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賤ヶだけたたか

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賤ヶだけたたか

『賤ヶだけだい合戦かっせん』 (歌川うたがわゆたかせん
戦争せんそう安土あづち桃山ももやま時代じだい
年月日ねんがっぴ天正てんしょう11ねん4がつ20日はつか-21にち (1583ねん6がつ10日とおか-11にち)
場所ばしょ近江おうみこく伊香いかぐん賤ヶだけ付近ふきん
結果けっか羽柴はしばぐん勝利しょうり ・ 勢力せいりょく掌握しょうあく
交戦こうせん勢力せいりょく
しばぐん 柴田しばたぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
羽柴はしば秀吉ひでよし
丹羽にわ長秀ながひで
織田おだ信雄のぶお
中川なかがわ清秀きよひで  
柴田しばた勝家かついえ
織田おだ信孝のぶたか
佐久間さくまもりまさし
前田まえだ利家としいえ
三木みきつな
戦力せんりょく
50,000-70,000 30,000
損害そんがい
4000-6000 8000以上いじょう
豊臣とよとみ秀吉ひでよし戦闘せんとう
だけ

賤ヶだけたたか(しずがたけのたたかい)は、天正てんしょう11ねん1583ねん4がつ近江おうみこく伊香いかぐんげん滋賀しがけん長浜ながはまきゅう伊香いかぐん木之本きのもとまち)の賤ヶだけ付近ふきんきた羽柴はしば秀吉ひでよし柴田しばた勝家かついえたたかいである。このたたかいは織田おだ勢力せいりょく二分にぶんするはげしいものとなり、これに勝利しょうりした秀吉ひでよし織田おだ信長のぶなががきずきあげた権力けんりょく体制たいせい継承けいしょう天下てんかじんへの第一歩だいいっぽがひらかれた。

清洲きよす会議かいぎ

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天正てんしょう10ねん6月2にち1582ねん6月21にち)、織田おだ信長のぶながとその嫡男ちゃくなん当主とうしゅ織田おだ信忠のぶただ重臣じゅうしん明智あけち光秀みつひで謀反ぼうほんによって横死おうしする本能寺ほんのうじへんこり、そのまもない山崎やまざきたたか光秀みつひでった羽柴はしば秀吉ひでよし信長のぶなが旧臣きゅうしんちゅうおおきなちからつにいたった。6月27にち7がつ16にち)、当主とうしゅうしなった織田おだ後継こうけいしゃ決定けっていする会議かいぎ清洲きよすしろひらかれ、信長のぶなが三男さんなん織田おだ信孝のぶたか柴田しばた勝家かついえ嫡男ちゃくなん信忠のぶただであるさん法師ほうし織田おだ秀信ひでのぶ)を羽柴はしば秀吉ひでよしとのあいだはげしい対立たいりつしょうじた。結果けっかてきには同席どうせきした丹羽にわ長秀ながひで池田いけだひさしきょうらがさん法師ほうし擁立ようりつ賛成さんせいしたためかちゆずらざるをえず、この後継こうけいしゃ問題もんだいかたちうえではひとまず決着けっちゃくをみた。ただし、近年きんねん勝家かついえさん法師ほうし擁立ようりつ自体じたいには賛成さんせいしていたが、その成人せいじんまでの名代なだい当主とうしゅ代理だいり)をどうするかで対立たいりつしたとするせつ提唱ていしょうされている[注釈ちゅうしゃく 1]

合戦かっせんにいたるまで

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りょう陣営じんえいうご

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こののち双方そうほうとも周囲しゅうい勢力せいりょくみずからの協力きょうりょく体制たいせいもうとさかんに調しらべりゃくおこなうが、北陸ほくりく柴田しばたがわ後方こうほうにある上杉うえすぎ景勝かげかつや、信孝のぶたか地盤じばんである美濃みの有力ゆうりょく部将ぶしょう稲葉いなば一鉄いってつが、羽柴はしばがわになびくなど秀吉ひでよし有利ゆうり状況じょうきょう出来できつつあった。一方いっぽうかちがわ土佐とさ長宗我部ちょうそかべ元親もとちか紀伊きい雑賀さいかしゅうみ、とく雑賀さいかしゅう秀吉ひでよし出陣しゅつじんちゅう和泉いずみ岸和田きしわだじょうなどに攻撃こうげき仕掛しかけるなど、後方こうほうおどかしている。

かちによる和平わへい交渉こうしょう

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10月16にち勝家かついえほり秀政ひでまさ覚書おぼえがきおくり、秀吉ひでよし清洲きよす会議かいぎ誓約せいやく違反いはんおよ不当ふとう領地りょうちさい分配ぶんぱいたからてらじょう築城ちくじょう非難ひなんしている(『みなみぎょう雑録ざつろく』)。11月、勝家かついえ前田まえだ利家としいえ金森かなもりちょうちか不破ふわ勝光かつみつ使者ししゃとして秀吉ひでよしのもとに派遣はけんし、秀吉ひでよしとの和睦わぼく交渉こうしょうさせた。これはかち北陸ほくりく領地りょうちち、ふゆにはゆき行動こうどう制限せいげんされることを理由りゆうとしたせかけの交渉こうしょうであった。秀吉ひでよしはこのことを見抜みぬき、ぎゃくにこのさいさんしょう調しらべりゃくしており、さらには高山たかやま右近うこん中川なかがわ清秀きよひで筒井つつい順慶じゅんけい三好みよし康長やすながらに人質ひとじちれさせ、畿内きないしろかためている。

秀吉ひでよしによる長浜ながはまじょう岐阜ぎふじょう

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12月2にち12月26にち)、秀吉ひでよし毛利もうり対策たいさくとして山陰やまかげ宮部みやべつぎじゅん山陽さんよう蜂須賀はちすか正勝まさかついたうえで、和睦わぼく反故ほごにして大軍たいぐんひきいて近江おうみ出兵しゅっぺい長浜ながはまじょう攻撃こうげきした。北陸ほくりくすでゆきふかかったためにかち援軍えんぐんせず、かち養子ようしでもあるじょうすすむ柴田しばたかつゆたかは、わずかな日数にっすう秀吉ひでよし降伏ごうぶくした。さらに秀吉ひでよしぐん美濃みの進駐しんちゅう稲葉いなば一鉄いってつなどから人質ひとじちおさめるとともに、12月20にち(1583ねん1がつ13にち)には岐阜ぎふじょうにあった織田おだ信孝のぶたか降伏ごうぶくさせた。

滝川たきがわ一益かずます挙兵きょへい

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よく天正てんしょう11ねん(1583ねん正月しょうがつ伊勢いせ滝川たきがわ一益かずますかちへの旗幟きし明確めいかくにして挙兵きょへいし、せきもりしん一政かずまさ父子ふし不在ふざいすき亀山かめやましろみねじょう関城せきじょう国府こくふじょう鹿伏兎かぶとじょう調しらべりゃく亀山かめやまじょう滝川たきかわえきみねじょう滝川たきかわえきじゅう関城せきじょう滝川たきがわただしせいき、自身じしん長島ながしましろ秀吉ひでよしむかった。秀吉ひでよししょ勢力せいりょく調しらべりゃく牽制けんせいもあり、一時いちじ京都きょうとへい退しりぞいていたが、翌月よくげつには大軍たいぐんひきいこれらへの攻撃こうげき再開さいかい国府こくふじょう2がつ20日はつか4がつ11にち)にとし、2がつ中旬ちゅうじゅんにはいちえき本拠ほんきょである長島ながしましろ攻撃こうげきしたが、滝川たきかわぜい抵抗ていこう頑強がんきょうであり、亀山かめやまじょう3月3にち4がつ24にち)、みねじょう4がつ12にち6月4にち)までこたえ、しろへい長島ながしまじょう合流ごうりゅうしている。このとき亀山かめやましろみねじょう守将しゅしょうえきえきじゅう武勇ぶゆうひょうされ、えきじゅうのち秀吉ひでよしつかえた。

かち挙兵きょへい

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一方いっぽう越前えちぜんきたしょうじょうにあった勝家かついえゆきのためうごくことができずにいたが、これらの情勢じょうせいれずついに2がつまつ近江おうみけて出陣しゅつじんした。

合戦かっせん

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賤ヶだけ山頂さんちょう余呉湖よごこ
賤ヶだけ古戦場こせんじょう登山とざんどう入口いりくち
月岡つきおか芳年よしとし浮世絵うきよえシリーズつきひゃく姿すがた No. 67、志津しづたけがつ 秀吉ひでよし

対峙たいじ

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3月12にち5月3にち)、柴田しばた勝家かついえ佐久間さくまもりまさし前田まえだ利家としいえらとともにおよそ3まん軍勢ぐんぜいひきいて近江おうみこくやなぎ到着とうちゃくし、布陣ふじん完了かんりょうさせた。一益かずますこめ長島ながしましろ包囲ほういしていた秀吉ひでよし織田おだ信雄のぶお蒲生がもうきょうの1まんきょう軍勢ぐんぜい伊勢いせのこし、3月19にち5がつ10日とおか)には5まんといわれる兵力へいりょくひきいて木ノ本きのもと布陣ふじんした。双方そうほうただちに攻撃こうげきってることはせず、しばらくは陣地じんちとりでさかんに構築こうちくした(遺構いこうがある程度ていど現在げんざいのこる)。また、丹羽にわ長秀ながひでかち西進せいしんそな海津かいづ敦賀つるがへいしたため、戦線せんせん膠着こうちゃくし、3月27にち5月18にち秀吉ひでよし一部いちぶ軍勢ぐんぜいひきいて長浜ながはまじょう帰還きかんし、伊勢いせ近江おうみの2方面ほうめんそなえた。秀吉ひでよしから秀長ひでながに「(自軍じぐんの)とりで周囲しゅうい小屋こや前野まえのちょうやすし黒田くろだ官兵衛かんべえ木村きむら隼人はやと部隊ぶたい手伝てつだってこわすべきこと」と3がつ30にちけの書状しょじょうおくられたが、この命令めいれい実行じっこうされていない[1]

交戦こうせん

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4がつ16にち6月6にち)、いち秀吉ひでよし降伏ごうぶくしていた織田おだ信孝のぶたか伊勢いせいちえきむすふたた挙兵きょへい岐阜ぎふじょうした進出しんしゅつした。ここに近江おうみ伊勢いせ美濃みのの3方面ほうめん作戦さくせんいられることになった秀吉ひでよしよく4がつ17にち6月7にち美濃みの進軍しんぐんするも、揖斐川いびがわ氾濫はんらんにより大垣おおがきじょうはいった。秀吉ひでよし軍勢ぐんぜいおおくが近江おうみからはなれたのを好機こうき勝家かついえ部将ぶしょう佐久間さくまもりまさし意見いけん具申ぐしんもあり、4がつ19にち6月9にち)、もりまさしただちに大岩おおいわ山砦さんさい攻撃こうげきさせた。大岩おおいわ山砦さんさいまもっていたのは中川なかがわ清秀きよひでであったが、れず陥落かんらく清秀きよひで討死うちじにつづいて黒田くろだ孝高よしたか部隊ぶたいもりまさし攻撃こうげきけることとなったが、奮戦ふんせんまもいた。もりまさしはさらに岩崎いわさきさん陣取じんどっていた高山たかやま右近うこん攻撃こうげき右近うこんささえきれずに退却たいきゃくし、木ノ本きのもと羽柴はしば秀長ひでなが陣所じんしょのがれた。この成果せいかかちもりまさし撤退てったい命令めいれいくだしたが、再三さいさん命令めいれいにもかかわらず何故なぜもりまさしはこれにしたがおうとせず、前線ぜんせん着陣ちゃくじんつづけた。

4がつ20日はつか6がつ10日とおか)、劣勢れっせいであると判断はんだんした賤ヶだけとりで守将しゅしょう桑山くわやま重晴しげはる撤退てったい開始かいしする。これによりもりまさしが賤ヶだけとりで占拠せんきょするのも時間じかん問題もんだいかとおもわれた。しかしそのころときおなじくしてふねによって琵琶湖びわこわたっていた丹羽にわ長秀ながひでが「いち坂本さかもともどるべし」という部下ぶか反対はんたいにあうもいまいてにないと判断はんだんし、進路しんろ変更へんこうして海津かいづへの上陸じょうりく敢行かんこうしたこと戦局せんきょく一変いっぺん長秀ながひでひきいる2,000の軍勢ぐんぜい撤退てったい開始かいししていた桑山くわやま重晴しげはる軍勢ぐんぜいとちょうど鉢合はちあわせするかたちとなるとそれと合流ごうりゅうし、そのまま賤ヶだけ周辺しゅうへんもりまさし軍勢ぐんぜい撃破げきはし賤ヶだけとりで確保かくほ成功せいこうする。

同日どうじつ大垣おおがきじょうにいた秀吉ひでよし大岩おおいわ山砦さんさいとう陣所じんしょ落城らくじょうり、ただちにぐんかえした。14大垣おおがき秀吉ひでよしぐん木ノ本きのもとまでの13(52キロ)の距離きょりを5あいだ移動いどうした(美濃みのだいかえ)。 佐久間さくまもりまさしは、翌日よくじつ未明みめい秀吉ひでよしらの大軍たいぐん強襲きょうしゅうされたが奮闘ふんとうもりまさしたい直接ちょくせつくずせないと判断はんだんした秀吉ひでよし柴田しばた勝政かつまさ(もりまさし実弟じってい)に攻撃こうげき対象たいしょう変更へんこう、この勝政かつまさもりまさし救援きゅうえんするかたちで、りょうぐん激戦げきせんとなった。このとき活躍かつやくしたのが、羽柴はしば秀吉ひでよしがわの、賤ヶだけななほんやりといわれる加藤かとう清正きよまさ福島ふくしま正則まさのり加藤かとう嘉明よしあき平野ひらのちょうやすし脇坂わきさか安治やすじ糟屋かすや武則たけのり片桐かたぎり且元である。

かち敗走はいそう

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ところがこの激戦げきせん最中さいちゅう茂山しげやま布陣ふじんしていた柴田しばたがわ前田まえだ利家としいえ軍勢ぐんぜい突如とつじょとして戦線せんせん離脱りだつした。これにより後方こうほうまもりの陣形じんけいくず佐久間さくまたいへい士気しきがり、柴田しばたぐん全体ぜんたい士気しき一気いっきがった。これは秀吉ひでよし勧誘かんゆう利家としいえはやくからおうじていたからではないかと推測すいそくされる[2]。このため利家としいえ対峙たいじしていた軍勢ぐんぜい柴田しばたぜいへの攻撃こうげきくわわった。さらに柴田しばたがわ不破ふわ勝光かつみつ金森かなもりちょうこん軍勢ぐんぜい退却たいきゃくしたため、佐久間さくまもりまさしぐん撃破げきはした秀吉ひでよし軍勢ぐんぜい柴田しばた勝家かついえ本隊ほんたい殺到さっとうした。多勢たぜい無勢ぶぜい状況じょうきょうささえきれずかち軍勢ぐんぜいくずれ、ついに勝家かついえ越前えちぜんきたしょうじょうけて退却たいきゃくした。

きたしょう岐阜ぎふ長島ながしまじょう落城らくじょう信孝のぶたか自害じがい

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かちきたしょうじょうのがれるも、4がつ23にち6月13にち)には前田まえだ利家としいえ先鋒せんぽうとする秀吉ひでよし軍勢ぐんぜい包囲ほういされ、翌日よくじつ夫人ふじんいちかたらとともに自害じがいした(きたしょうじょうたたか)。 佐久間さくまもりまさし逃亡とうぼうするものの黒田くろだ孝高よしたか手勢てぜいらえられた。のちに斬首ざんしゅされ、くびきょうろくじょう河原かわはらでさらされた。また、柴田しばた勝家かついえうしたてうしなった美濃みの方面ほうめん織田おだ信孝のぶたか秀吉ひでよしくみしたあに織田おだ信雄のぶお岐阜ぎふじょう包囲ほういされて降伏ごうぶく信孝のぶたか尾張おわりこく内海うつみ愛知あいちけん南知多みなみちたまち)にうつされ、4がつ29にち6月19にち信雄のぶお使者ししゃより切腹せっぷくめいじられて自害じがいした。のこ伊勢いせ方面ほうめん滝川たきがわ一益かずますはさらに1かげつ篭城ろうじょうつづけたが、ついには開城かいじょう剃髪ていはつのうえ出家しゅっけ[3]丹羽にわ長秀ながひでもと越前大野えちぜんおおの蟄居ちっきょした。

賤ヶだけななほんやり

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秀吉ひでよしかた功名こうみょうをあげたへいのうち以下いかの7にん後世こうせい賤ヶだけななほんやりしずがたけ の しちほんやり)とばれる。

「賤ヶだけななほんやり」という名称めいしょうは、江戸えど初期しょきの『はじめあん太閤たいこう』がはつである。7にんというのは語呂合ごろあわせで、実際じっさい感状かんじょうすうせんせきろくたのは桜井さくらい佐吉さきちいち石川いしかわ兵助へいすけ一光いっこう同様どうようである。天正てんしょう成立せいりつ大村おおむらゆかりおのれ天正てんしょうない柴田しばた合戦かっせん」には、7にんくわ桜井さくらい石川いしかわの9にんげられている。

後年こうねんななほんやり豊臣とよとみ政権せいけんにおいておおきな勢力せいりょくつにいたったが、譜代ふだい有力ゆうりょく家臣かしんたなかった秀吉ひでよし自分じぶん子飼こがいを過大かだい喧伝けんでんした結果けっかともいえる。福島ふくしま正則せいそくが「わきざかなどと同列どうれつにされるのは迷惑めいわくだ」(中傷ちゅうしょう意図いと否定ひていできない)とかたったり、加藤かとう清正きよまさも「ななほんやり」を話題わだいにされるのをひどくきらった(今日きょう研究けんきゅうでは清正きよまさ立身りっしん羽柴はしば財務ざいむ民政みんせいにおける功績こうせき部分ぶぶんおおきく、賤ヶだけ戦功せんこう異例いれいぞくしていたとされる[4])などの逸話いつわつたえられており、当時とうじから「ななほんやり」が虚名きょめいちかいという認識にんしきひろまっていたと推定すいていされる。

一柳いちりゅう』の「さきかかこれしゅ

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一柳いちりゅうただしまつ直盛なおもり兄弟きょうだい武功ぶこうとして、一柳いちりゅう直良なおよし直盛なおもり)がしるした『一柳いちりゅう』には、4がつ21にち佐久間さくまもりまさしいきおいとの交戦こうせんにおける「さきかかこれしゅ」14にん活躍かつやくえがかれている[5]。「さきかかこれしゅ」の一部いちぶは「ななほんやり」と重複じゅうふくしており、石田いしだ三成みつなり大谷おおやきちままし一柳いちりゅう直盛なおもりらも最前線さいぜんせん武功ぶこうげたとする。

一柳いちりゅう』がかかげる「さきかかしゅう」は、加藤かとう虎之助とらのすけ加藤かとう清正きよまさ)・大谷おおやかつらまつ大谷おおやきちままし)・石田いしだひだりきち石田いしだ三成みつなり。『つづけぐんしょ類従るいじゅう所収しょしゅうのテキストでは、一説いっせつ福島ふくしま正則まさのり家臣かしん桜井さくらいひだりきち桜井さくらいいち)という割注わりちゅうがある)・片桐かたぎり助作すけづくり片桐かたぎり且元)・平野ひらのけんひらめ平野ひらのちょうやすし)・奥村おくむら半平はんぺん福島ふくしま市松いちまつ福島ふくしま正則まさのり)・福島ふくしま与吉よきちろう福島ふくしま長則ながのり正則せいそくおとうと[6])・大島おおしま茂兵衛もへい大島おおしま光政みつまさ)・一柳いちりゅう次郎じろう兵衛ひょうえ一柳いちりゅう四郎しろうみぎ衛門えもん一柳いちりゅう直盛なおもり)・稲葉いなばきよしろくで、「以上いじょうひろえよんにん」(直前ちょくぜん一柳いちりゅうただしまつ加藤かとうひかりやすしぐん奉行ぶぎょうとしてげられている[7]。なお、一柳いちりゅう直盛なおもり稲葉いなばきよしろく一柳いちりゅうただしまつ家臣かしんであった[7])がいちまんせんてきけたのは無類むるいであると当時とうじ評判ひょうばんをとったという[7]

なお、『一柳いちりゅう』では「さきかかしゅう」とともに崎田さきだ源太郎げんたろう小右衛門こうえもん割注わりちゅうがある)・加藤かとうまごろく加藤かとう嘉明よしあき)・桜井さくらいひだりきち加須かぞ助右衛門すけえもん糟屋かすや武則たけのり)・石川いしかわちょうじゅう石川いしかわ兵助へいすけ石川いしかわ一光かずみつ)・脇坂わきさか甚内(脇坂わきさか安治やすじ)らのたたかいぶりもえがかれている[8]。『一柳いちりゅう』では直盛なおもりはたらきを称揚しょうようする文章ぶんしょうあいだに「江北こうほくななほんやりとは此時のさるこう」としるしている[9]

合戦かっせん性格せいかく

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このたたかいは柴田しばた勝家かついえ滝川たきがわ一益かずます羽柴はしば秀吉ひでよし丹羽にわ長秀ながひで織田おだ政権せいけんないでの主導しゅどうけんあらそいであると同時どうじに、信長のぶなが次男じなん織田おだ信雄のぶお三男さんなん織田おだ信孝のぶたか対立たいりつでもあった。両者りょうしゃ対立たいりつがそのようなかたちをとったことは、戦国せんごく時代じだい幕府ばくふ政争せいそう将軍しょうぐん家督かとくあらそいというかたちをとってきたことと相似そうじする[10]。そればかりか、かち場合ばあい備後びんごこく鞆ノうら広島ひろしまけん福山ふくやま)にあって京都きょうとへの帰還きかんをもくろんでいた征夷大将軍せいいたいしょうぐん足利あしかが義昭よしあき擁立ようりつさえこころみていた[10]

このたたかいで、一向いっこうそう本願寺ほんがんじ勢力せいりょくしゅう吉方えほう与力よりきするともうている。本願寺ほんがんじ加賀かが一揆いっき動員どういんして秀吉ひでよし忠節ちゅうせつをつくすともうれてきたことにたいして、秀吉ひでよしはこれを賞賛しょうさんし、柴田しばたりょう加賀かが越前えちぜん活躍かつやくすれば加賀かが本願寺ほんがんじ返還へんかんするとこたえている。とはいえ、本願寺ほんがんじにそのようなちからのこっておらず、実際じっさいかち一向いっこうそう残党ざんとう警戒けいかいした様子ようすはない。

合戦かっせん影響えいきょう

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この合戦かっせん結果けっかおおくの織田おだ旧臣きゅうしん秀吉ひでよし接近せっきんしんぞくするようになった。また合戦かっせん終了しゅうりょうの2にち4がつ25にち6月15にち)に秀吉ひでよし中国ちゅうごく地方ちほう戦国せんごく大名だいみょう毛利もうり輝元てるもと重臣じゅうしん小早川こばやかわ隆景たかかげ書簡しょかんおくり、自軍じぐん勝利しょうりわったことを報告ほうこくするとともに、中立ちゅうりつ状態じょうたいにあった毛利もうりみずからへの服属ふくぞくあんうながした。戦後せんご処理しょり終了しゅうりょうほどなく、秀吉ひでよし畿内きない石山いしやま本願寺ほんがんじあとだい坂城さかき築城ちくじょう開始かいしし、同年どうねん5がつには朝廷ちょうていからしたがえよん参議さんぎ任命にんめいされた。さらに合戦かっせん終了しゅうりょう秀吉ひでよしのもとには徳川とくがわ家康いえやす上杉うえすぎ景勝かげかつ毛利もうり輝元てるもと大友おおとも義統よしむねなど各地かくち有力ゆうりょく大名だいみょう相次あいついで使者ししゃおくり、戦勝せんしょう慶賀けいが親交しんこうもとめたことも秀吉ひでよし畿内きないにおける権力けんりょく掌握しょうあく象徴しょうちょうした。しかし臣従しんじゅうしたとはいえ、丹羽にわ長秀ながひで池田いけだひさしきょう森長もりなが蒲生がもうきょうほり秀政ひでまさ長谷川はせがわ秀一ひでかずなどの織田おだ旧臣きゅうしん大幅おおはば加増かぞうていることも見逃みのがせない事実じじつである。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ しば裕之ひろゆき清須きよす会議かいぎ』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2018ねん)のせつしばかち信孝のぶたかした逸話いつわは『川角かわすみ太閤たいこう』の創作そうさくで、そもそも京都きょうと安土あづち岐阜ぎふではなく清州きよす会議かいぎひらかれたのは、後継こうけいしゃであるさん法師ほうし御前ごぜんひらくためであったとしている。

出典しゅってん

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  1. ^ 賤ケだけ合戦かっせん:黒田くろだ官兵衛かんべえ参戦さんせんしていた…秀吉ひでよし古文書こもんじょ発見はっけん毎日新聞まいにちしんぶん2013ねん5がつ10日とおか
  2. ^ 高柳たかやなぎ 2001.
  3. ^ 池上いけがみほか 1995, p. 477.
  4. ^ 大浪おおなみ和弥かずや加藤かとう清正きよまさ畿内きない-肥後ひご入国にゅうこく以前いぜん動向どうこう中心ちゅうしんに-」(初出しょしゅつ:『さかい博物館はくぶつかん研究けんきゅう報告ほうこく』32ごう(2013ねん)/山田やまだ貴司たかし 編著へんちょ『シリーズ・ゆたか大名だいみょう研究けんきゅう だいかん 加藤かとう清正きよまさ』(戒光さち出版しゅっぱん、2014ねんISBN 978-4-86403-139-4
  5. ^ 一柳いちりゅう』(つづけぐんしょ類従るいじゅう だいじゅう輯下』pp.473-476)。
  6. ^ 尾張おわりぐんしょ系図けいずしゅう 』(つづけぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1997)p.853
  7. ^ a b c 一柳いちりゅう』(つづけぐんしょ類従るいじゅう だいじゅう輯下』p.474)。
  8. ^ 一柳いちりゅう』(つづけぐんしょ類従るいじゅう だいじゅう輯下』pp.474-476)。
  9. ^ 一柳いちりゅう』(つづけぐんしょ類従るいじゅう だいじゅう輯下』p.476)。
  10. ^ a b 神田かんだ 2002, p. 270.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • しずだけたたかい―秀吉ひでよしVSかち覇権はけん獲得かくとくへの死闘しとう学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ歴史れきしぐんぞうシリーズ 15〉、1989ねん12月。ISBN 4051051528 
  • 池上いけがみ裕子ゆうこいけとおる小和田こわだ哲男てつお小林こばやし清治きよじ峰岸みねぎし純夫すみお『クロニック戦国せんごくぜん講談社こうだんしゃ、1995ねん12月。ISBN 4062060167 
  • 高柳たかやなぎひかり寿ことぶき戦史せんしドキュメント 賤ヶだけたたかい』学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2001ねん1がつISBN 4059010251 
  • 神田かんだ千里せんり日本にっぽん中世ちゅうせい11 戦国せんごく乱世らんせいきるちから中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2002ねん8がつISBN 4-12-490220-4 
  • 『賤ヶだけ合戦かっせん屏風びょうぶ集英社しゅうえいしゃ週刊しゅうかん 日本にっぽん 5ごう〉、2010ねん11月、ASIN B0047O2SFKぺーじ 
  • 宮本みやもと義己よしみ「賤ヶだけいちけ」『歴史れきし読本とくほん』35かん3ごう、1990ねん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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