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埴輪はにわ

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づかまわ古墳こふんぐんだい4ごうふん墳丘ふんきゅうじょう復元ふくげん配置はいちされた埴輪はにわぐん群馬ぐんまけん太田おおた出土しゅつどした原品げんぴん重要じゅうよう文化財ぶんかざい[1]

埴輪はにわ(はにわ)は、古墳こふん時代じだい日本にっぽん特有とくゆう器物きぶつ一般いっぱんてきには土師器はじき分類ぶんるいされる素焼すや土器どきである[ちゅう 1]祭祀さいし魔除まよけけなどのため、古墳こふん墳丘ふんきゅうみやつこうえならてられた。日本にっぽん各地かくち古墳こふん分布ぶんぷしている。

概要がいよう

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円筒埴輪の例。メスリ山古墳より出土した大型円筒埴輪(重要文化財、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館所蔵) 形象埴輪の例。群馬県太田市より出土した『埴輪武装男子立像』(国宝、東京国立博物館蔵)
円筒えんとう埴輪はにわれいメスリさん古墳こふんより出土しゅつどした大型おおがた円筒えんとう埴輪はにわ重要じゅうよう文化財ぶんかざい奈良なら県立けんりつ橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょ附属ふぞく博物館はくぶつかん所蔵しょぞう
形象けいしょう埴輪はにわれい群馬ぐんまけん太田おおたより出土しゅつどした『埴輪はにわ武装ぶそう男子だんし立像りつぞう』(国宝こくほう東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんくら

埴輪はにわは、3世紀せいき後半こうはんから6世紀せいき後半こうはんにかけてつくられ、前方後円墳ぜんぽうこうえんふんとともに消滅しょうめつした。おおきく円筒えんとう埴輪はにわ形象けいしょう埴輪はにわの2種類しゅるい大別たいべつされる。

円筒えんとう埴輪はにわは、普通ふつう円筒えんとうもっと基本きほんてき土管どかんがたのもの)[2]朝顔あさがおがた埴輪はにわひれづけ円筒えんとう埴輪はにわなどに細分さいぶんされる。墳丘ふんきゅうかこしゅうひさげたいうわや、墳丘ふんきゅういただき墳丘ふんきゅう斜面しゃめんもうけられただん(テラスじょう平坦へいたんめん)によこいちれつならべられた。

形象けいしょう埴輪はにわは、いえがた埴輪はにわ器財きざい埴輪はにわ動物どうぶつ埴輪はにわ人物じんぶつ埴輪はにわの4しゅ区分くぶんされ、墳丘ふんきゅういただき方形ほうけい基壇きだんや、みやつこばれる墳丘ふんきゅうすそ基壇きだんじょう構造こうぞうぶつうえならべられた。形象けいしょう埴輪はにわからは、古墳こふん時代じだい当時とうじ衣服いふく髪型かみがた武具ぶぐ農具のうぐ建築けんちく様式ようしきなどの復元ふくげん可能かのうである。なお、「つぼがた埴輪はにわ」とばれるものについては、つぼという器物きぶつあらわしているため形象けいしょう埴輪はにわともいえるが、歴史れきしてきには弥生やよい時代じだいの「特殊とくしゅつぼ」が埴輪はにわしていったものであるため(円筒えんとう埴輪はにわ一体化いったいかして朝顔あさがおがた埴輪はにわにもなった)、形象けいしょう埴輪はにわぐんとは起源きげん系統けいとうおおきくことなり、円筒えんとう埴輪はにわるいするとされている[3]埴輪はにわ起源きげんについては後述こうじゅつ)。

埴輪はにわ構造こうぞう基本きほんてき中空ちゅうくうで、粘土ねんどひもつくり、それをげていきながらかたちととのえてつくった。ときには、べついたものをわせたりしている。また、いろいろな埴輪はにわ骨格こっかくさきつくっておき、それに粘土ねんどけるなどした。かたもちいてつくったものはない。中心ちゅうしんてき埴輪はにわには、表面ひょうめんベンガラなどの赤色あかいろ顔料がんりょう塗布とふされた。畿内きないではあか以外いがいいろはほとんどもちいられなかったが、関東かんとう地方ちほうでは形象けいしょう埴輪はにわ様々さまざま彩色さいしきほどこされている。

歴史れきし

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起源きげん

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埴輪はにわ起源きげんかんがえられている特殊とくしゅだい特殊とくしゅつぼ複製ふくせい
国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかんぞう

埴輪はにわ起源きげんは、考古学こうこがくまとには吉備きび地方ちほう墳丘ふんきゅうられる特殊とくしゅだい特殊とくしゅつぼにあるとされ、それらから発展はってんした円筒えんとう埴輪はにわつぼがた埴輪はにわがまず3世紀せいき後半こうはん登場とうじょうし、いで4世紀せいきいえがた器財きざいがた動物どうぶつがたにわとり)が出現しゅつげんし、5世紀せいき以降いこう人物じんぶつ埴輪はにわつくられるようになったという変遷へんせん過程かていあきらかとなっている[4][5][6]

3世紀せいき後半こうはんになると、前方後円墳ぜんぽうこうえんふん岡山おかやまけん岡山おかやま月坂つきさか1ごうふん奈良ならけん桜井さくらいはし古墳こふん兵庫ひょうごけんたつの御津みとまち権現山こんげんやま51ごうふん)から最古さいこ円筒えんとう埴輪はにわであるがつがた円筒えんとう埴輪はにわ出土しゅつどしている[ちゅう 2]。この埴輪はにわ分布ぶんぷ備中びっちゅうから近江おうみまでにおよんでいる。最古さいこ埴輪はにわであるがつがた円筒えんとう埴輪はにわと、最古さいこ前方後円墳ぜんぽうこうえんふん副葬品ふくそうひんとされる大陸たいりくせい三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうとはおな墳墓ふんぼからは出土しゅつどせず、一方いっぽうるともう一方いっぽうないことがられていた。ただいちれい兵庫ひょうごけんたつの権現山こんげんやま51ごうふんでは後方こうほう石槨せっかくから三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうが5めん石槨せっかくそばでがつがた円筒えんとう埴輪はにわ発見はっけんされている。

なお、前方後円墳ぜんぽうこうえんふん出現しゅつげんは、ヤマト王権おうけん成立せいりつあらわすとかんがえられており、前方後円墳ぜんぽうこうえんふん宮山みややまがた特殊とくしゅだい特殊とくしゅつぼ採用さいようされていることは、吉備きび地方ちほう首長しゅちょうがヤマト王権おうけん成立せいりつふか参画さんかくしたことのあらわれだとされている(吉備きび勢力せいりょく東遷とうせんせつもある)。

一方いっぽう文献ぶんけんじょうでは『日本書紀にほんしょき』のたれじん天皇てんのう32ねんじょうに、野見のみ宿禰すくねにちひめいのち陵墓りょうぼ殉死じゅんしものめるわりにつくった人馬じんばてることを提案ていあんしたところ、天皇てんのうよろこびそのとおりにしたとする記述きじゅつがあり、これが埴輪はにわはじまりとされる。「埴輪はにわ」という名称めいしょうもこの記事きじ登場とうじょうする[7]。しかし、『日本書紀にほんしょき』にあるこの記述きじゅつ考古学こうこがく研究けんきゅうあきらかにされた埴輪はにわ変遷へんせんとは一致いっちせず[7][8]人身御供ひとみごくう代替だいたいとして埴輪はにわ誕生たんじょうしたとするせつは、野見のみ宿禰すくね後裔こうえいしょうし、古墳こふん造営ぞうえい葬儀そうぎ職掌しょくしょうとしていた土師はじ後世こうせい創作そうさくした伝承でんしょうかんがえられる[9][10][ちゅう 3]もちすべ5ねん(691)ねん日本書紀にほんしょき編纂へんさんようの18はか提出ていしゅつれいさいに、記載きさいはないが同時どうじころ下級かきゅう土師はじらもいえ提出ていしゅつし、編纂へんさん資料しりょうとして参照さんしょうされたと推定すいていされている[12]

変遷へんせん

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馬形まがた埴輪はにわ東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん

古墳こふん時代じだい前期ぜんき初頭しょとう(3世紀せいき中葉ちゅうよう後葉こうよう)には、吉備きび地方ちほうにおいて円筒えんとうがたつぼがたすこおくれてうつわだいうつわだいせたつぼ一体化いったいかしたかたち朝顔あさがおがた埴輪はにわなどの円筒えんとう埴輪はにわられた。これらとうがた埴輪はにわは、地面じめんくだけではなく、あしったあなめるものへと変化へんかした。前方後円墳ぜんぽうこうえんふんひろがりとともに全国ぜんこくひろがった。

前期ぜんきぜん4世紀せいきぜん)には、これらの埴輪はにわとはべつ系統けいとうたるいえがた埴輪はにわのほか、ぶた(きぬがさ)かたち埴輪はにわたてがた埴輪はにわをはじめとする器財きざい埴輪はにわにわとりがた埴輪はにわなどの形象けいしょう埴輪はにわあらわれた。はつげん形象けいしょう埴輪はにわについては、どのような構成こうせいでどの場所ばしょてられたかいま不明ふめいてんおおい。そのふんいただき中央ちゅうおういえがた埴輪はにわまわりにたてがたぶたがたなどの器財きざい埴輪はにわき、さらに円筒えんとう埴輪はにわくという豪華ごうか配置はいち定式ていしきが4世紀せいき後半こうはんはや段階だんかい成立せいりつする。そこにもちいられた円筒えんとう埴輪はにわどう左右さゆうひれけたひれ円筒えんとう埴輪はにわである。

さらに、古墳こふん時代じだい中期ちゅうき中葉ちゅうよう5世紀せいきなかごろ)からは、巫女ふじょなどの人物じんぶつ埴輪はにわ家畜かちくであるうまいぬなどの動物どうぶつ埴輪はにわ登場とうじょうした。埴輪はにわ裸馬はだかうまのものと装飾そうしょくがあり、装飾そうしょく馬具ばぐ装着そうちゃくした姿すがた表現ひょうげんされる。群馬ぐんまけん高崎たかさき保渡田ほどた八幡やはたづか古墳こふん保渡田ほどた古墳こふんぐんふくまれ、5世紀せいき後半こうはんだい前方後円墳ぜんぽうこうえんふんで、うまにわとりいのししなどおおくの動物どうぶつ埴輪はにわ出土しゅつどしている[13]保渡田ほどた八幡やはたづか古墳こふんから出土しゅつどしたがた埴輪はにわくびたかこうさかなくわえた姿すがた形象けいしょうしており、くびにはすずのついたくびひもけられ、背中せなかむすばれる表現ひょうげんのこ[13]がた埴輪はにわ存在そんざいから、古墳こふん時代じだいには祭礼さいれい行事ぎょうじとしての鵜飼うかいおこなわれていた可能かのうせいかんがえられている[13]

またこのころから、埴輪はにわ配列はいれつ仕方しかた変化へんかあらわれた。それは、器財きざい埴輪はにわいえがた埴輪はにわ外側そとがわ方形ほうけい形作かたちづくるように配列はいれつされるようになった。あるいは、方形ほうけいれつ省略しょうりゃくすることもおこなわれている。さらに、うつぼがた埴輪はにわひれ過度かどかざてるようになったり、いえがた埴輪はにわ屋根やね部分ぶぶんいに大型おおがたしたりするようになる。

畿内きないでは古墳こふん時代じだい後期こうき(6世紀せいきなかごろ)、次第しだい埴輪はにわ生産せいさんされなくなっていく。しかし、関東かんとう地方ちほうにおいては、なおも埴輪はにわ生産せいさんつづけられた。なかでも、埼玉さいたまけん鴻巣こうのす生出塚おいねづか埴輪はにわかまあと当該とうがい東日本ひがしにっぽん最大さいだいきゅう埴輪はにわ生産せいさん遺跡いせきとしてられる。

研究けんきゅう

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近代きんだいてき考古学こうこがく研究けんきゅうはじまるまえ江戸えど時代じだいにも、日本にっぽん各地かくち埴輪はにわ出土しゅつどすることがあり、なかには写実しゃじつせいけるものもあるが絵図えず記録きろく作成さくせいされた。現在げんざい、こうした江戸えど時代じだい古記こきろく埴輪はにわ研究けんきゅううえ重要じゅうよう資料しりょうであり、文書ぶんしょ記録きろくだけがのこ現物げんぶつつたわっていない埴輪はにわもあることから、各地かくち郷土きょうど資料しりょうとしても貴重きちょうである。当時とうじ埴輪はにわ呼称こしょうせず、かわら偶人ぐうじんがぐうじんしるした(当然とうぜん人物じんぶつ埴輪はにわたいしてのみの呼称こしょうである)。なお、1870ねん明治めいじ3ねんいたこくの『上代じょうだい衣服いふくこう』には「たけしゅう児玉こだまぐん若泉わかいずみさんしょ掘出ほりだしぶつ」のがみられる[14]。これは上代じょうだい衣服いふく考察こうさつしたものである。

明治めいじはいり、近代きんだいてき考古学こうこがく研究けんきゅう開始かいしされると、円筒えんとう埴輪はにわ機能きのうてき意義いぎについての研究けんきゅうはじまった。なおこのころには埴輪はにわ土偶どぐうという呼称こしょう使つかわれている[15]。1888ねん明治めいじ21ねん)から1901ねん明治めいじ34ねん)にかけて坪井つぼいただし五郎ごろう埴輪はにわ円筒えんとう円筒えんとう埴輪はにわ)について、表面ひょうめんたてきにはいった無数むすう筋目すじめ模様もよう刷毛はけ(ハケメ)」[ちゅう 4]注目ちゅうもくし、土留どどめからしょうじた柴垣しばがき模倣もほうせつ提唱ていしょう[15][17]異論いろんとなえる和田わだせんきち[18]光井みつい清三郎せいさぶろう[19]らと論争ろんそうした。おなじころ、かわらへんせいは、坪井つぼい柴垣しばがき模倣もほうせつみとめつつハケメやがりの差異さいなどから、埴輪はにわおおまかな新旧しんきゅう関係かんけい=へんねん把握はあくするこころみをしており[20]、この時期じきがくにおいて特筆とくひつすべき成果せいかとされる[21]

円筒えんとう埴輪はにわ柴垣しばがきせつ論争ろんそう明確めいかく決着けっちゃくずに停止ていししたのち大正たいしょうから昭和しょうわ初期しょきにかけては形象けいしょう埴輪はにわについての研究けんきゅうさかんになった。高橋たかはしけん研究けんきゅういだ後藤ごとう守一しゅいちは、1931ねん昭和しょうわ6ねん発表はっぴょう論文ろんぶん埴輪はにわ意義いぎ」にて、埴輪はにわ表現ひょうげんされる服飾ふくしょく装備そうびひん所作しょさから分類ぶんるいおこない、個々ここ埴輪はにわあらわ職掌しょくしょうてき性格せいかくについて分析ぶんせきした。人物じんぶつ埴輪はにわではよくられた埼玉さいたまけん野原のはら古墳こふんぐん出土しゅつどの2たい埴輪はにわを『おど男女だんじょ』と命名めいめいしたのもこのころである。また古墳こふん樹立じゅりつされる形象けいしょう埴輪はにわぐん埴輪はにわぐんぞう)にたいし、古墳こふんほうむられる首長しゅちょう豪族ごうぞく)をおく葬儀そうぎ葬列そうれつあらわすものではないかとして、形象けいしょう埴輪はにわのもつ具体ぐたいてき意義いぎ解釈かいしゃくにもはじめて言及げんきゅうした[22]。その1958ねん昭和しょうわ33ねん)に小林こばやし行雄ゆきおは、それまで美術びじゅつ芸術げいじゅつがくてき視点してん気味ぎみだった形象けいしょう埴輪はにわ研究けんきゅう考古学こうこがくてき分析ぶんせき進展しんてんさせ、形象けいしょう埴輪はにわには種類しゅるいによって出現しゅつげん時期じき差異さいがあることを指摘してきし、へんねんてき視点してんあたえた[23]

1967ねん昭和しょうわ42ねん)には近藤こんどう義郎よしおはるなり秀爾ひでじにより円筒えんとう埴輪はにわ研究けんきゅうあらたな知見ちけん提示ていじされ、円筒えんとう埴輪はにわ弥生やよい時代じだい後期こうき後葉こうよう2世紀せいき後半こうはん)の吉備きび岡山おかやまけん地方ちほう弥生やよい墳丘ふんきゅうだてちく墳丘ふんきゅうなど)で出土しゅつどする特殊とくしゅだい特殊とくしゅつぼ特殊とくしゅだいがた土器どき特殊とくしゅつぼがた土器どきともばれる)をげんとし、3世紀せいき後半こうはんまでに成立せいりつしてきた変遷へんせん過程かていしめされた[5]

1971ねん昭和しょうわ46ねん)には形象けいしょう埴輪はにわ研究けんきゅうとして、水野みずのただしこのみ群馬ぐんまけん保渡田ほどた八幡やはたづか古墳こふん形象けいしょう埴輪はにわ配列はいれつ構造こうぞう検討けんとうした「埴輪はにわ芸能げいのうろん」を発表はっぴょうし、埴輪はにわぐんぞうを「王権おうけん継承けいしょう儀礼ぎれい」をあらわしたものとするせつとなえた[24]

1978ねん昭和しょうわ53ねん)、円筒えんとう埴輪はにわへんねん研究けんきゅう不足ふそく指摘してきした川西かわにし宏幸ひろゆきが「円筒えんとう埴輪はにわ総論そうろん」を発表はっぴょうした。川西かわにしは、円筒えんとう埴輪はにわつ突帯(タガ)の形状けいじょう調整ちょうせい(ハケメ)のきなどのしょ属性ぞくせい分類ぶんるい検討けんとうし、ハケメ調整ちょうせいとして断続だんぞくてきな「Aたねヨコハケ(工具こうぐ表面ひょうめんからふくすうかいはなれる)」、継続けいぞくてきな「Bたねヨコハケ(工具こうぐはなさないが静止せいしこんのこる)」、連続れんぞくてきな「Cたねヨコハケ(工具こうぐはなさず一周いっしゅうさせる)」、「タテハケ」を見出みだしだし、へんねん基準きじゅんとした。また表面ひょうめんの「くろまだら」の有無うむにより、須恵すえ生産せいさん技術ぎじゅつとして伝来でんらいしたかま導入どうにゅう時期じきとするなどして、I〜V年代ねんだい区分くぶんあたえ、全国ぜんこくてき埴輪はにわへんねん構築こうちくした[25][26]。この円筒えんとう埴輪はにわへんねん天皇陵てんのうりょう古墳こふんなどをふく全国ぜんこく古墳こふん年代ねんだい決定けってい基準きじゅんともなり、古墳こふん研究けんきゅう活性かっせいさせ現代げんだい学界がっかいでも支持しじされる成果せいかとなっている[27]

これ以降いこうも、1988ねん昭和しょうわ63ねん)に器財きざい埴輪はにわについてのへんねん提示ていじした高橋たかはしかつことぶき研究けんきゅう[28]人物じんぶつ埴輪はにわ型式けいしきがくてき分析ぶんせきから既存きそん分類ぶんるい名称めいしょう理解りかいさい検討けんとうした塚田つかだりょうどう研究けんきゅうおど埴輪はにわ馬飼まかい分類ぶんるいされること指摘してきした)などがある[29][30]

埴輪はにわ芸能げいのうろん」でられる保渡田ほどた八幡やはたづか古墳こふん整理せいり報告ほうこくしょをまとめた若狭わかさとおるは、八幡やはたづか古墳こふん埴輪はにわ配列はいれつには首長しゅちょうけん継承けいしょう儀礼ぎれい意味いみだけでなく、複数ふくすう場面ばめん存在そんざいするというあらたな解釈かいしゃくくわえた[31]

このほかいぬつとむらにより、関東かんとう地方ちほう出土しゅつど円筒えんとう形象けいしょう埴輪はにわのハケメ調整ちょうせいこん分析ぶんせきし、同一どういつこうじん(あるいはどういち工具こうぐ)のによる埴輪はにわ作品さくひん特定とくていし、埴輪はにわ製作せいさく実態じったいあきらかにする研究けんきゅうなどがおこなわれている[32]

意義いぎ

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元々もともと吉備きび地方ちほう発生はっせいした特殊とくしゅ台形だいけい土器どき特殊とくしゅつぼがた土器どきは、墳墓ふんぼじょうおこなわれた葬送そうそう儀礼ぎれいもちいられたものであるが、古墳こふん継承けいしょうされた円筒えんとう埴輪はにわは、墳丘ふんきゅう重要じゅうよう区画くかくかこむというその樹立じゅりつ方法ほうほうからして、聖域せいいき区画くかくするという役割やくわりゆうしていたとかんがえられる。

いえがた埴輪はにわについては、死者ししゃれい生活せいかつするためのがわ(よりしろ)というせつ死者ししゃ生前せいぜん居住きょじゅうしていた居館きょかんあらわしたものというせつがある。古墳こふん埋葬まいそう施設しせつ真上まうえやその周辺しゅうへん墳丘ふんきゅうじょうかれるれいおおい。

器財きざい埴輪はにわでは、ぶた高貴こうき身分みぶん表象ひょうしょうするものであることから、ぶたがた埴輪はにわ同様どうよう役割やくわりかんがえられているほか、たて甲冑かっちゅうなどの武具ぶぐ武器ぶきがたのものは、その防御ぼうぎょ攻撃こうげきといった役割やくわりから、悪霊あくりょうわざわ侵入しんにゅうふせ役割やくわりっているとかんがえられている。

人物じんぶつ埴輪はにわ動物どうぶつ埴輪はにわなどは、行列ぎょうれつ群像ぐんぞうならべられており、葬送そうそう儀礼ぎれい表現ひょうげんしたとするせつ[22]生前せいぜん祭政さいせい首長しゅちょうけん継承けいしょう儀礼ぎれい)の様子ようす再現さいげんしたとするせつなどがとなえられている[24]。このような埴輪はにわ変遷へんせんは、古墳こふん時代じだい祭祀さいしかん死生しせいかん反映はんえいしているとする見方みかたもある。

埴輪はにわれい

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国宝こくほう

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重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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その著名ちょめい埴輪はにわ

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切手きって

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普通ふつう切手きって意匠いしょう

  • うま
    • 1966ねん昭和しょうわ41ねん)7がつ1にち発売はつばい 65えん
    • 1968ねん昭和しょうわ43ねん)7がつ20日はつか発売はつばい すりしょく変更へんこう
  • 兵士へいし埴輪はにわ 挂甲武人ぶじん
    • 1974ねん昭和しょうわ49ねん)11月11にち発売はつばい 200えん
    • 1976ねん昭和しょうわ51ねん)1がつ25にち発売はつばい[42] すりしょく変更へんこう
    • 1989ねん平成へいせい元年がんねん)6がつ1にち発売はつばい 210えん 200えんどう図案ずあんすりしょくちが
    • 2010ねん平成へいせい22ねん)11月29にち書体しょたい変更へんこう発表はっぴょう[43](2014ねん平成へいせい26ねん)3がつ31にち販売はんばい終了しゅうりょう[44][42]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、木製もくせい埴輪はにわ多数たすう発掘はっくつされている。
  2. ^ 月坂つきさか1ごうふんは、墳丘ふんきゅうちょうやく33メートル
  3. ^ この伝承でんしょうは、仏教ぶっきょう伝来でんらいすすきそう進行しんこうし、また埴輪はにわ性格せいかく製作せいさく目的もくてき忘却ぼうきゃくされた古墳こふん時代じだい終末しゅうまつにおいて、みずからのアイデンティティに危機ききかんいた土師はじが、先祖せんぞ業績ぎょうせき顕彰けんしょうするべく儒教じゅきょう思想しそう利用りようしてしたものであり、同時どうじに「じんたれ(あら)わす」大王だいおうたるたれじん天皇てんのうじん強調きょうちょうするてんでもかなった内容ないようであることから『日本書紀にほんしょき』に採用さいようされたとする指摘してきがある[9][11]
  4. ^ 現在げんざいでは、表面ひょうめんととのえるさい木製もくせいいたじょう工具こうぐでたことによる木目もくめ痕跡こんせきかんがえられている[16]
  5. ^ 綿貫わたぬき観音山かんのんやま古墳こふん出土しゅつどひんは、2020ねんれい2ねん)9がつ30にち国宝こくほう指定していされた(れい2ねん9がつ30にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい116ごう)。

出典しゅってん

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  44. ^ しんりょうがく普通ふつう切手きっておよ郵便ゆうびん葉書はがきとう発行はっこうとう(2 販売はんばい終了しゅうりょうする普通ふつう切手きって郵便ゆうびん葉書はがきとう内容ないよう”. 日本にっぽん郵便ゆうびん株式会社かぶしきがいしゃ (2013ねん12月6にち). 2022ねん6がつ9にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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