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大極殿たいきょくでん

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平城ひらじろみや だい1大極殿たいきょくでん復元ふくげん
平安京へいあんきょう大極殿たいきょくでんあと京都きょうと京都きょうと
千本せんぼん丸太まるたまち北西ほくせい児童じどう公園こうえんない

大極殿たいきょくでん(だいごくでん)は、古代こだい日本にっぽんにおける朝廷ちょうてい正殿せいでん

概要がいよう[編集へんしゅう]

宮城みやぎ大内裏だいだいり)のちょうどういん北端ほくたん中央ちゅうおうにあり、殿内とのうちには高御座たかみくらえられ、即位そくい大礼たいれい国家こっかてき儀式ぎしきおこなわれた。中国ちゅうごく道教どうきょうでは天皇てんのう大帝たいてい居所きょしょをいう。「大極殿たいきょくでん」のは、万物ばんぶつ根源こんげん天空てんくう中心ちゅうしん意味いみする「太極たいきょく」に由来ゆらいする。ゆえに中国ちゅうごくにおいては太極たいきょく殿どのといい都城みやこのじょうない建物たてもの起源きげんをもち,さんこく時代じだいたかしあかりみかどあおりゅう3ねん(235)、「きたたかし洛陽らくようじょう」において太極たいきょく殿どのはじめてであるとされるため、大極殿たいきょくでんを「だいぎょくでん」ともむ。すなわち、帝王ていおう世界せかい支配しはいする中心ちゅうしんこそ「大極殿たいきょくでん」のである[1]

日本にっぽん最初さいしょ大極殿たいきょくでんかれた宮殿きゅうでんについては、飛鳥あすかきよしはらみやせつ福山ふくやま敏男としお小澤おざわあつし渡辺わたなべ晃宏あきひろら)[2]藤原ふじわらみやせつ狩野かのひさ鬼頭おにがしら清明きよあきら)[3]かれている。

原型げんけい[編集へんしゅう]

しょう墾田こんでんみや推定すいてい見取図みとりず

大極殿たいきょくでん原型げんけいは、飛鳥あすかしょう墾田こんでんみやの「大殿おおいどの」にあったとかんがえられる。しょう墾田こんでんみやは、推古天皇すいこてんのう時代じだい、それまでの豊浦とようらみやにかわって603ねん(推古11ねん)に造営ぞうえいされたみやである。『日本書紀にほんしょき』の記述きじゅつによれば、このみやは、みなみみや正門せいもんである「みなみもん」(宮門きゅうもん)をかまえ、そのきたしょ大夫たいふつとめる「ちょう(まつりごとどの)」が左右さゆうならび、そのあいだ中央ちゅうおう広場ひろばとしてオープンスペースの「あさにわ」があり、さらにそのきた中央ちゅうおうに「大門おおもん」(ごうもん)、そのおくに推古女帝にょてい出御しゅつぎょする「大殿おおいどの」がひかえるという構造こうぞうであったことがしめされている。

このようなみや構造こうぞうは、608ねん(推古16ねん)にずい使節しせつ裴世きよし611ねん(推古19ねん)のしん使つかいにん使来朝らいちょうかんする『日本書紀にほんしょき』の記載きさいからうかがわれる。なお、「ちょう」はのちのちょうどう起源きげんとなった建物たてものかんがえられる。

吉村よしむら武彦たけひこによれば、しょう墾田こんでんみやは「単純たんじゅん構造こうぞうながら、のちの藤原ふじわらみや平城ひらじろみやにみられるような、みやこみや基本きほん構造こうぞう原型げんけいとしてかんがえ」[4]られる。ただし、「大殿おおいどの」や「ちょう」、「あさにわ」の遺構いこう検出けんしゅつされていないので、その規模きぼとうについては不明ふめいである。

おつへん天智天皇てんぢてんのう孝徳天皇こうとくてんのうらによって650ねんしろ元年がんねん)に造営ぞうえいのはじまった難波なんば長柄ながらゆたか碕宮は、難波なんばみやあと発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっか前期ぜんき難波なんばみやあとがそれに相当そうとうするとの見方みかた確実かくじつである。きた天皇てんのう居所きょしょである内裏だいりがあり、そのうちまえ殿どのがのちの大極殿たいきょくでん相当そうとうする殿舎でんしゃである。内裏だいりまえ殿どのをふくむ内裏だいり空間くうかんかんじん出仕しゅっしするちょうどうあさにわ空間くうかんさかいには内裏だいりみなみもんがあり、このもん桁行けたゆき7あいだりょうこう2あいだ(32.7×12.3メートル)で平城ひらじろみや朱雀すざくもんをしのぐ規模きぼである。内裏だいりみなみもん東西とうざい入口いりくちには、れいをみない遺構いこう八角やすみ殿どのいん」があり、鐘楼しゅろうのような施設しせつ存在そんざいかんがえられる。「天子てんし南面なんめん」の思想しそうにより、内裏だいりみなみにはあさどうあさにわ区域くいきがあり、その規模きぼ東西とうざい233.4メートル、南北なんぼく263.2メートルにおよぶ。そこでは、すくなくともけい14どうちょうどうちょう)があったことを確認かくにんしており、藤原ふじわらみや平安へいあんみやの12どううえまわる。このみや特徴とくちょうてきなのは、あさにわひろさであり、空前絶後くうぜんぜつご規模きぼといってよい。また、すべての建物たてもの掘立柱ほったてばしら建物たてものであり、かわらはまだ使用しようされていなかった。

変遷へんせん[編集へんしゅう]

飛鳥あすかきよしはらみや「エビノコ大殿おおいどの[編集へんしゅう]

日本書紀にほんしょき』には、681ねん天武てんむ10ねん)2がつ天武天皇てんむてんのう皇后こうごう(のちのもちすべ天皇てんのう)はしょしんを「大極殿たいきょくでん」にし、飛鳥あすかきよしはられい制定せいてい指示しじしたという記事きじがある。ここで「大極殿たいきょくでん」という殿舎でんしゃがあることに注目ちゅうもくするのが、冒頭ぼうとうかかげた福田ふくだ小澤おざわ渡辺わたなべらである[5]

飛鳥あすかきよしはらみや所在地しょざいちは、近年きんねん調査ちょうさ成果せいかでは、飛鳥あすかきょうあと上層じょうそう遺構いこうをあてるのが通説つうせつとなっており、きよしはらみやは、こう飛鳥あすか岡本おかもとみや内郭ないかく東南とうなんくるわくわえて完成かんせいしたとされている。あずま南郭なんかく所在しょざいするめいより通称つうしょう「エビノコかく」とばれる一郭いっかくであり、そのなかからだい規模きぼ正殿せいでんあと発見はっけんしている。これが通称つうしょう「エビノコ大殿おおいどの」である。渡辺わたなべ晃宏あきひろは、この大殿おおいどのこそ、『日本書紀にほんしょき記載きさい大極殿たいきょくでん可能かのうせいたかいとしている[5]

なお、飛鳥あすかきょうあと上層じょうそう遺構いこうからは「ぜん殿しんがり」としょうされる東西とうざい建物たてものあと2むね検出けんしゅつされており、これが飛鳥あすかきよしはらみやにともなうあさどう相当そうとう施設しせつではないかとされている。ただし、「エビノコかく南側みなみがわには飛鳥川あすかがわ間近まぢかせまっていることから、広大こうだいあさにわ確保かくほすることは困難こんなんであったろうとかんがえられる[6]

藤原ふじわらみや大極殿たいきょくでん[編集へんしゅう]

規模きぼ内部ないぶ殿堂でんどう配置はいち明確めいかく宮城みやぎとしては、じょうぼうせいられたはつ本格ほんかくてき都城みやこのじょうとして建設けんせつされたしんえききょう藤原ふじわらきょう)の藤原ふじわらみや最古さいこである。藤原ふじわらみやは、周辺しゅうへんきょういき建設けんせつすすめられたあと、きた耳成山みみなりやま西にし畝傍山うねびやまひがしてん香具こうぐやまのいわゆる「大和やまと三山さんざん」のなかに造営ぞうえいされ、694ねんもちすべ8ねん)に正式せいしきうつされたみやである。発掘はっくつ調査ちょうさによれば、藤原ふじわらみや造営ぞうえい天武天皇てんむてんのう時代じだい着手ちゃくしゅされており、その造営ぞうえいにあたっては、南北なんぼく大溝おおみぞじょうぼうにともなう側溝そっこうてられたのちに大極殿たいきょくでんいん北面ほくめん回廊かいろう建設けんせつされていることから、藤原ふじわらみや大極殿たいきょくでん造営ぞうえい以前いぜんじょうぼう道路どうろ造成ぞうせいされていることが判明はんめいしている[7]

藤原ふじわらみや大極殿たいきょくでん大極殿たいきょくでんいん一郭いっかくのほぼ中央ちゅうおう位置いちしている。また、大極殿たいきょくでんいん南面なんめんにあって太政官だじょうかんいん(のちのあさどういん)との境界きょうかいをなすもん大極殿たいきょくでんごうもん(こうもん))は、藤原ふじわらみやのちょうど中心ちゅうしん位置いちする。藤原ふじわらみやしんえききょう藤原ふじわらきょう)のほぼ中央ちゅうおう位置いちすることから、大極殿たいきょくでんごうもんきょういき全体ぜんたいからみてその中心ちゅうしんにあたる。ここに『しゅうあやこうこうなど漢籍かんせきにみえる都城みやこのじょうのあるべき姿すがたにもとづいて設計せっけいされた「理念りねん先行せんこうがた都城みやこのじょう」をみることができる[8]

いずれにせよ、ちょうどういん太政官だじょうかんいん)の正殿せいでんとしての大極殿たいきょくでん藤原ふじわらみやをもって成立せいりつしたてんについては、飛鳥あすかきよしはらみやせつ研究けんきゅうしゃ共通きょうつう認識にんしきっており、小澤おざわあつしも、原則げんそくとしては、天皇てんのう独占どくせんてき空間くうかんとしての大極殿たいきょくでんおよびそれをかこ一郭いっかく藤原ふじわらみやにおいて成立せいりつしたとしている[8]

なお、天武てんむもちみつるだいにあっても辺境へんきょうみん飛鳥寺あすかでら西にし広場ひろば饗応きょうおうしていたことが『日本書紀にほんしょき』よりあきらかであるが、文武ぶんぶあさにあってようやく、藤原ふじわらみや大極殿たいきょくでん太政官だじょうかんいん移動いどうしたものとかんがえられる[9]

平城京へいじょうきょうきょうひとしきょう大極殿たいきょくでん[編集へんしゅう]

平城ひらじろみやだいいち大極殿たいきょくでんいん復元ふくげん模型もけい
平城ひらじろみやあと資料しりょうかん
みやにはられないひろ前庭ぜんていつ。
山城やましろ国分寺こくぶんじきょうひとしきょう復元ふくげん模型もけい築地つきじかこまれているのが金堂こんどう大極殿たいきょくでん)。みぎななじゅうとう京都きょうと府立ふりつ山城やましろ郷土きょうど資料しりょうかん

きょうひとしきょう(くにきょう)遷都せんとまでの大極殿たいきょくでんだいいち大極殿たいきょくでん奈良ならもどってからの大極殿たいきょくでんだい大極殿たいきょくでんという。だいいち大極殿たいきょくでん平城ひらじろみや正門せいもんである朱雀すざくもんきた位置いちし、だい大極殿たいきょくでん平城ひらじろ宮東みやひがしりの壬生みぶもんきた位置いちしている。だい大極殿たいきょくでんあと近世きんせいまで「大黒おおくろ(ダイコク)のしば」とばれた基壇きだんのこっていた。この命名めいめいは、平城京へいじょうきょう遷都せんと当初とうしょ朱雀すざくもんきた地域ちいき大極殿たいきょくでんもうけられたものの、きょうひとしきょう大極殿たいきょくでん規模きぼ一致いっちするところから745ねん天平てんぺい15ねん)に壬生みぶもんきた移動いどうしたものとかんがえられたためであったが、だい大極殿たいきょくでんあと下層かそうから掘立柱ほったてばしら建物たてもの遺構いこう検出けんしゅつされ、それが大極殿たいきょくでんちょうどういんおな建物たてもの配置はいちをとることから、結局けっきょく奈良なら時代じだい前半ぜんはんには朱雀すざくもんきた広大こうだい前庭ぜんていをもちあさどう2どうをともなうだいいち大極殿たいきょくでん中央ちゅうおう大極殿たいきょくでん)と壬生みぶもんきたちょうどう12どうよりなる太政官だじょうかんいんのさらにきたにある内裏だいり南面なんめん大極殿たいきょくでん東側ひがしがわ大極殿たいきょくでん)の2むねあることがわかった。

中央ちゅうおうだいいち大極殿たいきょくでん周囲しゅうい築地つきじ回廊かいろうかこまれ、みなみちょうどう区域くいきとつながる「ごうもん」があった。この区域くいきは「大極殿たいきょくでんいん」とばれる。ひろ前庭ぜんていをともない、前庭ぜんていから1だんたか位置いち大極殿たいきょくでん建設けんせつされているが、これは平安へいあんみやりゅうだんりゅうだん りゅうびだん)の原型げんけいかんがえられる。正月しょうがつ元日がんじつには大極殿たいきょくでん前庭ぜんていななほんたから幢(ほうどう)がてられしょしん朝賀ちょうがおこなわれた。に、即位そくいしき外国がいこく使節しせつ謁見えっけんなどのあさ空間くうかんとして使用しようされていたとかんがえられる[10]元正がんしょう天皇てんのう聖武天皇しょうむてんのう即位そくい大極殿たいきょくでんいんでおこなわれている。

それにたいし、だい大極殿たいきょくでん下層かそう東側ひがしがわ大極殿たいきょくでんは、日常にちじょう朝政ちょうせいにあたる空間くうかんだったとかんがえられ、このような機能きのう分化ぶんかは、とう長安ながやすじょう太極たいきょくみや太極たいきょく殿どの大明だいめいみや含元殿どの影響えいきょうけたものと指摘してきされる[10]

奈良なら時代じだい後半こうはんは、中央ちゅうおうだいいち大極殿たいきょくでんいん跡地あとちあさとしては使つかわれなくなり、儀式ぎしき機能きのう東側ひがしがわ壬生みぶもんきただい大極殿たいきょくでん集約しゅうやくされたものとかんがえられる。したがって、壬生みぶもんきたは、きたより<内裏だいり大極殿たいきょくでん、12どうちょうどうよりなる太政官だじょうかんいんちょうどういん)、2どうちょうしゅう殿どの壬生みぶもん>が一直線いっちょくせんなら形態けいたいとなり、壬生みぶもんはいってすぐきた両側りょうがわにはひがし式部しきぶしょう西にし兵部ひょうぶしょう建物たてものがあるという配置はいちとなった。

だいいち大極殿たいきょくでん地区ちくかんしては、仁藤にとう敦史あつし木簡もっかん史料しりょうにみられる「西宮にしのみや」をだいいち大極殿たいきょくでん地区ちく想定そうていしている。すなわち、饗宴きょうえんなどにもちいられてきただいいち大極殿たいきょくでん地区ちく居住きょじゅう区画くかく改造かいぞうされたとみる[11]。その改造かいぞうは、発掘はっくつ調査ちょうさ成果せいかからは、平城京へいじょうきょうへのかえ745ねん直後ちょくごではなく、はやくとも天平てんぴょうかちたから年間ねんかん749ねん-757ねん以降いこうかんがえられており、天平てんぺい神護かんご765ねん-767ねん)のころには積極せっきょくてき改造かいぞうがなされた形跡けいせきがない[11]仁藤にとうは、このことを天平てんぴょうかちたから元年がんねん聖武天皇しょうむてんのうこうけん天皇てんのうへの譲位じょうい、すなわち「ひじりたけし上皇じょうこう」の成立せいりつふか連関れんかんがあるのではないかと推測すいそくしている[12]

なお、奈良なら建都けんと1300ねんたる2010ねんわせ、平城ひらじろみやあとだいいち大極殿たいきょくでん実物じつぶつだい復元ふくげんされた。(→平城ひらじろ遷都せんと1300ねん記念きねん事業じぎょう

復元ふくげんされた平城ひらじろみやだいいち大極殿たいきょくでん屋根やねには、中国ちゅうごく古代こだい建築けんちく類例るいれいならい、だいむね中央ちゅうおうかざりが設置せっちされている。ただし、これまで平城ひらじろみやあとからはだいむね中央ちゅうおうかざり金具かなぐ出土しゅつどれいがない。そのため、奈良なら時代じだい前後ぜんこう事例じれいおよび資料しりょう収集しゅうしゅう調査ちょうさつうじ、この金具かなぐ意匠いしょう設計せっけいすすめたという。 宝珠ほうしゅがただいむね中央ちゅうおうかざりの類例るいれいとして、はつとう敦煌とんこう莫高くつだい338くつ壁画へきが邸宅ていたく宮殿きゅうでん?)、ずいくん西にし西安しーあん出土しゅつど仏殿ぶつでん形式けいしき石棺せっかんなどがある[13]

難波なんばきょう大極殿たいきょくでん[編集へんしゅう]

後期こうき難波なんばみや復元ふくげん模型もけい

難波なんばきょう難波なんばみや後期こうき難波なんばみや)は、723ねん養老ようろう7ねん)、ふくせいにより平城京へいじょうきょうふくとして造営ぞうえいされたみやである。聖武天皇しょうむてんのう治下ちか744ねん天平てんぺい16ねん)、天皇てんのう突如とつじょ難波なんばみやへの遷都せんと表明ひょうめいし、しょしんはそのとききょうひとしきょう遷都せんとひとおおかったというが、天皇てんのう難波なんばへの行幸ぎょうこう決行けっこうしたといわれる。難波なんばいてほどなく、天皇てんのうむらさきかおりらくみやうつり、結局けっきょく留守るす橘諸兄たちばなのもろえより難波なんばすめらぎとするむねみことのりされた。しかし、むらさきかおりらくみや震災しんさい遭遇そうぐうしたひじりたけしあさ群臣ぐんしんそろって平城京へいじょうきょうへのかえめ、745ねん天平てんぴょう17ねん)のかえは、ふたたび、長岡ながおか遷都せんと直前ちょくぜん793ねんのべれき12ねん)まで平城京へいじょうきょうふく地位ちいにあった。

難波なんばみやは、1961ねん昭和しょうわ36ねん)、山根やまね徳太郎とくたろうにより発見はっけんされそののち発掘はっくつ調査ちょうさがなされたが、このみや下層かそうから検出けんしゅつされたのが上述じょうじゅつした前期ぜんき難波なんばみやである。

後期こうき難波なんばみやは、きたより内裏だいり大極殿たいきょくでんちょうどう8どうよりなるちょうどう区域くいきあさにわふくむ)、ちょうしゅう殿どの2どう一直線いっちょくせんにならぶ形態けいたいをとっており、建物たてものすう構造こうぞう配置はいちのうえで長岡ながおかみや類似るいじしており、長岡ながおかみや難波なんばみや建物たてもの移築いちくしていとなまれたことが判明はんめいしている。

現在げんざいは、難波なんばみや史跡しせき公園こうえん土台どだい復元ふくげんされている。

長岡京ながおかきょう平安京へいあんきょう大極殿たいきょくでん[編集へんしゅう]

長岡ながおかみや大極殿たいきょくでん模型もけい向日むこう文化ぶんか資料しりょうかん
長岡ながおかみや大極殿たいきょくでんあと
平安へいあんみやちょうどういんしき
平安へいあんみや大極殿たいきょくでんして建造けんぞうされた平安へいあん神宮じんぐうがい拝殿はいでん中央ちゅうおう)。手前てまえりゅうだん朱欄しゅらん

長岡京ながおかきょう段階だんかいから、ちょうどういん内裏だいり分離ぶんりがはじまっている。これは、天皇てんのう大極殿たいきょくでん出御しゅつぎょしておこなわれていた朝政ちょうせいが、内裏だいりおこなわれるようになったためである。そのいっぽうで大極殿たいきょくでんあさどう区域くいきとの一体化いったいかつよめ、大極殿たいきょくでんちょうどうちょうしゅう殿どのをまとめてあさどういんとする呼称こしょうは、桓武かんむ天皇てんのう792ねんのべれき11ねん)にまれている。

794ねんのべれき13ねん)に遷都せんとされた平安京へいあんきょう大極殿たいきょくでんはそれ以前いぜんのものが築地つきじ回廊かいろうかこまれ、ごうもんっていたのとことなり、みなみちょうどう直接ちょくせつつながる構造こうぞうとなった。すなわち、ちょうどういん長岡京ながおかきょう時代じだいにくらべ、いっそう一体化いったいかふかめた。ただし大極殿たいきょくでんりゅう壇上だんじょうっており、その境界きょうかいには朱欄しゅらん朱色しゅいろすり)がもうけられ、ちょうどう大極殿たいきょくでんとは「りゅう尾道おのみち」とばれる階段かいだん往来おうらいした。りゅうだん今日きょう平安へいあん神宮じんぐうでもることが出来できる。大極殿たいきょくでん後背こうはいには「小安おやす殿でん」(こあどの)とばれる殿舎でんしゃのきろう(こんろう)でつながり、天皇てんのう出御しゅつぎょさい休憩きゅうけいしょとして利用りようされた。また、りゅうだんのぼった左右さゆうには「白虎びゃっころう」「あおいりゅうろう」というしょう楼閣ろうかく対置たいちされていた。

9世紀せいきなかごろになると、天皇てんのう宮城みやぎ大内裏だいだいり)からかけることは、賀茂川かもがわ臣下しんか邸宅ていたく上皇じょうこう居所きょしょなどごく一部いちぶかぎられるようになり、はなはだしくは「だいきょくいん行幸ぎょうこう」の表現ひょうげんさえまれたという[14]

平安へいあん末期まっきこう白河しらかわ法皇ほうおういのちつくられた『年中ねんじゅう行事ぎょうじ絵巻えまき』には東西とうざい11あいだ南北なんぼく4あいだで、しゅりのはしら瓦葺かわらぶ入母屋いりもやづくり屋根やね金色きんいろ鴟尾しびいただ大極殿たいきょくでんあざやかにえがかれており、平安へいあん神宮じんぐう大極殿たいきょくでん平城ひらじろみやあと大極殿たいきょくでん復元ふくげん事業じぎょうでも参考さんこうとされた。なお、『年中ねんじゅう行事ぎょうじ絵巻えまき』や、1895ねん明治めいじ28ねん京都きょうと参事さんじかいによって編纂へんさんされた『平安通へいあんとおりこころざし』には、たんそう大極殿たいきょくでんえがかれているが、大極殿たいきょくでん殿舎でんしゃ火災かさいにより2えられており、970ねんてんろく元年がんねん成立せいりつの『くちゆう(くちずさみ)』に「くもふとし和二かずじ京三きょうぞう」とえるように、当初とうしょ出雲いずも大社たいしゃ奈良なら東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん匹敵ひってきするだい建築けんちくであり、『年中ねんじゅう行事ぎょうじ絵巻えまき所載しょさいのものは1072ねん延久のべひさ4ねん)にえられた姿すがたで、本来ほんらい重層じゅうそう(2かいて)であったとも推測すいそくされる。

平安へいあん時代じだいちゅう後期こうきから焼亡しょうぼう再建さいけんかえし、朝廷ちょうてい儀式ぎしき中心ちゅうしん土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの現在げんざい京都きょうと御所ごしょ)へ移行いこうしていくのにしたが衰微すいびしていった。1177ねん安元やすもと3ねん)にきた安元やすもと大火たいかによる焼失しょうしつののちは再建さいけんされることなく廃絶はいぜつした。京都きょうと中京ちゅうきょう千本せんぼん丸太まるたまち旧跡きゅうせきには、1895ねん明治めいじ28ねん)に平安へいあん奠都てんと1100ねん記念きねんしててられた石碑せきひることが出来できる。ただし、そのあと石碑せきひ付近ふきんではなく、千本せんぼん丸太まるたまち交差点こうさてん付近ふきんであったことがあきらかとされている。

なお、平安へいあん神宮じんぐう平安へいあんみやちょうどういんして建立こんりゅうされたものであり、そと拝殿はいでんとして大極殿たいきょくでんが8ぶんの5の規模きぼして建設けんせつされた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 渡辺わたなべ (2001) p.33-36
  2. ^ 飛鳥あすかきよしはらみやせつ提唱ていしょうは、福山ふくやま敏男としお (1984) 、小澤おざわあつし (1997) 、渡辺わたなべ晃宏あきひろ (2002) などに収載しゅうさい
  3. ^ 藤原ふじわらみやせつ提唱ていしょうは、狩野かのひさ (1990) 、鬼頭おにがしら清明きよあき (2000) などに収載しゅうさい
  4. ^ 吉村よしむら(1991)p.119-120
  5. ^ a b 渡辺わたなべ (2001) p.12-18
  6. ^ 古市ふるいち (2002) p.226-244
  7. ^ 仁藤にとう (1998) p.233-240
  8. ^ a b 小澤おざわ (2002) p.235-257
  9. ^ 仁藤にとう (1998) p.251-258
  10. ^ a b 渡辺わたなべ (2001) p.100-106
  11. ^ a b 仁藤にとう(1998)p.297-301
  12. ^ 仁藤にとう (1998) p.301-303
  13. ^ 山田やまだほか (2006)
  14. ^ 坂上さかがみ (2001) p.131。はら出典しゅってん鈴木すずき圭二けいじ日本にっぽん古代こだい行幸ぎょうこう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]