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武家ぶけ政権せいけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

武家ぶけ政権せいけん(ぶけせいけん)は、日本にっぽんうえ政治せいじ形態けいたいひとつ。武家ぶけ独自どくじ権力けんりょく組織そしきをもっておこなった政治せいじてき支配しはいのことで、12世紀せいきすえ鎌倉かまくら幕府ばくふ樹立じゅりつから1867ねん慶応けいおう3ねん)の江戸えど幕府ばくふ終末しゅうまつまでのやく700年間ねんかんがこれにあたる。

平安へいあん時代じだい末期まっきに、貴族きぞく階級かいきゅう衰退すいたい武士ぶし階級かいきゅう飛躍ひやくてき台頭たいとうこり、そのときたいら政権せいけん武家ぶけ政権せいけんではあったが、独自どくじ武士ぶし階級かいきゅうとしての権力けんりょく組織そしきをもたず瓦解がかいしたため、鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつをもってその開始かいしとし、鎌倉かまくら幕府ばくふ室町むろまち幕府ばくふゆたか政権せいけん江戸えど幕府ばくふの4つの時期じき明治維新めいじいしんにいたって終結しゅうけつとする。この700ねんうちゆたかのぞけば、征夷大将軍せいいたいしょうぐん幕府ばくふ組織そしきした。武家ぶけ政権せいけん公家くげ政権せいけん対抗たいこうして武家ぶけほう樹立じゅりつし、武家ぶけ棟梁とうりょうのもとに主従しゅうじゅうせい展開てんかいし、全国ぜんこく支配しはいけん拡張かくちょうした。

かつては、12世紀せいき後半こうはんみなもと頼朝よりともによる鎌倉かまくら幕府ばくふ設立せつりつから1867ねん慶応けいおう3ねん)の徳川とくがわ慶喜よしのぶによる大政奉還たいせいほうかんまでのやく680年間ねんかんわた武家ぶけによる政権せいけんしていたが、現在げんざいはさらにおよそ20ねんさかのぼ平清盛たいらのきよもりたいら政権せいけん最初さいしょ武家ぶけ政権せいけんとされている[1]

しかし、「武家ぶけ政権せいけん」の定義ていぎについては曖昧あいまい部分ぶぶんのこされている。たとえば、鎌倉かまくら幕府ばくふ国家こっか軍事ぐんじ警察けいさつにな権門けんもんの1つで武家ぶけ武士ぶし「を」統治とうちする権力けんりょくゆうしていたが、武家ぶけ武士ぶし「が」(国家こっかを)統治とうちする権力けんりょくゆうしていなかった、とする見解けんかいがある。この見解けんかいではとくぜん近代きんだい日本にっぽん国家こっか統治とうちにおいて重要じゅうよう意味いみ皇位こうい継承けいしょうかんして、鎌倉かまくら幕府ばくふ武家ぶけ政権せいけんのように積極せっきょくてき関与かんよした事実じじつ裏付うらづけはく、承久じょうきゅうらん元弘もとひろらんのような受動じゅどうてき要因よういん関与かんよせざるをなかったとされ、鎌倉かまくら幕府ばくふによる仲恭天皇ちゅうきょうてんのう廃位はいいこう堀河ほりかわ天皇てんのうこう嵯峨天皇さがてんのう即位そくいでさえ、幕府ばくふ意思いしもとづく積極せっきょくてき皇位こうい廃立はいりつではなく結果けっかろんちかく、鎌倉かまくら幕府ばくふ最後さいごまでてんきみ頂点ちょうてんとする政権せいけん傘下さんか軍事ぐんじてき権門けんもんとしての立場たちば脱却だっきゃくできなかった[2]

武家ぶけ政権せいけん鎌倉かまくら幕府ばくふ室町むろまち幕府ばくふ江戸えど幕府ばくふ幕府ばくふ体制たいせい以外いがいに、幕府ばくふ以外いがい政権せいけんふくまれる。それにはたいら政権せいけんゆたか政権せいけんげられる。たいら政権せいけん天皇てんのう外戚がいせきとして政権せいけん確立かくりつ指向しこうした。ゆたか政権せいけん戦国せんごく大名だいみょう統治とうち機構きこう母体ぼたいとする強力きょうりょく中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせいであり、そのうらづけに天皇てんのう朝廷ちょうてい権威けんい利用りようするという形式けいしきった。

また、「幕府ばくふ」が政権せいけん名称めいしょうとして使つかわれたのは江戸えど時代じだい後期こうき以降いこうである。「鎌倉かまくら」「室町むろまち政権せいけんふくめ、成立せいりつ時点じてんにおいて「幕府ばくふ」を自称じしょうすることはかった[3][注釈ちゅうしゃく 1]鎌倉かまくら室町むろまち武家ぶけ政権せいけん明治めいじ時代じだいなかばまでに「政府せいふ」とび、征夷大将軍せいいたいしょうぐんによる政権せいけんさん幕府ばくふ限定げんていしたのはその主張しゅちょう記載きさいされた明治めいじ23ねんかんせん日本にっぽん通史つうし発刊はっかんされ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教科書きょうかしょとされた以降いこうである[5][6]

みなもとによる政権せいけんは、みなもと頼朝よりともによる武力ぶりょく行使こうしにより樹立じゅりつされた。足利あしかが徳川とくがわかく武家ぶけによる政権せいけん同様どうよう方法ほうほうをとった。いずれも形式けいしきじょう朝廷ちょうていからにんぜられる征夷大将軍せいいたいしょうぐんしょくいて幕府ばくふひらき、封建ほうけんせいともばれる分権ぶんけんてき統治とうちおこない、地方ちほう領主りょうしゅとして地域ちいき実効じっこう支配しはいけん武士ぶし連合れんごう政権せいけんかたちをとった。武家ぶけ政権せいけんちょう自己じこ軍事ぐんじりょく行使こうしにより政権せいけん獲得かくとくし、封建ほうけん制度せいどてき土地とち所有しょゆう法律ほうりつによる支配しはい実施じっしした[7]。だが、その政権せいけんおよびそのちょうとしての公認こうにんはいまだ中央ちゅうおう権力けんりょくとしての地位ちいたもっていた天皇てんのうからの将軍しょうぐん宣下せんげによる、現実げんじつてき権力けんりょく貴種きしゅせい承認しょうにんによってはじめて確立かくりつしえた[7]室町むろまち幕府ばくふ江戸えど幕府ばくふは、征夷大将軍せいいたいしょうぐんしょく将軍家しょうぐんけ男子だんし代々だいだい世襲せしゅうする一種いっしゅ王朝おうちょうだった[8]

武家ぶけ政権せいけん誕生たんじょう以前いぜん日本にっぽんは、天皇てんのう親政しんせい摂関せっかん政治せいじ院政いんせいなど、おも皇族こうぞく公家くげから構成こうせいされる朝廷ちょうてい機構きこう中枢ちゅうすうから、かんじん身分みぶん国司こくし全国ぜんこく派遣はけんして統治とうちおこなわれていた。

とく律令制りつりょうせいもとづいて統治とうちおこなわれた奈良なら時代じだいは、古代こだいからの地方ちほう首長しゅちょう末裔まつえいである郡司ぐんじそう首長しゅちょうけん由来ゆらいする権威けんい利用りようしつつ、国司こくし四等官しとうかん主催しゅさいする国衙こくが機構きこうが、戸籍こせき編纂へんさんして朝廷ちょうてい統治とうち領域りょういき全体ぜんたい個別こべつ人別にんべつ支配しはいあみめぐらしていた。しかし平安へいあん時代じだいになるころから地域ちいき社会しゃかいでの階層かいそう分化ぶんかはげしくすすみ、資本しほんとなる動産どうさん蓄積ちくせきし、安定あんてい経営けいえいげた少数しょうすう富豪ふごう百姓ひゃくしょうが、経営けいえい破綻はたんして口分田くもでうしなった零細れいさい百姓ひゃくしょうそう隷属れいぞくおさめていくうごきがはげしくなっていった。そのため、国衙こくが機構きこう戸籍こせきもとづく人別にんべつ支配しはいをし、なおかつ中央ちゅうおう政権せいけん維持いじ必要ひつようぜい徴収ちょうしゅうおこなうことは困難こんなんとなり、朝廷ちょうていは、現地げんち派遣はけん筆頭ひっとう国司こくし受領じゅりょう)が前代ぜんだいより大幅おおはば権限けんげん委譲いじょうされたうえで、富豪ふごう百姓ひゃくしょうそうつうじて地域ちいき支配しはいぜい徴収ちょうしゅうおこな王朝おうちょう国家こっか体制たいせい10世紀せいき確立かくりつした。このあたらしい体制たいせいで、国衙こくが軍制ぐんせいにな戦士せんしとして、武士ぶし身分みぶん成立せいりつした。国衙こくが軍制ぐんせい武士ぶし身分みぶん確立かくりつする過程かていで、初期しょき武士ぶし自分じぶんたちの地位ちい確立かくりつ目指めざしてった条件じょうけん闘争とうそう武装ぶそう蜂起ほうきにまで拡大かくだいし、平将門たいらのまさかど藤原ふじわらじゅんともらによるうけたまわひらてんけいらんいたった。このらん短期間たんきかん鎮圧ちんあつされたが、この渦中かちゅう平将門たいらのまさかど坂東ばんどう諸国しょこく国衙こくが機構きこう掌握しょうあくして「しんすめらぎ」をしょうし、これは地方ちほうの「しょう律令りつりょう国家こっか体制たいせい」にすぎずあたらしい制度せいどてようとするものではなかったが、武士ぶしによる律令りつりょう体制たいせいからの自立じりつはかったことで、これをみなもと賴朝よりとも東国とうごく武家ぶけ政権せいけん先駆せんくとする見方みかたもある[9]

さらに11世紀せいき荘園しょうえんこうりょうせい成立せいりつすると、対等たいとう権利けんり主体しゅたいとなった荘園しょうえんおおやけりょう国衙こくがりょう)のあいだ武力ぶりょく紛争ふんそう多発たはつし、荘園しょうえん現地げんち管理かんりしゃであるそうかんおおやけりょう現地げんち管理かんりしゃであるそう郡司ぐんじ郷司ごうし保司やすしには武芸ぶげいいえものたる武士ぶし任命にんめいされるようになった。こうして武士ぶし地方ちほう領主りょうしゅして地域ちいき実効じっこう支配しはいしゃとしての地位ちいきずいていった。

平安へいあん時代じだい末期まっき

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平安へいあん時代じだい末期まっき平清盛たいらのきよもり朝廷ちょうてい内紛ないふん起因きいんするもとらん平治へいじらんで、武功ぶこう武力ぶりょく重要じゅうようせい支配しはい貴族きぞくそうらしめて、軍事ぐんじ権門けんもんとしての地位ちい確立かくりつした。そして、武家ぶけとしてははじめての太政大臣だじょうだいじんにんじられ、政権せいけん獲得かくとくした。たいら政権せいけんは、各地かくち在地ざいち武士ぶし家人かじんせいよわかたちだが組織そしきするとともに、全国ぜんこく武士ぶし天皇てんのう内裏だいり警護けいごする大番おおばんやくつとむつかまつ国家こっかてき軍役ぐんえき負担ふたん国衙こくがせいあいだくが差配さはいをして、はつ武家ぶけ政権せいけんとされる[10]。さらに清盛きよもり守護しゅご地頭じとうなどのしょ制度せいど創設そうせつし、前述ぜんじゅつ組織そしき内裏だいり警護けいご大番おおばんやく制度せいどとともにのち頼朝よりとも政権せいけん強化きょうかされがれた[11]。しかし、伊勢いせたいら平家へいけ一門いちもん朝廷ちょうてい官位かんいめ、清盛きよもり自身じしん天皇てんのう外戚がいせきとなるなど、従来じゅうらい摂関せっかん政治せいじ大差たいさかった。既存きそんのシステムのなか武家ぶけ出身しゅっしんしゃ浸透しんとうさせることには成功せいこうしたものの、武家ぶけによる独自どくじ政治せいじ体制たいせい構築こうちく方法ほうほういだせず旧態きゅうたい依然いぜん政治せいじおこない、そのなかでの平家へいけ一門いちもん贅沢ぜいたくらしや異様いよう出世しゅっせ繁栄はんえいなどを誇示こじするにとどまった[12]。そのため、地方ちほう実効じっこう支配しはいしゃとしての地位ちい向上こうじょうのぞ多数たすう地方ちほう武士ぶしは、中央ちゅうおう軍事ぐんじ権門けんもんむすんで、強権きょうけん支配しはい強化きょうかのぞんでいたが、その利益りえき代表だいひょうしゃ位置いち十分じゅうぶん構築こうちくできず[13]同時どうじ多発たはつ反乱はんらんなかから台頭たいとうした源義仲みなもとのよしなかみなもと頼朝よりともらによってほろぼされた。

鎌倉かまくら時代ときよ

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本格ほんかくてき武家ぶけ政権せいけんは、みなもと頼朝よりとも鎌倉かまくら幕府ばくふひらいたことによりはじまる。頼朝よりともは、当初とうしょ国衙こくがしゅとして朝廷ちょうてい公家くげ使つかわれていた東国とうごく武士ぶし集団しゅうだんによる反乱はんらん旗手きしゅとして登場とうじょうする。しかし平家へいけ打倒だとううけたまわ寿ことぶきひさしらんて、寿ことぶきひさし2ねん/うけたまわ7ねん1183ねん)にこう白河しらかわいんから東国とうごくにおける統治とうちけんてき支配しはいけん東海道とうかいどう東山ひがしやまみち実質じっしつてき支配しはいけん)をみとめる寿ことぶきひさしねんじゅうがつ宣旨せんじあたえられる[14]。そしてみぎ近衛このえ大将たいしょうにんじられるがすぐに辞任じにんして鎌倉かまくらもどよくたてひさ2ねん1191ねん正月しょうがつぜんみぎ大将たいしょうとして「政所まんどころきちしょはじめ」をおこな家政かせい機関きかん設置せっちする。これが発展はってん鎌倉かまくら本拠ほんきょとした地方ちほう政権せいけん樹立じゅりつし、文治ぶんじ元年がんねん11がつ29にち文治ぶんじ勅許ちょっきょ東国とうごく中心ちゅうしん守護しゅご当初とうしょくに地頭じとう[15])と地頭じとう設置せっち朝廷ちょうていみとめさせ全国ぜんこく軍事ぐんじ総動員そうどういん体制たいせい掌握しょうあくする[16]。その武家ぶけ権力けんりょくとしての独立どくりつせいたも機構きこうつくるためと、武家ぶけ統制とうせいのため「大将軍だいしょうぐん」の称号しょうごうもと[17]近衛このえ大将たいしょうより格下かくした征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんぜられ、その権力けんりょく機構きこうとして幕府ばくふひらいた。

この時点じてんではまだ東国とうごく中心ちゅうしん地方ちほう政権せいけんであったものの、天皇てんのう上皇じょうこう下部かぶ機関きかんだが並立へいりつする武家ぶけ権力けんりょく誕生たんじょうした。頼朝よりともとそのらの河内かわうちはじめ嫡流ちゃくりゅうみなもと一門いちもんさんだいほろびるが、外戚がいせきでもあった御家人ごけにん北条ほうじょうは、摂家せっけから藤原ふじわらよりゆきけいむかえて将軍しょうぐんへと就任しゅうにんさせ以後いごみや将軍しょうぐん」をつづけ、自身じしん執権しっけんとして政権せいけんにぎ[18]

そして承久じょうきゅうらん鎌倉かまくら武家ぶけ権力けんりょく朝廷ちょうてい権力けんりょく勝利しょうりして、きゅう平家ひらかぼつかんりょうにも守護しゅご地頭じとう支配しはいけん全国ぜんこくひろげ、ついにははつ全国ぜんこく統一とういつ武家ぶけ政権せいけんとなった。北条ほうじょうは、貴族きぞくふくめた京都きょうとがわ指導しどうしゃ殺害さつがい処刑しょけい生殺与奪せいさつよだつをおもうがままにし、武家ぶけ優位ゆうい確立かくりつする[19]固有こゆう武力ぶりょく解体かいたい在京ざいきょう御家人ごけにんき、朝廷ちょうてい皇位こうい継承けいしょう介入かいにゅうし、ろく探題たんだい設置せっちする。各地かくち地頭じとう国衙こくがりょう荘園しょうえん浸食しんしょくし、武家ぶけ政権せいけん全国ぜんこくへの支配しはいつよめるとともに、支配しはい勢力せいりょくとしてのみんをいたわりそだてるなでみん思想しそう武士ぶし階層かいそう浸透しんとうし、武家ぶけ政治せいじ成熟せいじゅくしていった[20]

鎌倉かまくら時代じだい後期こうきになると有力ゆうりょく御家人ごけにんとの権力けんりょく闘争とうそういた執権しっけん北条ほうじょう専制せんせい強化きょうかされる一方いっぽうで、もとなども原因げんいんとなり、おおくの御家人ごけにん経済けいざいてき政治せいじてき没落ぼつらくするようになり、鎌倉かまくら幕府ばくふたいする不満ふまんたかまっていった。これが後醍醐天皇ごだいごてんのうによる倒幕とうばくむすびつき、鎌倉かまくら幕府ばくふ足利あしかが新田にったひとし有力ゆうりょく御家人ごけにんにも離反りはんされ、滅亡めつぼういたる。

南北なんぼくあさ時代じだい

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後醍醐天皇ごだいごてんのうらが鎌倉かまくら幕府ばくふほろぼしてたてたけし新政しんせい開始かいししたことで、武家ぶけ政権せいけん中断ちゅうだんする。しかし新政しんせい武家ぶけへの恩賞おんしょう施策しさく武家ぶけりょうらし国衙こくがりょう復活ふっかつ目指めざ後醍醐天皇ごだいごてんのう独裁どくさい公家くげ優先ゆうせん政策せいさくで、武家ぶけ支持しじられずに混乱こんらんした。足利尊氏あしかがたかうじちゅう先代せんだいらん鎮圧ちんあつ後醍醐天皇ごだいごてんのうから反旗はんきひるがえすと、おおくの武家ぶけ結集けっしゅうたてたけし政権せいけんめ、後醍醐天皇ごだいごてんのう三種さんしゅ神器じんぎって逃亡とうぼうした。直後ちょくごみこと陸奥みちのく北畠きたばたけ顕家あきいえぐん敗北はいぼく九州きゅうしゅうびるも、勢力せいりょくかえひかりげん上皇じょうこう院宣いんぜんかかげて入京にゅうきょう一時いちじ後醍醐天皇ごだいごてんのう和解わかいするが持明院じみょういんみつる光明こうみょう天皇てんのう擁立ようりつ北朝ほくちょう)して室町むろまち幕府ばくふひらいた。そのため後醍醐天皇ごだいごてんのうふたた武家ぶけ権力けんりょくとの対立たいりつふかめ、吉野よしの南朝なんちょうひら南北なんぼくあさふたつの勢力せいりょくかれて全国ぜんこくてき争乱そうらん時代じだいとなる。南北なんぼくあさ時代じだい到来とうらいである。さんだい将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつとき明徳めいとくやくによって南北なんぼくあさ合一ごういつするが、事実じじつじょう南朝なんちょう吸収きゅうしゅうである。南北なんぼくあさのせいで混乱こんらんはしたが、しかし、南朝なんちょう一時いちじ存在そんざいし、正平しょうへい3ねん/貞和さだかず4ねん(1348ねん高師直こうのもろなおによる本拠ほんきょ吉野よしの陥落かんらく賀名かなせい敗走はいそうでも完全かんぜんほろぼされず、のち合一ごういつするかたちになったから、その天皇てんのう武家ぶけたいして対抗たいこうできる権威けんいつづけ、継続けいぞくしていくちからになったという指摘してきがある[21]

室町むろまち時代ときよ

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室町むろまち時代ときよさんだい将軍しょうぐんである足利あしかが義満よしみつは、朝廷ちょうていからの権力けんりょく簒奪さんだつによるてんきみ目指めざ策謀さくぼうはかり、中国ちゅうごくあきらから「日本にっぽん国王こくおう」にさつふうされる。さらに義満よしみつ叙任じょにんけん祭祀さいしけん元号げんごう改元かいげんばつ綸旨りんじ封印ふういんなど権限けんげんうばっていきてん権限けんげん代行だいこうして天皇てんのう朝廷ちょうてい権威けんい史上しじょうもっと低下ていかした[22][23]。その体制たいせいとして三男さんなん義嗣よしつぐ天皇てんのう即位そくい目指めざしたがそのまえ義満よしみつ死亡しぼう挫折ざせつする[24](ただし、義満よしみつてん権限けんげんにぎったのは朝廷ちょうてい再建さいけん改革かいかく目的もくてきであったとする反論はんろんもある[25])。

また守護しゅごは、当初とうしょ国司こくし業務ぎょうむ地頭じとう権限けんげんへの介入かいにゅうきんじられていたが、応仁おうにんらん以後いご地方ちほう定住ていじゅう権力けんりょく拡張かくちょう結果けっか次第しだい領主りょうしゅして室町むろまち後期こうきには地方ちほう支配しはいすすみ、このころ守護しゅご守護しゅご大名だいみょうばれる。並行へいこうして室町むろまち幕府ばくふはわずかに近畿きんき地方ちほう本拠ほんきょとした地方ちほう政権せいけんし、細川ほそかわ三好みよしといった幕臣ばくしんたちがちからしていった。それにより15世紀せいき中期ちゅうきからの国内こくない統治とうち幕府ばくふ守護しゅご体制たいせいとよばれる。

義満よしみつ以来いらい長年ながねん封印ふういんされていたばつ綸旨りんじえいとおるらん復活ふっかつ乱用らんようされることになり天皇てんのう権威けんい復活ふっかつ端緒たんしょとなった[26][27]

あかりおう政変せいへんまでに天皇てんのう武家ぶけ権力けんりょくいなりとなるがそのわり武家ぶけ執奏しっそうされてったことにたいしてのち政治せいじてき責任せきにんわれない免責めんせき原則げんそく[28]

戦国せんごく安土あづち桃山ももやま時代じだい

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戦国せんごく時代じだいちからした守護しゅご大名だいみょうあいだ幕臣ばくしん同士どうし対立たいりつ将軍しょうぐん後継こうけい問題もんだいなどにもむすびつき、だい規模きぼ内乱ないらんとなったのが応仁おうにんらんで、これを契機けいきとし、あきらおう政変せいへんから室町むろまち幕府ばくふ全国ぜんこくてき支配しはいけんうしな畿内きないのみの地方ちほう政権せいけんしてわずかな権威けんいたもっていた[29]おおくの守護しゅご国内こくない統治とうちけんうしない、勢力せいりょく回復かいふくした一部いちぶ守護しゅご守護しゅごだい国人くにびとひとし多様たよう出自しゅつじをもつ戦国せんごく大名だいみょうなどの地域ちいき権力けんりょくやく150いえ出現しゅつげんし、勢力せいりょく拡大かくだいしたものはいちこく以上いじょう領域りょういき支配しはいする大名だいみょう領国りょうごく形成けいせいした[30]。これら戦国せんごくぶんこくはすべて実力じつりょく形成けいせいされ、朝廷ちょうてい幕府ばくふ委任いにんなどしたものではなく承認しょうにん形式けいしきにとどまった[31]武家ぶけ権力けんりょく決定的けっていてき勢力せいりょくとなるが、その一方いっぽうがった戦国せんごく大名だいみょう中央ちゅうおう権門けんもん接触せっしょくち、朝廷ちょうていから官位かんい官職かんしょくけて権威けんい大義名分たいぎめいぶんた。また大内おおうち直奏じきそうによるだいおさむ大弐だいに獲得かくとくはじまる戦国せんごく大名だいみょう勢力せいりょく拡大かくだい実利じつり目的もくてき官職かんしょく任免にんめんもされるようになった。たとえば毛利もうり蘭奢らんじゃまち切屑きりくず天皇てんのうから下賜かしされるだけで狂喜きょうきするなど、コンプレックスのなかきょうふう公家くげ文化ぶんか武家ぶけ浸透しんとうし、天皇てんのう崇拝すうはいつよまった。こうして武家ぶけ台頭たいとうなか天皇てんのう権威けんいあらたなかたち復興ふっこうした[32]

戦国せんごく大名だいみょうのなかで尾張おわりこく織田おだ信長のぶなが将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあきようして上洛じょうらくしたが、義昭よしあき対立たいりつふかめ、もとかめ4ねん(1573ねん)には将軍しょうぐん義昭よしあき追放ついほうして室町むろまち幕府ばくふほろぼし、信長のぶながみぎ大将たいしょう任官にんかんし、「天下てんかじん」として強力きょうりょく中央ちゅうおう集権しゅうけん織田おだ政権せいけんきずいた。天下てんか統一とういつ手前てまえでの信長のぶなが横死おうしによって、いで天下てんかじんとなった豊臣とよとみ秀吉ひでよし統一とういつ政策せいさく完成かんせいし、公家くげである近衛このえぜんひさ猶子ゆうしとして関白かんぱく宣下せんげけ、豊臣とよとみ政権せいけん成立せいりつさせた。秀吉ひでよし忠実ちゅうじつ天皇てんのう侍大将さむらいだいしょうとして信長のぶながよりまえ室町むろまち幕府ばくふ武家ぶけ政権せいけんとしての成果せいか文書ぶんしょ体系たいけいをもくつがえ天皇てんのうにひれした[33]秀吉ひでよし死後しごに、関ヶ原せきがはらたたか勝利しょうり戦国せんごく大名だいみょう統括とうかつしてその実力じつりょく徳川とくがわ家康いえやすつぎ天下てんかじんとなった[34]。そして、吾妻あづまきょう手本てほんとして足利あしかが同族どうぞく清和せいわはじめ新田にったりゅうしょうし、征夷大将軍せいいたいしょうぐんしょくき、江戸えど幕府ばくふひらいた。朝廷ちょうていは、形式けいしきてき武家ぶけ棟梁とうりょうだと是認ぜにんし、家康いえやすのぞんだ征夷大将軍せいいたいしょうぐんしょくあたえた[35]。なお、織田おだ政権せいけんまえ三好みよし長慶ちょうけいさかい公方くぼうによる三好みよし政権せいけん武家ぶけ政権せいけんとしてかぞえることもある。

江戸えど時代じだい

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江戸えど時代じだいは264年間ねんかんわたってつづいたが、幕府ばくふ朝廷ちょうてい禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっとなどにより統制とうせいした。政治せいじから分離ぶんり必要ひつよう天皇てんのう権威けんい利用りようするかたちで、当初とうしょ軋轢あつれきはあったが東山ひがしやま天皇てんのうだい協調きょうちょう路線ろせんとなりおさまれる[36]地方ちほう政治せいじはんによっておこなわれ、幕府ばくふわせてまくはん体制たいせいばれる。幕府ばくふ儒教じゅきょうひとつである朱子学しゅしがくさかんにし、それを根拠こんきょみずからの権力けんりょく安定あんていはかった。一時いちじ荻生おぎゅう徂徠そらい室鳩巣むろきゅうそう山鹿やまが素行そこうなどの儒者じゅしゃたちにより徳川とくがわ公儀こうぎ」が「朝廷ちょうてい」とばれ、あるいは「おう」ともばれた[37][38]新井あらい白石はくせき将軍しょうぐん家宣いえのぶこうしょ読史どくしあまりろん』などでげん朝廷ちょうてい北朝ほくちょう末裔まつえい武家ぶけのために成立せいりつさせたとき、徳川とくがわ関ヶ原せきがはらたたか勝利しょうり天命てんめいあらたまり全国ぜんこく支配しはいしていると、天皇てんのう正当せいとうせい根拠こんきょもとめず、王朝おうちょう交代こうたいてき認識にんしきをした[39]。しかしその一方いっぽう鎌倉かまくら幕府ばくふ模範もはんとした独立どくりつがた幕府ばくふとしたにもかかわらず、なか安定あんてい儒学じゅがく隆盛りゅうせい背景はいけいだい日本にっぽん編纂へんさん契機けいきとして、戦国せんごく復興ふっこうした天皇てんのう権威けんい再生さいせいして上昇じょうしょうし、18世紀せいき飢饉ききんなどで幕府ばくふ権威けんい動揺どうようすると江戸えど幕府ばくふ朝廷ちょうていから政権せいけん委任いにんされているとする大政たいせい委任いにんろんおおきくなり、国学こくがくしゃはじまり、天明てんめい8ねん1788ねん松平まつだいら定信さだのぶなど幕府ばくふ中枢ちゅうすうとらえるようになる[40]。また武家ぶけ権力けんりょくによる天下てんか統一とういつのため農地のうち基礎きそとする政権せいけんとなっていたが、しょう工業こうぎょう隆盛りゅうせいによる前期ぜんき資本しほん主義しゅぎてき社会しゃかい成立せいりつ財政ざいせい徴税ちょうぜいなどの基本きほん体制たいせい対応たいおうできず、幕府ばくふかくはんともだい商人しょうにんからの借入かりいれ拡大かくだい破綻はたんしていく。商人しょうにんはわずかなまち共益きょうえききん負担ふたんのみで無税むぜいであった[41]御用ごよう商人しょうにんへの用金ようきん納入のうにゅう大名だいみょうしのたおしなどの軋轢あつれきはあったが武家ぶけ権力けんりょく社会しゃかい変化へんかいついていかない状態じょうたいになる。やがて江戸えど時代じだい末期まっきになると幕府ばくふ財政ざいせいてきかたむきととも尊皇そんのう思想しそうひろまっていく。

江戸えど時代じだい末期まっきになり、しょ外国がいこく幕府ばくふ開国かいこく通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつもとめると、尊皇そんのう攘夷じょういなどの倒幕とうばく運動うんどうさかんとなり、公武こうぶ合体がったい不調ふちょう長州ちょうしゅう征討せいとう敗北はいぼくによる政情せいじょう不安ふあんなかじゅうだい将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶ大政奉還たいせいほうかんおこない、武家ぶけ政権せいけん終焉しゅうえんむかえた。ただし徳川とくがわとしての武家ぶけ権力けんりょくのこるが、やがて鳥羽とば伏見ふしみたたかはじまる徳川とくがわ中心ちゅうしんとする勢力せいりょく改革かいかくにより復興ふっこうした西国さいごく西南せいなんしょはんである薩長さっちょう土肥どい雄藩ゆうはんとの内戦ないせん戊辰戦争ぼしんせんそう朝廷ちょうていによる官軍かんぐんとなった薩長さっちょう土肥どいがわ勝利しょうりとなる。しかしこれは雄藩ゆうはんがわかくはん実務じつむ下級かきゅう藩士はんし勢力せいりょくはん上層じょうそう対立たいりつすえ主導しゅどうけんにぎって推進すいしんし、明治維新めいじいしん過程かてい明治めいじ政府せいふ指導しどうそうとなるクーデターというめんっている[42][43]以後いご日本にっぽん明治めいじ政府せいふ統治とうちおこない、大名だいみょう華族かぞく武士ぶし士族しぞくとされ、武家ぶけ消滅しょうめつしていった。武家ぶけ思想しそうは、教育きょういくによる家族かぞく制度せいど徹底てってい徴兵ちょうへいせいによる軍事ぐんじ国家こっかなど明治めいじ近代きんだい日本にっぽん変化へんかしたかたちのこり、その日本にっぽんもとになった。

武家ぶけ政権せいけん一覧いちらん

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中央ちゅうおう政権せいけん

中央ちゅうおう政権せいけんじゅんじるとされる政権せいけん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 鎌倉かまくら時代じだいには、「幕府ばくふ」は将軍しょうぐん居所きょしょだった[4]

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 佐藤さとう進一しんいち日本にっぽん中世ちゅうせい国家こっか岩波書店いわなみしょてん、1983ねん 
  • 飯田いいだ悠紀子ゆきこもと平治へいじらん教育きょういくしゃ教育きょういくしゃ歴史れきし新書しんしょ〉、1979ねん 
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  • 石井いしい良助りょうすけ天皇てんのう:天皇てんのう生成せいせいおよび親政しんせい伝統でんとう山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1982ねん 
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  • 今谷いまたにあきら室町むろまち王権おうけん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、1990ねんISBN 4121009789 
  • 今谷いまたにあきら天皇てんのう天下てんかじん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1993ねんISBN 4404020732 
  • 藤田ふじたさとし江戸えど時代じだい天皇てんのう講談社こうだんしゃ天皇てんのう歴史れきし 06〉。 
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  • 呉座ござ勇一ゆういち頼朝よりとも義昭よしあき:武家ぶけ政権せいけん誕生たんじょう』〈講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉2021ねん 

関連かんれん文献ぶんけん

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直接ちょくせつ出典しゅってん使用しよう文献ぶんけん

  • 三鬼みき清一郎せいいちろう織田おだ政権せいけん権力けんりょく構造こうぞう」『まくはんせい国家こっか成立せいりつ有斐閣ゆうひかく講座こうざ日本にっぽん近世きんせい1〉、1981ねん 
  • あさ直弘なおひろ将軍しょうぐん権力けんりょく創出そうしゅつ岩波書店いわなみしょてん、1994ねん 
  • 藤木ふじき久志ひさし天下てんか一統いっとう小学しょうがくかん大系たいけい 日本にっぽん歴史れきし 8〉、1988ねん 
  • 北島きたじま万次まんじ豊臣とよとみ政権せいけんろん」『まくはんせい国家こっか成立せいりつ有斐閣ゆうひかく講座こうざ日本にっぽん近世きんせい1〉、1981ねん 
  • 藤野ふじのたもつまくはん体制たいせい成立せいりつ研究けんきゅう: 権力けんりょく構造こうぞう確立かくりつ展開てんかい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1961ねん 
  • 中野なかのとうぶんろく慶長けいちょう豊臣とよとみ政権せいけん」『歴史れきし評論ひょうろんだい534ごう、1994ねん 
  • 北島きたじまただしもと江戸えど幕府ばくふ権力けんりょく構造こうぞう岩波書店いわなみしょてん、1964ねん 
  • 藤井ふじい譲治じょうじ家綱いえつな政権せいけんろん」『元禄げんろくとおる政治せいじ社会しゃかい有斐閣ゆうひかく講座こうざ日本にっぽん近世きんせい4〉、1980ねん 
  • 守屋もりや嘉美よしみ阿部あべ政権せいけんろん」『開国かいこく有斐閣ゆうひかく講座こうざ日本にっぽん近世きんせい7〉、1985ねん 

関連かんれん項目こうもく

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