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醍醐寺だいごじ

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醍醐寺だいごじ
金堂こんどう国宝こくほう
所在地しょざいち 京都きょうと京都きょうと伏見ふしみ醍醐東大路だいごひがしおおじまち22
位置いち 北緯ほくい3457ふん5.4びょう 東経とうけい13549ふん18.4びょう / 北緯ほくい34.951500 東経とうけい135.821778 / 34.951500; 135.821778座標ざひょう: 北緯ほくい3457ふん5.4びょう 東経とうけい13549ふん18.4びょう / 北緯ほくい34.951500 東経とうけい135.821778 / 34.951500; 135.821778
山号さんごう 醍醐山だいごやま
ふか雪山ゆきやまうえ醍醐寺だいごじ
宗派しゅうは 真言宗しんごんしゅう醍醐だいご
寺格じかく 総本山そうほんざん
本尊ほんぞん 薬師やくし如来にょらい重要じゅうよう文化財ぶんかざい
創建そうけんねん さだかん16ねん874ねん
開山かいさん せいたから
札所ふだしょとう 西国さいこくさんじゅうさんしょだい11ばんうえ醍醐だいご
真言宗しんごんしゅうじゅうはち本山ほんざんだい12ばん
近畿きんきさんじゅうろく不動尊ふどうそん霊場れいじょうだい23ばんうえ醍醐だいご
西国さいごく薬師くすしよんじゅうきゅう霊場れいじょうだい39ばん
役行者えんのぎょうじゃれいあと札所ふだしょ
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみちだい126ばん京都きょうとだい46ばん
文化財ぶんかざい 醍醐寺だいごじ境内けいだい史跡しせき
金堂こんどう五重塔ごじゅうのとう木造もくぞう薬師如来やくしにょらい及両わきさむらいぞうほか(国宝こくほう
清滝きよたき宮本みやもと殿どの絹本けんぽんちょしょく阿弥陀あみださんみことぞう木造もくぞう薬師如来やくしにょらい及両わきさむらいぞうほか(重要じゅうよう文化財ぶんかざい
三宝さんぼういん庭園ていえん特別とくべつ史跡しせき特別とくべつ名勝めいしょう
世界せかい遺産いさん
法人ほうじん番号ばんごう 6130005002163 ウィキデータを編集
醍醐寺の位置(日本内)
醍醐寺
醍醐寺の位置(京都府内)
醍醐寺
醍醐寺の位置(京都市内)
醍醐寺
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醍醐寺だいごじ(だいごじ)は、京都きょうと伏見ふしみ醍醐東大路だいごひがしおおじまちにある真言宗しんごんしゅう醍醐だいご総本山そうほんざんとなる寺院じいん山号さんごう醍醐山だいごやま深雪みゆきやまとも)。本尊ほんぞん薬師やくし如来にょらいうえ醍醐だいごじゅん胝堂(じゅんていどう)は、西国さいこくさんじゅうさんしょだい11ばん札所ふだしょ本尊ほんぞんじゅん観世音菩薩かんぜおんぼさつ京都きょうと市街しがい南東なんとうひろがる醍醐山だいごやま笠取山かさとりやま)に200まんつぼ以上いじょう広大こうだい境内けいだいち、国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざいふくやく15まんてん寺宝じほう所蔵しょぞうしている[1]豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる「醍醐だいご花見はなみ」がおこなわれたとしてもられている。「古都こと京都きょうと文化財ぶんかざい」として世界せかい遺産いさん登録とうろくされている。

札所ふだしょ本尊ほんぞん真言しんごんじゅん胝観おん):おん しゃれい それい そんでい そわか

詠歌えいかうえ醍醐だいご):逆縁ぎゃくえん(ぎゃくえん)ももらさですくねがい(がん)なれば じゅん胝堂はたのもしきかな

歴史れきし[編集へんしゅう]

平安へいあん時代じだい初期しょきさだかん16ねん874ねん)、空海くうかい弘法大師こうぼうだいし)の孫弟子まごでしにあたるせいたからみなもと大師だいし)がじゅん胝観おんならびに如意輪観音にょいりんかんのん笠取山かさとりやま頂上ちょうじょうむかえて開山かいさんし、せいたからどう山頂さんちょう付近ふきんを「醍醐山だいごやま[注釈ちゅうしゃく 1]命名めいめいした。さだかん18ねん876ねん)にはせいたからによってじゅん胝堂と如意にょいどう建立こんりゅうされている。

醍醐寺だいごじやまふか醍醐山だいごやま頂上ちょうじょう一帯いったいうえ醍醐だいご)を中心ちゅうしんに、おおくの修験しゅげんしゃ霊場れいじょうとして発展はってんした。のち醍醐天皇だいごてんのう醍醐寺だいごじみずからの祈願きがんてらとするととも手厚てあつ庇護ひごあたえ、延喜えんぎ7ねん907ねん)には醍醐天皇だいごてんのう御願ごがんにより薬師堂やくしどう建立こんりゅうされている。その圧倒的あっとうてき財力ざいりょくによって延長えんちょう4ねん926ねん)には醍醐天皇だいごてんのう御願ごがんにより釈迦堂しゃかどう金堂こんどう)が建立こんりゅうされ、醍醐だいご山麓さんろく広大こうだい平地ひらちだい伽藍がらんしも醍醐だいご」が成立せいりつし、発展はってんした。歴代れきだい座主ざす理性りせいいん三宝さんぼういん(灌頂いん)、金剛こんごうおういん現在げんざい一言ひとことてら)、無量むりょうこういん報恩ほうおんいん醍醐だいご門跡もんぜきからえらばれるなどおおいにさかえていた。

その応仁おうにんらんなどでしも醍醐だいご荒廃こうはいし、五重塔ごじゅうのとうのみがのこされるだけとなっていた。とく応仁おうにんらん最中さいちゅうだった室町むろまち時代ときよ文明ぶんめい元年がんねん1469ねん)10がつには、周辺しゅうへん集落しゅうらくである境内けいだい村民そんみんたちがてらおさめる年貢ねんぐ半分はんぶんにする半済はんせい要求ようきゅうする目的もくてき暴動ぼうどうこしたさいには、武装ぶそうした僧兵そうへいたちが弾圧だんあつおこない、同月どうげつ10にち11月13にち)には首謀しゅぼうしゃたちをのろいころせする目的もくてきでのだい規模きぼ護摩ごま祈祷きとうおこなわれるなど、人心じんしん荒廃こうはい進行しんこうしていった[2]。しかし、安土あづち桃山ももやま時代じだいはいり、豊臣とよとみ秀吉ひでよしによって花見はなみ醍醐寺だいごじおこなわれることにまると、秀吉ひでよしによって三宝さんぼういん再興さいこうされるなどし、伽藍がらん復興ふっこうされはじめ、慶長けいちょう3ねん1598ねん)には「醍醐だいご花見はなみ」が盛大せいだいおこなわれた。

つづいて、豊臣とよとみ秀頼ひでよりによって伽藍がらん整備せいびおこなわれ、慶長けいちょう5ねん1600ねん)には秀吉ひでよしだいからおこなわれていた金堂こんどう移築いちく工事こうじ完成かんせい慶長けいちょう10ねん1605ねん)には西にし大門おおもん再建さいけん慶長けいちょう11ねん1606ねん)には如意にょいどう開山かいさんどう五大堂ごだいどう現存げんそんせず)の再建さいけん次々つぎつぎおこなわれた。豊臣とよとみ政権せいけんでの醍醐寺だいごじについては、醍醐寺だいごじ座主ざすであったえんじあらわした『えんじじゅんきさき日記にっき』にくわしい。

明治めいじ廃仏毀釈はいぶつきしゃくさいすうおおくの寺院じいん廃寺はいじとなったり、寺宝じほう流失りゅうしつしたりするなかで、醍醐寺だいごじはその寺宝じほうまもいて時代じだい荒波あらなみけている。

1935ねん昭和しょうわ10ねん)、霊宝れいほうかん開館かいかんした。1939ねん昭和しょうわ14ねん)8がつうえ醍醐だいごおそったやま火事かじにより短時間たんじかん経蔵きょうぞう西国さいこくさんじゅうさんしょだい11ばん札所ふだしょじゅん胝堂が焼失しょうしつするが、1968ねん昭和しょうわ43ねん)5がつなぞらえ胝堂が再建さいけんされた。

1995ねん平成へいせい7ねん)1がつ兵庫ひょうごけん南部なんぶ地震じしん阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさい)の影響えいきょうで、五重塔ごじゅうのとう金堂こんどうなどの漆喰しっくいがれた。1997ねん平成へいせい9ねん)9がつ真如しんにょ三昧ざんまい耶堂[注釈ちゅうしゃく 2]建立こんりゅうされた[3]

2008ねん平成へいせい20ねん)8がつ24にち落雷らくらいによる火災かさいうえ醍醐だいごじゅん胝堂が全焼ぜんしょうした。焼失しょうしつしたじゅん胝堂にあった西国さいこくさんじゅうさんしょ札所ふだしょ現在げんざいしも醍醐だいご観音堂かんのんどうかりうつされている。

伽藍がらん[編集へんしゅう]

五重塔ごじゅうのとう国宝こくほう

しも醍醐だいごうえ醍醐だいごけわしい山道さんどうへだてられ、徒歩とほでは1あいだようする。

しも醍醐だいご[編集へんしゅう]

本尊ほんぞん薬師やくし如来にょらいぞう安置あんちする金堂こんどう三宝さんぼういんなどを中心ちゅうしんに、うえ醍醐だいごとは対照たいしょうてき絢爛けんらんだい伽藍がらんひろがっている。応仁おうにんらんでほぼ全焼ぜんしょうし、その焼失しょうしつ再建さいけんかえしているが、五重塔ごじゅうのとう創建そうけん当時とうじのまま現在げんざいのこる。また五重塔ごじゅうのとう内部ないぶ壁画へきが国宝こくほう指定していされており、壁画へきがちゅう空海くうかいぞう同人どうじん肖像しょうぞうとしては現存げんそん最古さいこのものである。

  • 金堂こんどう国宝こくほう
    入母屋いりもやづくりほん瓦葺かわらぶき。正面しょうめん7あいだ側面そくめん5あいだ平安へいあん時代じだい後期こうき建立こんりゅう豊臣とよとみ秀吉ひでよし発願ほつがんにより紀伊きいから移築いちくしたもので、慶長けいちょう3ねん1598ねん)から移築いちく開始かいしし、秀吉ひでよしぼつ慶長けいちょう5ねん1600ねん)、秀頼ひでよりだいになって落慶らっけいしている。『紀伊きい名所めいしょ図会ずえとうによると、当初とうしょ紀伊きいこく有田ありたぐん湯浅ゆあさ現在げんざい和歌山わかやまけん有田ありたぐん湯浅ゆあさまち)の満願寺まんがんじ[注釈ちゅうしゃく 3]本堂ほんどうであった。秀吉ひでよし紀州きしゅう征伐せいばつおこなった当時とうじ湯浅ゆあさ一帯いったい支配しはいしていた白樫しらかし紀伊きい守護しゅご畠山はたけやま家臣かしん)が満願寺まんがんじ一帯いったい拠点きょてんにしており、その居城きょじょうである白樫しらかしじょう満願寺まんがんじじょう)とともちされる予定よていであったが、醍醐寺だいごじ座主ざすであったえんじ応仁おうにんらん大内おおうちかれた醍醐寺だいごじ金堂こんどう再建さいけんをちょうどほっしていたこともあり、満願寺まんがんじ建築けんちくぶつ秀吉ひでよしすことを条件じょうけんにしてちが回避かいひされた経緯けいいがある。部材ぶざいには平安へいあん時代じだいのものがのこるが、どう湯浅ゆあさにあった鎌倉かまくら時代ときよ改修かいしゅうけており、移築いちく桃山ももやま時代じだい手法しゅほう混在こんざいする。組物くみもの統一とういつされておらず、正面しょうめんさん側面そくめん背面はいめんひらめさんという異例いれい意匠いしょうつのが特徴とくちょうで、ひらさん創建そうけん当時とうじのもの、正面しょうめんさん鎌倉かまくら時代じだい補修ほしゅうさいくわえられたものとかんがえられている。ちのたか入母屋いりもや屋根やね近世きんせいふうで、移築いちく改修かいしゅうである。内部ないぶには本尊ほんぞん薬師如来やくしにょらい坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)と日光にっこう菩薩ぼさつ月光げっこう菩薩ぼさつ四天王してんのうぞう安置あんちする。どうない内陣ないじん外陣がいじんれいどう)のさかい結界けっかいあいだ仕切じきりがなく、一体いったい空間くうかんとするてん特色とくしょくがある。そもそもの醍醐寺だいごじ金堂こんどう創建そうけん延長えんちょう4ねん926ねん)で、当初とうしょは「釈迦堂しゃかどう」とばれていた。えいひとし年間ねんかん1293ねん - 1299ねん)と文明ぶんめい年間ねんかん1469ねん - 1487ねん)の2焼失しょうしつしている。
  • 五重塔ごじゅうのとう国宝こくほう
    平安へいあん時代じだい後期こうきてんれき5ねん951ねん建立こんりゅううけたまわひらた元年がんねん931ねん)、その前年ぜんねんくずれじた醍醐天皇だいごてんのう冥福めいふくいのるためにだいさん皇子おうじだいあかり親王しんのう発願ほつがんし、穏子皇太后こうたいごう令旨れいし建立こんりゅう計画けいかくされた。しかし、うけたまわひら7ねん937ねん)のだいあかり親王しんのう薨去こうきょなどの影響えいきょう工事こうじ停滞ていたいし、そのおとうとにあたる朱雀すざく天皇てんのうぐも、発願ほつがんの20ねんとなる村上むらかみ天皇てんのう治世ちせいてんれき5ねん(951ねん)に完成かんせいした。総高そうだか38メートル。うち相輪そうりんが12.8メートルで、全体ぜんたいの3わり以上いじょうめる。屋根やね逓減ていげんりつおおきく[注釈ちゅうしゃく 4]とうちがひくいため、後世こうせいとうのような細長ほそなが外見がいけんにはならない。創建そうけん以来いらい修理しゅうりかさねたが、とく天正てんしょう13ねん1586ねん)の天正てんしょう地震じしんでは一部いちぶのきがるなどの甚大じんだい被害ひがいけたため、豊臣とよとみ秀吉ひでよし援助えんじょけて慶長けいちょう3ねん(1598ねん)3がつ修理しゅうり完成かんせいしている。1950ねん昭和しょうわ25ねん)のジェーン台風たいふうでも被害ひがいけ、1960ねん昭和しょうわ35ねん)に修理しゅうり完成かんせいした。京都きょうとしも最古さいこ木造もくぞう建造けんぞうぶつであり、京都きょうとのこ数少かずすくない平安へいあん時代じだい建築けんちくとして貴重きちょうであるとともに、はつじゅう内部ないぶりょうさかい曼荼羅まんだら真言しんごんはちあらわした壁画へきが現存げんそんする平安へいあん絵画かいがとして重要じゅうようであり、とう本体ほんたいとはべつに「絵画かいが」として国宝こくほう指定していされている。
  • 清瀧きよたき宮本みやもと殿どの重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 永長ながおさ2ねん1097ねん)にうえ醍醐だいごよりぶんまつして創建そうけん文明ぶんめい年間ねんかん兵火へいかにより焼失しょうしつするが、えいただし14ねん1517ねん)に再建さいけんされた。本殿ほんでん西側にしがわ塔頭たっちゅう無量むりょうこういん跡地あとち
    • 拝殿はいでん - 慶長けいちょう4ねん1599ねん建立こんりゅう
  • 不動堂ふどうどう - 堂前どうまえしばとう護摩ごまかれる。
  • 真如しんにょ三昧ざんまい耶堂 - 真如苑しんにょえん開祖かいそ伊藤いとうしんじょうおこした密教みっきょうほうりゅう真如しんにょ三昧ざんまい耶流」を顕彰けんしょうするため醍醐寺だいごじにより1997ねん平成へいせい9ねん)に建立こんりゅうされた[3]金色きんいろ涅槃ねはんぞうまつる。もとは朱雀すざく天皇てんのう御願ごがんによる法華三昧ほっけざんまいどうとしててんれき3ねん949ねん)に創建そうけんされたものだが、とおるとく19ねん1470ねん)に焼失しょうしつしている。
  • 祖師そしどう - かってみぎ弘法大師こうぼうだいし空海くうかい)、ひだりみなもと大師だいしせいたから)をまつる。慶長けいちょう10ねん1605ねん)9がつ座主ざすえんじじゅんきさき建立こんりゅう
  • きゅう阿闍梨あじゃりりょう - 1930ねん昭和しょうわ5ねん)、山口やまぐちげんほらによる建立こんりゅう
  • きゅう伝法でんぼう学院がくいん - 1930ねん昭和しょうわ5ねん)、山口やまぐちげんほらによる建立こんりゅう
  • だい伝法でんぼういん - 観音堂かんのんどう中心ちゅうしんとする一帯いったいだい伝法でんぼういんばれる。
    • 観音堂かんのんどうきゅうだい講堂こうどう) - 1930ねん昭和しょうわ5ねん)、山口やまぐちげんほらによる建立こんりゅう本尊ほんぞん丈六じょうろく阿弥陀如来あみだにょらい坐像ざぞうであるが、現在げんざい焼失しょうしつしたうえ醍醐だいごじゅん胝堂の西国さいこくさんじゅうさんしょ札所ふだしょかりうつされており、「観音堂かんのんどう」と改称かいしょうされてどうないおさめけいしょ[注釈ちゅうしゃく 5] がある。くちかってひだりうしろにある。
    • 弁天べんてん
    • 弁天べんてんどう - 1930ねん昭和しょうわ5ねん)、山口やまぐちげんほらによる建立こんりゅう林泉りんせん北東ほくとうがんてられている。
    • 庭園ていえん無量むりょう寿ことぶきえん」 - 池泉いけいずみ回遊かいゆうしき庭園ていえん
    • 鐘楼しゅろう - 1930ねん昭和しょうわ5ねん)、山口やまぐちげんほらによる建立こんりゅう
    • 日月じつげつもん - 1930ねん昭和しょうわ5ねん)、山口やまぐちげんほらによる建立こんりゅう
  • 西にし大門おおもん仁王門におうもん) - 慶長けいちょう10ねん1605ねん)、豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより再建さいけん仁王におうぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)はもとは南大門なんだいもんまつられていたぞうで、ながうけたまわ3ねん1134ねん)に仏師ぶっしいきおいぞうじんぞうによって造立ぞうりゅうされた。
  • 三宝さんぼういん - 歴代れきだい座主ざす居住きょじゅうするほんぼうてき存在そんざい永久えいきゅう3ねん1115ねん)に醍醐寺だいごじだい14せい座主ざすであったかつさとし僧正そうじょうにより金堂こんどうのすぐ西側にしがわ創建そうけんされ、のち現在地げんざいち復興ふっこうされた。からもん表書おもてがきいん国宝こくほう庭園ていえん特別とくべつ史跡しせきおよび特別とくべつ名勝めいしょう
  • 理性りせいいん - 塔頭たっちゅう別格べっかく本山ほんざん
  • おさむしょう殿どの
  • 庭園ていえんけん深林しんりんえん」 - 池泉いけいずみ回遊かいゆうしき庭園ていえん
  • さくら馬場ばば
  • 霊宝れいほうかん - 1935ねん昭和しょうわ10ねん)に開館かいかん2001ねん平成へいせい13ねん)10がつにリニューアルされた。7まん5せんてん以上いじょう国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざいふくやく10まんてん以上いじょうおよ寺宝じほう収蔵しゅうぞうしている。
    • 本館ほんかん
    • 平成へいせいかん
    • 仏像ぶつぞうとう
    • 醍醐だいごまさるしだれさくら - 樹齢じゅれい180ねん
  • 報恩ほうおんいん - 塔頭たっちゅう。もとはうえ醍醐だいごにあった極楽ごくらくぼうこう宇多うた法皇ほうおういのちしも醍醐だいご移転いてんし、明治めいじ現在地げんざいちうつる。
  • 光台ひかりだいいん - 塔頭たっちゅう
  • 伝法でんぼう学院がくいん
  • 黒門くろもん
  • みなみもん
  • 総門そうもん

うえ醍醐だいご[編集へんしゅう]

山頂さんちょうなら開山かいさんどう如意にょいはなわどう

ながらく西国さいこくさんじゅうさんしょだい11ばん札所ふだしょ存在そんざいし、西国さいこくいちけわしい札所ふだしょとしてられた。あがぐちにはかつて女人にょにん結界けっかいがあったことから女人にょにんどうかれ、そこからけわしい山間さんかんはいる。平安へいあん時代じだい当時とうじのままのこ国宝こくほう薬師堂やくしどう醍醐寺だいごじ鎮守ちんじゅしんである清瀧きよたき権現ごんげん拝殿はいでんじゅん胝堂あと五大堂ごだいどうなどがならぶ。うえ醍醐だいごには有名ゆうめいな「醍醐だいごすい」がいまているほか醍醐山だいごやま山頂さんちょう標高ひょうこう450m)には、如意にょいどう開山かいさんどうならぶ。山頂さんちょうから笠取山かさとりやまかう途中とちゅうおくいんがある。

  • 女人にょにんどうなりいん) - 江戸えど時代じだい初期しょき再建さいけんうえ醍醐だいごへの入山にゅうざんりょう支払しはらいしょがある。これより19ちょうやく2.1km)、やく1あいだけい登山とざんとなる。
  • 花見はなみ御殿ごてんあと - やりやまばれるこの場所ばしょでも「醍醐だいご花見はなみ」がおこなわれた。
  • 音羽おとわ魔王まおうだい権現ごんげんしゃ
  • 受庵 - 客殿きゃくでん寺務じむしょ
  • 清瀧きよたき宮本みやもと殿どの - 寛治かんじ2ねん1088ねん)12月の創建そうけん空海くうかいとう長安ながやすあおりゅうてらから勧請かんじょうした密教みっきょう守護神しゅごじん清瀧きよたき権現ごんげん)をまつった醍醐寺だいごじ鎮守ちんじゅしゃ昭和しょうわ14ねん焼失しょうしつ昭和しょうわ32ねん再建さいけん
  • 横尾よこお大明神だいみょうじん
  • 醍醐だいごすい - せいたから感得かんとくし、醍醐寺だいごじ名前なまえ由来ゆらいとなったといわれる霊泉れいせん
  • じゅん胝堂あと - さだかん18ねん876ねん)、せいたからによって如意にょいどうとも創建そうけんされた。西国さいこくさんじゅうさんしょだい11ばん札所ふだしょ1968ねん昭和しょうわ43ねん)に再建さいけんされたどう落雷らくらいにより2008ねん平成へいせい20ねん)8がつ24にち焼失しょうしつした。再建さいけんまでのあいだ西国さいこく札所ふだしょしも醍醐だいご観音堂かんのんどうだい講堂こうどう)にかりうつされており、おさめけいしも醍醐だいごだけでおこなっている。
  • 柏木かしわぎ稲荷いなり大明神だいみょうじん
  • 薬師堂やくしどう国宝こくほう) - 醍醐天皇だいごてんのう勅願ちょくがんにより、せいたから延喜えんぎ13ねん913ねん)に天皇てんのう御願ごがんどうとして創建そうけんした。現存げんそんどう保安ほあん2ねん1121ねん)の再建さいけん入母屋いりもやづくりひのきがわ正面しょうめん5あいだ側面そくめん4あいだ側面そくめんはしらあいだ4あいだのうち、中央ちゅうおうの2あいだせまく、ぜんりとこうりのかく1あいだひろいのはめずらしい。内部ないぶには薬師くすしさんみことぞう国宝こくほう)、閻魔えんまてんぞう帝釈天たいしゃくてんぞう千手観音せんじゅかんのんぞう以上いじょう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)などを安置あんちしていたが、現在げんざいすべ醍醐だいご霊宝れいほうかんうつされている。
  • 五大ごだいどう - せいたから鎮護ちんご国家こっか祈願きがん道場どうじょうとして延喜えんぎ13ねん(913ねん)に創建そうけん慶長けいちょう11ねん1606ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでよりによって再建さいけんされた。現在げんざいどう1940ねん昭和しょうわ15ねん)の再建さいけん
  • せいたからぞう
  • かんけんぞう
  • やく小角おがくぞう
  • 鐘楼しゅろう
  • 如意にょいどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - さだかん18ねん(876ねん)、せいたからによってじゅん胝堂ととも創建そうけんされた。慶長けいちょう11ねん(1606ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより再建さいけんかかつくりとなっている。
  • 開山かいさんどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 延喜えんぎ11ねん911ねん)に醍醐寺だいごじ初代しょだい座主ざすであったかんけんによって創建そうけん当初とうしょは「御影堂ごえどう」とばれていたがのち焼失しょうしつ鎌倉かまくら時代じだい再建さいけんされるが荒廃こうはいし、慶長けいちょう11ねん(1606ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより再建さいけん内陣ないじん厨子ずしにはみなもと大師だいしせいたから坐像ざぞうなどが安置あんちされている。
  • えんゆい白山はくさんだい権現ごんげん
  • 地蔵堂じぞうどう
  • 白河天皇しらかわてんのう皇后こうごう賢子さとこうえ醍醐だいごりょう - 宮内庁くないちょう管理かんりにある。
  • おくいん洞窟どうくつ - 開山かいさんどうおくにあるいち鳥居とりいから鳥居とりいさん鳥居とりいやく30ふんひだりすこくとあさ洞窟どうくつおくいんみぎすすむと「ひがしのぞき」でした断崖絶壁だんがいぜっぺきとなっている。

年中ねんじゅう行事ぎょうじ[編集へんしゅう]

様々さまざま行事ぎょうじ毎月まいつきおこなわれている[4]屋外おくがいでの壮大そうだいしばとう護摩ごま(さいとうごま)はせいたからはじめたとつたわり、醍醐寺だいごじでも折々おりおりおこなわれる。五大ごだい明王みょうおう功徳くどくたたえる2がつ23にちの「大力だいりきみこと仁王におうかい」(ごだい・りきそん・にんのう・え)は、150kg(女性じょせいは90kg)という巨大きょだい鏡餅かがみもちげるちからくらべがおこなわれることで有名ゆうめいであり、当日とうじつそなえて練習れんしゅうはげ信徒しんともいる[5]豊臣とよとみ秀吉ひでよしの「醍醐だいご花見はなみ」にちなむゆたか太閤たいこう花見はなみ行列ぎょうれつ(4がつだいにち曜日ようび)、施餓鬼せがき法要ほうようなどからなる8がつ万灯会まんどうえ(まんとうえ)などもおおくの参拝さんぱいしゃ観光かんこうきゃくおとずれる。

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

五重塔ごじゅうのとう壁画へきが 大日如来だいにちにょらいしんばしら西にしめん
五大ごだいたかしのうち不動明王ふどうみょうおう国宝こくほう
文殊もんじゅ渡海とかい国宝こくほう

国宝こくほう[編集へんしゅう]

建造けんぞうぶつ
  • 金堂こんどう
  • 五重塔ごじゅうのとう
  • 清滝きよたきみや拝殿はいでんうえ醍醐だいご
  • 薬師堂やくしどううえ醍醐だいご
  • 三宝さんぼういんとうもん
  • 三宝さんぼういん表書おもてがきいん
絵画かいが
  • 絹本けんぽんちょしょくだい尊像そんぞう
  • 絹本けんぽんちょしょく文殊もんじゅ渡海とかい
  • 絹本けんぽんちょしょく訶梨みかどははぞう
  • 絹本けんぽんちょしょく閻魔えんまてんぞう
  • 五重塔ごじゅうのとうはつじゅう壁画へきがいたちょしょく)18めん
    • りょうさかい曼荼羅まんだら しんばしらくつがえいた4、羽目板はめいた7
    • 真言しんごんはちぞうぜんかしこく)羽目板はめいた7
    • りょうさかい曼荼羅まんだらきゅうよんてんばしら2ほん羽目板はめいた断片だんぺん4めん
  • かみほんちょしょく因果いんがけい
彫刻ちょうこく
  • 木造もくぞう薬師如来やくしにょらい及両わきさむらいぞうきゅううえ醍醐だいご薬師堂やくしどう安置あんち
  • 木造もくぞう虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ立像りつぞう[6]
書跡しょせき典籍てんせき古文書こもんじょ
後醍醐天皇ごだいごてんのう宸翰しんかんてんちょうしるししんじ(蠟牋)』(後醍醐天皇ごだいごてんのう文観もんかんぼうひろしん国宝こくほう

重要じゅうよう文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

建造けんぞうぶつ
  • 清滝きよたき宮本みやもと殿どのしも醍醐だいご
  • 如意にょいどううえ醍醐だいご
  • 開山かいさんどううえ醍醐だいご
  • 三宝さんぼういん殿堂でんどう玄関げんかん勅使ちょくしあいだ秋草あきくさあいだあおいあいだ庫裏くり、宸殿、じゅんきよしかん護摩堂ごまどう
  • 三宝さんぼういんたから篋印とう
絵画かいが
  • 絹本けんぽんちょしょく阿弥陀あみださん尊像そんぞう
  • 絹本けんぽんちょしょく大日だいにち金輪かなわぞう(1902ねん重文じゅうぶん指定してい、98.2×60.9 cm)
  • 絹本けんぽんちょしょく大日だいにち金輪かなわぞう(1941ねん重文じゅうぶん指定してい、96.4×83.3 cm)
  • 絹本けんぽんちょしょく虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつぞう
  • 絹本けんぽんちょしょく地蔵じぞう菩薩ぼさつぞう
  • 絹本けんぽんちょしょくひろしけん延命えんめいぞう
  • 絹本けんぽんちょしょく弥勒菩薩みろくぼさつぞう
  • 絹本けんぽんちょしょく大元帥だいげんすい明王みょうおうぞう(卅ろくひじはちひじよんひじ)3ぶく毘沙門天びしゃもんてんぞうでん釈迦しゃか曼荼羅まんだら虚空蔵こくぞう曼荼羅まんだら大元帥だいげんすいほう本尊ほんぞんぞう
  • 絹本けんぽんちょしょく愛染明王あいぜんみょうおうぞう
  • 絹本けんぽんちょしょく金剛夜叉こんごうやしゃ明王みょうおうぞう
  • 絹本けんぽんちょしょくだい威徳いとく明王みょうおうぞう
  • 絹本けんぽんちょしょく秘密ひみつぞう
  • かみほん墨画ぼくが不動明王ふどうみょうおうぞう 5ぶく
  • かみほん墨画ぼくが密教みっきょう図像ずぞう 39てん明細めいさいこう
  • 絹本けんぽんちょしょく山水さんすい屏風びょうぶ ろくきょく屏風びょうぶいちせき
  • 絹本けんぽんちょしょく仁王におうけい曼荼羅まんだら
  • 絹本けんぽんちょしょく般若はんにゃ菩薩ぼさつ曼荼羅まんだら
  • 絹本けんぽんちょしょく弥勒みろく曼荼羅まんだら
  • 絹本けんぽんちょしょくりょうさかい曼荼羅まんだら
  • 絹本けんぽんちょしょくろくけい曼荼羅まんだら
  • こんきぬ金泥きんでいろくけい曼荼羅まんだら
  • かみほんちょしょくじゅうかんしょうだいじゅうかんうつし
  • 絹本けんぽんちょしょくまんすみぞう土佐とさ行広ゆきひろふで自賛じさんおよえいとおるろくねん自筆じひつ開眼かいがん供養くよう裏書うらがき)、絹本けんぽんちょしょく義賢よしかたぞう絹本けんぽんちょしょくぞう天正てんしょうじゅうさんねんよしえんじ開眼かいがん供養くよう裏書うらがき)、絹本けんぽんちょしょくえんじぞう寛永かんえいよんねん堯円開眼かいがん供養くよう裏書うらがき)、絹本けんぽんちょしょくさとしじょうぞう[11][12]
  • 金地きんじちょしょく扇面せんめん でん俵屋たわらや宗達そうたつふで きょく屏風びょうぶ一双いっそう
  • 金地きんじちょしょく舞楽ぶがく 俵屋たわらや宗達そうたつひつ きょく屏風びょうぶ一双いっそう
  • かみほんちょ色調しきちょう ろくきょく屏風びょうぶ一双いっそう
  • かみほん墨画ぼくがあしかも 俵屋たわらや宗達そうたつひつめん衝立ついたて
  • 三宝さんぼういん障壁しょうへき 72めん明細めいさい三宝さんぼういんこう参照さんしょう
彫刻ちょうこく
木造もくぞう金剛力士こんごうりきし立像りつぞう
  • 木造もくぞう薬師如来やくしにょらい及両わきさむらいぞう金堂こんどう安置あんち
  • どうづくり阿弥陀如来あみだにょらい坐像ざぞう
  • 木造もくぞう阿弥陀如来あみだにょらい坐像ざぞう
  • 木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう
  • 木造もくぞう如意輪観音にょいりんかんのん坐像ざぞう
  • 木造もくぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう
  • 木造もくぞう弥勒菩薩みろくぼさつ坐像ざぞう 快慶かいけいさく三宝さんぼういん本堂ほんどう安置あんち
  • 木造もくぞう閻魔えんまてんうしぞう
  • 木造もくぞう吉祥天きちじょうてん立像りつぞう
  • 木造もくぞう金剛力士こんごうりきし立像りつぞう所在しょざい西にし大門おおもん) - ちょううけたまわ3ねん1134ねん造立ぞうりゅう
  • 木造もくぞう帝釈天たいしゃくてんぞうぞう
  • 木造もくぞうだい明王みょうおうぞうきゅう三宝さんぼういん護摩堂ごまどう安置あんち
  • 木造もくぞう不動明王ふどうみょうおう坐像ざぞう 快慶かいけいさく
  • 木造もくぞう不動明王ふどうみょうおう坐像ざぞう
  • 木造もくぞう五大ごだい明王みょうおうぞううえ醍醐だいご五大堂ごだいどう安置あんち[注釈ちゅうしゃく 7]
  • 木造もくぞうみなもと大師だいし坐像ざぞう開山かいさんどう安置あんち
工芸こうげいひん
  • 金銅かなどう仏具ぶつぐ如意にょいきゅう鈷杵鈷鈴、金剛こんごうばん
  • 金銅かなどうりょうさかい曼荼羅まんだら
  • いし燈籠どうろう 弘安ひろやすはちねん(1285ねんめいうえ醍醐だいごきよし滝宮たつのみや本殿ほんでんまえ
  • せんこく阿弥陀あみだふつきょうぞう
  • せんこく如意輪観音にょいりんかんのんとうきょうぞう
  • 鍍金めっきたから羯磨もん戒体筥
  • 沃懸螺鈿らでんせつしょうばこ(いかけじらでんせっそうばこ) 一双いっそう
  • 螺鈿らでん如意にょい
書跡しょせき典籍てんせき古文書こもんじょ

典拠てんきょ:2000ねん平成へいせい12ねん)までの指定してい物件ぶっけんについては、国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい大全たいぜん 2000による。2001ねん平成へいせい13ねん以降いこう指定してい物件ぶっけんについては個別こべつ注記ちゅうき

三宝さんぼういんとうもん三宝さんぼういん表書おもてがきいん三宝さんぼういん殿堂でんどう三宝さんぼういんたから篋印とう三宝さんぼういん障壁しょうへき国宝こくほう2けん重要じゅうよう文化財ぶんかざい3けん宗教しゅうきょう法人ほうじん三宝さんぼういん所有しょゆうであり、宗教しゅうきょう法人ほうじん醍醐寺だいごじ文化財ぶんかざい保護ほごほうもとづく管理かんり団体だんたい指定していされている[注釈ちゅうしゃく 8]

特別とくべつ名勝めいしょう特別とくべつ史跡しせき[編集へんしゅう]

  • 醍醐寺だいごじ三宝さんぼういん庭園ていえん

くに史跡しせき[編集へんしゅう]

  • 醍醐寺だいごじ境内けいだい - 指定してい区域くいきにはかしわもり遺跡いせき伏見ふしみ醍醐柏森だいごかしわもりまち)をふく[15]

近代きんだい以降いこう焼失しょうしつした文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • きゅう五大堂ごだいどううえ醍醐だいご) - きゅう国宝こくほう建造けんぞうぶつ。1932ねん昭和しょうわ7ねん)4がつ3にち護摩ごま屋根やねうつ焼失しょうしつ、1940ねん昭和しょうわ15ねん再建さいけん
  • 経蔵きょうぞううえ醍醐だいご) - きゅう国宝こくほう建造けんぞうぶつ。1939ねん昭和しょうわ14ねん)8がつ29にちやま火事かじして焼失しょうしつ
  • 指定してい文化財ぶんかざいではないが、1968ねん昭和しょうわ43ねん)に再建さいけんされたうえ醍醐だいごじゅん胝堂は2008ねん平成へいせい20ねん)8がつ24にち落雷らくらいによる火災かさい焼失しょうしつ今後こんご再建さいけん検討けんとうされている[16]

その指定してい選定せんてい[編集へんしゅう]

教育きょういく機関きかん[編集へんしゅう]

五重塔ごじゅうのとうおが境内けいだい仏閣ぶっかく巡拝じゅんぱいちゅう僧侶そうりょ醍醐寺だいごじには仏道ぶつどうまなわか僧侶そうりょおおい。

施設しせつ[編集へんしゅう]

  • 醍醐寺だいごじ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ
  • 霊宝れいほうかん

しん宗教しゅうきょう団体だんたいとの関係かんけい[編集へんしゅう]

醍醐寺だいごじ戦後せんご真言宗しんごんしゅう醍醐だいごから独立どくりつした真言宗しんごんしゅうけいしん宗教しゅうきょうである真如苑しんにょえん解脱げだつかいひとし現在げんざいでも密接みっせつ関係かんけいっている。

解脱げだつかい創始そうししゃであった岡野おかのきよしけんは、醍醐寺だいごじ三宝さんぼういん出家しゅっけ得度とくど死後しご醍醐寺だいごじから「解脱げだつ金剛こんごう」の諡号しごうおくられている[17]解脱げだつかい伊勢神宮いせじんぐう橿原神宮かしはらじんぐう泉涌寺せんにゅうじさん聖地せいちとしているが、醍醐寺だいごじにも集団しゅうだん参拝さんぱいおこなっている。

真如苑しんにょえん開祖かいそであった伊藤いとうしんじょうは、醍醐寺だいごじめぐみしるし灌頂伝法でんぼう灌頂を畢めており、1966ねん昭和しょうわ41ねん)には大僧正だいそうじょうくらいおくられている。醍醐寺だいごじ1997ねん平成へいせい9ねん)、しんじょうおこした密教みっきょうほうりゅう真如しんにょ三昧ざんまい耶流」を顕彰けんしょうする「真如しんにょ三昧ざんまい耶堂」を境内けいだい建立こんりゅうした[3][17]真如苑しんにょえん法要ほうようには、醍醐だいご管長かんちょうをはじめ、醍醐寺だいごじ僧侶そうりょ招待しょうたいされることがある。

新明しんめい国上くにがみ教会きょうかい不動明王ふどうみょうおうを「新明しんめい国上くにがみしんさま」とし、「真言宗しんごんしゅう醍醐だいご修験しゅげんどう宿河原しゅくがわら教会きょうかい」(通称つうしょう宿河原しゅくがわら不動尊ふどうそん」)となって真言宗しんごんしゅう醍醐だいご所属しょぞくしていた[18]

前後ぜんご札所ふだしょ[編集へんしゅう]

西国さいこくさんじゅうさんしょ
10 さんしつてら - 11 醍醐寺だいごじうえ醍醐だいごじゅん胝堂) - 12 岩間いわまてら正法寺しょうほうじ
真言宗しんごんしゅうじゅうはち本山ほんざん
11 ずいしんいん - 12 醍醐寺だいごじ - 13 宝山寺ほうざんじ
近畿きんきさんじゅうろく不動尊ふどうそん霊場れいじょう
22 北向きたむきさん不動院ふどういん - 23 醍醐寺だいごじうえ醍醐だいご五大堂ごだいどう - 24 岩屋いわやてら
西国さいごく薬師くすしよんじゅうきゅう霊場れいじょう
38 法界寺ほうかいじ - 39 醍醐寺だいごじ - 40 雲龍うんりゅういん
役行者えんのぎょうじゃれいあと札所ふだしょ
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみち
125 平等院びょうどういん - 126 醍醐寺だいごじ - 127 毘沙門堂びしゃもんどう

醍醐山だいごやま国有こくゆうりん[編集へんしゅう]

裏山うらやまにあたる醍醐山だいごやま醍醐山だいごやま国有こくゆうりん面積めんせき118ha)がある[19]。この林地りんち江戸えど時代じだいまで醍醐寺だいごじ寺領じりょうだったが、明治めいじ初期しょき社寺しゃじじょうれいにより官有かんゆう編入へんにゅうされた[19]。その1947ねん昭和しょうわ22ねん)の「社寺しゃじとう無償むしょうけてある国有こくゆう財産ざいさん処分しょぶんかんする法律ほうりつ」にもとづき、きゅう境内けいだいなどやく160haが醍醐寺だいごじ譲与じょうよされた[19]。その結果けっか醍醐山だいごやま国有こくゆうりん醍醐寺だいごじ境内けいだいかこかたちになっている[19]。なお、醍醐山だいごやま国有こくゆうりん全域ぜんいき醍醐寺だいごじ境内けいだい一部いちぶとして、文化財ぶんかざい保護ほごほうもとづく「史跡しせき」に指定していされている[19]

周辺しゅうへん[編集へんしゅう]

アクセス[編集へんしゅう]

しも醍醐だいご伽藍がらんうえ醍醐だいご入山にゅうざんそれぞれに有料ゆうりょうエリアがある[20]

しも醍醐だいごへは京阪けいはんバスによるアクセスが確保かくほされている。2ごう経路けいろのぞきいずれも京阪けいはんバス山科やましな営業えいぎょうしょ管轄かんかつ

うえ醍醐だいごへはしも醍醐だいご女人にょにんどうから山道さんどう徒歩とほやく1あいだ

  • かつてはよこみねとうげ駐車ちゅうしゃじょうからの比較的ひかくてきらくなルートもあったが、現在げんざい通行つうこう不可ふかになっている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 醍醐だいごとは、とうとおしえの比喩ひゆとして『だい般涅槃経』などの仏典ぶってん登場とうじょうする乳製品にゅうせいひんである。
  2. ^ 法華三昧ほっけざんまいどう」として朱雀すざく天皇てんのう勅願ちょくがんてんれき3ねん949ねん)、しも醍醐だいご創建そうけんされたが、のち焼失しょうしつした。
  3. ^ 12世紀せいき後半こうはん建立こんりゅうされたこう白河しらかわ法皇ほうおう御願ごがんてら
  4. ^ 仏塔ぶっとう屋根やねは、はつじゅうもっとおおきく、じゅう三重みえうえくにしたがって次第しだいちいさくなるが、その減少げんしょうりつおおきいという
  5. ^ 総本山そうほんざん醍醐寺だいごじ真言宗しんごんしゅうじゅうはち本山ほんざん神仏しんぶつ霊場れいじょうかい西国さいこくさんじゅうさんしょだい11ばん札所ふだしょ近畿きんきさんじゅうろく不動尊ふどうそんだい23ばん西国さいごく薬師くすしよんじゅうきゅう霊場れいじょうだい39ばん役行者えんのぎょうじゃれいあと札所ふだしょおさめけいあつかっている。
  6. ^ 2020ねん員数いんずうをそれまでの「69,378てん」から「69,393てん」に訂正ていせい[8]
  7. ^ 2004ねんに「木造もくぞうだい威徳いとく明王みょうおうぞう 1 木造もくぞう不動明王ふどうみょうおうくださんせい明王みょうおうぐん荼利明王みょうおう金剛夜叉こんごうやしゃ明王みょうおうぞう 4」として重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされたが、2009ねん指定していの4ほん指定してい格上かくあげし、指定してい名称めいしょうも「木造もくぞうだい明王みょうおうぞう 5」となった[13][14]
  8. ^ 管理かんり団体だんたい指定してい告示こくじは、昭和しょうわ52ねん4がつ25にち文化庁ぶんかちょう告示こくじだい8ごうおよだい9ごう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 寺宝じほう文化財ぶんかざい”. 醍醐寺だいごじ. 2019ねん9がつ16にち閲覧えつらん
  2. ^ 清水しみず 2021, pp. 192~196
  3. ^ a b c 読売新聞よみうりしんぶん』、1995ねん9がつ11にち
  4. ^ 醍醐寺だいごじ年中ねんじゅう行事ぎょうじ一覧いちらん”. 2018ねん2がつ25にち閲覧えつらん
  5. ^ 田中たなか美枝子みえこもち道場どうじょう 師範しはん横綱よこづな京都きょうと醍醐寺だいごじちからきそ奉納ほうのう 31にんおし優勝ゆうしょう」『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん』、2018ねん2がつ20日はつか朝刊ちょうかん
  6. ^ 平成へいせい27ねん9がつ4にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい134ごう
  7. ^ 平成へいせい25ねん6がつ19にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい105ごう
  8. ^ れい2ねん9がつ30にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい122ごう
  9. ^ 平成へいせい29ねん9がつ15にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい114ごう
  10. ^ 国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していについて”. 文化庁ぶんかちょう. 2020ねん3がつ19にち閲覧えつらん
  11. ^ 文化ぶんか審議しんぎかい答申とうしん国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の指定していおよ登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の登録とうろくについて~”. 文化庁ぶんかちょう. 2020ねん3がつ19にち閲覧えつらん
  12. ^ れい2ねん9がつ30にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい118ごう
  13. ^ 平成へいせい16ねん6がつ8にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい112ごう
  14. ^ 平成へいせい21ねん7がつ10日とおか文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい108ごう
  15. ^ 図説ずせつ日本にっぽん史跡しせき 1991, p. 122
  16. ^ 西国さいこくさんじゅうさん観音かんのん霊場れいじょうだいじゅういちばんじゅん観世音菩薩かんぜおんぼさつひらきとびら法要ほうよう”. 醍醐寺だいごじ. 2018ねん2がつ25にち閲覧えつらん
  17. ^ a b 井上いのうえ 2012, pp. 426~7
  18. ^ 新明しんめい国上くにがみ教会きょうかい由来ゆらいについて”. 宗教しゅうきょう法人ほうじん新明しんめい国上くにがみ教会きょうかい. ?閲覧えつらん
  19. ^ a b c d e 京都きょうと大阪おおさか森林しんりん管理かんり事務所じむしょメールニュース「平安へいあんだい11ごう”. 近畿きんき中国ちゅうごく森林しんりん管理かんりきょく 京都きょうと大阪おおさか森林しんりん管理かんり事務所じむしょ. 2022ねん10がつ22にち閲覧えつらん
  20. ^ 拝観はいかんのご案内あんない”. 醍醐寺だいごじ. 2018ねん2がつ25にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]