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仁和寺にんなじ

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仁和寺にんなじ
金堂こんどう国宝こくほう
所在地しょざいち 京都きょうと京都きょうと右京うきょう御室おむろ大内おおうち33
位置いち 北緯ほくい351ふん51.8びょう 東経とうけい13542ふん49.7びょう / 北緯ほくい35.031056 東経とうけい135.713806 / 35.031056; 135.713806座標ざひょう: 北緯ほくい351ふん51.8びょう 東経とうけい13542ふん49.7びょう / 北緯ほくい35.031056 東経とうけい135.713806 / 35.031056; 135.713806
山号さんごう 大内山おおうちやま
宗派しゅうは 真言宗しんごんしゅう御室おむろ
寺格じかく 総本山そうほんざん
本尊ほんぞん 阿弥陀如来あみだにょらい
創建そうけんねん 仁和にわ4ねん888ねん
開基かいき 宇多天皇うだてんのう
別称べっしょう きゅう御室おむろ御所ごしょ
札所ふだしょとう 真言宗しんごんしゅうじゅうはち本山ほんざんだい6ばん
京都きょうとじゅうさんふつ霊場れいじょうだい9ばん
近畿きんきさんじゅうろく不動尊ふどうそん霊場れいじょうだい14ばん
しつはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょう
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみちだい92ばん京都きょうとだい12ばん
文化財ぶんかざい 金堂こんどう木造もくぞう阿弥陀如来あみだにょらい及両わきさむらいぞう木造もくぞう薬師やくし如来にょらい坐像ざぞうほか(国宝こくほう
五重塔ごじゅうのとう観音堂かんのんどう二王門におうもんほか(重要じゅうよう文化財ぶんかざい
世界せかい遺産いさん
公式こうしきサイト 世界せかい遺産いさん 真言宗しんごんしゅう御室おむろ総本山そうほんざん 仁和寺にわじ
法人ほうじん番号ばんごう 3130005002199 ウィキデータを編集
仁和寺の位置(京都市内)
仁和寺
仁和寺にんなじ
仁和寺にわじ (京都きょうと)
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そうおかより仁和寺にんなじのぞ

仁和寺にんなじ(にんなじ)は、京都きょうと右京うきょう御室おむろ大内おおうちにある真言宗しんごんしゅう御室おむろ総本山そうほんざん寺院じいん山号さんごう大内山おおうちやま本尊ほんぞん阿弥陀如来あみだにょらい開基かいき創立そうりつしゃ)は宇多天皇うだてんのう。「古都こと京都きょうと文化財ぶんかざい」の構成こうせい資産しさんとして、世界せかい遺産いさん登録とうろくされている。

概要がいよう

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皇室こうしつとゆかりのふかてら門跡もんぜき寺院じいん)で、出家しゅっけ宇多うた法皇ほうおうんでいたことから、「御室おむろ御所ごしょ」(おむろごしょ)としょうされた。明治維新めいじいしん以降いこうは、仁和寺にわじ門跡もんぜき皇族こうぞくかなくなったこともあり、「きゅう御室おむろ御所ごしょ」としょうするようになった。

御室おむろさくら名所めいしょとしてもられ、はるさくらあき紅葉こうよう時期じきおおくの参拝さんぱいしゃでにぎわう。『徒然草つれづれぐさ』に登場とうじょうする「仁和寺にんなじにある法師ほうし」のはなし著名ちょめいである。とうてらはまた、宇多天皇うだてんのうながれとする華道かどう御室おむろりゅう」の家元いえもとでもある。

普段ふだん境内けいだいへの入場にゅうじょう無料むりょうであり、ほんぼう御殿ごてん霊宝れいほうかん拝観はいかんのみ有料ゆうりょうとなる。ただし、御室おむろさくら開花かいか(4がつ)に「さくらまつり」がおこなわれ、その期間きかんは、境内けいだいへの入場にゅうじょうにも拝観はいかんりょう必要ひつようとなる。

宿坊しゅくぼう宿泊しゅくはくきゃくれている。御室おむろ会館かいかん[1]のほか、「松林まつばやしあん」(しょうりんあん)を改修かいしゅうして[2]高級こうきゅう宿坊しゅくぼうとしている[3]

歴史れきし

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仁和寺にんなじ平安へいあん時代じだい前期ぜんき光孝みつたか天皇てんのう勅願ちょくがん仁和にわ2ねん886ねん)にてられはじめた。しかし、光孝みつたか天皇てんのうてら完成かんせいずに翌年よくねん崩御ほうぎょし、その遺志いしいだ宇多天皇うだてんのうによって仁和にわ4ねん888ねん)に落成らくせいした。当初とうしょ西山にしやま御願ごがんてら」としょうされ、やがて元号げんごうをとって仁和寺にんなじごうした。

仁和寺にわじ初代しょだい別当べっとう天台宗てんだいしゅうかそけせんであったが、宇多天皇うだてんのう真言宗しんごんしゅうえきしんを戒師として出家しゅっけしたのをに、別当べっとうおな真言宗しんごんしゅうかんけん交替こうたいさせた。これによってとうてら真言宗しんごんしゅう寺院じいんとして定着ていちゃくした。

出家しゅっけした宇多天皇うだてんのう宇多うた法皇ほうおうとして仁和寺にわじ伽藍がらん南西なんせいに「御室おむろ」(おむろ)とばれる僧坊そうぼうててじゅうした。そのため、仁和寺にんなじは「御室おむろ御所ごしょ」ともしょうされた。

その代々だいだい別当べっとう宇多天皇うだてんのう子孫しそんつとめていた。そこに、三条さんじょう天皇てんのう皇子おうじであるせいしん入道にゅうどう親王しんのう別当べっとううえ新設しんせつされた検校けんぎょうにんじられた。これ以降いこうとうてら皇族こうぞく子弟していはい寺院じいんとみなされるようになった[4]仁和寺にんなじはその皇族こうぞく貴族きぞく保護ほごけ、明治めいじ時代じだいいたるまで、さとしほう法親王ほうしんのうなど皇子おうじ皇族こうぞく歴代れきだい門跡もんぜき住職じゅうしょく)をつとめ、門跡もんぜき寺院じいん筆頭ひっとうとして仏教ぶっきょうかくむね統括とうかつした。皇族こうぞく仁和寺にわじ門跡もんぜきになった人物じんぶつ九条くじょう道家どうかほうすけ足利あしかが義満よしみつほうみことの2めいがいるが、ともに当時とうじ朝廷ちょうていにおける絶対ぜったいてき権力けんりょくしゃ息子むすこでかつのちじゅんきさきじょせられるなど皇族こうぞく門跡もんぜき匹敵ひってきする社会しゃかいてき地位ちいゆうしていた。

室町むろまち時代ときよにはやや衰退すいたいしていたが、応仁おうにんらん1467ねん - 1477ねん)が勃発ぼっぱつすると、ひがしぐんへいによってかれ、伽藍がらん全焼ぜんしょうした。ただ、被害ひがいこうむまえ本尊ほんぞん阿弥陀あみださんみことぞうはこされており、焼失しょうしつまぬかれている。

こののち仁和寺にんなじ本尊ほんぞんともに、そうおか西麓にしふもとにある西方寺せいほうじてらもとうつしている。

天正てんしょう19ねん1591ねん)、仁和寺にんなじ関白かんぱく豊臣とよとみ秀吉ひでよしによって860せき朱印しゅいんいで元和がんわ3ねん1617ねん)に江戸えど幕府ばくふ将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただによって1,500せき朱印しゅいんている。

仁和寺にわじつて』によると、寛永かんえい11ねん1634ねん)7がつ24にち仁和寺にんなじだい21せいさとふか法親王ほうしんのう上洛じょうらくしていた将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ仁和寺にわじ再興さいこうもうれ、承諾しょうだくされている。これにより、仁和寺にんなじ幕府ばくふ支援しえん伽藍がらん整備せいびされることとなった。また、寛永かんえい年間ねんかん1624ねん - 1645ねん)の御所ごしょげん京都きょうと御所ごしょえにともない、御所ごしょ紫宸殿ししんでん清涼せいりょう殿どのつね御殿ごてんなどが仁和寺にんなじ下賜かしされ、境内けいだい移築いちくされている。

この江戸えど再建さいけんさいしては、門跡もんぜき補佐ほさそうあらわしょう仁和寺にんなじ使つかわれている仁和寺にわじ寺号じごうりののきまるかわらのデザインや、再建さいけんされる伽藍がらん配置はいち構想こうそう金堂こんどうまつ仏像ぶつぞう選定せんていなどをおこなっている。また、経典きょうてん密教みっきょう経典きょうてん軌などの聖教せいきょう仁和寺にわじつたわる古文書こもんじょ管理かんり収蔵しゅうぞうのために経蔵きょうぞう建立こんりゅう発願ほつがんし、完成かんせいさせている[5]霊宝れいほうかんあらわしょう上人しょうにんぞう収蔵しゅうぞうされているが、ちいさく、ころもたいあらわしょう普段ふだん使用しようしていた袈裟けさけているという。

慶応けいおう3ねん1867ねん)、だい30せいじゅんじん法親王ほうしんのう還俗げんぞくして小松こまつみやあきらじん親王しんのうとなった。そして、これ以降いこう皇室こうしつ出身しゅっしんしゃとうてら門跡もんぜきとなることはなかった。ここにとうてら宮門きゅうもんあと御室おむろ御所ごしょ」としての歴史れきしえた。

太平洋戦争たいへいようせんそうでの日本にっぽん敗戦はいせん濃厚のうこうとなった1945ねん昭和しょうわ20ねん)1がつ20にち以降いこうすうにわたり、近衛このえ文麿ふみまろ仁和寺にわじおとずれ、昭和しょうわ天皇てんのう退位たいいして仁和寺にんなじ出家しゅっけするという計画けいかくについて当時とうじ門跡もんぜきはない、出家しゅっけ居所きょしょなどを検討けんとうしている。1月26にち近衛このえ文麿ふみまろ別荘べっそう陽明ようめい文庫ぶんこにおいて、文麿ふみまろ昭和しょうわ天皇てんのうおとうとみや高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのうとのあいだで、昭和しょうわ天皇てんのう出家しゅっけについて会談かいだんがもたれた。れいあきら殿どのかかげられている扁額へんがくれいあきら殿どの」の文字もじは、文麿ふみまろ仁和寺にんなじおとずれたさい揮毫きごうした絶筆ぜっぴつである[6]

1946ねん昭和しょうわ21ねん)、真言宗しんごんしゅう御室おむろだい真言宗しんごんしゅうから分離ぶんり独立どくりつし、仁和寺にんなじはその総本山そうほんざんとなった。

仁和寺にわじ南西なんせいには光孝みつたか天皇てんのう後田うしろだ邑陵(小松こまつ山陵さんりょう)があり、またきたには光孝みつたか天皇てんのう御室おむろ陵墓りょうぼ参考さんこうがある。さらにきたくと大内山おおうちやま宇多天皇うだてんのう大内山おおうちやまりょうがあるが、この場所ばしょ金堂こんどうからきたにあたる。

仁和寺にわじ歴代れきだい門跡もんぜき

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伽藍がらん

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南庭なんてい勅使ちょくしもん
きたにわ、宸殿
中門ちゅうもん
  • 金堂こんどう国宝こくほう)- 慶長けいちょう18ねん1613ねん)に建立こんりゅうされた京都きょうと御所ごしょ正殿せいでん紫宸殿ししんでん寛永かんえい年間ねんかん1624ねん - 1644ねん)に移築いちくしたもので、近世きんせい寝殿造しんでんづくり遺構いこうとして重要じゅうよう現存げんそんする最古さいこ紫宸殿ししんでんである。宮殿きゅうでんから仏堂ぶつどうへの用途ようと変更へんこうともない、屋根やねひのきがわから瓦葺かわらぶきえるなどの改造かいぞうおこなわれたものの、格子こうしじょうしとみ金色きんいろ装飾そうしょく金具かなぐなど宮殿きゅうでん建築けんちく意匠いしょうをよくのこしている。本尊ほんぞんうんぶしさく阿弥陀如来あみだにょらい須弥壇しゅみだんにはほかに、阿弥陀如来あみだにょらいわきさむらいぞう四天王してんのうぞう帝釈天たいしゃくてんぞう梵天ぼんてんぞう竜灯りゅうとうおにてんとうおになどが安置あんちされている[7]須弥壇しゅみだん周囲しゅういには極彩色ごくさいしょく浄土じょうどが、背面はいめん(うらどう)かべには木村きむらいさおおうふで五大ごだい明王みょうおう壁画へきがえがかれている。
  • 経蔵きょうぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい18ねん1641ねん)から正保まさやす2ねん1645ねん)の再建さいけん禅宗ぜんしゅう さま建築けんちくぞうもうけられ、けい768ものけいばこ収蔵しゅうぞうされている。
  • 鐘楼しゅろう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい21ねん(1644ねん再建さいけん
  • 水掛みずかけ不動尊ふどうそん - 近畿きんきさんじゅうろく不動尊ふどうそん霊場れいじょうだい14ばん札所ふだしょ
  • 御影堂ごえどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)- 寛永かんえい18ねん(1641ねん)から正保しょうほう2ねん(1645ねん)の再建さいけん慶長けいちょう18ねん(1613ねん)に建立こんりゅうされた京都きょうと御所ごしょ清涼せいりょう殿どの用材ようざいもちいて建立こんりゅうされたもの。宗祖しゅうそ弘法大師こうぼうだいし開基かいき宇多うた法皇ほうおう仁和寺にんなじだい2せいせいしん入道にゅうどう親王しんのうぞうまつる。
  • 御影堂ごえどう中門ちゅうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい)- 寛永かんえい18ねん(1641ねん)から正保しょうほう2ねん(1645ねん)の再建さいけん
  • れい阿弥陀堂あみだどう - 2019ねんれい元年がんねん建立こんりゅう永代えいたい位牌いはい供養くようどう
  • 観音堂かんのんどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい18ねん(1641ねん)から正保しょうほう2ねん(1645ねん)の再建さいけん
  • 五重塔ごじゅうのとう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい21ねん(1644ねん再建さいけん総高そうだか36.18m。
  • きゅうしょ明神みょうじん - 仁和寺にわじ伽藍がらんまもしゃ当初とうしょ境内けいだいみなみにあったが、けんれき2ねん1212ねん)に現在地げんざいちうつされた。
  • 中門ちゅうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい18ねん(1641ねん)から正保しょうほう2ねん(1645ねん)の再建さいけん
  • ほんぼう - 二王門におうもんから中門ちゅうもんいた参道さんどう西側にしがわ宇多うた法皇ほうおう御所ごしょがあったあたりにつ。「仁和寺にわじ御殿ごてん」としょうされる。仁和寺にわじ御所ごしょあととしてくに史跡しせき指定していされている。
    • ほんぼう表門おもてもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい)- 慶長けいちょう年間ねんかん1596ねん - 1615ねん建立こんりゅう
    • 勅使ちょくしもん登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 京都きょうと技師ぎし亀岡かめおか末吉すえきち設計せっけいによって1913ねん大正たいしょう2ねん)に再建さいけんされた。
    • 皇族こうぞくもん登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい
    • だい玄関げんかん登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい
    • 白書はくしょいん登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - ふすま1937ねん昭和しょうわ12ねん)、福永ふくながはれかいによってえがかれたもの。
    • 宸殿(登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい年間ねんかん(1624ねん - 1644ねん)に京都きょうと御所ごしょつね御殿ごてん下賜かしされて宸殿としていたが、1887ねん明治めいじ20ねん)に焼失しょうしつし、あらたに亀岡かめおか末吉すえきち設計せっけいにより1914ねん大正たいしょう3ねん)に再建さいけんされた。ふすまかべなどのはらざいいずみによってえがかれたもの。宸殿の南北なんぼく配置はいちされた庭園ていえんとともにかつての宮殿きゅうでん雰囲気ふんいきただよわせている。
    • 南庭なんていくに名勝めいしょう) - 白砂はくしゃ構成こうせいされている。
    • きたにわくに名勝めいしょう) - 池泉いけいずみ鑑賞かんしょうしき庭園ていえん1690ねん元禄げんろく3ねん)には加来かく道意どうい白井しらいわらわまつら、明治めいじから大正たいしょう時代じだいにはなな代目だいめ小川おがわおさむ兵衛ひょうえによって整備せいびがなされている。
    • くろ書院しょいん登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 花園はなぞのにあったきゅう安井やすい門跡もんぜき寝殿しんでん移築いちくし、安田やすだしゅう設計せっけい改造かいぞうして1909ねん明治めいじ42ねん)に建立こんりゅうされた。ふすまは1937ねん昭和しょうわ12ねん)、堂本どうもと印象いんしょうによってえがかれたもの。
    • れいあきら殿どの登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 亀岡かめおか末吉すえきち設計せっけいによって1911ねん明治めいじ44ねん)に建立こんりゅうされた。扁額へんがく近衛このえ文麿ふみまろふで仁和寺にわじいんであった喜多きたきたいん本尊ほんぞん薬師やくし如来にょらい坐像ざぞう秘仏ひぶつ)を安置あんちするほか仁和寺にわじ歴代れきだい門跡もんぜき位牌いはいまつる。
    • 鎮守ちんじゅしゃ
    • 土蔵どぞう
    • 茶室ちゃしつりょうくるわてい」(重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛文ひろふみ元年がんねん1661ねん)から寛延かんえい3ねん1750ねん)のあいだに、江戸えど時代じだい画家がか尾形おがた光琳こうりん屋敷やしきから移築いちくされた。葺下し屋根やねしたそでかべけ、にじりぐちをそのなかひらいているのがめずらしいとされる。茶室ちゃしつ如庵」ともているという。
    • 茶室ちゃしつ濤亭」(重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 文政ぶんせい13ねん1830ねん)から慶応けいおう3ねん1867ねん)に建立こんりゅうひかりかく天皇てんのうこのみでてられた草庵そうあんふう茶室ちゃしつで、こしをかがめずにれるように鴨居かもいたか人口じんこうもうけられている。
    • 寺務じむしょ
  • 霊宝れいほうかん登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 創建そうけん当時とうじ本尊ほんぞんである阿弥陀あみださんみことぞうなどが展示てんじされている。
  • 御室おむろ会館かいかん - 宿坊しゅくぼう
  • 松林しょうりんあん - 高級こうきゅう宿坊しゅくぼう一泊いっぱく100まんえん有名ゆうめいである。
  • 東門ひがしもん
  • 二王門におうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい18ねん(1641ねん)から正保しょうほう2ねん(1645ねん)の再建さいけん和様わよう建築けんちく

しつはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょう

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しつはちじゅうはちヶ所かしょ一番いちばん霊山りょうぜんてら

しつはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょうは、仁和寺にわじ境内けいだい成就じょうじゅさん四国八十八箇所しこくはちじゅうはっかしょ霊場れいじょう小規模しょうきぼ再現さいげんした巡礼じゅんれいである。かく札所ふだしょには小規模しょうきぼどうもうけられており、それらがやく3キロメートルの山道さんどう沿って点在てんざいしている。88宇のどうには実際じっさい四国八十八箇所しこくはちじゅうはっかしょ札所ふだしょ寺院じいんおな本尊ほんぞん弘法大師こうぼうだいしまつってある。成就じょうじゅやまはちじゅうはちヶ所かしょともしょうされる。

文政ぶんせい10ねん1827ねん)に、仁和寺にんなじだい29せい門跡もんぜきであった不壊ふえいん御室おむろすみじん法親王ほうしんのうが、四国八十八箇所しこくはちじゅうはっかしょ巡拝じゅんぱいできない人々ひとびとのために発願ほつがんし、仁和寺にわじ寺侍てらざむらい久富ひさとみ遠江とおとうみまもるめいじて四国八十八箇所しこくはちじゅうはっかしょかく札所ふだしょすなかえらせ、仁和寺にわじ境内けいだい成就じょうじゅさん四国八十八箇所しこくはちじゅうはっかしょしておなすうの88宇のどうもうけて、かえらせたすなもうけたどうめたことが起源きげんとされる。

現在げんざい一般いっぱんけに「京都きょうとでできる、いちにち遍路へんろ。」としょうし、四国しこくはちじゅうはち箇所かしょうつしである札所ふだしょやく2あいだ行程こうていすべめぐることができ、これを結願けちがん(けちがん)成就じょうじゅすれば四国八十八箇所しこくはちじゅうはっかしょ霊場れいじょう巡礼じゅんれいおなじご利益りやくることができるものとして案内あんないされており、ウォーキング、ハイキングのコースとしてもたのしめるようになっている。仁和寺にわじ主催しゅさいで「仁和寺にわじ 成就じょうじゅやまはちじゅうはちヵ所かしょウォーク(きゅう、「御室おむろ 仁和寺にわじ 成就じょうじゅやま88ヵ所かしょスタンプハイク」)もおこなわれている。参拝さんぱいどう自然しぜんがあふれ、途中とちゅうすうしょもうけられている絶景ぜっけいポイントから眼下がんかひろがる京都きょうと市内しないながめられ、れたにはとおくは伏見ふしみ付近ふきんのぞむことができる。

御室おむろさくら

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御室おむろさくら

仁和寺にわじさくらにはとくに「御室おむろさくら(おむろざくら)」のいており、境内けいだい一部いちぶにあるさくらりんくに名勝めいしょう指定していされている。

江戸えど時代じだいから名高なだかく、貞享ていきょう元年がんねん1684ねん)の『雍州こころざし』には「いま御室おむろ清水しみず為一ためいちそう」、とおる3ねん1718ねん)の貝原かいばら益軒えきけんの『きょうじょうかちらん』には「はるは此御境内けいだいおくはちじゅうざくらおおし。洛中らくちゅう洛外らくがいにてだいいちとす」と絶賛ぜっさんされていた。

やく200ほんあり、八重咲やえざき。だかひくいのは、この岩盤がんばんかたく、ふかれないためという。「はなはな)がひくい」ということから「多福たふくさくら」ともいう。このことから京都きょうとでは、ひくくてはなひく女性じょせいのことを「御室おむろさくらのような」とひょうすることがあるという。満開まんかい例年れいねん4がつ20にちぎとおそく、さくら名所めいしょおお京都きょうとぶし最後さいごかざる。御室おむろさくら日本にっぽんさくら名所めいしょ100せん選定せんていされている。

クローン技術ぎじゅつによる増殖ぞうしょく研究けんきゅうおこなわれている[8]

文化財ぶんかざい

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孔雀くじゃく明王みょうおうぞう国宝こくほう
たからしょうはな蒔絵まきえ宝珠ほうしゅばこ国宝こくほう
こう嵯峨天皇さがてんのう宸翰しんかん消息しょうそく国宝こくほう

国宝こくほう

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  • 金堂こんどう
  • 木造もくぞう阿弥陀如来あみだにょらい及両わきさむらいぞう - もと金堂こんどう安置あんちされ、現在げんざい寺内てらうち霊宝れいほうかんうつされている。仁和にわ4ねん888ねん創建そうけん本尊ほんぞんといわれる。
  • 木造もくぞう薬師やくし如来にょらい坐像ざぞう - ほんぼう北側きたがわにあるれいあきら殿どの仁和寺にわじ歴代れきだい門跡もんぜき位牌いはいまつどう)の本尊ほんぞん1986ねん昭和しょうわ61ねん)、京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん調査ちょうさはじめて概要がいようあきらかになり、1990ねん平成へいせい2ねん)、国宝こくほう指定していされた。かんかず5ねん1103ねん)、白河天皇しらかわてんのう皇子おうじさとしぎょう法親王ほうしんのう発願ほつがんにより仏師ぶっしえんぜい長円ちょうえんみやつこぞうした。本体ほんたいぞうだか11センチメートル、光背こうはい台座だいざふくめても24センチメートルほどの白檀びゃくだんざいしょうぞうで、光背こうはいにはななふつ薬師くすしぞう日光にっこう菩薩ぼさつ月光げっこう菩薩ぼさつ台座だいざには前後ぜんご左右さゆう各面かくめんに3たいずつのじゅう二神にかみすすむあらわ入念にゅうねんさくである[9]
  • 絹本けんぽんちょしょく孔雀くじゃく明王みょうおうぞう絵画かいが) - きたそう時代じだい仏画ぶつが
  • たからしょうはな(ほうそうげ)蒔絵まきえ宝珠ほうしゅばこ:木製もくせい彩絵さえ四天王してんのうぞう4まい) - 平安へいあん時代じだい前期ぜんきうるし工芸こうげいひん蒔絵まきえ初期しょき遺品いひんとして貴重きちょう
  • さんじゅうじょう冊子さっし(30じょう)・たからしょうはな迦陵頻伽かりょうびんが蒔絵まきえ𡑮(そく、土偏つちへんに「ふさが」)冊子さっしばこ:くだりあまね僧正そうじょう消息しょうそく1かんさんじゅうじょうさくほそ1かん)- 「さんじゅうじょう冊子さっし」は、空海くうかいとうからかえった写経しゃきょうしょう冊子さっし(サイズは縦横じゅうおうともじゅうすうセンチメートル)30さつで、一部いちぶそら海自かいじひつふくむ。古来こらい真言宗しんごんしゅう重宝ちょうほうとして尊重そんちょうされている。付属ふぞくはこ朝廷ちょうていから下賜かしされたもので、平安へいあん時代じだいうるし工芸こうげいひんとして貴重きちょうである。
  • 御室おむろ相承そうしょう 6かん - 仁和寺にわじ歴代れきだい法親王ほうしんのう記録きろく鎌倉かまくら時代ときよ
  • 高倉天皇たかくらてんのう宸翰しんかん消息しょうそく:まもりさとし法親王ほうしんのう消息しょうそく) - 「宸翰しんかん」は天皇てんのう直筆じきひつ、「消息しょうそく」は手紙てがみわかくして崩御ほうぎょした高倉天皇たかくらてんのうの18さいふでで、どう天皇てんのう現存げんそん唯一ゆいいつ遺筆いひつ
  • こう嵯峨天皇さがてんのう宸翰しんかん消息しょうそく - こう嵯峨天皇さがてんのう確証かくしょうある遺筆いひつとしては唯一ゆいいつ
  • みかどないけいあかりどう まきだいいち 2かんえいひとしよんねんえいいさおさんねん書写しょしゃ)、みかどないけいふと 23かんじんやすねんどうさんねん書写しょしゃ) - 中国ちゅうごく医学いがくしょみかどないけい』の注釈ちゅうしゃくしょ。「あかりどう」は鎌倉かまくら - 南北なんぼくあさ時代じだい、「ふとしもと」は平安へいあん時代じだい写本しゃほん
  • しんかた まきだいいちだいだいななだいきゅうだいじゅうざんまき 5じょう - 日本にっぽん最古さいこ医学いがくしょしんかた』の平安へいあん時代じだい後期こうき写本しゃほん
  • しんおさむ本草ほんぞう まきだいよんだいだいじゅうだいじゅうななだいじゅうきゅう 5かん - から時代じだい薬草やくそうかんするほんあたらしおさむ本草ほんぞう』の鎌倉かまくら時代じだい写本しゃほん

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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二王門におうもん
五重塔ごじゅうのとう

建造けんぞうぶつ

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  • 仁和寺にんなじ」14むね
    • 五重塔ごじゅうのとう
    • 観音堂かんのんどう
    • 中門ちゅうもん
    • 二王門におうもん
    • 鐘楼しゅろう
    • 経蔵きょうぞう
    • 御影堂ごえどう
    • 御影堂ごえどう中門ちゅうもん
    • きゅうしょ明神みょうじんしゃ本殿ほんでん 3むね
    • ほんぼう表門おもてもん
    • りょうくるわてい
    • 濤亭

絵画かいが

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  • 絹本けんぽんちょしょく聖徳太子しょうとくたいしぞう
  • 絹本けんぽんちょしょく僧形そうぎょう八幡やはたしん影向ようごう
  • かみほん白描はくびょう及著しょく密教みっきょう図像ずぞう 17てん
  • かみほん墨画ぼくが高僧こうそうぞう 1かん
  • かみほん墨画ぼくが四天王してんのう図像ずぞう 1かん
  • かみほん墨画ぼくが弥勒菩薩みろくぼさつ画像がぞうしゅう 1じょう
  • かみほん墨画ぼくが薬師くすしじゅう二神にかみすすむぞう 1かん
  • かみほん墨画ぼくがべつみこと雑記ざっき図像ずぞういれ)57かん
  • 絹本けんぽんちょしょくけんせい障子しょうじ(けんじょうのしょうじ) 20めん 狩野かの孝信たかのぶふで 慶長けいちょう19ねん(1614ねん[10]

彫刻ちょうこく

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工芸こうげいひん

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書跡しょせき典籍てんせき古文書こもんじょ

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  • みつよう鈔 604てん - 2017ねん指定してい[16][17]
  • 万葉集まんようしゅう注釈ちゅうしゃく 9さつ
  • 後鳥羽ごとば天皇てんのう御作みつくり無常むじょうこうしき けんちょう元年がんねん書写しょしゃ奥書おくがき
  • こう宇多天皇うだてんのう宸翰しんかん消息しょうそくがつじゅういちにち 御法みのりごう
  • こう宇多天皇うだてんのう宸翰しんかん消息しょうそく徳治とくじねんきゅうがつ廿にじゅう
  • 後醍醐天皇ごだいごてんのう宸翰しんかん消息しょうそく何事なにごとこう云々うんぬん
  • 後醍醐天皇ごだいごてんのう宸翰しんかん消息しょうそくよるこころ云々うんぬん
  • 孔雀くじゃく明王みょうおうどう経壇きょうだんとう相承そうしょう起請文きしょうもん
  • うけたまわひさしさんよんねん日次にちじ残闕ざんけつ 
  • 消息しょうそく 1かん高野たかの御室おむろ消息しょうそく 1つうはなぞういんみや法印ほういん消息しょうそく 1つう返事へんじあん 2つう
  • さだかんてら根本こんぽん目録もくろくさだかんじゅうよんねんさんがつきゅうにち) 
  • ほうかちいんりょう田地たじこうけん紛失ふんしつじょう安和あわねんなながつはちにち) 

考古こうこ資料しりょう歴史れきし資料しりょう

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  • 仁和寺にわじ境内けいだい出土しゅつどひん 一括いっかつ
    • 金堂こんどう出土しゅつど 銅板どうばんけい どう筥付120まい金銅かなどうたから1箇、どうよん橛(しけつ)1ほん
    • 円堂えんどう出土しゅつど きん盒子1くちぎんしょう盒子1くち白磁はくじ盒子1くち青磁せいじ盒子2くち(1口蓋こうがい亡失ぼうしつ)(きむ盒子は1947ねん盗難とうなん[18]
    • :唐草からくさかわら1まい裏面りめん東寺とうじかた押あり)
  • 日本にっぽん よしみもとさんねん書写しょしゃ奥書おくがき

典拠てんきょ:2000ねん平成へいせい12ねん)までに指定してい国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざいについては、『国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい大全たいぜん 別巻べっかん』(所有しょゆうしゃべつ総合そうごう目録もくろく名称めいしょうそう索引さくいん統計とうけい資料しりょう)(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2000)による。

登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • 宸殿
  • だい玄関げんかん
  • 白書はくしょいん
  • くろ書院しょいん
  • れいあきら殿どの
  • 勅使ちょくしもん
  • 皇族こうぞくもん
  • 霊宝れいほうかん

くに名勝めいしょう

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  • 御室おむろさくら - 一帯いったいさくらくに名勝めいしょう指定していされている。前述ぜんじゅつ
  • 仁和寺にわじ御所ごしょ庭園ていえん[19][20]

くに史跡しせき

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  • 仁和寺にわじ御所ごしょあと

京都きょうと指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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京都きょうと指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • おく座敷ざしき障壁しょうへきたにぶんあきらはら在中ざいちゅうもりとおるさんひがし東洋とうようきしこまふで)20めん絵画かいが) - 江戸えど時代じだい1985ねん昭和しょうわ60ねん)6がつ1にち指定してい[22]
  • かみほん墨画ぼくが淡彩たんさい深山みやま大沢おおさわろくきょく屏風びょうぶ 円山まるやま応挙おうきょひつ)1そう絵画かいが) - 江戸えど時代じだい京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく。1991ねん平成へいせい3ねん)4がつ1にち指定してい[22]
    • かみほんちょしょく花鳥かちょうろくきょく屏風びょうぶ きしこまひつ)1そう絵画かいが) - 江戸えど時代じだい。1991ねん平成へいせい3ねん)4がつ1にち指定してい[22]
  • かみ本金ほんきんちょしょくしゃそうろくきょく屏風びょうぶ 土佐とさ光茂みつしげふで)1そう絵画かいが) - 2016ねん平成へいせい28ねん)3がつ31にち指定してい[23]

京都きょうと指定してい名勝めいしょう

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幕末ばくまつ領地りょうち

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国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかんの『きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょうデータベース』より算出さんしゅつした幕末ばくまつ仁和にわ寺領じりょう以下いかとおり。(13むら、1,581いし

  • 山城やましろこく葛野かずらのぐんのうち - 12むら
    • 西院さいいんりょうのうち - 1せき
    • 西京にしぎょうむらのうち - 59せきあまり
    • 鳴滝なるたきむらのうち - 52せきあまり
    • ぶく王子おうじむら - 262せきあまり
    • 池上いけがみむらのうち - 10せき9
    • 平岡ひらおかむらのうち - 31せきあまり
    • 等持院とうじいんむらのうち - 24せきあまり
    • 常盤ときわむら - 85せきあまり
    • 谷村たにむら - 76せきあまり
    • くぼむら - 39せきあまり
    • 中村なかむら - 162せきあまり
    • 川端かわばたむらのうち - 33せきあまり
  • 山城やましろこく紀伊きいぐんのうち - 1むら
    • 竹田たけだむらのうち - 740せきあまり

年中ねんじゅう行事ぎょうじ

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  • 1がつ1にち修正しゅうせいかい
  • 1がつ7にちはつ祈祷きとうかい (だい般若はんにゃかい)
  • 1がつ21にちはつ御影みかげきょう (けんじまいきょう)
  • 2がつ3にち節分せつぶんかい
  • 2がつ15にち常楽じょうらくかい
  • 3月1にち土砂どしゃ加持かじ法要ほうよう
  • 3月21にちはつ御影みかげきょう
  • 4がつ中旬ちゅうじゅん御室おむろはなまつり (名勝めいしょう御室おむろさくら)
  • 6月15にち宗祖しゅうそ弘法大師こうぼうだいし降誕こうたんかい
  • 8がつ15にち:うらぼんかい
  • 9月8にち開山かいさん
  • 12月1にち伝法でんぼう灌頂

前後ぜんご札所ふだしょ

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真言宗しんごんしゅうじゅうはち本山ほんざん
5 大覚寺だいかくじ - 6 仁和寺にんなじ - 7 智積ちしゃくいん
京都きょうとじゅうさんふつ霊場れいじょう
8 だい報恩寺ほうおんじ - 9 仁和寺にんなじ - 10 ほう金剛こんごういん
近畿きんきさんじゅうろく不動尊ふどうそん霊場れいじょう
13 大覚寺だいかくじ - 14 仁和寺にんなじ - 15 蓮華寺れんげじ
しつはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょう
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみち
91 くるまおり神社じんじゃ - 92 仁和寺にんなじ - 93 鹿苑寺ろくおんじ

授与じゅよひん

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御室おむろさくらでよくられることから、授与じゅよひんとしてさくらがデザインされたまもがある。また、人工じんこうではない植物しょくぶつのクローバー使つかったおり「幸福こうふくもり」「縁結えんむすもり」がある。

れいあきら殿どの本尊ほんぞん薬師やくし如来にょらいにちなんで、薬師如来やくしにょらい縁日えんにちである毎月まいつき8にちかぎり、金堂こんどうまえおさめけいしょにて薬師如来やくしにょらい御朱印ごしゅいんけられる。

仁和寺にわじ舞台ぶたいにした映画えいが

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会場かいじょうとしての仁和寺にわじ

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仁和寺にわじではたまに、参道さんどう客席きゃくせき設置せっちして、ライブ開催かいさいすることがある。ライブをおこなうのはメジャーからマイナーアーティストまで幅広はばひろい。将棋しょうぎタイトルせん竜王りゅうおうせん)や囲碁いご棋聖きせいせん対局たいきょくにももちいられている。

交通こうつうアクセス

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周辺しゅうへん

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不祥事ふしょうじ

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過重かじゅう労働ろうどうによるうつびょう発症はっしょう労災ろうさい認定にんてい

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2013ねん平成へいせい25ねん)7がつ労働ろうどう基準きじゅん監督かんとくしょは、仁和寺にんなじ経営けいえいする宿泊しゅくはく施設しせつ御室おむろ会館かいかん」ではたら料理りょうりちょうつき200あいだ残業ざんぎょうにより、うつびょう発症はっしょうしたことについて、労災ろうさい認定にんていした[25]料理りょうりちょう2012ねん平成へいせい24ねん)8がつにうつびょう診断しんだんけたため休業きゅうぎょうしたが、うつびょう発症はっしょう前年ぜんねんの1年間ねんかん勤務きんむ日数にっすうは356にちおよんでいた。その休業きゅうぎょうちゅう時間じかんがい未払みはら賃金ちんぎん4,700まんえんもとめる訴訟そしょう仁和寺にんなじたいしてこした。2016ねん平成へいせい28ねん)4がつ12にち京都きょうと地裁ちさい仁和寺にわじやく4,200まんえん支払しはらいをめいじる判決はんけつくだされた。判決はんけつ理由りゆうで、「きわめて過酷かこく長時間ちょうじかん労働ろうどういて、多額たがく時間じかんがい手当てあて労働ろうどう基準きじゅんほう違反いはんして支払しはらっておらず悪質あくしつ」とし、業務ぎょうむ発症はっしょうとの因果いんが関係かんけいみとめた[26]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 仁和寺にわじ 御室おむろ会館かいかん宿坊しゅくぼう世界せかい遺産いさんまってみませんか(2018ねん6がつ27にち閲覧えつらん
  2. ^ 京都きょうと世界せかい遺産いさん旧家きゅうか再生さいせい 総本山そうほんざん仁和寺にわじ(にんなじ)「松林まつばやしあん(しょうりんあん)」建物たてもの改修かいしゅう造園ぞうえん工事こうじ担当たんとう住友林業すみともりんぎょうニュースリリース(2018ねん4がつ13にち)2018ねん6がつ27にち閲覧えつらん
  3. ^ 仁和寺にんなじ 1はく100まんえんで/世界せかい遺産いさん境内けいだいきゅう家屋かおく改築かいちく高級こうきゅう宿坊しゅくぼう、1にち1くみ 海外かいがい富裕ふゆうそうねらう」『日経にっけいMJ』2018ねん6がつ25にち(ライフスタイルめん
  4. ^ 横内よこうち裕人ひろと仁和寺にわじ御室おむろろんをめぐる覚書おぼえがき永村ながむらしん へん中世ちゅうせい門跡もんぜき公武こうぶ権力けんりょく』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2017ねんISBN 978-4-86403-251-3
  5. ^ 平成へいせい28ねん2がつ12にち放送ほうそう BSにっテレふゆ京都きょうとたび世界せかい遺産いさん仏像ぶつぞうめぐり!』
  6. ^ 平成へいせい30ねん2がつ5にち放送ほうそう BSイレブン京都きょうと浪漫ろうまん伝統でんとうたずねる「仁和寺にわじ悠久ゆうきゅうなる国宝こくほう世界せかい
  7. ^ 公益社こうえきしゃだん法人ほうじん 京都きょうと観光かんこう協会きょうかい (2023ねん11月). だい58かい きょうふゆたび 非公開ひこうかい文化財ぶんかざい特別とくべつ公開こうかいガイドブック 
  8. ^ 総本山そうほんざん仁和寺にわじにんなじ 御室おむろさくらおむろざくら研究けんきゅうプロジェクト:“名勝めいしょう 御室おむろさくら組織そしき培養ばいようによる苗木なえぎ増殖ぞうしょく成功せいこう』(プレスリリース)住友林業すみともりんぎょう、2014ねん3がつ4にちhttp://sfc.jp/information/news/2010/2010-02-10.html2010ねん4がつ4にち閲覧えつらん 
  9. ^ 2020ねん9がつ19にちから27にちわたり、霊宝れいほうかんにおいて特別とくべつ公開こうかい
  10. ^ 平成へいせい22ねん6がつ29にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい97ごう
  11. ^ 平成へいせい3ねん6がつ21にち文部省もんぶしょう告示こくじだい84ごう
  12. ^ 平成へいせい15ねん5がつ29にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい104ごう
  13. ^ れい元年がんねん7がつ23にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい26ごう
  14. ^ 文化ぶんか審議しんぎかい答申とうしん国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の指定していおよ登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の登録とうろくについて〜」文化庁ぶんかちょうサイト、2019ねん3がつ18にち発表はっぴょう
  15. ^ 平成へいせい13ねん6がつ22にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい109ごう
  16. ^ 平成へいせい29ねん9がつ15にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい117ごう
  17. ^ 国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していについて文化庁ぶんかちょうサイト)
  18. ^ 盗難とうなん年次ねんじ文化庁ぶんかちょう文化財ぶんかざい保護ほご監修かんしゅう文化財ぶんかざい保護ほご行政ぎょうせいハンドブック 美術びじゅつ工芸こうげいひんへん』(ぎょうせい、1998)、p.126、による。
  19. ^ れい3ねん3がつ26にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい45ごう
  20. ^ 文化ぶんか審議しんぎかい答申とうしん史跡しせきとう指定していとう)について”. 文化庁ぶんかちょう. 2020ねん11月25にち閲覧えつらん
  21. ^ 京都きょうと指定してい登録とうろくとう文化財ぶんかざい京都きょうと教育庁きょういくちょう指導しどう文化財ぶんかざい保護ほご)。
  22. ^ a b c 京都きょうと指定してい登録とうろく文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん右京うきょう京都きょうとホームページ)。
  23. ^ 平成へいせい28ねん3がつ31にち京都きょうとインターネットばん公報こうほうより京都きょうと教育きょういく委員いいんかい告示こくじだい8ごう (PDF) (リンクは京都きょうとホームページ)。
  24. ^ 京都きょうと指定してい登録とうろく文化財ぶんかざい名勝めいしょう右京うきょう京都きょうとホームページ)。
  25. ^ 長時間ちょうじかん労働ろうどうでうつ…料理りょうりちょう世界せかい遺産いさんてら提訴ていそ. 読売新聞よみうりしんぶん. (2014ねん1がつ24にち). https://web.archive.org/web/20140125133851/http://www.yomiuri.co.jp/job/news/20140124-OYT8T00790.htm 2014ねん3がつ4にち閲覧えつらん 
  26. ^ 宿坊しゅくぼう349にち連続れんぞく勤務きんむ 京都きょうと地裁ちさい仁和寺にんなじ賠償ばいしょう命令めいれい. 毎日新聞まいにちしんぶん. (2016ねん4がつ13にち). https://mainichi.jp/articles/20160413/k00/00e/040/162000c 2016ねん12月1にち閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 山本やまもと健吉けんきちもりたいえん ちょ井上いのうえやすし塚本つかもと善隆よしたか監修かんしゅう へん仁和寺にんなじあわ交社、京都きょうと古寺ふるでら巡礼じゅんれい京都きょうと11〉、1977ねんNCID BN0352385X全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:77011003 
  • 竹村たけむら俊則としのり昭和しょうわ京都きょうと名所めいしょ圖會ずえ らく西にし』 4かん駸々しんしんどう京都きょうと、1983ねんISBN 4397501300NCID BN00765841 
  • 朝日新聞社あさひしんぶんしゃへん へん週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう仁和寺にんなじ)』 4ごう朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1997ねんNCID BA60171264 
  • 平凡社へいぼんしゃ へん日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 京都きょうと地名ちめい』 27かん平凡社へいぼんしゃ 
  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい へん角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 京都きょうと 総説そうせつ地名ちめいへんだい26上巻じょうかん角川書店かどかわしょてん、1978ねんNCID BN00094881全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:82036781 
  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい へん角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 京都きょうと 地誌ちしへん資料しりょうへんだい26下巻げかん角川書店かどかわしょてん、1982ねんNCID BN00094881全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:82036781 
  • 八代やしろ國治くにはる・ほか編纂へんさん へん国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかんNCID BA4436909X 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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