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足利あしかが義嗣よしつぐ

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足利あしかが義嗣よしつぐ
義烈ぎれつひゃくにんいちしゅ』より
時代じだい 室町むろまち時代ときよ
生誕せいたん おうひさし元年がんねん1394ねん
死没しぼつ おうひさし25ねん1がつ24にち1418ねん3月1にち
かみごう しん大倉おおくらみや
戒名かいみょう まどかおさむいんこう山道さんどうじゅん
墓所はかしょ 相国しょうこく寺林てらばやしひかりいん
官位かんい したがえせいひだり馬頭めずしたがえよんひだり近衛このえ中将ちゅうじょうしたがえさん参議さんぎけん中納言ちゅうなごんせいさんしたがえけん大納言だいなごんせいおくしたがえいち
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
主君しゅくん 足利あしかが義満よしみつ義持よしもち
氏族しぞく 足利あしかが
父母ちちはは ちち足利あしかが義満よしみつはは春日局かすがのつぼね
兄弟きょうだい みことみつるたから幢若こう義持よしもち義嗣よしつぐ義教よしのり大覚寺だいかくじ義昭よしあき
つま 側室そくしつ上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうむすめ
嗣俊直明なおあき関東かんとう一色いっしょくちょくけん養子ようし)、梵修こうげんいん侍者じしゃ)、きよしおさむさん)、
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足利あしかが 義嗣よしつぐ(あしかが よしつぐ)は、室町むろまち時代ときよ武家ぶけ公卿くぎょう室町むろまち幕府ばくふ3だい将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつ[1]、4だい将軍しょうぐん足利あしかが義持よしもちおとうとにあたる。

生涯しょうがい

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おうひさし元年がんねん1394ねん)、足利あしかが義満よしみつ評定ひょうじょうしゅ摂津せっつのうしゅうむすめ春日局かすがのつぼねとしてまれた[2]幼名ようみょうつるわかまるで、誕生たんじょう不明ふめいであるが、よんなんなんである[2]

同年どうねん義満よしみつ嫡子ちゃくし義持よしもち将軍しょうぐんしょくいた。庶子しょしであったつるわかまる同年どうねんまれのはるとらまる足利あしかが義教よしのり)とともに僧侶そうりょとなることが予定よていされており、梶井かじい門跡もんぜき入室にゅうしつした。

若宮わかみや

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おうひさし15ねん1408ねん)2がつ15にち義満よしみつつるわかまるれて、参内さんだいした[2]つるわかまる元服げんぷくしておらず、「わらわ殿上てんじょう」とばれる異例いれい事態じたいだった[2]

3月4にちつるわかまるしたがえじょせられた[2]。3月8にちからはこう小松こまつ天皇てんのう北山きたやまだい行幸ぎょうこうすることになっており、しょう演奏えんそうけていたつるわかまる叙爵じょしゃくは、足利あしかが公卿くぎょう素質そしつがあることをしめ義満よしみつねらいがあったとされる[3]行幸ぎょうこうちゅうの3がつ24にちせいひだり馬頭めず叙任じょにん、さらに同月どうげつ28にちには邸宅ていたく提供ていきょうした報賞ほうしょうとしてしたがえよんじょせられ、翌日よくじつにはひだり近衛このえ中将ちゅうじょうにんぜられた[3]ひだり馬頭めず武家ぶけでは将軍しょうぐん鎌倉かまくら公方くぼうのみが任官にんかんできる官職かんしょくであり、近衛このえ中将ちゅうじょう任官にんかんできるのも将軍しょうぐんのみであり、これらの措置そち義満よしみつ偏愛へんあいによるものとられている[3]。さらにこのあいだにはこう小松こまつ天皇てんのうからさかずきたまわっているが、元服げんぷくまえれい当時とうじ存在そんざいしていなかった[4]。4月25にちには、内裏だいり清涼せいりょう殿どの元服げんぷくおこなった。加冠かかんやく内大臣ないだいじん二条にじょうみつるもと理髪りはつやくあたまひだりだいべん烏丸からすま豊光とよみつつとめた。将軍家しょうぐんけ加冠かかんやく父親ちちおや管領かんりょうつとめるのが通例つうれいであり、公家くげ加冠かかんやくはきわめて異例いれいであった[5]。さらに内裏だいりにおいて紫宸殿ししんでん以外いがい場所ばしょ元服げんぷくおこなうのは親王しんのう摂家せっけなみ形式けいしきであり[6]伏見ふしみみやさだなり親王しんのうは『椿つばきよう』において「親王しんのう元服げんぷく準拠じゅんきょ」としている[7][8]。これにより義嗣よしつぐは「若宮わかみや」とばれるようになった[8]同日どうじつよる除目じもくしたがえさん参議さんぎ任官にんかんした[8]

容姿ようし端麗たんれい才気さいきがあり異例いれい昇進しょうしんて、義満よしみつ義嗣よしつぐ後継こうけいしゃかんがえていると予測よそくした武将ぶしょう公家くげおおかったようである。義満よしみつ皇位こうい簒奪さんだつ意図いと指摘してきする立場たちばからは、義嗣よしつぐ皇位こういにつける意図いとがあったのではないかとする見解けんかい存在そんざいする[9]。この立場たちば今谷いまたにあきら義嗣よしつぐ元服げんぷく立太子りったいしもとづくものであると推測すいそくしているが、もりしげるあかつき皇太子こうたいしではなく親王しんのうあつかいにぎないと否定ひていしている[7]。また桜井さくらい英治えいじ義嗣よしつぐ皇位こういについたとしても、犬猿けんえんなかである将軍しょうぐん義持よしもち並立へいりつするかたちとなるのは不可能ふかのうだとしている[10]石原いしはらりょ義満よしみつ皇位こうい簒奪さんだつ否定ひていする立場たちばから、自身じしん公家くげとしての役割やくわりのうち将軍しょうぐんしょくとはかかわりのない部分ぶぶん義嗣よしつぐになわせて、後継こうけいしゃである義持よしもち負担ふたん軽減けいげんさせる方針ほうしんしたおこなわれたとている。だが、義持よしもち足利あしかが将軍家しょうぐんけは「裏方うらかた」にてっするべきとのかんがえから義満よしみつ朝廷ちょうてい関与かんよのありかた否定ひていし、義嗣よしつぐ排除はいじょいた要因よういんになったとみている[11]

しかし義嗣よしつぐ元服げんぷくの3にち義満よしみつやまいゆかにつき、5月6にち死去しきょした。

しん御所ごしょ

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義満よしみつ死後しご義嗣よしつぐは「しん御所ごしょ」とばれるようになった[12]。6月7にち義持よしもち北山きたやまだいうつり、義嗣よしつぐはは春日局かすがのつぼね屋敷やしきうつった[12]

よくおうなが16ねん1409ねん)1がつ5にちにはせいさん昇進しょうしん義持よしもち三条さんじょう坊門ぼうもん殿でんきずくと、義嗣よしつぐのためにもおなさんじょう坊門ぼうもん屋敷やしき建造けんぞうされている[12]うるう3がつ23にちには加賀かが権守ごんもり同年どうねん7がつ23にちにはけん中納言ちゅうなごん任官にんかんした[13]

おうなが18ねん1411ねん)11月25にちにはけん大納言だいなごん、11月28にちしたがえおうなが19ねん1412ねん)9がつ14にちにはいんおうなが21ねん1414ねん)1がつ5にちにはせいじょせられる[13]

義持よしもち義嗣よしつぐは、このあいだ記録きろくのこるだけでも6年間ねんかんに10以上いじょうって御成おなり参内さんだいおこなっている[13]

出奔しゅっぽん

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おうなが23ねん1416ねん)10がつ29にち深夜しんや義嗣よしつぐ山城やましろこく高雄たかお出奔しゅっぽんし、出家しゅっけした[14]。おりから鎌倉かまくらにおいてまえ関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅう鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが持氏もちうじ襲撃しゅうげきする事件じけんきており(上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうらん)、幕府ばくふもち支持しじすることをめたのがこのであった[14]禅秀ぜんしゅう義嗣よしつぐわらわちちであり、義嗣よしつぐ行動こうどう禅秀ぜんしゅうとの連携れんけいられた[14]義嗣よしつぐさむらいしょによって逮捕たいほされ、仁和寺にんなじいで相国寺しょうこくじはやしひかりいん幽閉ゆうへいされた[14]管領かんりょう細川ほそかわみつるもと義嗣よしつぐ糾問きゅうもん反対はんたいしたが、ぜん管領かんりょう畠山はたけやま満家みついえ義嗣よしつぐ切腹せっぷくもとめて対立たいりつした[15]。11月下旬げじゅんには、まんもと斯波しば義重よししげ赤松あかまつ義則よしのりらが事件じけん関与かんよしていたうたがいががっている[15]近臣きんしん山科やましなきょうこう日野ひのこう加賀かが流罪るざいとなり、途中とちゅう殺害さつがいされた[14]

おうなが25ねん1418ねん)1がつ24にち義嗣よしつぐ義持よしもちいのちけた富樫とかしみつるなりにより殺害さつがい、もしくは自害じがいした[14]享年きょうねん25。義嗣よしつぐについては畠山はたけやま満家みついえまんなり共謀きょうぼうしていた可能かのうせいがあり、管領かんりょうまんもとはしばらく出仕しゅっし拒否きょひしている[16]

同年どうねん6がつには富樫とかしみつるなりが、畠山はたけやま満家みついえおとうと畠山はたけやまみつるけい山名やまなひろし土岐とき康政やすまさらが義嗣よしつぐ共謀きょうぼうしていたとうった[17]山名やまなひろし出仕しゅっしめられ、土岐とき康政やすまさ土岐ときもちよりゆき守護しゅご解任かいにんされている[17]。11月にはぎゃく義嗣よしつぐ愛妾あいしょうりんうたきょくが、「まんなり義嗣よしつぐ謀反むほんすすめ、発覚はっかくしそうになったため義嗣よしつぐ謀反むほんうったえた」と義持よしもち直訴じきそした[16]まんなり高野たかのさん出奔しゅっぽんし、おうなが26ねん1419ねん)2がつ義持よしもちいのちけた満家みついえによって殺害さつがいされた[18]

えいとおる元年がんねん1429ねん)9がつ17にちしたがえいち追贈ついぞうされ[14]、9月29にちにはしん大倉おおくらみやかみごうおくられた[19]

後裔こうえい

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越前えちぜんこくくらだには、江戸えど時代じだい中期ちゅうきの『越前えちぜん国名こくめい勝志かつし』によって、義嗣よしつぐ遺児いじである嗣俊が初代しょだいであるとされたが、現在げんざいでは越前えちぜん守護しゅご斯波しば支流しりゅうであるとかんがえられている[20]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 上田うえだただしあきら津田つだ秀夫ひでお永原ながはらけい藤井ふじい松一しょういち藤原ふじわらあきら、『コンサイス日本人にっぽんじんめい辞典じてん だい5はん』、株式会社かぶしきがいしゃ三省堂さんせいどう、2009ねん 33ぺーじ
  2. ^ a b c d e 室町むろまち幕府ばくふぜん将軍しょうぐん管領かんりょう列伝れつでん 2018, p. 114.
  3. ^ a b c 室町むろまち幕府ばくふぜん将軍しょうぐん管領かんりょう列伝れつでん 2018, p. 115.
  4. ^ 桜井さくらい英治えいじ 2009, p. 72.
  5. ^ 室町むろまち幕府ばくふぜん将軍しょうぐん管領かんりょう列伝れつでん 2018, p. 115-116.
  6. ^ 石原いしはらりょ 2012, p. 54.
  7. ^ a b 石原いしはらりょ 2012, p. 49.
  8. ^ a b c 室町むろまち幕府ばくふぜん将軍しょうぐん管領かんりょう列伝れつでん 2018, p. 116.
  9. ^ 桜井さくらい英治えいじ 2009, p. 73.
  10. ^ 桜井さくらい英治えいじ 2009, p. 74.
  11. ^ 石原いしはらりょ 2015, p. 178-181・355-356.
  12. ^ a b c 室町むろまち幕府ばくふぜん将軍しょうぐん管領かんりょう列伝れつでん 2018, p. 117.
  13. ^ a b c 室町むろまち幕府ばくふぜん将軍しょうぐん管領かんりょう列伝れつでん 2018, p. 118.
  14. ^ a b c d e f g 室町むろまち幕府ばくふぜん将軍しょうぐん管領かんりょう列伝れつでん 2018, p. 119.
  15. ^ a b 室町むろまち幕府ばくふぜん将軍しょうぐん管領かんりょう列伝れつでん 2018, p. 109.
  16. ^ a b 室町むろまち幕府ばくふぜん将軍しょうぐん管領かんりょう列伝れつでん 2018, p. 110.
  17. ^ a b 桜井さくらい英治えいじ 2009, p. 81.
  18. ^ 室町むろまち幕府ばくふぜん将軍しょうぐん管領かんりょう列伝れつでん 2018, p. 110-111.
  19. ^ つなこうおおやけぶんやす5ねん1448ねん)9がつ29にちじょう
  20. ^ 越前えちぜん教育きょういく振興しんこう武生たけふ歴史れきし』( 2006ねん)33p

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい監修かんしゅうちょ足利あしかが義持よしもち執筆しっぴつ下川しもかわ雅弘まさひろ)、足利あしかが義嗣よしつぐ執筆しっぴつ平野ひらの明夫あきお)」、平野ひらの明夫あきお へん室町むろまち幕府ばくふぜん将軍しょうぐん管領かんりょう列伝れつでんほしうみしゃ、2018ねんISBN 978-4065136126 
  • 桜井さくらい英治えいじ日本にっぽん歴史れきし12 しつ町人ちょうにん精神せいしん講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2009ねん原著げんちょ2001ねん)。ISBN 978-4062919128 
  • 石原いしはらりょ足利あしかが義嗣よしつぐ元服げんぷく」『東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ研究けんきゅう紀要きようだい22かん東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ、2012ねん、49-65ぺーじNAID 40019502052 
  • 石原いしはらりょ室町むろまち時代じだい将軍家しょうぐんけ天皇てんのうつとむまこと出版しゅっぱん、2015ねんISBN 978-4-585-22129-6 

関連かんれん項目こうもく

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