佐久間 盛 政
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生涯 [編集 ]
不確 かな前歴 [編集 ]
- しかし
佐久間 兄弟 のこれらの武功 や活躍 は年齢 的 に若 すぎるように思 われ、まだ少年 の兄弟 が年寄 衆 に引 けを取 らない武将 のように記述 されるなど、不自然 に立場 や功績 が強調 されており、『佐久間 軍記 』の話 を他 の史料 で裏付 けることはできない。
北陸 を転戦 [編集 ]
加賀 平定 戦 [編集 ]
ところが、これに
- 『
佐久間 軍記 』によれば、10月、盛 政 と勝政 は一揆 勢 の首魁 の首 を持 って安土 へ派遣 され、信長 から勝家 ・盛 政 ・勝政 は感状 を賜 った[31]。
- 『
佐久間 軍記 』では、同年 2月 に河田 長親 が毛利 九郎兵衛 [注釈 15]の守 る鳥越 城 を攻 めて九郎兵衛 を敗 死 させたと書 いているが[36]、実際 には河田 長親 と上杉 勢 は越中 で活動 して小 出城 を包囲 中 であり、佐々 成 政 が帰還 すると包囲 を解 いて、松倉 城 へ退却 していて、長親 は4月 8日 に病死 している。また同 記 は荒山 合戦 (後述 )を同年 (天正 9年 )としている[37]が、翌年 (天正 10年 )の間違 いで、長親 もすでに亡 くなっていた。
越中 ・能登 平定 戦 [編集 ]
- 『
村井 重頼 覚書 』[注釈 16]では、北 ノ庄 に戻 った勝家 のもとに前田 利家 から(明智 光秀 を討 つため)上方 への出陣 を勧 める使者 が派遣 されたが、盛 政 が情勢 を説 いて諫止したために、躊躇 った勝家 の出陣 が遅 れてついに秀吉 に先 を越 されたのだと説明 しているが、これは多少 事実 と異 なる[44]。勝 家 が北 ノ庄 に戻 った日時 ははっきりしないが、11日 から13日 の間 とされる上 に、6月17日 付 の利家 の書状 [注釈 17]によると、まず上方 への先鋒 として柴田 勝 豊 ・勝政 ・安政 らを先発 させて、勝家 は越前 国 を固 めた終 えた後 で出陣 するという計画 で、実際 に柴田 勢 の先頭 は18日 に北 近江 に達 したが、13日 には山崎 の戦 いが起 こっていたのであるから、反対 意見 の有無 に関 わらず、出発 前 の時点 ですでに出遅 れていたからである[44]。
賤ヶ岳 の役 [編集 ]
中入 り
佐久間 盛 政 の「中入 り」という有名 な逸話 は、講談 の種本 である『真書 太閤 記 』の場面 がもとになっている[64]。盛 政 は、秀吉 の不在 を突 いて攻勢 をかけようと考 え、山路 正 国 が大岩 山砦 はまだ戦備 が整 っていないという情報 をもたらしたので、これを攻撃 しようと勝 家 に進言 した。勝 家 はこの意見 に最初 反対 したが、盛 政 の熱心 な雄弁 に押 されて許可 するというあらすじである。これは通説 のようになっているが、実際 には史料 は(『川角 太閤 記 』も含 めて)皆無 で、軍記 物 においても多 くには勝 家 の反応 や盛 政 とのやり取 りは書 かれていない。言及 がある『絵本 太閤 記 』『佐久間 軍記 』『 賤岳合戦 記 』でも、勝 家 が反対 したり盛 政 が雄弁 を披露 する場面 はなく、「戦 いが終 わったら速 やかに帰陣 するように」とだけ勝 家 は盛 政 に指示 をしている[65][66][67]。「太閤 記 」も参照
賤ヶ岳 合戦 [編集 ]
- 『
絵本 太閤 記 』『 賤岳合戦 記 』『志津 ケ岳 合戦 事 小須賀 九 兵衛 話 』などは、勝家 は、5、6度 使者 を送 って撤退 を促 したが、盛 政 は従 わずに「勝家 は老 いて分別 を失 ったか」と言 って拒否 している[75][76]。
21
- 『
絵本 太閤 記 』には盛 政 が戦場 を離脱 するか1人 で秀吉 本陣 に踏 み込 んで討死 するかを逡巡 する場面 がある[81]。
最期 [編集 ]
- 『
川角 太閤 記 』では、盛 政 は越前 敦賀 の山中 を主従 3人 で落 ち延 びる途上 、百姓 の家 で食 を求 めたところ、落人 と見破 られ、寝込 みを捕 まった[82][83]。秀吉 は北 ノ庄 にいたが、合戦 の勝 ち負 けは世間 のならいで明日 は我 が身 であるとして、盛 政 の縄 を解 いて籠 に乗 せて宇治 の槇島 へ丁重 に護送 するように命 じる一方 で、盛 政 を生捕 りにして差 し出 した百姓 に対 しては、褒美 をやると言 って12人 全員 を誘 き寄 せ、処刑 した[84]。 - 『
佐久間 軍記 』では、盛 政 は合戦 の際 に険峻 に阻 まれ勝家 と合流 できなかったので、蔵王 権現 (権現 坂 )を出 て、北 ノ庄 城 を後 巻 [注釈 22]するために、加賀 に向 ったところ中村 [注釈 23]の郷 民 に捕 まった。命運 の尽 きたことを悟 った盛 政 は「藤吉 猿面 郎 [注釈 24]」に一言 いいたいので引 き渡 すようにと言 った。北 ノ庄 で対面 した浅野 長政 が「鬼 玄蕃 とも言 われたあなたが、どうして自害 していないのか」と問 うので、盛 政 は笑 って「源 頼朝 公 は大庭景親 に敗 れたときに木 の洞 に隠 れて逃 げ延 び、足利 義昭 (※原文 のまま)は細川 政 元 [注釈 25]に捕 らわれたがついには脱出 して大功 を立 てた。将 たる者 は容易 く敵 に自分 の命 を与 えてはならない」とい返 し、周囲 をうならせた[85]。
- 『
川角 太閤 記 』では、勝家 滅亡 後 、秀吉 は滝川 一益 に対 していたので、代 わりに蜂須賀 正勝 を槇島 へ派遣 して家臣 になれば大国 を一 国 与 えようと説得 させたが、盛 政 は勝 家 が自害 した以上 は浮世 に留 まることはできず、たとえ天下 を譲 られても勝 家 への思 いに替 えることはできないと断 った。盛 政 がいうには、自殺 しようと何 度 も思 ったが、身 の苛責を恐 れて自殺 したと思 われては心外 なので思 い留 まったのであり、早々 に死罪 にするようにということであった[86][87]。返事 を伝 え聞 いた秀吉 は、その誠心 に感心 して、森 勘八 を使者 にして盛 政 に切腹 を命 じたが、望 みがあれば一言 聞 いてやれとも指示 したので、盛 政 は「願 わくば、車 に乗 せ、縄目 を受 けている様 を上下 の者 に見物 させ、一条 の辻 より下京 へ引 き回 されればありがたい、そうなれば秀吉 の威光 も天下 に響 き渡 るでしょう」と述 べた[88][89]。秀吉 はこれをき届 けて(死装束 のために)小袖 二 重 を贈 るが、盛 政 は紋柄 と仕立 てが気 に入 らず、大紋 を染 め抜 いた紅色 の広袖 に裏 は紅梅 をあしらった小袖 を所望 して、「これを着 て車 に乗 れば、あれこそ玄蕃 ぞと戦場 での大 指物 のように目立 つが、今 のものは鉄砲 足軽 のもつ指物 のようだ」と言 った。秀吉 は最期 まで武辺 の心 を忘 れぬ者 だとして「よしよし」と言 って、望 み通 りの広袖 の小袖 の紅白 二 重 に紋 をこさえさせたものを与 えた[90]。 - 『
佐久間 軍記 』では、盛 政 は山口 甚兵衛 と副田 甚左衛門 (与左衛門 )に警固 されて京都 に連 れてこられた。秀吉 は、浅野 長政 を使者 として、殺 すには惜 しいので恨 みを捨 てて家臣 になれと強 く誘 い、九州 の諸 将 はまだ従 っておらず肥後 一 国 を与 えるので九州 を討伐 するために働 けと伝 えさせた。盛 政 は「大国 を授 けられることは名誉 なことで、1年 もあれば九州 を鎮定 できるが、上洛 して秀吉 に対面 すれば、必 ず憤怒 の感情 が沸 き起 こって切 りかかるか、肥後 に下向 して反乱 を起 こすだろう。大 恩 を与 えても返 って禍 となるだけだから、早 く死刑 にした方 がいい」と答 えた。長政 が戻 って復命 すると、秀吉 は再 び長政 に使者 にして、天 照 大神 に誓 って(恩賞 の約束 を)騙 すことはないから従 うようにと伝 えさせた。しかし盛 政 は「疑 っているわけではない。勇士 たるものは一 度 言 ったことを翻 さないものだ。明日 は必 ず洛中 を車 で引 き回 して河原 で処刑 されるべきだ」ともう一度 きっぱり拒絶 したので、ようやく秀吉 は諦 めた[91]。
5月12
- 『
川角 太閤 記 』では、盛 政 は希望 通 りに縄 に掛 けられて車 に乗 せられ、京 の一 条 から下京 までの市中 を引 き回 されたが、見物 の群衆 は驚 くほどの数 で非常 なものであった[93]。槙島 に戻 ったときには日 が暮 れていたが、構 わずに頸を刎ねよという指示 だったので、森 勘八 は地面 に敷皮 を置 いて脇差 を差 し出 して切腹 するように促 したが、盛 政 はこれを拒否 して斬首 するようにといったので、勘八 は盛 政 の頸を刎ねさせて、遺体 を懇 ろに葬 って石堂 を据 えた[94]。 - 『
佐久間 軍記 』では、盛 政 は衣裳 を賜 り、小袖 の上 に染物 の赤 裏 を付 けた大 広袖 を着 て、車 に乗 せられて引 き回 された。世 に聞 こえたる鬼 玄蕃 を観 ようと、貴 賤上下 なく馬車 道 に男女 多数 が立 ち並 んだが、盛 政 はこれを睨 み回 して通 り、河原 で討 たれた[95]。 - 『
絵本 太閤 記 』では、盛 政 と権 六 (勝敏 )は山口 甚兵衛 と副田 甚左衛門 に護送 されて、秀吉 の陣 と共 に坂本 城下 まで連 れてこられた。5月7日 、秀吉 の命令 で洛中 を引廻 しの上 で六 条 河原 で梟首 にされるということになり、奉行 の浅野 長政 によって両 名 は京都 をひき回 されたが、洛外 洛中 の人々 が音 に聞 こえたる鬼 玄蕃 の最後 を見 ようと集 まって来 て、立 つ隙間 もないほどであった。そこで長政 は、六条 河原 で一 町 ほど柵 で囲 んで、200名 ほどの鉄砲 足軽 で厳重 に警備 した。盛 政 は、自分 は運 が尽 きたから勝 家 の(大岩 砦 を攻撃 したらすぐに退却 せよという)命令 を守 らずにこうなったと悔 やみ「嗚呼 果報 いみじき筑前 かな」と嘆 いたが、長政 は「未練 に聞 こえ候 」とつれなく早 く覚悟 を決 めるように促 した[96]。 - 『賤嶽
合戦 記 』では、浅野 長政 は、盛 政 と権 六 (勝敏 )を洛中 を引 き回 して六 条 河原 で処刑 せよと命 じられた。(若 い)権 六 は心 ここにあらずという様子 であったが、盛 政 は中川 を打 ち破 ったあと勝 家 の命令 に従 わずに引 き上 げ損 なったことを悔 やんで、上方 勢 を侮蔑 し「嗚呼 果報 いみじき筑前 かな」と自分 が捕虜 になったのは秀吉 が運 が良 かったからだと言 うので、聞 いていた長政 は(怒 って)散々 悪口 を言 った。盛 政 は振 り返 って「大 忍 之 志 」をおのれごときに聞 かせるものではないがと罵 り、「頼朝 は虜 になったとき池禅尼 に赦 しの便 りを請 い、平家 の科 を避 けて父 の恨 みを晴 らした。生 きて諸侯 に封 じられることなければ、五 鼎 の中 で煮 られて死 んだほうがましだ[注釈 26]。これが大丈夫 の志 というものだ。知 らんのか」と大喝 して長政 を白 い目 で見 たので、人々 は盛 政 は大志 ある剛 の者 だと感心 した[97]。
『
『
その他 [編集 ]
評価 [編集 ]
子孫 [編集 ]
佐久間 家
佐久間 家 は、弟 の保田 安政 が、蒲生 氏 郷 に仕 えたときに佐久間 姓 に復 して、盛 政 の跡 を継 ぎ、江戸 時代 には近江 高島 藩 主 を経 て飯山 藩 主 となるが、3代 後 に無 嗣断絶 した[100]。また、安政 は盛 政 ら一族 の菩提 を弔 うために幡 岳 寺 を建立 している。末弟 の勝之 の佐久間 分家 も、常陸 北条 藩 主 を経 て長沼 藩 主 となり、4代 後 に改易 されているが、この家 は幕臣 として続 いた[101]。
中川 家
- 賤ヶ
岳 の戦 いで首 をとられた中川 清秀 には、秀政 と秀成 の2人 の息子 がおり、父 の戦死 を聞 いた兄弟 はすぐに近江 に馳 せ参 じたが、すでに秀吉 が盛 政 を虜 にしており、これを兄弟 に与 えるから好 きにしていいと言 ったが、兄弟 は固辞 して「大丈夫 勇 を戦場 に争 うや、死生 命 あり、何 の恨 みかこれあらん[注釈 27]」と言 った。盛 政 はこれを聞 いて感動 して「予 に一女 あり、若 し彼 ら箕 箒 (きじゅう)の妾 たるを得 れば、死 もまた憾なし[注釈 28]」と言 った。このとき、秀政 はすでに織田 信長 の娘 を娶 っていたので、秀吉 は盛 政 の娘 (虎姫 )を新庄 直 頼 [注釈 29]の養女 となして養 わせ、後 に秀成 に嫁 がせた[102]。秀政 が朝鮮 出兵 で戦死 するため、秀成 が豊後 岡 藩 初代 藩主 となり、虎姫 はその正室 となった。彼女 の願 いで同 藩 には二 代 藩主 の久盛 によって盛 政 の菩提寺 として曹洞宗 英雄 寺 (大分 県 竹田 市 )が建立 された[4]。 虎姫 の死後 、五男 の内記 を(盛 政 の末弟 )佐久間 勝之 の養子 として[103]その娘 と添 わせた。しかし後 に2人 は離縁 して内記 は中川 家 に戻 り、勝之 の娘 はその後 、(中川 家 )岡 藩 の家老 職 の熊田 家 の熊 田藤 助 と再婚 した。この人物 は後 に藩主 (内膳 正 久盛 )より中川 姓 を下賜 され、中川 資 重 (隼人 )となった[104][105]。- 『
尾張 群 書 系図 部 集 』によれば、虎姫 の娘 の子 が佐久間 重行 である。この佐久間 家 は、重 直 (上 州 安中 坂 奉行 )、重勝 (尾張 徳川 家 家臣 )、重賢 、重 豊 、雅 重 と続 いたという[106]。
徳山 家
勝 家 滅亡 後 、徳山 則 秀 は一時 、高野 山 に蟄居 したが、許 されて前田 利家 に仕 えた。則 秀 の妹 は盛 政 の側室 であったことから、密 かに盛 政 の一 男 を養育 していたが、成長 後 に娘 婿 に迎 えて徳山 英行 と名乗 らせた。慶長 11年 (1606年 )に則 秀 が亡 くなった時 、家督 を継 ぐ嫡男 の直政 が若年 であったため、幕府 に願 い出 て(直政 の姉 婿 である)英行 に2千 石 を分 知 し、直政 には3千 石 を相続 させることになった。しかし英行 は後 に出家 して僧 になるとして逐電 したので、采 地 は没収 となり、則 秀 の娘 は渡辺 勘兵衛 某 に再嫁 した[7]。
伝承 [編集 ]
索 麻 塚 (さくまずか)
佐久間 地蔵
関連 作品 [編集 ]
小説
伊東 潤 「毒蛾 の舞 」(『国 を蹴 った男 』収録 の短編 )吉原 実 「攻防 ・金沢 御堂 」「火宅 の門 」(『北 國文 華 』69号 ・75号 収録 の短編 )「湖水 の槍 」(『北 國文 華 』87号 収録 の短編 )吉原 実 「最後 の忠臣 」(『北 國文 華 』90号 収録 の短編 )楠 戸 義昭 『賤ケ岳 の鬼神 佐久間 盛 政 』 ISBN 978-4620315614
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
- ^
豊後 国 岡 城 の対岸 にある。初代 藩主 秀成 の正室 虎姫 の願 いで、二 代 藩主 久盛 が建立 した盛 政 の菩提寺 [4]。 - ^
家臣 が賤ヶ岳 から遺体 を持 ち帰 って墓 を築 いて供養 したという「索 麻 塚 (さくまづか)」がある[5]。討死 した柴田 勝政 (佐久間 勝政 )の誤伝 か。 - ^ a b
姉 説 と妹 説 の二 説 あり。『寛政 重 修 諸家 譜 』では姉 としており、通説 では姉 。 - ^
徳山 則 秀 の女婿 となる[7]。 - ^
同 じ「鬼 玄蕃 」の異名 を持 つものとしては、有名 なものでは、木村 重 茲も知 られる。 - ^ 『
名将 言行 録 』は、賤ヶ岳 の戦 いで敗軍 の将 として囚 われの身 になるが、羽柴 秀吉 の助命 の申 し出 を断 って勇敢 な最期 を遂 げたことから鬼 玄蕃 と讃 えられた[10]という話 にしているが、何 が由来 かという話 は実際 には伝 わっていない。戦国 時代 においても、鬼 〇〇は勇猛 な人物 に対 する一般 的 な形容詞 である。 - ^ これは
処刑 前 の場面 であるが、現代 訳 は「身長 は182センチメートルで、眼 は血走 り、顔 はしゃくれ、頬髭 をはやしていた」となる。 - ^ 『
佐久間 軍記 』が「其姿長 六 尺 血眼 面 シャクミホウヒケアリ[注釈 7]」と姿 を描写 して巨漢 の髭面 として描 いたことから[11]その姿 でよく認識 される。 - ^ a b
現 名古屋 市 昭和 区 御器所 。 - ^
場所 は名古屋 市 昭和 区 伊藤 町 。 - ^
現 名古屋 市 南 区 山崎 。山崎 城 。 - ^ a b
現 石川 県 小松 市 今江 町内 。今江 城 ともいう。 - ^
石川 県 白山 市 八幡 町 の舟 岡山 にあった山城 。白山 の麓 ではあるがかなり遠 く平地 に近 い大日川 の中 流域 にある。 - ^ 『
佐久間 玄蕃 伝 』によれば金沢 の所領 は20万 石 。 - ^ 『
総見 記 』によると、柴田 勝家 の家子 という。物 頭 として300余 人 と共 に留 め置 いたとある。 - ^ 『
織田 信長 総合 事典 』(389p)には『村井 頼 重 覚書 』と書 いてあるが、正 しくは『村井 重頼 覚書 』である。重頼 (別名 長明 )は村井 長 頼 の子 で、加賀 前田 家 の家臣 。主家 の肩 を持 つ記述 が多 く、賤ヶ岳 の戦 いの利家 の行動 も弁護 しており、「利家 が謀反 をしたというが、それはおかしい」と不満 を述 べた部分 がある。 - ^ このなかで
能登 は上杉 勢 が伺 っており不穏 な情勢 なので、前田 利家 は一緒 に出兵 できないとも述 べている[45]。 - ^
城址 は石川 県 鹿島 郡 中 能登 町 芹川 。 - ^
現 滋賀 県 長浜 市 加田 町内 。 - ^
滋賀 県 長浜 市 木之本 町 木之本 。 - ^
清秀 は大岩 山砦 に戻 り、包囲 された後 に切腹 したともいう[73]。 - ^
味方 を攻 める敵 を、さらにその背後 から取 り巻 くこと、「逆 包囲 」の意味 。 - ^
現在 の金沢 市内 。 - ^
読 みは「さるめんろう」。「猿 ヅラの藤吉 の野郎 」ぐらいの意味 で、罵倒 している。 - ^
実際 に覚 慶 (義昭 )を捕 らえたのは三好 三 人 衆 らだが、『佐久間 軍記 』にはこう書 かれている。 - ^ 『
史記 』の主 父 偃伝 をもじったもの。 - ^
現代 語 訳 「強 い男 達 が戦場 で勇 を争 ったのであるから、人 の生死 は天命 だから人 の力 ではどうすることもできない。どうして恨 みに思 うことがあるでしょうか、いやありません」 - ^
現代 語 訳 「私 には娘 がいるが、もし彼 ら(のいずれかが)妻 として娶 ってくれるならば、死 んだあとも心残 りはない」 ※「箕 箒 の妾 」とせよ、とは、漢 の高祖 の呂 后 (高祖 紀 )の故事 に倣 ったものである。 - ^
佐久間 盛 政 と新庄 直 頼 は妻 同士 が姉妹 で、義理 の兄弟 であった。 - ^
西尾 市 が付 けた看板 では「敗 れ」に修正 されているが、『幡豆 郡 横須賀 村 誌 』では「賤が獄 に討 たる」と書 かれ、戦場 から遺体 を運 んだ様 が書 かれている[5]。
出典 [編集 ]
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参考 文献 [編集 ]
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