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さんせんいん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
さんせんいん

往生おうじょう極楽ごくらくいん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
所在地しょざいち 京都きょうと京都きょうと左京さきょう大原おおはら来迎らいごういんまち540
位置いち 北緯ほくい357ふん11.35びょう 東経とうけい13550ふん3.92びょう / 北緯ほくい35.1198194 東経とうけい135.8344222 / 35.1198194; 135.8344222座標ざひょう: 北緯ほくい357ふん11.35びょう 東経とうけい13550ふん3.92びょう / 北緯ほくい35.1198194 東経とうけい135.8344222 / 35.1198194; 135.8344222
山号さんごう さかなさん
宗派しゅうは 天台宗てんだいしゅう
寺格じかく 京都きょうとごかしつ門跡もんぜき[1]
本尊ほんぞん 薬師やくし如来にょらい
創建そうけんねん のべれき年間ねんかん782ねん - 806ねん
開山かいさん 最澄さいちょう
別称べっしょう さんせんいん門跡もんぜき
梶井かじい門跡もんぜき
梨本なしもと門跡もんぜき
札所ふだしょとう 西国さいごく薬師くすしよんじゅうきゅう霊場れいじょうだい45ばん
近畿きんきさんじゅうろく不動尊ふどうそん霊場れいじょうだい16ばん
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみちだい106ばん京都きょうとだい26ばん
文化財ぶんかざい 阿弥陀あみださんみことぞう国宝こくほう
往生おうじょう極楽ごくらくいん阿弥陀堂あみだどう木造もくぞう救世観音くせかんのんはん跏像、木造もくぞう不動明王ふどうみょうおう立像りつぞうほか(重要じゅうよう文化財ぶんかざい
公式こうしきサイト 天台宗てんだいしゅう 京都きょうと大原おおはらさんせんいん
法人ほうじん番号ばんごう 8130005001898 ウィキデータを編集
三千院の位置(京都府内)
三千院
さんせんいん
さんせんいん (京都きょうと)
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さんせんいん(さんぜんいん)は、京都きょうと左京さきょう大原おおはら来迎らいごういんまちにある天台宗てんだいしゅう寺院じいん山号さんごうさかなさん(ぎょざん)。本尊ほんぞん薬師やくし如来にょらいさんせんいん門跡もんぜきともしょうする。

京都きょうと市街しがい北東ほくとう位置いちする山中さんちゅう、かつては貴人きじん仏教ぶっきょう修行しゅぎょうしゃ隠棲いんせいとしてられた大原おおはらさとにある。あおれんいん妙法みょうほういんとともに、天台宗てんだいしゅう山門さんもんさん門跡もんぜき寺院じいんの1つにかぞえられている。

概要がいよう

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さんせんいんは8世紀せいき最澄さいちょう時代じだい比叡山ひえいざん建立こんりゅうされた円融えんゆうぼう起源きげんち、のち比叡山ひえいざん東麓ひがしふもと坂本さかもとげん滋賀しがけん大津おおつ坂本さかもと)にうつされ、たびかさなる移転いてんのち1871ねん明治めいじ4ねん)に現在地げんざいちうつったものである[2][3]。「さんせんいん」あるいは「さんせんいん門跡もんぜき」というてらめい大原おおはら移転いてんして以降いこう使つかわれるようになったもので、それ以前いぜんは「円融えんゆういん円融えんゆうぼう)」「円徳院えんとくいん」「梨本なしもと門跡もんぜき」「梶井かじいみや」「梶井かじい門跡もんぜき」などとばれた[4]一方いっぽう境内けいだいにある往生おうじょう極楽ごくらくいん旧称きゅうしょう極楽ごくらくいん)は、平安へいあん時代じだい末期まっきの12世紀せいきから大原おおはらにあった阿弥陀あみだどうであり、1871ねん明治めいじ4ねん)に梶井かじい門跡もんぜきほんぼうがこの移転いてんしてきてからその境内けいだいまれたもので、さんせんいん往生おうじょう極楽ごくらくいん元来がんらい別々べつべつ寺院じいんである。

境内けいだいには往生おうじょう極楽ごくらくいんのほか、宸殿、客殿きゃくでんなどの建物たてものがある。このうち、境内けいだい南側みなみがわ庭園ていえんないにある往生おうじょう極楽ごくらくいん内部ないぶには国宝こくほう阿弥陀あみださんみことぞう安置あんちしている。

歴史れきし

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さんせんいん天台てんだいさん門跡もんぜきなかでももっと歴史れきしふるく、最澄さいちょうのべれき年間ねんかん782ねん - 806ねん)、比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじひらいたときに、ひがしとう南谷なんや比叡山ひえいざんない地区ちくめい)のなし大木たいぼくはた一宇いちうかまえ、「円融えんゆうぼう」としょうしたのがその起源きげんという。の「梨本なしもと門跡もんぜき」のはこれに由来ゆらいしている[5][6]

そのさだかん2ねん860ねん)、うけたまわくも和尚おしょう最澄さいちょうこく薬師やくし如来にょらいぞう安置あんちした伽藍がらんて、円融えんゆういんしょうした。うけたまわくもはまた、比叡山ひえいざん山麓さんろく東坂本ひがしさかもとげん大津おおつ坂本さかもと)の梶井かじい円融えんゆういん里坊さとぼう山寺やまでらそう山下やました人里ひとざともうけるまい)をもうけた。おうとく3ねん1086ねん)には梶井かじいさと本拠ほんきょうつ円徳院えんとくいんしょうした[5]梶井かじい地名ちめいと、加持かじ密教みっきょう修法しゅほう)にもちいる井戸いど加持かじ)があったことから、のちてらを「梶井かじいみや」としょうするようになったという。

元永もとなが元年がんねん1118ねん)、堀河ほりかわ天皇てんのうだいさん皇子おうじだいよん皇子おうじとも)のさいくも法親王ほうしんのうにゅうてらしたのが、とうてら皇室こうしつ子弟していにゅうてらしたはじめである。さいくも法親王ほうしんのう大治おおはる5ねん1130ねん)、だい14せい梶井かじい門跡もんぜきとなった。以後いご歴代れきだい住持じゅうじとして皇室こうしつ摂関せっかん子弟していにゅうてらし、歴史れきしじょう名高なだか護良親王もりよししんのうみことくも法親王ほうしんのう)もにゅうてらしたことがある[7]

さいくも法親王ほうしんのうもと元年がんねん1156ねん)、天台座主てんだいざしゅ天台宗てんだいしゅう最高さいこう地位ちい)に任命にんめいされたが、おなねん比叡山ひえいざん西麓にしふもと大原おおはら梶井かじい門跡もんぜき政所まんどころ(まんどころ)が設置せっちされた。これは、大原おおはらみついた念仏ねんぶつ行者ぎょうじゃまり、大原おおはらにそれ以前いぜんからあった来迎らいごういんかちりんいんなどの寺院じいん管理かんりするために設置せっちされたものである[8]政所まんどころ極楽ごくらくいんげん往生おうじょう極楽ごくらくいん)に隣接りんせつして建立こんりゅうされた。

大原おおはらふるくから貴人きじん念仏ねんぶつ修行しゅぎょうしゃ喧騒けんそうはなれて隠棲いんせいするとしてられていた。文徳ふみのり天皇てんのうだいいち皇子おうじであるおもんみたかし親王しんのう844ねん - 897ねん)が大原おおはら隠棲いんせいしたことはよくられ、『伊勢物語いせものがたり』にも言及げんきゅうされている。藤原ふじわら権力けんりょく絶大ぜつだいであった当時とうじ本来ほんらいなら皇位こういぐべきだいいち皇子おうじであるおもんみたかし親王しんのうは、権力けんりょくしゃ藤原ふじわらりょうぼうむすめ藤原ふじわら明子あきこんだ清和せいわ天皇てんのうゆずり、みずからは出家しゅっけして隠棲いんせいしたのであった。大原おおはらはまた、融通ゆうずう念仏ねんぶつ天台てんだい声明せいめい(しょうみょう、仏教ぶっきょう声楽せいがく)がさかんにおこなわれた場所ばしょとしてられ、天台てんだい声明せいめい大成たいせいしたせいおう大師だいし良忍りょうにん1073ねん - 1132ねん)も大原おおはらんだ[9]山号さんごうさかなさんたかし曹植ひねさかなさんあそんださいに、空中くうちゅうよりこえた梵天ぼんてんさんふでってうつ梵唄ぼんばい名付なづけたという、声明せいめい発祥はっしょう故事こじにちなんだものである[10]

坂本さかもと梶井かじい門跡もんぜきさだひさし元年がんねん1232ねん)の火災かさいをきっかけにいま京都きょうと市内しない移転いてんした。洛中らくちゅう東山ひがしやま各地かくち転々てんてんとしたのち元弘もとひろ元年がんねん1331ねん)にらくきたふね岡山おかやま東麓ひがしふもと寺地てらちいた[11][12]。この淳和天皇じゅんなてんのう離宮りきゅう雲林院うじいがあったところと推定すいていされ、現在げんざい京都きょうときた紫野むらさきの大徳寺だいとくじ南方なんぽうたる。船岡ふなおか山東さんとうふもと梶井かじい門跡もんぜき応仁おうにんらん1467ねん - 1477ねん)で焼失しょうしつし、大原おおはら政所まんどころほんぼうとした[13]

元禄げんろく11ねん1698ねん)、江戸えど幕府ばくふ将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよし当時とうじ門跡もんぜき入道にゅうどう慈胤親王しんのうこう陽成ようぜい天皇てんのう皇子おうじ)にたいし、京都きょうと御所ごしょ周辺しゅうへん公家くげ町内ちょうない車道しゃどう広小路ひろこうじ寺地てらちあたえた。これにより、ほんぼう大原おおはらから移転いてんした。このため、以後いご近世きんせいつうじて梶井かじい門跡もんぜき公家くげまち一角いっかくであるこのにあった。寺地てらち現在げんざい京都きょうと上京かみぎょう梶井かじいまちで、跡地あとちには京都府立医科大学きょうとふりついかだいがくとその附属ふぞく病院びょういんっている[13]

明治維新めいじいしんさい当時とうじ門跡もんぜきであったあきらじん法親王ほうしんのう還俗げんぞく仏門ぶつもんはなれる)してあらたに梨本なしもとみやいえこし、公家くげまち京都きょうと御所ごしょ周辺しゅうへん寺町てらまち広小路ひろこうじ)の寺院じいんないにあった仏像ぶつぞう仏具ぶつぐるい大原おおはら政所まんどころおくられた。1871ねん明治めいじ4ねん)、大原おおはら政所まんどころあらたなほんぼうとなり「さんせんいん」と改称かいしょうした。「さんせんいん」は梶井かじい門跡もんぜき持仏堂じぶつどう名称めいしょう一念いちねんさんせんいん」からったものである(「一念いちねんさんせん」については当該とうがい項目こうもく参照さんしょう[14]。そのさい隣接りんせつしててられていた極楽ごくらくいん吸収きゅうしゅう合併がっぺいして境内けいだいんでいる。

宮中きゅうちゅう懺法こう(きゅうちゅうおせんぼうこう)は、もと2ねん1157ねん)に後白河天皇ごしらかわてんのう宮中きゅうちゅうじん寿ひさし殿どのにてはじめてった仏事ぶつじで、法華経ほけきょう読誦とくしょうし、悪行あくぎょう懺悔ざんげし、罪障ざいしょう消滅しょうめついの法要ほうようである。代々だいだい梶井かじい門跡もんぜき門主もんしゅがこの法要ほうよう導師どうしつとめることが慣例かんれいになっていた。明治めいじしん政府せいふ宮中きゅうちゅうでの仏事ぶつじきんじたため、この行事ぎょうじ一旦いったんえたが、その1898ねん明治めいじ31ねん)に大原おおはら復活ふっかつした。宸殿が1926ねん大正たいしょう15ねん)に建立こんりゅうされてからは宸殿でおこなわれるようになった。1979ねん昭和しょうわ54ねん)に明治天皇めいじてんのう70回忌かいき法要ほうようさんせんいんおこなってからは毎年まいとし5がつ30にちさんせんいん宸殿で懺法こうおこなわれている[15][16][17]

往生おうじょう極楽ごくらくいん

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重要じゅうよう文化財ぶんかざい[18]入母屋いりもやづくり杮(こけら)つまいれで、屋根やね側面そくめん三角形さんかっけいえるがわ正面しょうめんとする。内部ないぶ船底ふなそこ天井てんじょう[注釈ちゅうしゃく 1]として、ちゅうみことぞうだか2.3メートルの国宝こくほう阿弥陀あみださんみことぞうどうない空間くうかんいちはい安置あんちする。ちゅうみこと阿弥陀如来あみだにょらい来迎らいごうしるしむすび、ひだりわきさむらいかってみぎ)の観音かんのん菩薩ぼさつ往生おうじょうしゃ蓮台れんだいせる姿すがたで、みぎわきさむらいかってひだり)の勢至菩薩せいしぼさつ合掌がっしょうする。りょう菩薩ぼさつすわほうすこ前屈まえかがみにひざまずく「大和やまとずわり」となっているめずらしいつくりである。天井てんじょうには、極楽浄土ごくらくじょうど天女てんにょしょ菩薩ぼさつ姿すがた極彩色ごくさいしょくえがかれている。この復元ふくげん模写もしゃされ、円融えんゆうぞう展示てんじしつ展示てんじされている。

そもそも極楽ごくらくいんげん往生おうじょう極楽ごくらくいん)は元来がんらい天台宗てんだいしゅう門跡もんぜきとは無関係むかんけいであった。てらでんでは、寛和ひろかず2ねん986ねん)に恵心僧都えしんそうず源信みなもとのまこと(えしんそうずげんしん)が父母ちちはは菩提ぼだいのためにあねあんようあま(あんように)とともに創建そうけんしたとされるが、実際じっさいはもうすこ時代じだいくだった12世紀せいきまつに、高松たかまつ中納言ちゅうなごん藤原ふじわらみのる衡のつまである真如しんにょぼうあまが、おっと菩提ぼだいとむらうために建立こんりゅうしたものである[19]。この史実しじつは、彼女かのじょおいにあたる吉田よしだけいぼう日記にっききち」の記述きじゅつによりあきらかとなっている。平安へいあん時代じだい末期まっきには隣接りんせつして梶井かじい門跡もんぜき政所まんどころてられた。

江戸えど時代じだい元和がんわ2ねん1616ねん)に大幅おおはば修理しゅうりけており、建物たてもの外回そとまわりはほとんど江戸えど時代じだいのものにわっている。

極楽ごくらくいん独立どくりつした寺院じいんであったが、1871ねん明治めいじ4ねん)に梶井かじい門跡もんぜきほんぼう洛中らくちゅうから移転いてんしてさんせんいん改称かいしょうすると、吸収きゅうしゅう合併がっぺいされてその境内けいだいまれてしまい[20]さんせんいんのおどうとなってしまった。極楽ごくらくいんを「往生おうじょう極楽ごくらくいん」と改称かいしょうしたのは1885ねん明治めいじ18ねん)のことである。

境内けいだい

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極楽ごくらくいん
御殿ごてんもん

さんせんいん境内けいだいは、境内けいだいみなみながれるりょかわ(りょせん)ときたながれるりつかわ(りつせん)という2つのかわはさまれている。りょがわりつかわ声明せいめい(しょうみょう)仏教ぶっきょう声楽せいがく)の音律おんりつの「りょ」と「りつ」に由来ゆらいする[21]境内けいだい南側みなみがわには往生おうじょう極楽ごくらくいん正門せいもんにあたる朱雀すざくもん西側にしがわには御殿ごてんもんがあるが、拝観はいかん入口いりくち後者こうしゃである。御殿ごてんもんくすりもん形式けいしきで、両側りょうがわ石垣いしがき白壁しらかべをめぐらし、法親王ほうしんのう御殿ごてんである政所まんどころ入口いりくちにふさわしい重厚じゅうこう門構もんがまえである。前述ぜんじゅつ石垣いしがき築城ちくじょう名高なだか近江おうみ坂本さかもと穴太あのうしゅきずいたものである[22][23]

もんからはいり、だい玄関げんかんから拝観はいかん順路じゅんろ沿ってすすむと、客殿きゃくでん宸殿およびこれらをかこ庭園ていえんがあり、庭園ていえんない往生おうじょう極楽ごくらくいんつ。その庭園ていえんにはわらべ地蔵じぞうすうたいたたずんでいる。

杉村すぎむらたかし さく「わらべ地蔵じぞう

そこからあるいていくと弁財天べざいてんまつられており、さらに石段いしだんのぼっておくいんすすむと金色きんいろ不動堂ふどうどう、さらにのぼると観音堂かんのんどうがある。このほか、りつかわ沿いには阿弥陀あみだ石仏いしぼとけうれずみおう石仏いしぼとけや、御殿ごてんもんはいった南側みなみがわには写経しゃきょうじょう円融えんゆうぼう(えんにゅうぼう)と収蔵しゅうぞうけん展示てんじ施設しせつ円融えんゆうぞうがある[24]

  • 宸殿 - 本堂ほんどう1926ねん大正たいしょう15ねん建立こんりゅう宮中きゅうちゅう紫宸殿ししんでんして宮殿きゅうでんふうつくられた建物たてもので、宮中きゅうちゅう仏事ぶつじ行事ぎょうじである5がつ30にち宮中きゅうちゅう懺法こう(きゅうちゅうおせんぼうこう)がおこなわれる道場どうじょう[25]なかには、最澄さいちょうさくつたわる本尊ほんぞん秘仏ひぶつ薬師やくし瑠璃光るりこう如来にょらいぞう安置あんちする。ひがしあいだには玉座ぎょくざしつらえられ、ふすまには下村しもむら観山かんざんにじえがかれ「にじあいだ」ともばれる[26]西にしあいだ歴代れきだい住職じゅうしょく法親王ほうしんのう)をまつったうちほとけ本尊ほんぞん薬師如来像やくしにょらいぞう非公開ひこうかいだが、2002ねん平成へいせい14ねん)9がつ8にち–10がつ8にちひらけとびらされたことがある[27]西にしあいだ安置あんちされていた木造もくぞう救世観音くせかんのんはん跏像(重要じゅうよう文化財ぶんかざい[28]木造もくぞう不動明王ふどうみょうおう立像りつぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい[29]円融えんゆうぞううつされた。
  • 客殿きゃくでん - 客殿きゃくでん平安へいあん時代じだいりゅうぜんいん(りゅうぜんいん)とばれ、大原おおはらてら政所まんどころであった。慶長けいちょう年間ねんかん1596ねん - 1615ねん)に、豊臣とよとみ秀吉ひでよしにより禁裏きんり修復しゅうふくとしてえられたきゅう御所ごしょきゅうざいもちいててられた。障壁しょうへき1906ねん明治めいじ39ねん)に望月もちづきたまいずみ今尾いまおけいねん鈴木すずき松年しょうねん竹内たけうち栖鳳せいほう菊池きくち芳文よしふみなど、当時とうじ京都きょうと画壇がだん画家がかたちによってえがかれて奉納ほうのうされた(障壁しょうへき保存ほぞんのため円融えんゆうぞう移動いどう[30][26]
  • ちゅう書院しょいん
  • 庫裏くり
  • 庭園ていえん有清ありきよえん(ゆうせいえん)」(京都きょうと指定してい名勝めいしょう) - 池泉いけいずみ回遊かいゆうしき庭園ていえんで宸殿まえから往生おうじょう極楽ごくらくいんにかけてひろがる。有清ありきよえん名称めいしょう中国ちゅうごく南朝なんちょうそう詩人しじんしゃれいうんの「山水さんすい有清ありきよおん」という由来ゆらいする[31][32][注釈ちゅうしゃく 2]
    • わらべ地蔵じぞう - いし彫刻ちょうこく杉村すぎむらたかしによるものですうたいかれている。
  • 庭園ていえん「聚碧えん(しゅうへきえん)」(京都きょうと指定してい名勝めいしょう) - 池泉いけいずみ観賞かんしょうしき庭園ていえん客殿きゃくでん周囲しゅういひろがる。江戸えど時代じだい茶人ちゃじん金森かなもりそうかず(かなもりそうわ)のさくにわつたえるが確証かくしょうはない。有清ありきよえんと聚碧えんさかい生垣いけがき石垣いしがき区切くぎられている。
    • 老木ろうぼくなみださくら」 - 西行さいぎょう法師ほうしともりょうおもね(りょうあ)上人しょうにんのお手植てうえともいわれるさくら
  • 往生おうじょう極楽ごくらくいん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 12世紀せいきまつ建立こんりゅう解説かいせつすんでじゅつ
  • 弁天べんてん
  • 朱雀すざくもん - 江戸えど時代じだい再建さいけん。かつては極楽ごくらくいん正門せいもんであった。
  • あじさいえん
  • 弁財天べざいてん - 「きょう七福神しちふくじん」のうちのひとつ。
  • 金色きんいろ不動堂ふどうどう - 1989ねん平成へいせい元年がんねん)4がつ建立こんりゅう根本こんぽん道場どうじょうさとししょう大師だいし円珍えんちんさくつたえる金色きんいろ不動明王ふどうみょうおう本尊ほんぞんとする。
  • 観音堂かんのんどう - 1998ねん平成へいせい10ねん建立こんりゅうたけ3メートルの金色きんいろ観音かんのん菩薩ぼさつ立像りつぞうまつられている。
    • 北小きたこ観音堂かんのんどう - しょう観音かんのんぞう安置あんちする。
    • 南小みなみこ観音堂かんのんどう - しょう観音かんのんぞう安置あんちする。
  • 石庭いしにわじゅう菩薩ぼさつ慈眼じげん(じげん)のにわ」 - 補陀落ふだらく浄土じょうど再現さいげんしたにわ
  • 勝手かって神社じんじゃ
  • うれずみおう石仏いしぼとけ - 阿弥陀あみだ石仏いしぼとけ
  • 西方せいほうもん
  • みなみもん
  • 円融えんゆうぼう - 写経しゃきょうじょう
  • 円融えんゆうぞう - 2006ねん平成へいせい18ねんあき完成かんせいした収蔵しゅうぞうけん展示てんじ施設しせつさんせんいんつたわる仏像ぶつぞう仏画ぶつが障壁しょうへき典籍てんせき文書ぶんしょるいなどを収蔵しゅうぞう展示てんじする。また、往生おうじょう極楽ごくらくいんの「舟底ふなそこ天井てんじょう」を原寸げんすんだい復元ふくげんし、天井てんじょう壁画へきが復元ふくげん展示てんじする(オリジナルの絵画かいが剥落はくらく褪色たいしょくいちじるしい)[34]
  • 御殿ごてんもん

文化財ぶんかざい

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国宝こくほう

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阿弥陀如来あみだにょらい及両わきさむらい阿弥陀あみださんみことぞう

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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  • 往生おうじょう極楽ごくらくいん阿弥陀堂あみだどう[18]
  • 木造もくぞう救世観音くせかんのんはん跏像[28]ほん墨書ぼくしょひろしもと四年中原行範造像願文)
  • 木造もくぞう不動明王ふどうみょうおう立像りつぞう - つたえ円仁えんにんさく鎌倉かまくら時代ときよ1903ねん指定してい[29]
  • 木造もくぞう不動明王ふどうみょうおう立像りつぞう - 平安へいあん時代じだい2008ねん指定してい[注釈ちゅうしゃく 3][38][39]
  • 慈覚だい師伝しでん 紙背しはいちょううけたまわねん1133ねんちゅうれき[40]
  • せいそら上人しょうにん伝記でんきのこぞくしゅう - 鎌倉かまくら時代じだい[41]
  • 四天王寺してんのうじ縁起えんぎざんまき うけたまわやすさんねん1173ねんおもんみそうじゅう書写しょしゃ奥書おくがき[42]
  • 古文こぶんこうけい 建治けんじさんねん1277ねん書写しょしゃ奥書おくがき[43]
  • 帝王ていおう系図けいず - 室町むろまち時代ときよ[44]
  • さん千院円融蔵典籍文書類 - 平安へいあん時代じだいから江戸えど時代じだい、8,371てん[注釈ちゅうしゃく 4]
典拠てんきょ2000ねん平成へいせい12ねん)までの指定してい物件ぶっけんについては、『国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい大全たいぜん 別巻べっかん[47]による。

京都きょうと指定してい名勝めいしょう

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  • さんせんいん有清ありきよえん庭園ていえんおよび聚碧えん庭園ていえん - 2000ねん平成へいせい12ねん)4がつ1にち指定してい

前後ぜんご札所ふだしょ

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西国さいごく薬師くすしよんじゅうきゅう霊場れいじょう
44 神護かんごてら - 45 さんせんいん - 46 桑実寺そうじつでら
近畿きんきさんじゅうろく不動尊ふどうそん霊場れいじょう
15 蓮華寺れんげじ - 16 さんせんいん - 17 曼殊まんしゅいん
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみち
105 寂光じゃっこういん - 106 さんせんいん - 107 赤山あかやまぜんいん

交通こうつう

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京都きょうとバス1016・17・181995系統けいとう大原おおはらバス停ばすていより徒歩とほ10ふん

幕末ばくまつ領地りょうち

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国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかんの『きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょうデータベース』より算出さんしゅつした幕末ばくまつ梶井かじいりょう以下いかとおり。(7むら・1,196せきあまり

  • 山城やましろこく愛宕あたごぐんのうち–3むら
    • かちりんいんむらのうち–200せきあまり
    • 来迎らいごういんむらのうち–166せきあまり
    • だい長瀬ながせむらのうち–78せきあまり
  • 山城やましろこく乙訓おとくにぐんのうち–1むら
    • 上植野かみうえのむらのうち–140せき
  • 山城やましろこく紀伊きいぐんのうち–2むら
    • 吉祥院きっしょういんむらのうち–10せきあまり
    • 竹田たけだむらのうち–300せき
  • 丹波たんばこく桑田くわたぐんのうち–1むら
    • 比賀江ひがえむらのうち–300せき

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 船底ふなそこのような形状けいじょういたり、中央ちゅうおうたかくした天井てんじょう
  2. ^ 山水さんすい有清ありきよおん」の由来ゆらいについて、参考さんこう文献ぶんけんしゃれいうん出典しゅってんとするが、実際じっさい出典しゅってんひだりおもえの「招隠」であるとおもわれる。たとえば以下いか論文ろんぶん[33]参照さんしょう
  3. ^ このぞう円珍えんちんさとししょう大師だいし)が感得かんとくした不動ふどう画像がぞう)を彫像ちょうぞうかたどった貴重きちょうれいのひとつである。ひらおやはん1137ねん1220ねん)はうけたまわやす4ねん1174)に極楽ごくらくいんげん往生おうじょう極楽ごくらくいん)で出家しゅっけまどかさとしごう不動ふどう信仰しんこうした。おやはん祖父そふ平時へいじはんはやはり出家しゅっけして不動ふどう図像ずぞうをまつっており、ほんぞう造立ぞうりゅうには父祖ふそ以来いらい不動ふどう信仰しんこう関係かんけいしているとみられる。装飾そうしょくきりきん使つか様式ようしき平安へいあん時代じだい後期こうき正統せいとう特色とくしょくつたえているが、ぞう本体ほんたい根幹こんかん足下あしもと台座だいざ中心ちゅうしんきょうつくてんには、平安へいあん末期まっきよりもふる形式けいしきられる。ぞう表面ひょうめんうるしはくだい部分ぶぶんである[37]
  4. ^ 当初とうしょ指定してい1988ねん)の員数いんずうは3,021てん[45]。2015ねんに5,350てん追加ついか指定していされ、けい8,371てんとなった[46]

出典しゅってん

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  1. ^ 天台宗てんだいしゅうについて - おも寺院じいん 天台宗てんだいしゅう
  2. ^ #岩田いわた、2006ねん、p.118
  3. ^ #杉田すぎた、2006ねん、p.118
  4. ^ #杉田すぎた、2006ねん、p.91
  5. ^ a b #杉田すぎた、2006ねん、p.95
  6. ^ 古寺ふるでら巡礼じゅんれい 京都きょうと 4 2006, p. 137.
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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