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紫宸殿ししんでん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
京都きょうと御所ごしょ紫宸殿ししんでん
殿しんがりぜん右近うこんたちばなみぎ左近さこんさくら
扁額へんがく
平安京へいあんきょう内裏だいり 紫宸殿ししんでんあと
京都きょうと上京かみぎょう田中たなかまち。ただし画像がぞう中央ちゅうおう説明せつめいばん紫宸殿ししんでんあとからみなみやく25メートルの南庭なんてい中央ちゅうおう
仁和寺にんなじ金堂こんどう
慶長けいちょうきゅう紫宸殿ししんでん紫宸殿ししんでんとしては現存げんそん最古さいこ)。

紫宸殿ししんでん(ししんでん、ししいでん)は、内裏だいり正殿せいでん天皇てんのう元服げんぷく立太子りったいしれいゆずるこくふしかいなどの儀式ぎしきおこなわれ、のちには即位そくいれい舞台ぶたいとなった。「南殿なんでん」や「ぜん殿しんがり」、ふるくは「むらさきしん殿どの」とも。

殿舎でんしゃみなみには南庭なんていひろがり、きたにはじん寿ひさし殿どの位置いちする。天皇てんのう普段ふだん居住きょじゅうする殿舎でんしゃである清涼せいりょう殿どのたい紫宸殿ししんでん公的こうてき意味合いみあいがつよかった。

解説かいせつ

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名称めいしょう由来ゆらい

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大明だいめいみや紫宸殿ししんでんのこ中国ちゅうごく西安しーあん

むらさき」は古代こだい中国ちゅうごくほしかん天帝てんていである「むらさきほろ」に由来ゆらいし、あきら清朝せいちょうすめらぎじょうである「むらさき禁城きんじょう」の「むらさき」も同類どうるいである。「宸」の帝王ていおうまいを意味いみする。中国ちゅうごくではとう王朝おうちょう長安ながやすかれた大明だいめいみやだいさん正殿せいでんとして「紫宸殿ししんでん」がかれ、皇帝こうてい日常にちじょう生活せいかつという内宮ないくうてき性格せいかくっていた。

紫宸殿ししんでん本来ほんらい天皇てんのう私的してき在所ざいしょである内裏だいり殿舎でんしゃひとつであったが、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき以降いこう大内裏だいだいり正殿せいでんであった大極殿たいきょくでん衰亡すいぼうしたことにより、即位そくいれい大嘗祭だいじょうさいなどの重要じゅうよう行事ぎょうじ紫宸殿ししんでんおこなわれるようになった。

内裏だいり鎌倉かまくら時代ときよ火災かさいにあって以後いご再建さいけんされることはなかったが、紫宸殿ししんでん臨時りんじ皇居こうきょであるさと内裏だいり再建さいけんされ、現在げんざい京都きょうと御所ごしょ(これももとさと内裏だいりである)にも安政あんせい2ねん1855ねん)に古式こしきのっとって再建さいけんされたものがつたわっている。

構造こうぞう

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その構造こうぞう正面しょうめんきゅうあいだ母屋もや(もや)の四方しほうひさしめぐらせ、さらにその外側そとがわ高欄こうらん設置せっちされた簀子すのこはいしており、母屋もや中央ちゅうおうには高御座たかみくらかれている(ふるくはとばりだいかれた)。

母屋もやきたひさしとのさかいけんせい障子しょうじ(げんじょうのしょうじ)とばれるパネルじょう障子しょうじ仕切しきられており、みなみひさし中央ちゅうおうには18だんかいみなみかい)がある。

南庭なんてい

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紫宸殿ししんでん南庭なんていにはひがしさくら西にしたちばなえられており、それぞれのちかくにひだり近衛このえみぎ近衛このえはいじんしたため、左近さこんさくら右近うこんたちばなしょうされる。

左近さこんさくらはもともとはうめだったといい、いぬい枯したのを契機けいき仁明天皇にんみょうてんのうときさくらえられたという[1]

ひだり近衛このえ陣所じんしょ

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ひだり近衛このえ陣所じんしょむべよう殿どのつづのきろう(こんろう)にあり、「左近さこんじん(さこんのじんのざ)」とばれた。

摂関せっかん政治せいじ全盛期ぜんせいきにはここで摂関せっかん座長ざちょうとする朝議ちょうぎ陣所じんしょおこなわれるためじんじんじょうといい、おび仗がゆるされたため仗議ともいう)がさかんにおこなわれ、実質じっしつてき国政こくせい中心ちゅうしんとなった。

まれにこうしょ殿どのひがしひさしにある「右近うこんじん」でもおこなわれ、『年中ねんじゅう行事ぎょうじ絵巻えまき』に「みぎ近衛このえじん」としてえがかれている。

即位そくいれい

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天皇てんのう即位そくい儀式ぎしきのうち、もっと重要じゅうよう即位そくいれい大内裏だいだいり大極殿たいきょくでん会場かいじょうとすることがさだめられていたが、平安へいあん時代じだい末期まっき安元やすもと大火たいか再建さいけんされなくなった。わりにおな大内裏だいだいりないにある太政官だじょうかんちょう会場かいじょううつされて慣例かんれいとされてきたが、こちらも室町むろまち時代ときよ応仁おうにんらん再建さいけんされなくなった。

応仁おうにんらん以前いぜん紫宸殿ししんでん即位そくいれいおこなわれた事例じれい平安へいあん時代じだいに2けんあり、病気びょうき理由りゆう大極殿たいきょくでん出御しゅつぎょ出来できなかった冷泉れいせん天皇てんのう福原ふくはらきょう遷都せんとしたばかりで大極殿たいきょくでん完成かんせいしていなかった安徳天皇あんとくてんのうがそれにたる。

応仁おうにんらんはじめて天皇てんのう即位そくいしたこう柏原かしわばら天皇てんのう即位そくいしきが21年間ねんかんけなかった理由りゆうとしては費用ひよう不足ふそくほかに、太政官だじょうかんちょう再建さいけんして実施じっしするか、儀式ぎしき自体じたい費用ひようあつまらないのに太政官だじょうかんちょう再建さいけんするのはむずかしいとしてわりに紫宸殿ししんでんおこなうかで議論ぎろんになっていたことがげられる。

最終さいしゅうてき太政官だじょうかんちょう再建さいけん現実げんじつてきではないとして、だいひさし元年がんねん1521ねん)に紫宸殿ししんでんにおいて即位そくいしき実施じっしされた。

その紫宸殿ししんでんでの即位そくいれいあらたな慣例かんれいになり、東京とうきょう奠都てんとこう昭和しょうわ天皇てんのうまで京都きょうと紫宸殿ししんでん即位そくいれい実施じっしされた[2]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 古事ふるごとだん』に「南殿なんでんさくらじゅしゃほんうめじゅ也。桓武かんむ天皇てんのう遷都せんとこれしょうえ。而及承年中ねんじゅう枯失。仍仁明天皇にんみょうてんのうあらためうえ也。」とあり、文献ぶんけんとう勘案かんあんしてこの「あらためうえ」がさくらへのえだと推定すいていされる。
  2. ^ ひさすい俊和としかず内野ないや太政官だじょうかんちょう」『中世ちゅうせい天皇てんのう作法さほう律令制りつりょうせい残像ざんぞう八木やぎ書店しょてん、2020ねん ISBN 978-4-8406-2239-4 pp.283-311。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 平安へいあん建都けんと1200ねん記念きねん よみがえ平安京へいあんきょう』 京都きょうと編纂へんさん発行はっこう

関連かんれん項目こうもく

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