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土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの

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土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの(つちみかどひがしのとういんどの)は、平安京へいあんきょう左京さきょう北辺ほくへんよんぼうまち所在しょざいしたさと内裏だいり土御門つちみかど殿どのとも。正親町おおぎまちみなみ東洞ひがしぼらいんひがし土御門つちみかどきた高倉たかくら西にしの1まち4ぽう敷地しきちとしていたことから正親町おおぎまち殿どのともばれ、現在げんざい京都きょうと御所ごしょ原形げんけいとなった。

南北なんぼくあさ時代じだい土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの

平安へいあん時代じだい[編集へんしゅう]

堀河ほりかわ天皇てんのう即位そくいまえ御所ごしょとしていたことがられている[1]。そのながうけたまわ2ねん(1133ねん)に藤原ふじわら忠実ちゅうじつむすめ泰子やすこ鳥羽とば上皇じょうこう入内じゅだいするに先立さきだってその御所ごしょとして修造しゅうぞうされた。その泰子やすこ鳥羽とば上皇じょうこう皇后こうごう冊立さくりつされ、のべ6ねん(1140ねん)に女院にょいんこういん)となった彼女かのじょ御所ごしょとして正式せいしきさだめられ、「土御門つちみかど殿どの」「正親町おおぎまち殿どの」とばれた。こういん死後しご、ここは藤原ふじわらくにつな邸宅ていたくとなったが、じんやす2ねん(1167ねん)にろくじょう天皇てんのうが、安元やすもと3ねん(1177ねん)に高倉天皇たかくらてんのうが、短期間たんきかんながらさと内裏だいりとしてもちいている[2]

鎌倉かまくら時代ときよ[編集へんしゅう]

たてひさ2ねん(1191ねん以後いご土御門つちみかど東洞とうどういん殿どのこう白河しらかわ法皇ほうおう皇女おうじょせんもんいん(覲子内親王ないしんのう所有しょゆうとなったが、もんいんちちいんゆかりのろくじょう殿どのあいしたため、こちらは近衛このえ時々ときどき儀式ぎしき会場かいじょうとしてける程度ていど利用りようしかなかった。ところがろくじょう殿どのうけたまわもと2ねん(1208ねん)に焼失しょうしつしたことにより、状況じょうきょうおおきくわりはじめた。

せんもんいん御所ごしょ土御門つちみかど殿どのうつし、あわせてろくじょう殿どのないかれていたのち白河しらかわ法皇ほうおう持仏堂じぶつどうである長講ちょうこうどうもここに移転いてんさせた[3]。そのろくじょう殿どの長講ちょうこうどう再建さいけんされたが、土御門つちみかど殿どのないもうけられた施設しせつもそのまま長講ちょうこうどう所有しょゆうとなりその一部いちぶ仏事ぶつじがここで実施じっしされた。このため、本来ほんらい長講ちょうこうどう区別くべつして「新長しんちょう講堂こうどう」ともばれた。せんもんいん死去しきょ後深草天皇ごふかくさてんのう所有しょゆうとなり、一期いっきぶんとしてとくもんいん(媖子内親王ないしんのうあたえられたのちは、持明院じみょういんみつるてんきみ所有しょゆうとなった。のべけい元年がんねん(1308ねん)の花園天皇はなぞのてんのう践祚せんそ元弘もとひろ元年がんねん(1332ねん)のひかりげん天皇てんのう践祚せんそもこの土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの会場かいじょうとしておこなわれた。

室町むろまち時代ときよ[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代じだい末期まっきからたてたけし新政しんせいまで(花園はなぞの後醍醐ごだいごひかりげん後醍醐ごだいご)の皇居こうきょは、本格ほんかくてき内裏だいり構造こうぞう冷泉れいせん富小路とみこうじ殿でんであったが、1336ねんたてたけし3ねん)の兵火へいかによって冷泉れいせん富小路とみこうじ殿でん焼失しょうしつした。そして、あらたに成立せいりつした持明院じみょういんみつる朝廷ちょうていである北朝ほくちょうは、たてたけし4ねん9月2にち1337ねん9月26にち)に持明院じみょういんみつる代々だいだい所有しょゆうしていた土御門つちみかど東洞とうどういん殿どのをひとまずの皇居こうきょとした。このとき内裏だいりと“新長しんちょう講堂こうどう”の敷地しきち混在こんざいしていることが問題もんだいとされ、両者りょうしゃ区切くぎ築地つきじもうけられて築地つきじ北側きたがわさと内裏だいり南側みなみがわが“新長しんちょう講堂こうどう”とされている。当初とうしょ北朝ほくちょう本格ほんかくてき内裏だいり再建さいけんすうかいにわたって計画けいかくしていたものの、一向いっこう目処めどたず[4]、やがて土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの継続けいぞくして使用しようしていこうとする認識にんしきてんきみであるひかりげん上皇じょうこうにも芽生めばえた[5]以後いご土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの恒常こうじょうてき内裏だいりとしてもちいられることとなる[6]。もっとも、後光ごこうげん天皇てんのう鎌倉かまくら時代じだい初期しょき本格ほんかくてき内裏だいりであった閑院内裏だいり再建さいけん議論ぎろんさせたりと[7]いま本格ほんかくてき内裏だいり造営ぞうえいあきらめられていなかった。

義満よしみつ造営ぞうえいしたおうながたび内裏だいり

しかし、またも本格ほんかくてき内裏だいり再建さいけん計画けいかくえとなり、結局けっきょく土御門つちみかど東洞とうどういん殿どのは、光明こうみょう天皇てんのうたかしこう天皇てんのう後光ごこうげん天皇てんのうこう円融天皇えんゆうてんのうこう小松こまつ天皇てんのう北朝ほくちょうの5だい天皇てんのう皇居こうきょとして使用しようされることとなった。ところが、こう小松こまつ天皇てんのう治世ちせいであるおうひさし8ねん1401ねん)、土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの火災かさい焼失しょうしつしてしまう。そこで当時とうじ最高さいこう実力じつりょくしゃであった足利あしかが義満よしみつは、土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの狭小きょうしょうで「人臣じんしんいえ」と大差たいさいことを問題もんだいして、平安へいあん宮内くないうらした本格ほんかくてき内裏だいりとして再建さいけんすることをめた[8]義満よしみつ土御門つちみかど油小路あぶらのこうじ[9]あたえて“新長しんちょう講堂こうどう”を退かせ、1まち全体ぜんたい敷地しきちとした本格ほんかくてき内裏だいり機能きのう土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの再建さいけんした。以降いこうも、土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの皇居こうきょとしてもちいられることとなる。

この皇居こうきょは、その拡大かくだいつづけ、京都きょうと御所ごしょばれるようになっていまいたる。

土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの公家くげまち形成けいせい[編集へんしゅう]

元々もともとさと内裏だいりには大内裏だいだいり相当そうとうする外側そとがわ区画くかく存在そんざいしなかったが、周囲しゅうい1まち四方しほう面積めんせきにして3まち四方しほうぶん[10])を大内裏だいだいり区域くいき見立みたてて「陣中じんちゅう」としょうし、その内側うちがわ牛車うしぐるま宣旨せんじけるなどの特例とくれいがなければ、臣下しんかかなら下車げしゃして歩行ほこう通行つうこうすることとされていた。土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの整備せいびも、陣中じんちゅうかんなどの設備せつびあつめて大内裏だいだいりとしての性格せいかくたせることまではおこなわれなかったため、土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの近隣きんりん存在そんざいした公家くげ邸宅ていたくなかにはそのまま陣中じんちゅうふくまれるケース[11]もあり、そうしたいえでは牛車うしぐるま使つかうことが出来できなかった。もっとも、この時代じだいには経済けいざいてき問題もんだいによって摂関せっかんですら牛車うしぐるま十分じゅうぶん整備せいびすることが出来できず、摂関せっかん以下いか公卿くぎょうらは牛車うしぐるまによる参入さんにゅう必要ひつようとするじんがいにある自邸じていからの参内さんだい[12]はばかり、輿こしなどで陣中じんちゅうにあった公家くげ邸宅ていたくはいってそこをちょくいおりわり(「じん」)にしてそこから徒歩とほ参内さんだいすることがおこなわれた。もっとも、豊臣とよとみ秀吉ひでよし関白かんぱくになると、おそくても天正てんしょう15ねん1587ねん)までに土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの陣中じんちゅうへの公家くげしゅ屋敷やしきそう移転いてん公家くげまち形成けいせい)が実施じっしされ、結果けっかてき陣中じんちゅう概念がいねん破壊はかいされることになった。豊臣とよとみ政権せいけん徳川とくがわ政権せいけん江戸えど幕府ばくふ)では、かつての陣中じんちゅうであった地域ちいき中心ちゅうしんとして内裏だいり防御ぼうぎょするための「そう構」とその出入口でいりぐちとなる惣門そうもん[13]設置せっちして、その内側うちがわ公家くげまち整備せいびする方針ほうしんすすめた。元和がんわ寛永かんえいには「陣中じんちゅう」にわって「惣門そうもんこれない」とばれるようになる。そして、おそくても万治まんじ年間ねんかんまでには戦国せんごくてき名残なごりのこそう構は「築地つきじ」とばれるようになり、「惣門そうもんこれない」から「築地之内つじのうち」とばれるようになった。「築地之内つじのうち」は明治維新めいじいしんによって天皇てんのう公家くげたちが東京とうきょう移住いじゅうしたのち京都きょうと御苑ぎょえんとして整備せいびされる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ みず左記さきえいたもつ元年がんねん12がつ2にちじょう
  2. ^ 高倉天皇たかくらてんのう太郎たろう焼亡しょうぼうさいに、当時とうじさと内裏だいりだった閑院殿どの延焼えんしょう危険きけんにさらされたことにより一時いちじてき土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの避難ひなんした。
  3. ^ 長講ちょうこうどう土御門つちみかど東洞とうどういん殿どのへの移転いてんについては、川上かわかみみつぐ南北なんぼくあさ内裏だいり土御門つちみかど殿どのとそのしょう御所ごしょ」(『しんてい 日本にっぽん中世ちゅうせい住宅じゅうたく研究けんきゅう』(中央公論ちゅうおうこうろん美術びじゅつ出版しゅっぱん、2002ねん、ただしげん論文ろんぶんは1956ねん)にくわしい。
  4. ^ ももさき京都きょうとこわした天皇てんのうまもった武士ぶし』2020、p.194。
  5. ^ えんたいれき貞和さだかず4ねん9がつ13にちじょうによれば、二条にじょう良基よしもと光明こうみょう天皇てんのう譲位じょうい仙洞せんとう御所ごしょかんするみことのりもんたいして、「“土御門つちみかど殿どのため始終しじゅう皇居こうきょ”とさだめたのに、いまになって仙洞せんとうもちいるのはどうかというおおせがあったが、自分じぶん問題もんだいないとおもう」という回答かいとうをしている。文中ぶんちゅうおおせになられた主語しゅごはないものの、前後ぜんご記述きじゅつから良基よしもと意見いけんおおせられた主体しゅたい第三者だいさんしゃ)はてんきみであるひかりげん上皇じょうこうであることがかる。なお、光明こうみょう天皇てんのう譲位じょういしばらくは土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの御所ごしょとし、仙洞せんとう御所ごしょ整備せいびわったのちにそれまで押小路おしこうじ烏丸からすま殿どのさと内裏だいりとしていたしん天皇てんのうたかしこう天皇てんのう)に土御門つちみかど東洞とうどういん殿どのゆずっている(ももさき、2010ねん、P224)。
  6. ^ ももさき,2010,p.224
  7. ^ ももさき京都きょうとこわした天皇てんのうまもった武士ぶし』2020、p.201。
  8. ^ ぶくあきらいん関白かんぱく』・『けんせんこうおうひさし9ねん11月19にちじょうおよび『薩戒おうなが32ねん8がつ1にちじょう
  9. ^ 国史こくしだい辞典じてん 9』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1988ねん) 「長講ちょうこうどう」(P578、執筆しっぴつしゃ: 中井なかい真孝まさたか
  10. ^ 一条いちじょう大路おおじ万里小路まりこうじ鷹司たかつかさ小路こうじ烏丸からすま小路こうじかこまれた地域ちいき相当そうとうする。
  11. ^ 正親町おおぎまち別称べっしょうおよびその分家ぶんけであるうらつじいえごうである「うらつじ」は、本来ほんらい表記ひょうきは「裏築地うらつきじ」であった。このごう正親町おおぎまち邸宅ていたく土御門つちみかど東洞とうどういん殿どのとなりにあり、どう内裏だいり整備せいびされて裏築地うらつきじ土塀どべい)が邸宅ていたくまえもうけられたことに由来ゆらいしている。(ももさき、2010ねん、P474・486–487)。
  12. ^ 公家くげにおいては、陣中じんちゅう内部ないぶ通行つうこうなど正当せいとう事由じゆうかぎりは軽率けいそつ路頭ろとう歩行ほこうすることは見苦みぐるしいこととされていた。たとえば、応仁おうにんらん前後ぜんご公家くげ甘露かんろてらおやちょう日記にっきおやちょうきょう』には「当時とうじらんちゅう歩行ほこう往反からだ也」(文明ぶんめい3ねん4がつ26にちじょう)「供奉ぐぶからだ也」(文明ぶんめい8ねん11月13にちじょう)としるし、公家くげ町中まちなか徒歩とほ通行つうこうすることを否定ひていてきしるしている(ももさき、2010ねん、P284)。
  13. ^ 豊臣とよとみ政権せいけんには惣門そうもんが6かしょもうけられたために「ろくもん」としょうされたが、徳川とくがわ政権せいけんによる慶長けいちょう内裏だいり改築かいちく仙洞せんとう御所ごしょ造営ぞうえいともなってそう構が拡張かくちょうされたときさい配置はいち実施じっしされて7かしょやされた。しかし、寛永かんえい北西ほくせいの1かしょ廃止はいししたためにふたたび6かしょもどったことで「ろくもん」の呼称こしょう定着ていちゃくした。最終さいしゅうてきには9かしょやされて「きゅうもん」とばれることになる(とうだに、2016ねん、P61・78-85)。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]