典じてん』(389p)には『村井むらいよりゆきじゅう覚書おぼえがき』といてあるが、まさしくは『村井むらい重頼しげより覚書おぼえがき』である。重頼しげより別名べつめい長明ちょうめい)は村井むらいちょうよりゆきで、加賀かが前田まえだ家臣かしん主家しゅかかた記述きじゅつおおく、賤ヶだけたたかいの利家としいえ行動こうどう弁護べんごしており、「利家としいえ謀反むほんをしたというが、それはおかしい」と不満ふまんべた部分ぶぶんがある。
  17. ^ このなかで能登のと上杉うえすぎぜいうかがっており不穏ふおん情勢じょうせいなので、前田まえだ利家としいえ一緒いっしょ出兵しゅっぺいできないともべている[45]
  18. ^ 城址じょうし石川いしかわけん鹿島かしまぐんちゅう能登のとまち芹川せりかわ
  19. ^ げん滋賀しがけん長浜ながはま加田かだ町内ちょうない
  20. ^ 滋賀しがけん長浜ながはま木之本きのもとまち木之本きのもと
  21. ^ 清秀きよひで大岩おおいわ山砦さんさいもどり、包囲ほういされたのち切腹せっぷくしたともいう[73]
  22. ^ 味方みかためるてきを、さらにその背後はいごからくこと、「ぎゃく包囲ほうい」の意味いみ
  23. ^ 現在げんざい金沢かなざわ市内しない
  24. ^ みは「さるめんろう」。「さるヅラの藤吉ふじよし野郎やろう」ぐらいの意味いみで、罵倒ばとうしている。
  25. ^ 実際じっさいさとしけい義昭よしあき)をらえたのは三好みよしさんにんしゅらだが、『佐久間さくま軍記ぐんき』にはこうかれている。
  26. ^ 史記しき』のしゅちちつてをもじったもの。
  27. ^ 現代げんだいやくつよおとこたち戦場せんじょういさみあらそったのであるから、ひと生死せいし天命てんめいだからひとちからではどうすることもできない。どうしてうらみにおもうことがあるでしょうか、いやありません」
  28. ^ 現代げんだいやくわたしにはむすめがいるが、もしかれら(のいずれかが)つまとしてめとってくれるならば、んだあとも心残こころのこりはない」 ※「ほうきわらわ」とせよ、とは、かん高祖こうそりょきさき高祖こうそおさむ)の故事こじならったものである。
  29. ^ 佐久間さくまもりまさし新庄しんじょうただしよりゆきつま同士どうし姉妹しまいで、義理ぎり兄弟きょうだいであった。
  30. ^ 西尾にしおけた看板かんばんでは「やぶれ」に修正しゅうせいされているが、『幡豆はずぐん横須賀よこすかむら』では「賤がごくたる」とかれ、戦場せんじょうから遺体いたいはこんだようかれている[5]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 加藤かとう国光くにみつ 1997, p. 431.
  2. ^ a b c d 堀田ほった 1923, p. 873.
  3. ^ 加藤かとう国光くにみつ へん尾張おわりぐんしょ系図けいずしゅううえ)』ぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1997ねん、431-432ぺーじISBN 9784797105551 
  4. ^ a b 英雄えいゆうてら”. くに指定してい史跡しせき おか城跡じょうせき. 竹田たけだ教育きょういく委員いいんかいまちづくり文化財ぶんかざい. 2022ねん11月5にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c 横須賀よこすかむら役場やくば へん幡豆はずぐん横須賀よこすかむら横須賀よこすかむら役場やくば、1924ねん、129ぺーじ 
  6. ^ 堀田ほったただしあつし国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 徳山とくやま」『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか. だい2輯』國民こくみん圖書としょ、1923ねん、685ぺーじhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082719/352 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 
  7. ^ a b 堀田ほった 1923, p. 685.
  8. ^ 阿部あべたけし; 西村にしむら圭子けいこ へん戦国せんごく人名じんめい事典じてん』(コンパクト)新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1990ねん、365-366ぺーじISBN 4404017529 
  9. ^ 渡辺わたなべ 1929, p. 166.
  10. ^ 岡谷おかや繁実しげみ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 佐久間さくまもりまさし」『名将めいしょう言行げんこうろく. 2』岩波書店いわなみしょてん、1943ねん、192-194ぺーじhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043025/98 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 
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  12. ^ a b c d e f g 岡田おかだ 1999, p. 237.
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m 谷口たにぐち 1995, p. 183.
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  16. ^ 谷口たにぐち 1995, p. 178.
  17. ^ 佐久間さくま 1906, p. 399.
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]