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形象けいしょう埴輪はにわ

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柳井やない茶臼山ちゃうすやま古墳こふんいえがた埴輪はにわ手前てまえ)とぶたがた埴輪はにわひだりおく)。
づかまわ古墳こふんぐんだい4ごうふん前方ぜんぽうじょう復元ふくげん配置はいちされた形象けいしょう埴輪はにわぐん群馬ぐんまけん太田おおた出土しゅつどした原品げんぴん重要じゅうよう文化財ぶんかざい[1]

形象けいしょう埴輪はにわ(けいしょうはにわ)は、古墳こふん時代じだい古墳こふん墳丘ふんきゅうじょう周囲しゅういならべられたものである埴輪はにわのうち、いえ器物きぶつ人物じんぶつ動物どうぶつなどをかたどった具象ぐしょうてきなものをいう。これとは別種べっしゅ埴輪はにわとして円筒えんとう埴輪はにわ朝顔あさがおがた埴輪はにわふくむ)がある。

概要がいよう

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形象けいしょう埴輪はにわは、大別たいべつしていえがた埴輪はにわ器財きざい埴輪はにわ人物じんぶつ埴輪はにわ動物どうぶつ埴輪はにわの4しゅけられ、配置はいち位置いち規定きていされている[2]

いえがた埴輪はにわ

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ふんいただき中央ちゅうおう配置はいちされるもので、もっと中心ちゅうしんてき埴輪はにわである。単独たんどくかれることはすくなく、複数ふくすうかれ、そのまわりを円筒えんとう埴輪はにわ器財きざい埴輪はにわかこんでいる。このようなことから首長しゅちょう居館きょかん神殿しんでん祭殿さいでんなどの建築けんちくぶつ復元ふくげん役立やくだっている。

器財きざい埴輪はにわ

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いえがた埴輪はにわ守護しゅごし、そのまわりに配置はいちされている。種類しゅるいとしては、貴人きじんしかけたぶた(きぬがさ)やかげ(さしば)[ちゅう 1][3]かんむり椅子いすなどの威儀いぎ高坏たかつきつぼなどの容器ようき大刀たちゆみ甲冑かっちゅうたてうつぼ(ゆぎ)[ちゅう 2][3](とも)などの武器ぶき武具ぶぐといった器財きざいがある。これらは葬送そうそう儀礼ぎれい復元ふくげんかせない。

なお、「つぼがた埴輪はにわ」とばれるものについては、つぼという器物きぶつあらわしているため形象けいしょう埴輪はにわともいえるが、埴輪はにわ起源きげんてき土器どきである弥生やよい時代じだい特殊とくしゅだい特殊とくしゅつぼなかの「特殊とくしゅつぼ」が埴輪はにわしていったものであるため(円筒えんとう埴輪はにわ一体化いったいかして朝顔あさがおがた埴輪はにわにもなった)、形象けいしょう埴輪はにわぐんとは起源きげん系統けいとうおおきくことなり、円筒えんとう埴輪はにわるいするとされている[4]

人物じんぶつ埴輪はにわ

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みやつこ外堤そとつつみかれている。くび巫女ふじょ楽器がっきひと武人ぶじんたてじんたかい・鵜飼うかい・うまい・力士りきしなどで、とくに、なにかをささ女子じょし圧倒的あっとうてきおおく、巫女ふじょかんがえられる。男子だんしは、いでちや姿勢しせいしょ職能しょくのう表現ひょうげんされている。それらの場面ばめんは、首長しゅちょうさいして、首長しゅちょうけん継承けいしょうする儀礼ぎれいあらわしているというせつ生前せいぜんれの場面ばめんあらわしているというせつなどがされている。儀式ぎしきいろどった人物じんぶつ埴輪はにわとおして、衣装いしょう風俗ふうぞく身分みぶん職掌しょくしょうなどが復元ふくげんできる。

動物どうぶつ埴輪はにわ

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かざもっとおお[ちゅう 3][8]被葬ひそうしゃ権威けんいをよくあらわし、人物じんぶつ埴輪はにわとともにかれている。ウマイヌたかイノシシシカ[ちゅう 4][8]水鳥みずとりにわとり[ちゅう 5][9]うし[ちゅう 6][8]などが確認かくにんされており、人間にんげん動物どうぶつとのふかかかわりをつたえている。これらの埴輪はにわ古墳こふん祭祀さいし復元ふくげんにとって重要じゅうようなデータである。

研究けんきゅうりゃく

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形象けいしょう埴輪はにわがくふるく、初期しょきには後藤ごとう守一しゅいちが1931ねん昭和しょうわ6ねん)に発表はっぴょうした論文ろんぶん埴輪はにわ意義いぎ」などがある。後藤ごとうどう論文ろんぶんで、人物じんぶつ埴輪はにわ表現ひょうげんされる服飾ふくしょく装備そうびひん所作しょさなどから個々ここ埴輪はにわあらわ職掌しょくしょうてき性格せいかくなどを分析ぶんせきし、古墳こふん樹立じゅりつされる形象けいしょう埴輪はにわぐん埴輪はにわぐんぞう)にたいして、古墳こふんほうむられる首長しゅちょう豪族ごうぞく)をおく葬儀そうぎ葬列そうれつあらわすものではないかとする具体ぐたいてき意義いぎ解釈かいしゃくはじめて言及げんきゅうした[10]

1956ねん昭和しょうわ31ねん)に早稲田大学わせだだいがく滝口たきぐちひろしらによっておこなわれた千葉ちばけん横芝よこしばひかりまち芝山しばやま古墳こふんぐん発掘はっくつ調査ちょうさでは、どう古墳こふんぐんひめづか墳丘ふんきゅう北側きたがわ前方ぜんぽうすみかくからのちえん背後はいごまで50メートルにわたって形象けいしょう埴輪はにわ行列ぎょうれつのままたおれているのが発見はっけんされた。だい1ぐんかさをかぶった馬子まごくらけたうま4とう武人ぶじん5たいだい2ぐん男子だんしぞう16たい器財きざい埴輪はにわ1個いっこだい3ぐん女子じょしぞう7たいだい4ぐん男子だんしぞう10たいとなっていた。このなかにはあごひげをばした武人ぶじん、くわをった農夫のうふ、ややはなれてひざまずく男子だんしきんひざ人物じんぶつなどもあった。埴輪はにわれつげん位置いちたもったままかんそんしていた稀有けうれいであり、それまで不明ふめいであった形象けいしょう埴輪はにわ配列はいれつ意味いみることのできる最初さいしょ発見はっけんであった[11]滝口たきぐちは、この調査ちょうさ結果けっかから、後藤ごとうおなじく葬列そうれつせつ提示ていじしたが、人物じんぶつ埴輪はにわぐんぞうきがすべ墳丘ふんきゅうたいして外側そとがわいていたことなどから異論いろん[12]

小林こばやし行雄ゆきおは、1958ねん昭和しょうわ33ねん)に形象けいしょう埴輪はにわへんねんてき研究けんきゅうおこない、形象けいしょう埴輪はにわには種類しゅるいによって出現しゅつげん時期じき差異さいがあることを指摘してきした[13]

1971ねん昭和しょうわ46ねん)に水野みずのただしこのみは、1929ねん昭和しょうわ4ねん)に発掘はっくつ調査ちょうさされていた群馬ぐんまけん保渡田ほどた八幡やはたづか古墳こふん形象けいしょう埴輪はにわ配列はいれつ構造こうぞう検討けんとうして「埴輪はにわ芸能げいのうろん」を発表はっぴょうし、埴輪はにわぐんぞうを「王権おうけん継承けいしょう儀礼ぎれい」をあらわしたものとするせつとな[14]埴輪はにわ祭祀さいしたいする解釈かいしゃくをより深化しんかさせ、学界がっかいおおきな影響えいきょうあたえた[15]

円筒えんとう埴輪はにわたいして形象けいしょう埴輪はにわへんねんてき研究けんきゅう困難こんなんとされていたが、1988ねん昭和しょうわ63ねん)に高橋たかはしかつことぶき器財きざい埴輪はにわについてのへんねん提示ていじ[16]以後いご形象けいしょう埴輪はにわ研究けんきゅう活性かっせいした[17]

1996ねん平成へいせい8ねん)には、後藤ごとう守一しゅいち以来いらい既存きそん人物じんぶつ埴輪はにわ分類ぶんるい名称めいしょう設定せってい疑問ぎもんけた塚田つかだりょうどうが、型式けいしきがくてき分析ぶんせきからさい検討けんとう[5]たとえば「おど埴輪はにわ」とばれていた埴輪はにわが「馬飼まかい」に分類ぶんるいされるべきものであることなどを指摘してきした[18]

1998-2000年度ねんど平成へいせい10-12年度ねんど)に、伊勢いせこく最大さいだい前方後円墳ぜんぽうこうえんふんである宝塚たからづか1ごうふん三重みえけん松阪まつさか)のみやつこ付近ふきんおこなわれた発掘はっくつ調査ちょうさでは、埴輪はにわ配置はいちあきらかにされている。どう古墳こふんみやつこ前方ぜんぽうとのあいだには、船形ふながた埴輪はにわいえがた埴輪はにわかれていた。そこから墳丘ふんきゅうがいかったところに井戸いどとそのくつがえ表現ひょうげんしたかこえがた埴輪はにわしがらみがた埴輪はにわ円筒えんとう埴輪はにわつぼかこまれるようにかれていた。また、くびれ反対はんたいがわすそに、導水どうすい施設しせつとそのくつがえあらわしたかこえがた埴輪はにわしがらみがた埴輪はにわいえがた埴輪はにわ一緒いっしょかれていた。これらのれいは、みず葬送そうそう儀礼ぎれいおおいに関係かんけいあることをしめすとかんがえられている[19]

2000ねん平成へいせい12ねん)には「埴輪はにわ芸能げいのうろん」の基礎きそ資料しりょうとしてられる保渡田ほどた八幡やはたづか古墳こふんについて、史跡しせき整備せいびともなさい発掘はっくつ調査ちょうさ発掘はっくつ調査ちょうさ報告ほうこくしょをまとめた若狭わかさとおるにより、八幡やはたづか古墳こふん埴輪はにわ配列はいれつには首長しゅちょうけん継承けいしょう儀礼ぎれい意味いみだけではなく、首長しゅちょう生前せいぜんおこなった複数ふくすう儀礼ぎれい行為こうい場面ばめんあらわされており、埴輪はにわぐんぞうとは、古墳こふんほうむられた首長しゅちょう権力けんりょく表象ひょうしょう装置そうちである、とするあらたな解釈かいしゃくくわえられた[20][21]

変遷へんせん

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形象けいしょう埴輪はにわ変遷へんせん簡単かんたんへんねんすると以下いかのようになる。

だい1段階だんかい

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4世紀せいき前半ぜんはんごろからはじまる。いえぶたたてうつぼ(ゆぎ)・にわとりなどを造形ぞうけいした埴輪はにわこうえんいただき中央ちゅうおう配置はいちされ、その周辺しゅうへん円筒えんとう埴輪はにわ配列はいれつされる。

だい2段階だんかい

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4世紀せいき後半こうはんごろからはじまる。みやつこ前方後円墳ぜんぽうこうえんふん大型おおがたえんかたふん敷設ふせつされ、そこに形象けいしょう埴輪はにわ配列はいれつされる。

だい3段階だんかい

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5世紀せいき後半こうはんごろから6世紀せいき中頃なかごろにかけての時期じき。5世紀せいきはいるとふんいただき形象けいしょう埴輪はにわ配置はいちひとつの変化へんかあらわれる。じゅうしゅうほり中堤なかつつみ多様たよう造形ぞうけい形象けいしょう埴輪はにわぐん埴輪はにわぐんぞう)が配置はいちされ、あらたに人物じんぶつ埴輪はにわ馬形まがた埴輪はにわ登場とうじょうする。

だい4段階だんかい

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6世紀せいき後半こうはんから6世紀せいきまつごろには、墳丘ふんきゅうテラスに形象けいしょう埴輪はにわならべられた。このころになると動物どうぶつ埴輪はにわでも馬形まがた埴輪はにわ以外いがい前代ぜんだい段階だんかいでよくかけたかこえがた埴輪はにわ舟形ふながた埴輪はにわなどの埴輪はにわ方形ほうけい区画くかくがほとんど姿すがたしている[22]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ぶたおなじようにもちいられたとおもわれるもので、なが先端せんたん円盤えんばんじょうかおかく部分ぶぶんけたもの。
  2. ^ れて背中せなか武具ぶぐで、5世紀せいき中頃なかごろから実物じつぶつ発見はっけんされている新来しんらいえびす籙(ころく)とともに古墳こふん時代じだいつうじて使用しようされた。うつぼの鏃をうえけてれるが、えびす籙は鏃をなかれるというちがいがある。
  3. ^ 乗馬じょうば風習ふうしゅうは4世紀せいきまつごろ朝鮮半島ちょうせんはんとうからつたわった。これをかたどった馬形まがた埴輪はにわは5世紀せいき前半ぜんはんから登場とうじょうする。うま豪華ごうか馬具ばぐよそおった「かざ」で、被葬ひそうしゃ身分みぶんたかさを誇示こじするものであるが、乗馬じょうば最低限さいていげん必要ひつようくつわ手綱たづなけた程度ていどのものもあり、さらに、手綱たづな馬子まごともな姿すがたかたどった馬形まがた埴輪はにわもある。
  4. ^ 山陰さんいん地方ちほう三重みえけんなど地域ちいきかたよっている傾向けいこうがある。
  5. ^ とりにはにわとり水鳥みずとり確認かくにんできるが、両者りょうしゃ弁別べんべつ水鳥みずとり種類しゅるい区別くべつむずかしい。
  6. ^ 少数しょうすうであるが西日本にしにほん中心ちゅうしん出土しゅつどしている。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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