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掘立柱ほったてばしら建物たてもの

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
青森あおもりけん青森あおもりさんない丸山まるやま遺跡いせき掘立柱ほったてばしら建物たてもの復元ふくげん
滋賀しがけん大津おおつ近江おうみこくちょうあと掘立柱ほったてばしら建物たてものあとはしらのみ復元ふくげん
大阪おおさか松原まつばら河合かわい遺跡いせきにおける掘立柱ほったてばしら建物たてものあとはしらあなれつ検出けんしゅつじょうきょう黄色きいろせん

掘立柱ほったてばしら建物たてもの(ほったてばしらたてもの/ほりたてばしらたてもの)は、地面じめんあなりくぼめて礎石そせきもちいず、そのままはしら掘立柱ほったてばしら)を地面じめんそこゆかとした建物たてもの

概要がいよう[編集へんしゅう]

掘立柱ほったてばしら建物たてものには、土間どまのままの建物たてものもあり、ゆかたかさがすうじゅうセンチメートルから1メートルくらいのゆか建物たてものもある。そのような建物たてものはしらすうによっておおきさがことなってくる。建物たてものまわりにてるがわばしら(がわはしら)じょう屋根やね支持しじする日本にっぽん伝統でんとうてき建築けんちく様式ようしきで、高床たかゆか建築けんちく高床たかゆか建物たてものあげゆか建物たてもの)と平屋ひらや建物たてもの平地ひらち建物たてもの)に大別たいべつされる。

民家みんか建築けんちくとしては18世紀せいきころまで建物たてもの主流しゅりゅうであったが、近世きんせい後期こうきには一般いっぱん庶民しょみん民家みんかにも礎石そせきもちいられるようになり、近代きんだい以降いこう運輸うんゆ技術ぎじゅつ発達はったつによりいし容易よういはこべるようになってすたれていく。現代げんだいでは、コンクリートブロックプレハブ建築けんちく普及ふきゅうでほとんどられなくなったが、そと便所べんじょなどの簡単かんたん建物たてものでは今日きょうでもまれ見受みうけられる。

考古学こうこがくにおける遺跡いせき発掘はっくつ調査ちょうさにおいて、遺構いこう考古こうこ資料しりょう)として検出けんしゅつされる掘立柱ほったてばしら建物たてものあとは、通常つうじょうはしらあなピットとも)の規則きそくてき配列はいれつとして確認かくにんされる。また、たて建物たてものゆかひとえるほどのたかさに位置いちし、入室にゅうしつ階段かいだん梯子はしご必要ひつよう建物たてもの高床たかゆか建物たてものという(高床たかゆか倉庫そうこなど)。高床たかゆか建築けんちく場合ばあいは、生活せいかつ痕跡こんせき当時とうじ生活せいかつめんのこりにくい傾向けいこうがある。

掘立柱ほったてばしら建物たてもの歴史れきし[編集へんしゅう]

縄文じょうもん時代じだい[編集へんしゅう]

さんない丸山まるやま遺跡いせき大型おおがた掘立柱ほったてばしら建物たてもの復元ふくげん

歴史れきしてきには縄文じょうもん時代じだい前期ぜんき出現しゅつげんし、青森あおもりけん青森あおもりさんない丸山まるやま遺跡いせき秋田あきたけん大館おおだて池内いけうち遺跡いせきなど拠点きょてん集落しゅうらく中心ちゅうしんてき建物たてものもちいた。ことにさんない丸山まるやま遺跡いせき巨大きょだいばしらによるろくほんばしら建物たてもの有名ゆうめいである。はしら直径ちょっけいやく1mで、はしらあな間隔かんかくはばふかさがそれぞれ4.2m、2m、2mですべ一致いっちする。「4.2m間隔かんかく」のはしらあな縄文じょうもん遺跡いせきでも確認かくにんされており、「縄文じょうもんじゃく」とでもいうべき共通きょうつう尺度しゃくど広汎こうはん使用しようされていたのではないかとかんがえられるまでになった。このろくほんばしら建物たてもの祭壇さいだん見張みはだいのような施設しせつではなかったかと推定すいていされている。

中期ちゅうき中葉ちゅうよう環状かんじょう集落しゅうらく遺跡いせきである岩手いわてけん紫波しわまち西田にしだ遺跡いせきでは、広場ひろば中心ちゅうしんに、内側うちがわからあな掘立柱ほったてばしら建物たてもの竪穴たてあな建物たてもの貯蔵ちょぞうあなじゅん同心円どうしんえんじょう遺構いこう配置はいちされる。そこでの掘立柱ほったてばしら建物たてもの(もがり)よう建物たてものさいそう施設しせつ)ではないかとするかんがえがある[1]。いずれにせよ、墓地ぼちえんたまき中心ちゅうしんめることから、はかほうむられた人々ひとびと祖先そせんとする世界せかいかんのもとで日常にちじょう生活せいかついとなまれたことを示唆しさしている。西田にしだ遺跡いせきでは平面へいめん亀甲きっこうがた建物たてものあと検出けんしゅつされているが、同様どうようれい秋田あきたけん鹿角かづの大湯おおゆ環状かんじょう列石れっせきおよび高屋たかやかん遺跡いせき(ともに後期こうき)からもつかっている。

なお縄文じょうもん時代じだい遺構いこうとして掘立柱ほったてばしら建物たてもの全国ぜんこくはじめて確認かくにんされたのは、神奈川かながわけん横浜よこはま都筑つづき港北こうほくニュータウン遺跡いせきぐんの1つである小丸こまる遺跡いせきにおける1975ねん昭和しょうわ50ねん)~1976ねん昭和しょうわ51ねん)・1982ねん昭和しょうわ57ねん)の調査ちょうさとされる[2]

弥生やよい古墳こふん時代じだい[編集へんしゅう]

いえがた埴輪はにわけんぎょせた入母屋いりもやづくりである。

拠点きょてん集落しゅうらく中心ちゅうしんてき建物たてものもちいるてんでは縄文じょうもん時代じだい同様どうようである。一般いっぱん集落しゅうらく住居じゅうきょとしての主流しゅりゅう依然いぜん竪穴たてあな建物たてものであり、これは古代こだいまつの11世紀せいきまでつづく。

弥生やよい時代じだいは、こころざし倭人わじんでん記録きろくつまでもなく、ほり防御ぼうぎょ施設しせつ)でムラ全体ぜんたいかこかんほり集落しゅうらく祭祀さいし建築けんちく祭殿さいでん)の大型おおがたをもたらしたことや当時とうじ一種いっしゅ山城やましろである高地こうちせい集落しゅうらくなどの遺構いこう、あるいは遺物いぶつなど考古こうこ資料しりょうめんでも戦争せんそうおお時代じだいだったことがられる。稲作いなさく農耕のうこう本格ほんかくてき進展しんてん水利すいりけん余剰よじょう農産物のうさんぶつをめぐるあらそいをまねいたものとおもわれるが、そうした時代じだい状況じょうきょう反映はんえいして、この時期じき掘立柱ほったてばしら建物たてものには軍事ぐんじてき性格せいかくびる建物たてもの倉庫そうこてき使用しようのなされた建物たてもの高床たかゆか倉庫そうこ高床たかゆか住居じゅうきょなど)が増加ぞうかしたものとみられる。著名ちょめいなものとしては、奈良ならけん田原本たわらもとまち唐古からこかぎ遺跡いせき出土しゅつど土器どきえがかれた多層たそうしき楼閣ろうかくがある。これは偶然ぐうぜんえがかれていたからこそ、同様どうよう建物たてもの存在そんざいしただろうという推定すいてい可能かのうとなるが、通常つうじょう発掘はっくつ調査ちょうさにおける遺構いこう検出けんしゅつからは上屋うわや構造こうぞうまでは推定すいていできない。佐賀さがけん神埼かんざきぐん吉野よしのさと遺跡いせき掘立柱ほったてばしら建物たてものあともその立地りっちなどから考慮こうりょして物見ものみであることが確実視かくじつしされ、今日きょうでは遺跡いせき公園こうえんない復元ふくげんされている。

古墳こふん時代じだいはいると、クニとしてのまとまりと豪族ごうぞく相互そうご序列じょれつができあがってきて、戦争せんそう激減げきげんし、集落しゅうらくにおける軍事ぐんじてき要素ようそうすまるが、一方いっぽう建物たてもの豪族ごうぞく威容いようしめすものとして積極せっきょくてき利用りようされたことはむしろ増加ぞうかしたとかんがえられる。いわゆる豪族ごうぞく居館きょかんとよばれる遺構いこうがそれであり、群馬ぐんまけん高崎たかさき三ツ寺みつでら遺跡いせき北谷きたや遺跡いせき調査ちょうされいなどがられる。ここでは居住きょじゅう空間くうかん私的してき空間くうかん)と祭祀さいしもしくは首長しゅちょうによる政治せいじ公的こうてき空間くうかん)とがきちんと区画くかくされていたことが確認かくにんされており、また、3kmはなれたりょう遺跡いせき規模きぼ形状けいじょうともにまるでおな設計せっけいをもとに構築こうちくされたかのように酷似こくじしていることはとく注目ちゅうもくあたいする。なお、埼玉さいたま古墳こふんぐん埼玉さいたまけん行田ぎょうだ)などから発見はっけんされたいえがた埴輪はにわには鰹木かつおぎ(かつおぎ)をせた入母屋いりもやづくりいえよせとうづくりいえ円柱えんちゅう表現ひょうげん高床たかゆか倉庫そうこなどがあり、上屋うわや構造こうぞう推定すいていするうえでおおきながかりとなっている。

古代こだい[編集へんしゅう]

掘立柱ほったてばしら建物たてもの礎石そせき土台どだい建物たてもの[編集へんしゅう]

平城京へいじょうきょう 朱雀すざくもん復元ふくげん

飛鳥あすか時代ときよ以降いこう一般いっぱん集落しゅうらくでは竪穴たてあな建物たてもの主流しゅりゅうであることはわらないが、住居じゅうきょとしては6世紀せいきまつ以後いごから宮殿きゅうでん官衙かんが都城みやこのじょう建築けんちくとして掘立柱ほったてばしら建物たてもの採用さいようされ、平安へいあん時代じだいすえ以後いご竪穴たてあな建物たてものわって一般いっぱん集落しゅうらく住居じゅうきょ建築けんちく主流しゅりゅうとなって近世きんせいいたる。

一方いっぽうかわら葺(かわらぶき)の礎石そせき建物たてものは6世紀せいきまつ以後いご寺院じいん国衙こくが中心ちゅうしんてき建物たてもの採用さいようされ、住居じゅうきょ建築けんちくとしては宮殿きゅうでん高級こうきゅう貴族きぞく邸宅ていたくにみられるが、それも客殿きゃくでんなど表向おもてむきの建物たてもののみで、住居じゅうきょとしては伝統でんとうてき掘立柱ほったてばしら建物たてもの主流しゅりゅうであった。平城京へいじょうきょうあと奈良ならけん奈良なら)では、宮城みやぎもん大極殿たいきょくでんちょうどういん役所やくしょ寺院じいんなどが瓦葺かわらぶき礎石そせき建物たてもので、はしらベンガラ朱色しゅいろられ、かべ白色はくしょく漆喰しっくいで、たいへんしょくあざやかなものであったろうと推定すいていされる。それにたいし、内裏だいりをはじめおおくの貴族きぞく邸宅ていたく掘立柱ほったてばしら建物たてものであった。掘立柱ほったてばしら建物たてもの屋根やねはおおむね板葺いたぶきまたはひのきがわ葺(ひわだぶき)で、はしら白木しらき(しらき)がおおかったとみられる。土台どだいての建物たてもの礎石そせき建物たてもの同時どうじ大陸たいりくから移入いにゅうされ、発掘はっくつ遺構いこうとしては痕跡こんせきをとどめにくい形式けいしきのためかずけっしておおくないが、官衙かんが宮殿きゅうでん建築けんちくには遺構いこうれいがある。なお、現存げんそんする世界せかい最古さいこ木造もくぞう建築けんちくである法隆寺ほうりゅうじ金堂こんどう五重塔ごじゅうのとう奈良ならけん斑鳩いかるがまち)にも礎石そせきもちいられている。ただし、五重塔ごじゅうのとうしんばしらだてしきである。

特殊とくしゅ事例じれいとしては、礎石そせき掘立柱ほったてばしら併用へいようする基礎きそ形式けいしき[3]採用さいようしたれいがある。これは、島根しまねけん松江まつえくに史跡しせき出雲いずも国府こくふあと平城京へいじょうきょうあと長岡京ながおかきょうあと京都きょうと向日むこう長岡京ながおかきょう)などにみられる。

日本にっぽん掘立柱ほったてばしら建物たてものがつくられつづけた理由りゆう[編集へんしゅう]

すめらぎ大神宮だいじんぐう所管しょかんしゃ いね御倉おぐら

中国ちゅうごく大陸たいりく朝鮮半島ちょうせんはんとうでははやくから礎石そせき土台どだい建物たてもの住居じゅうきょ建築けんちくにおいても普及ふきゅうしていたにもかかわらず、日本にっぽんでは移入いにゅうされてのちもかぎられた建物たてものにしかもちいられなかった。その理由りゆうとしてつぎの2てん指摘してきされている[4]

  1. 自然しぜん災害さいがいおお気候きこう - 律令りつりょう時代じだい寺院じいん宮殿きゅうでん官衙かんがなどの礎石そせき建物たてもの礎石そせきじょうはしら固定こていさせずにくため、はしらみちふとくしてかわら屋根やねおもみで建物たてもの全体ぜんたい安定あんていさせる必要ひつようがあり、また、はしらじょう屋根やねとの接点せってん複雑ふくざつ組物くみものをおいて地震じしん台風たいふうよこりょく分散ぶんさんさせるやわら構造こうぞう建築けんちくである。それにたいして掘立柱ほったてばしら建物たてものはしら足元あしもと地中ちちゅう固定こていし、はしらじょう直接ちょくせつけたき、くさいた樹皮じゅひいたかる屋根やねせるつよし構造こうぞうであり、この構造こうぞうはしらふとさに関係かんけいなく地震じしん台風たいふうにある程度ていどえることができ、建築けんちく安上やすあがりで技術ぎじゅつてきにも簡略かんりゃく方法ほうほうによる大量たいりょう生産せいさん可能かのうである。
  2. 木材もくざい資源しげんゆたかさ - 寺院じいんなどの公共こうきょうてき建築けんちくには中国ちゅうごく大陸たいりく伝来でんらい立派りっぱはなやかな礎石そせき建物たてもの採用さいようする一方いっぽう日常にちじょう生活せいかつである住居じゅうきょには大陸たいりく様式ようしきではなく、弥生やよい時代じだい以来いらい伝統でんとうてき生活せいかつスタイルをたもつために、伝統でんとうてき簡素かんそ形式けいしき掘立柱ほったてばしら建物たてもの採用さいようした。掘立柱ほったてばしら建物たてもの場合ばあい災害さいがいによって倒壊とうかいしても、上記じょうきのような利点りてん木材もくざい調達ちょうたつめんから再建さいけん礎石そせき建物たてものくらべてはるかに容易よういであったものと理解りかいされる。

なお、伊勢神宮いせじんぐう三重みえけん伊勢いせ)の式年しきねん遷宮せんぐうは20ねんに1かいまったくおながたでのえを古来こらいより連綿れんめんつたえてきた行事ぎょうじであるが、ここでは今日きょうでも正殿せいでん掘立柱ほったてばしら建物たてもの様式ようしきてられる。また、奈良ならけん桜井さくらい大神神社おおみわじんじゃむかしいま本殿ほんでんがなく三輪山みわやま自体じたい神体しんたいであるが、大嘗祭だいじょうさいときだけてられる正殿せいでんは、やはりくろ木造もくぞう掘立柱ほったてばしら建物たてものである。

中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

そうはしらがた建物たてもの登場とうじょう[編集へんしゅう]

はこ住宅じゅうたく母屋もや

平安へいあん時代じだい末期まっき以後いご掘立柱ほったてばしら建物たてもの一般いっぱん集落しゅうらく住居じゅうきょとして竪穴たてあな建物たてものわって全国ぜんこくてき普及ふきゅうするが、その形式けいしき律令りつりょう時代じだいとはまったことなっている。律令りつりょう時代じだいには母屋もや(もや、しゃ[5]ひさし(ひさし)による構造こうぞう形式けいしきち、内部ないぶには間仕切まじきりばしら以外いがいはしらてないが、中世ちゅうせい住居じゅうきょ主流しゅりゅうはしらあいだ間隔かんかくを2mないし2.4m前後ぜんごとして直接ちょくせつ10~15のほそはしら母屋もやひさし区別くべつなく碁盤ごばんじょうてるそうはしらがた(そうばしらがた)の平面へいめんとなる。そうはしらがた建物たてもの最古さいこれい摂関せっかんにさかのぼる。

鎌倉かまくら時代ときよ幕府ばくふかれた鎌倉かまくらでは、礎石そせき建物たてもの掘立柱ほったてばしら建物たてものりょう遺構いこう検出けんしゅつされるが、礎石そせき建物たてもの格式かくしきたか武家ぶけ屋敷やしき主要しゅよう建物たてもののみに限定げんていされ、ほとんどの場合ばあい掘立柱ほったてばしら建物たてものである。

そうはしらがた平屋ひらや建物たてもの当初とうしょ方眼ほうがん交点こうてんにすべてはしらつものであったが、時代じだいすすむにつれて屋内おくないばしら省略しょうりゃくするれい増加ぞうかし、近世きんせい民家みんかにつながる様式ようしきとなる。間取まど明確めいかくになってくるのは室町むろまち時代ときよ以後いごである。現存げんそんする日本にっぽん最古さいこ民家みんか兵庫ひょうごけん神戸こうべの「はこせんねん」(15世紀せいき)でこの系統けいとうき、土間どまがわ1ほん座敷ざしきがわ2ほんはしら省略しょうりゃくがあるのみで、構造こうぞうてきにもそうはしらがた建物たてもの古式こしきつたえるものである。

そうはしらがた平屋ひらや建物たてものは、京都きょうと公家くげそう地方ちほう地頭じとうそうから一般いっぱん集落しゅうらくいたかく階層かいそう住居じゅうきょ普及ふきゅうする、当時とうじとしてはまったあたらしい建築けんちく様式ようしきであり、また日本にっぽん独自どくじのものである。

中世ちゅうせい建物たてものしょ形式けいしき[編集へんしゅう]

中世ちゅうせいにおいて主流しゅりゅうをなす掘立柱ほったてばしら建物たてものには、うえかかげたそうはしらがた以外いがい梁間はりま1あいだがた(はりまいっけんがた)がある。

そうはしらがた建物たてもの平屋ひらや住居じゅうきょとしては摂関せっかん発生はっせいしん形式けいしき住宅じゅうたく建築けんちくであるのにたいし、梁間はりま1あいだがた建物たてもの高床たかゆか建築けんちくあるいは平屋ひらや建築けんちくとして、弥生やよい時代じだいより存在そんざいする在来ざいらい形式けいしき平屋ひらや建築けんちくである。西日本にしにほん拠点きょてん集落しゅうらく祭壇さいだん大形おおがた住居じゅうきょとして使用しようされ、一般いっぱん集落しゅうらくにおける住居じゅうきょ使用しようれいとしてはむしろすくないが、弥生やよい時代じだい中期ちゅうき岡山おかやまけん津山つやまぬまE遺跡いせきには母屋もやしゃ)の桁行けたゆき3あいだ梁間はりま1あいだよんしゅう下屋げやをめぐらす住居じゅうきょ遺構いこうがあり、建築けんちくでは、この系統けいとう中世ちゅうせいまでがれるものとかんがえられている。ただし、東日本ひがしにっぽんにおける梁間はりま1あいだがた平屋ひらや住居じゅうきょは、平安へいあん時代じだい後期こうきから鎌倉かまくら時代じだいにかけてはそうはしらがた建物たてものとくらべて遺構いこう検出けんしゅつれいすくなく、南北なんぼくあさ時代じだいから室町むろまち時代ときよにかけて関東かんとう奥羽おうう普及ふきゅうするものとかんがえられる。

以上いじょう主流しゅりゅう形式けいしき以外いがい梁間はりまがた律令りつりょうがた掘立柱ほったてばしら建物たてものがある。

さらにまた近年きんねん上記じょうきかかげたいずれにもつかないタイプの建物たてもの古墳こふん時代じだいまでさかのぼることがあきらかになってきた。がわばしらしき(がわはしらしき)とぶべきもので、これは室内しつないスペースがひろれることから工房こうぼうのような用途ようとかんがえられる。

どういち集落しゅうらくしょ形式けいしき混在こんざいするれいもある。その場合ばあいそうはしらがた母屋もや(おもや、おも[6]梁間はりま1あいだがた附属ふぞくとなるケースがおおい。岩手いわてけん花巻はなまき大瀬川おおせがわC遺跡いせきれいがその典型てんけいである。

中世ちゅうせい建物たてものはしらあいだ間隔かんかく[編集へんしゅう]

日本にっぽん中世ちゅうせい住居じゅうきょ形成けいせい発展はってん」(宮本みやもと、1999)によれば、中世ちゅうせい普及ふきゅうするそうはしらがた住居じゅうきょ特徴とくちょうとして、建物たてもの規模きぼ関係かんけいなくはしらあいだ間隔かんかく2.0m前後ぜんご2.4m前後ぜんごのものがおおいことがかかげられている。「2.0m基準きじゅん」の分布ぶんぷいき鎌倉かまくら周辺しゅうへん大阪おおさか滋賀しがけんなどで、「2.4m基準きじゅん」は福井ふくいけん石川いしかわけんにおいて濃厚のうこう分布ぶんぷする。その地方ちほうでは両者りょうしゃ混在こんざいもしくはちゅうあいだてき寸法すんぽうしめす。たとえば、ともに秋田あきたけんの12~14世紀せいき集落しゅうらく遺跡いせきであるが、沖積ちゅうせき立地りっちする遺跡いせき秋田あきた)では2.0m基準きじゅん台地だいちじょう立地りっちする金仏かなぶつ遺跡いせき三種さんしゅまち)では2.4m基準きじゅん採用さいようされている。

このことは建築けんちく技術ぎじゅつあるいは技能ぎのうしゃ集団しゅうだんにも2つの系統けいとうがあることを示唆しさする。2.0m基準きじゅん近江おうみ摂津せっつ河内かわうち発生はっせいして鎌倉かまくら幕府ばくふ採用さいようされて各地かくち波及はきゅうしたものとかんがえられる。いっぽう2.4m基準きじゅんは、山形やまがたけん京都きょうと岡山おかやまけん兵庫ひょうごけんにもおおいことから、越前えちぜん加賀かがなど北陸ほくりく地方ちほう発生はっせいしてかく地方ちほう波及はきゅうしたという見方みかた京都きょうと中心ちゅうしんとする在来ざいらい手法しゅほう由来ゆらいするという見方みかたがある。

いずれにせよ、室町むろまち時代じだいにはそうはしらがた基本形きほんけい発展はってんしてかく地方ちほう地域ちいきてき特色とくしょくつようになり、近世きんせい民家みんか基礎きそ形成けいせいされる。

近世きんせい以降いこう[編集へんしゅう]

近世きんせいはいっても、農村のうそん集落しゅうらく町屋まちやでは村役人むらやくにん町役人まちやくにん以上いじょう階層かいそう礎石そせきてや土台どだいてがみとめられる程度ていどで、庶民しょみん住宅じゅうたくには古代こだいまつ以来いらい掘立柱ほったてばしら建物たてもの伝統でんとうつよのこり、庶民しょみん階級かいきゅう礎石そせき土台どだいてが普及ふきゅうはじめるのははやくても18世紀せいき後半こうはんころで、幕末ばくまつ以後いご一般いっぱんする。

屋根やねの葺材は草葺くさぶきまたは板葺いたぶきせき置屋おきやがそのつづき、かわら屋根やね普及ふきゅうするのはあかりれき3ねん1657ねん)のあかりれき大火たいか以後いごのことで、それも町屋まちやかぎられる。)

近代きんだいはいるとふね鉄道てつどうにより石材せきざい輸送ゆそう便利べんりとなり、煉瓦れんがコンクリート使用しようはじまって、土台どだいつくることが一般いっぱんてきになり、掘立柱ほったてばしら建物たてものはほぼ姿すがたしていった。

博覧はくらんかいなど仮設かせつ施設しせつでは、昭和しょうわせん前期ぜんきまで掘立柱ほったてばしら建物たてものつくられたれいがある。

掘立柱ほったてばしら建物たてもの基礎きそのいろいろ[編集へんしゅう]

掘立柱ほったてばしら建物たてもの基礎きそのつくりかたにはさまざまな事例じれい確認かくにんされている。

  1. あなそこはしらてて、りだしたをそのままかためながらもどす。
  2. あなそこあつばんいしずえばん)をいてはしらて、1のようにもどす。
  3. あなそこにぎこぶしだいいしいてはしらて、おなじくもどす。
  4. あなそこ人頭じんとうだいいしいてはしらて、おなじくもどす。
  5. あなそこはしらて、いしれながら、おなじくもどす。
  6. 2~5の工法こうほうくみにして、おなじくもどす。
  7. はしら下端かたん凹凸おうとつつかまつくちもうけて横木よこぎ接合せつごうする。
  8. 腕木うできはしらむ。
  9. 横木よこぎ腕木うでき枕木まくらぎせる。
  10. 横木よこぎ腕木うでき井桁いげた交差こうささせて接地せっち面積めんせきをさらに拡大かくだいする。

2~6のように、いたもしくはいしれるのはとく軟弱なんじゃく地盤じばんにおける沈下ちんか防止ぼうしのためであり、おなつぶいし沈下ちんか防止ぼうし効果こうかたかい。7~10ははしら安定あんてい補強ほきょう目的もくてきとしてなされたものであり、充分じゅうぶんかためもそれにくわわった。

腐食ふしょくとその対策たいさく[編集へんしゅう]

掘立柱ほったてばしら建物たてものはしらは、地下水ちかすいめんした設置せっちしないと酸素さんそ供給きょうきゅうによってはしらざいがきわめて腐食ふしょくしやすい環境かんきょうとなる。そのため建築けんちく基準きじゅんほう施行しこうれいだい38じょう6こうには、

  • 建築けんちくぶつ基礎きそぐいを使用しようする場合ばあいにおいては、そのぐいは、平家ひらかけん木造もくぞう建築けんちくぶつ使用しようする場合ばあいのぞき、つね水面すいめんにあるようにしなければならない。

さだめている。

歴史れきしてきにみても、上述じょうじゅつのように平城京へいじょうきょう建物たてものだい部分ぶぶん礎石そせきもちいない掘立柱ほったてばしら建物たてもので、1m四方しほうめるケースがおおかったとみられる。平城京へいじょうきょう都城みやこのじょうとして機能きのうしたやく70年間ねんかんみや内省ないせい大膳だいぜんしょくでは5かいえが確認かくにんされている。なお、現代げんだいでも礎石そせきもちいない伊勢神宮いせじんぐう場合ばあいは20ねんごとの改築かいちくがおこなわれている。

今日きょう歴史れきしてき建造けんぞうぶつ復元ふくげんにおいては、倒壊とうかい防止ぼうし腐食ふしょく防止ぼうしねてコンクリートでかためするれいすくなくない。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ このほか、遺跡いせき立地りっち考慮こうりょしてサケをすための施設しせつとするせつ提出ていしゅつされている。また、1あいだ四方しほうのものについては、貯蔵ちょぞうよう倉庫そうこせつもある
  2. ^ 横浜よこはま埋蔵まいぞう文化財ぶんかざいセンター 1990, pp. 210–212.
  3. ^ 今日きょう異種いしゅ基礎きそにあたる。なお、現在げんざいでは建築けんちく基準きじゅんほう施行しこうれいだい38じょう2こうに、「 建築けんちくぶつには、ことなる構造こうぞう方法ほうほうによる基礎きそ併用へいようしてはならない。 」とあり、法制ほうせいじょう禁止きんしされている。
  4. ^ まい」宮本みやもと長二ちょうじろう、『復原ふくげん 技術ぎじゅつらしの日本にっぽん』p.37-38による。
  5. ^ 母屋もやかんしては「もや」と呼称こしょうする場合ばあいと「おもや」と呼称こしょうする場合ばあいでは意味いみことなってくる。もや(しゃ)はひさしたいするかたり詳細しょうさい母屋もや参照さんしょうのこと
  6. ^ 同上どうじょう。おもや(おも)は附属ふぞくたいするかたり

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 横浜よこはま埋蔵まいぞう文化財ぶんかざいセンター小丸こまる遺跡いせき」『ぜん遺跡いせき調査ちょうさ概要がいよう公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん横浜よこはまふるさと歴史れきし財団ざいだん港北こうほくニュータウン地域ちいきない埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこく10〉、1990ねん3がつ、210-212ぺーじNCID BN05701176 
  • 宮本みやもと長二ちょうじろうまい」(『復原ふくげん 技術ぎじゅつらしの日本にっぽん』〈別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん〉、新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1998)
  • 宮本みやもと長二ちょうじろう縄文じょうもん時代じだいらしと建築けんちく」(『approach summer2000』、竹中工務店たけなかこうむてん、2000)
  • 宮本みやもと長二ちょうじろう古代こだい建築けんちく復元ふくげん」(財団ざいだん法人ほうじん文化財ぶんかざい保存ほぞん技術ぎじゅつ協会きょうかいへん) 『ぶんけんきょう通信つうしん NO.55』、1999)
  • 宮本みやもと長二ちょうじろう日本にっぽん中世ちゅうせい住居じゅうきょ形成けいせい発展はってん」(『建築けんちく空間くうかん関口せきぐち欣也きんや先生せんせい退官たいかん記念きねんろん文集ぶんしゅう-』、中央公論ちゅうおうこうろん美術びじゅつ出版しゅっぱん、1999)
  • 宮本みやもと長二ちょうじろう中世ちゅうせい集落しゅうらく遺跡いせき 建築けんちく遺構いこうのまとめかた」(東北とうほく中世ちゅうせい考古こうこ学会がっかいへん) 『竪穴たてあな堀立ほりたて中世ちゅうせい遺構いこうろん課題かだい-』、2001)
  • 羽柴はしば直人なおとはしらあいだ寸法すんぽうかたるもの」(東北とうほく中世ちゅうせい考古こうこ学会がっかい竪穴たてあな堀立ほりたて中世ちゅうせい遺構いこうろん課題かだい-』、2001)
  • 羽柴はしば直人なおと岩手いわてけんにおけるちゅう近世きんせい集落しゅうらく掘立柱ほったてばしら建物たてもの」(ちゅう近世きんせい部会ぶかいいわき事務所じむしょへん) 『東北とうほく地方ちほう南部なんぶにおけるちゅう近世きんせい集落しゅうらくしょ問題もんだい』、福島ふくしまけん考古こうこ学会がっかいちゅう近世きんせい部会ぶかい、2000)
  • 日本にっぽんだいよん学会がっかい小野おのあきらはるなり秀爾ひでじ小田おだ静夫しずおへん)『図解ずかい日本にっぽん人類じんるい遺跡いせき』(東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1992)
  • 小野おの正敏まさとしへん)『図解ずかい日本にっぽん中世ちゅうせい遺跡いせき』(東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2001)
  • 国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかんへん)『縄文じょうもん文化ぶんかとびらひらく-さんない丸山まるやま遺跡いせきから縄文じょうもん列島れっとうへ-』(国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん振興しんこうかい、2001)
  • 鳥越とりこしけん三郎さぶろう弥生やよい王国おうこく北九州きたきゅうしゅう古代こだい国家こっかやつこくおう-』(中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、〈中公新書ちゅうこうしんしょ〉、1994)
  • 原田はらだとも芳賀はがのぼる森谷もりたに尅久・熊倉くまくら功夫いさおへん)『図録ずろく 都市とし生活せいかつ事典じてん』(柏書房かしわしょぼう、1991)
  • 秋山あきやま高志たかし北見きたみ俊夫としお前村まえむら松夫まつお若尾わかお俊平しゅんぺいへん)『図録ずろく 農民のうみん生活せいかつ事典じてん』(柏書房かしわしょぼう、1991)

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