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清水寺きよみずでら

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
清水寺きよみずでら
境内けいだい本堂ほんどう(2016ねん11月)
所在地しょざいち 京都きょうと京都きょうと東山ひがしやま清水しみず1丁目ちょうめ294
位置いち 北緯ほくい3459ふん41.39びょう 東経とうけい13547ふん6.01びょう / 北緯ほくい34.9948306 東経とうけい135.7850028 / 34.9948306; 135.7850028座標ざひょう: 北緯ほくい3459ふん41.39びょう 東経とうけい13547ふん6.01びょう / 北緯ほくい34.9948306 東経とうけい135.7850028 / 34.9948306; 135.7850028
山号さんごう 音羽山おとはさん
宗派しゅうは きた法相ほうしょうむね
寺格じかく 大本山だいほんざん
本尊ほんぞん じゅういちめんせん観世音菩薩かんぜおんぼさつ秘仏ひぶつ
創建そうけんねん つてたからひさし9ねん778ねん
開山かいさん つてのべ
正式せいしきめい 音羽山おとはさん 清水寺きよみずでら
札所ふだしょとう 西国さいこくさんじゅうさんしょだい16ばん
洛陽らくようさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうだい10 - 14ばん
法然ほうねん上人しょうにんじゅう霊場れいじょうだい13ばん
洛陽らくようろく阿弥陀あみだめぐりだい3ばん
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみちだい117ばん京都きょうとだい37ばん
文化財ぶんかざい 本堂ほんどう国宝こくほう
仁王門におうもん三重みえとう阿弥陀堂あみだどうほか(重要じゅうよう文化財ぶんかざい
世界せかい遺産いさん
公式こうしきサイト 音羽山おとはさん 清水寺きよみずでら
法人ほうじん番号ばんごう 9130005001352 ウィキデータを編集
清水寺の位置(京都市内)
清水寺
清水寺きよみずでら
清水寺きよみずでら (京都きょうと)
地図
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清水寺きよみずでら(きよみずでら、えい: Kiyomizu-dera Temple[1])は、京都きょうと東山ひがしやま清水しみず1丁目ちょうめにあるきた法相ほうしょうむね大本山だいほんざん寺院じいん山号さんごう音羽山おとはさん本尊ほんぞんじゅういちめんせん観世音菩薩かんぜおんぼさつ正式せいしきには音羽山おとはさん清水寺きよみずでら(おとわさんきよみずでら)とごうする。もとは法相ほうしょうむねぞくしていたが、現在げんざい独立どくりつしてきた法相ほうしょうむね名乗なのる。西国さいこくさんじゅうさんしょだい16ばん札所ふだしょ洛陽らくようさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうだい10から14ばん札所ふだしょ境内けいだい敷地しきち面積めんせき)はやく13まん m2[2]

概要がいよう

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仁王門におうもん(2022ねん3がつ

清水寺きよみずでら法相ほうしょうむね南都なんとろくむねの1つ)けい寺院じいんで、広隆寺こうりゅうじ鞍馬あんばてらとともに、平安京へいあんきょう遷都せんと以前いぜんからの歴史れきしをもつ京都きょうとでは数少かずすくない寺院じいんの1つである。また、石山寺いしやまでら滋賀しがけん大津おおつ)、長谷寺はせでら奈良ならけん桜井さくらい)などとならび、日本にっぽんでも有数ゆうすう観音かんのん霊場れいじょうである。鹿苑寺ろくおんじ金閣寺きんかくじ)、嵐山あらしやまなどとなら京都きょうと市内しないでも有数ゆうすう観光かんこうとして有名ゆうめいであり[3]ぶしわずおおくの参詣さんけいしゃおとずれる。また、修学旅行しゅうがくりょこうおおくの学生がくせいおとずれる。古都こと京都きょうと文化財ぶんかざいとしてユネスコ世界せかい遺産いさん登録とうろくされている。

清水寺きよみずでら宗旨しゅうしは、当初とうしょ法相ほうしょうむねで、平安へいあん時代じだい中期ちゅうきからは真言宗しんごんしゅうけんむねしていた。明治めいじ時代じだい初期しょき一時いちじ真言宗しんごんしゅう醍醐だいごぞくするが、1885ねん明治めいじ18ねん)に法相ほうしょうむねふくす。1965ねん昭和しょうわ40ねん)に住職じゅうしょくであった大西おおにしりょうけいきた法相ほうしょうむねたてむねして法相ほうしょうむねから独立どくりつした[4]

歴史れきし

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音羽おとわたきにてけんこころ法師ほうしひだり)はくだりあきら居士こじ対面たいめん 清水寺きよみずでら縁起えんぎ絵巻えまき土佐とさ光信みつのぶふで東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんくら上巻じょうかんより

創建そうけん伝承でんしょう

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清水寺きよみずでら創建そうけんについては、『ぐんしょ類従るいじゅう所収しょしゅう藤原明衡ふじわらのあきひらせんの『清水寺きよみずでら縁起えんぎ』、えいただし17ねん1520ねん制作せいさくの『清水寺きよみずでら縁起えんぎ絵巻えまき』(東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん)『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう』、『扶桑ふそう略記りゃっき』ののべれき17ねん798ねんなどにも清水寺きよみずでら草創そうそう伝承でんしょうせられている。これらによれば、草創そうそう縁起えんぎ大略たいりゃくとおりである。

たからひさし9ねん778ねん)に、大和やまとこく興福寺こうふくじそう当時とうじ島寺しまでら奈良ならけん高市たかいちぐん高取たかとりまち現存げんそん)で修行しゅぎょうしていたけんこころのちのべ改名かいめい)は、ゆめのおげできたかい、山城やましろこく愛宕あたごぐん八坂やさかさと東山ひがしやまいま清水寺きよみずでらである音羽山おとはさんいたった。金色きんいろ水流すいりゅう見出みいだしたけんしんがそのみなもとをたどっていくと、そこにはこのやまこもってたきこうおこない、千手観音せんじゅかんのんねんつづけているくだりあきら居士こじ(ぎょうえいこじ)という白衣はくい修行しゅぎょうしゃがいた。年齢ねんれい200さいになるというくだりあきら居士こじけんしんに「わたしはあなたがるのを長年ながねんっていた。自分じぶんはこれから東国とうごく旅立たびだつので、たのむ」といいのこしてっていった。くだりあきら観音かんのん化身けしんであったとさとったけんしんは、くだりあきらのこしていった霊木れいぼく千手観音せんじゅかんのんぞうきざみ、くだりあきらきゅうあん安置あんちした。これが清水寺きよみずでらはじまりであるという。

その2ねん宝亀ほうき11ねん780ねん)、鹿しかとらえようとして音羽山おとはさんはいんだ坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ758ねん - 811ねん)は、修行しゅぎょうちゅうけんしん出会であった。田村たむら麻呂まろつま高子たかこ病気びょうき平癒へいゆのため、くすりになる鹿しかもとめてこのやまたのであるが、のべ鎮より殺生せっしょうつみかれ、観音かんのん帰依きえして観音かんのんぞうまつるために自邸じてい本堂ほんどうとして寄進きしんしたという。のち征夷大将軍せいいたいしょうぐんとなり、東国とうごく蝦夷えぞ平定へいていめいじられた田村たむら麻呂まろは、自身じしん建立こんりゅうした清水寺きよみずでら平定へいてい参拝さんぱいをしたという。その若武者わかむしゃろうそう観音かんのん使者ししゃである毘沙門天びしゃもんてん地蔵じぞう菩薩ぼさつ化身けしん)の加勢かせいたたかいに勝利しょうりし、無事ぶじかえることができた。のべれき17ねん798ねん)、田村たむら麻呂まろのべ鎮(けんこころあらため)と協力きょうりょくして本堂ほんどうだい規模きぼ改築かいちくし、観音かんのんぞうわきさむらいとして毘沙門天びしゃもんてん地蔵じぞう菩薩ぼさつぞうつくり、ともまつったという。以上いじょう縁起えんぎにより、清水寺きよみずでらではくだりあきら元祖がんそのべ鎮を開山かいさん田村たむら麻呂まろ本願ほんがん位置いちづけている[5]

平安へいあん時代じだい以降いこう

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のべれき24ねん805ねん)には太政官だじょうかんにより坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ寺地てらちたまわり、ひろしひとし元年がんねん810ねん)には嵯峨天皇さがてんのう勅許ちょっきょ公認こうにん寺院じいんとなり、「きた観音寺かんおんじ」の寺号じごうたまわったとされる。『枕草子まくらのそうし』は「さわがしきもの」のれいとして清水しみず観音かんのん縁日えんにちげ、『源氏物語げんじものがたり』「夕顔ゆうがお」のまきや『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう』にも清水しみず観音かんのんへの言及げんきゅうがあるなど、平安へいあん時代じだい中期ちゅうきには観音かんのん霊場れいじょうとして著名ちょめいであったことがわかる[6]

清水寺きよみずでら伽藍がらん康平こうへい6ねん1063ねん)の火災かさい扶桑ふそう略記りゃっき言及げんきゅう以来いらい近世きんせい寛永かんえい6ねん1629ねん)の焼失しょうしつまで、記録きろくのこるだけで9かい焼失しょうしつかえしている。

平安へいあん時代じだい以来いらいながらく法相ほうしょうむね興福寺こうふくじ支配しはいにあり、平安へいあん時代じだい中期ちゅうきからは真言宗しんごんしゅうをもけんむねしていたが、興福寺こうふくじ延暦寺えんりゃくじのいわゆる「南都なんと北嶺ほくれい」のあらそいにもたびたびまれ、えいよろず元年がんねん1165ねん)には延暦寺えんりゃくじ僧兵そうへい乱入らんにゅうによって焼亡しょうぼうしている。

文明ぶんめい元年がんねん1469ねん)には応仁おうにんらん兵火へいかによって焼失しょうしつし、その再建さいけんのために時宗じしゅう勧進かんじんきよしねがい阿弥あみむかれられた。ねがい阿弥あみ清水寺きよみずでらにゅうてら以前いぜんはしてらどう再建さいけん救恤きゅうじゅつといった事業じぎょう従事じゅうじしており[7]、そのさいひきいていた勧進かんじん集団しゅうだん要人ようじんとの人脈じんみゃくをもって再興さいこう事業じぎょうのぞんだ[8]ねがい阿弥あみ自身じしん再興さいこう完遂かんすい見届みとどけることなくったが、ねがい阿弥あみひきいた勧進かんじん集団しゅうだん寺内てらうち地歩ちほきずき、本願ほんがん成就じょうじゅいんとして近世きんせいにいたる本願ほんがん出発しゅっぱつてんとなった[9]

豊臣とよとみ秀吉ひでよし清水寺きよみずでらに130せき寺領じりょう安堵あんどしたが、江戸えど幕府ばくふになってもこの寺領じりょう継承けいしょうされている。現在げんざい本堂ほんどう寛永かんえい6ねん1629ねん)の火災かさいのち寛永かんえい10ねん1633ねん)に徳川とくがわ家光いえみつ寄進きしんにより再建さいけんされたものである。しょどうおおくはこの前後ぜんご再建さいけんされている[10]

さんしょくろくぼう

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近世きんせい清水寺きよみずでらは「さんしょくろくぼう」とばれる組織そしきによって維持いじ運営うんえいされていた。「さんしょく」とはてらぬしたる「執行しっこう」、ふくてらぬしたる「目代もくだい」、てら維持いじ管理かんり門前もんぜまち支配しはいなどを担当たんとうする「本願ほんがん」をし、執行しっこうしょくたからせいいん目代もくだいしょくは慈心いん本願ほんがんしょく成就じょうじゅいんがそれぞれつとめた。「ろくぼう」はこれに寺格じかくゆうするもので、よしじょういん延命えんめいいんしんじょういん智文ともふみいんひかりじょういんまどかよういんの6かいんである。このうち、たからせいいん仁王門におうもん北方ほっぽう現存げんそんする。慈心いん本堂ほんどうのみがずいもとめどう(ずいぐどう)としてのこっている。成就じょうじゅいん近代きんだい中興ちゅうこうである大西おおにしりょうけい後述こうじゅつ)がじゅうぼうとしたところで、境内けいだい北側きたがわ位置いちし、現在げんざい清水寺きよみずでらほんぼうとなっている。「ろくぼう」の6かいんはいずれも境内けいだい南方なんぽうにまとまって所在しょざいしたが、このうちしんじょういん織田おだ信長のぶながによって廃絶はいぜつされ、以後いご成就じょうじゅいんによっててらせきのみががれていた。じょういん智文ともふみいんひかりじょういんまどかよういん廃仏毀釈はいぶつきしゃく時期じき廃絶はいぜつし、現在げんざい延命えんめいいんのこるのみである[11]

近代きんだい

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近代きんだいはい明治めいじ時代じだいとなると、神仏しんぶつ分離ぶんりにより本堂ほんどうきたにある地主じぬし神社じんじゃ清水寺きよみずでらから独立どくりつした。また、明治めいじ時代じだい初期しょき宗旨しゅうし真言宗しんごんしゅう醍醐だいごあらためたが、1885ねん明治めいじ18ねん)に法相ほうしょうむねふくしている。

1914ねん大正たいしょう3ねん)には興福寺こうふくじ住職じゅうしょく法相ほうしょうむね管長かんちょうであった大西おおにしりょうけい1875ねん - 1983ねん)が清水寺きよみずでら貫主かんしゅ住職じゅうしょく)に就任しゅうにんする。大西おおにし1965ねん昭和しょうわ40ねん)に法相ほうしょうむねから独立どくりつしてきた法相ほうしょうむねひらけむね初代しょだい管長かんちょうとなった。大西おおにしは1983ねん昭和しょうわ58ねん)、まん107さいぼっするまで70ねんちか清水寺きよみずでら貫主かんしゅつとめ、「中興ちゅうこう」と位置いちづけられている。大西おおにし1966ねん昭和しょうわ41ねん)につき2かいきた法相ほうしょうむね仏教ぶっきょう文化ぶんか講座こうざ開始かいし1974ねん昭和しょうわ49ねん)にはにちちゅう友好ゆうこう仏教ぶっきょう協会きょうかい設立せつりつするなど、仏教ぶっきょうつうじた国際こくさい交流こうりゅう平和へいわ運動うんどう文化ぶんか活動かつどうなどに尽力じんりょくした。つぎ貫主かんしゅとなった松本まつもと大圓だいえん内部ないぶ抗争こうそうにより失脚しっきゃくした。げん貫主かんしゅもり清範きよのりつとめている。2023ねん人事じんじがあり、もりきよしあらわ宗務しゅうむちょうに、執事しつじちょう大西おおにししんきょうわり大西おおにしあきらひさいた。

2015ねん平成へいせい27ねん)には、10ねんかけて制作せいさくされた絵巻物えまきもの清水寺きよみずでら平成へいせい縁起えんぎ絵巻えまき」が完成かんせいし、奉納ほうのうされた[12]てら草創そうそうから「平成へいせいだい改修かいしゅう」の完了かんりょうまでの1,200ねんえがいた絵巻物えまきもので、全長ぜんちょう65m。作画さくが日本にっぽん画家がか京都きょうと嵯峨さが芸術げいじゅつ大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅ箱崎はこざきあつしあきら[13]絵絹えぎぬうら彩色さいしきといった伝統でんとう技法ぎほう復活ふっかつさせてえがかれた。戦火せんかおおえがかれた室町むろまち時代ときよの『清水寺きよみずでら縁起えんぎ絵巻えまき』とはことなり、なん焼失しょうしつ再建さいけんかえした清水寺きよみずでらささえた庶民しょみん姿すがたをテーマにえがかれた[14]

各地かくち同名どうめい寺院じいん

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日本にっぽん各地かくちに「清水寺きよみずでら」(きよみずでら、せいすいじ)を名乗なの寺院じいん多数たすうあり、なかには坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろひらけつくないし中興ちゅうこう伝説でんせつゆうするものもある。岩手いわてけん花巻はなまき音羽山おとはさん清水寺きよみずでら田村たむら麻呂まろひらきそうつたえる。長野ながのけん山形やまがたむら慈眼じげんやま清水寺きよみずでら田村たむら麻呂まろ中興ちゅうこうつたえ、このてら千手観音せんじゅかんのんぞう京都きょうとにもたらされて東山ひがしやま清水寺きよみずでらになったという。岐阜ぎふけん加茂かもぐん富加とみかまちの「はく華山かざん清水寺きよみずでら」は田村たむら麻呂まろのべ鎮による草創そうそうつたえる。

本堂ほんどう

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国宝こくほう徳川とくがわ家光いえみつ寄進きしんにより寛永かんえい10ねん(1633ねん)に再建さいけんされた。「清水しみず舞台ぶたい」ともばれる。屋根やねよせとうづくりひのきがわきで、正面しょうめん南面なんめん左右さゆう入母屋いりもやづくりつばさろうし、外観がいかん変化へんかあたえている。建物たてもの前半ぜんはん部分ぶぶんやま斜面しゃめんにせりすようにしててられ、おおくの長大ちょうだいケヤキはしら(139ほんという)が「舞台ぶたい」とばれるせり部分ぶぶんささえている。なお、くぎはいっさい使つかわれていない[15]。このような構造こうぞうを「かかづく(かけづくり)」、あるいは「舞台ぶたいづくり」といい、観音かんのん菩薩ぼさつ陀洛さん(ふだらくさん)にあらわれるという『妙法みょうほう蓮華れんげけい観世音菩薩かんぜおんぼさつもんひんだいじゅう』(観音かんのんけい)の所説しょせつもとづくものである。なお、おなじく観音かんのん霊場れいじょうである奈良ならけん長谷寺はせでら滋賀しがけん石山寺いしやまでら本堂ほんどう同様どうようの「かかみやつこ」である。洛陽らくようさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうだい12ばん札所ふだしょ

平面へいめんは、桁行けたゆき間口まぐち)9あいだ梁間はりま奥行おくゆき)7あいだしゃ(もや)が主体しゅたいとなる(ここでいう「あいだ」はながさの単位たんいではなく、はしらあいだかずす。以下いかどう)。しゃおく梁間はりま3あいだぶん内々うちうちじん、その手前てまえ梁間はりま1あいだぶん内陣ないじん内陣ないじんのさらに手前てまえ梁間はりま3あいだぶん外陣がいじんとなる。外陣がいじん内部ないぶはしら省略しょうりゃくがなく、独立どくりつばしら等間隔とうかんかくつ。内々うちうちじん内陣ないじん部分ぶぶん正堂せいどう(しょうどう)、外陣がいじん部分ぶぶんれいどう(らいどう)ともしょうする。一般いっぱん拝観はいかんしゃ立入たちいりできるのは外陣がいじんまでである。この9あいだ×7あいだ主体しゅたいひがし西にし北面ほくめんには1あいだはばかい(もこし、屋根やね)をめぐらす。正面しょうめんにあたる南面なんめんは、1あいだはばひさしもうけ、そのみなみには東西とうざいはしにそれぞれつばさろうらくしゃ)をもうけ、両翼りょうよくろうあいだ舞台ぶたいもうける。つばさろう部分ぶぶん屋根やね入母屋いりもやづくりつまいれとし、外観がいかん変化へんかあたえる。どう西にしめんにもかい外側そとがわつばさろうもうけ、この部分ぶぶん車寄くるまよせしょうする。かいには、正堂せいどう部分ぶぶんではきょく(つぼね、参籠さんろうしょ)などがもうけられている。外陣がいじんひがし西にし南面なんめんを1あいだはば廊下ろうかかこまれ、外陣がいじん廊下ろうかさかいにはしとみる。構造こうぞうてきには、れいどうひがし西にし廊下ろうかかいみなみ廊下ろうかひさしにあたる。かいつばさろうふくめた平面へいめん規模きぼ間口まぐち36メートル、奥行おくゆき31メートルとなる。正堂せいどう部分ぶぶん平坦へいたん地面じめんっているが、外陣がいじんおよびそれより手前てまえ部分ぶぶん傾斜けいしゃめんっており、床下ゆかしたにはケヤキざいながはしらぬき縦横じゅうおうんで建物たてものささえている。このうち、もっとも手前てまえみなみ)に位置いちし、せりした舞台ぶたいささえる6ほんはしら平面へいめんじゅう六角形ろっかっけいで、ながさ12メートルにおよぶ。これらのはしらぬき寛永かんえい再建さいけんのものだが、舞台ぶたいゆかめんいた(ヒノキざい)は、耐用たいよう年数ねんすうが25 - 30ねんほどで、たびたびえられている。内々うちうちじんには、5あいだはば須弥壇しゅみだんもうけ、その周囲しゅういゆか一段いちだんひくくし、いしきの土間どまとなる。須弥壇しゅみだんじょうには3厨子ずし国宝こくほう指定してい)がかれ、中央ちゅうおう厨子ずしには本尊ほんぞん千手観音せんじゅかんのん立像りつぞうひだりかってみぎ)の厨子ずしには毘沙門天びしゃもんてん立像りつぞうみぎかってひだり)の厨子ずしには地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞうをそれぞれ安置あんちする。さんみこととも秘仏ひぶつである(本尊ほんぞんについては後述こうじゅつ)。本尊ほんぞん厨子ずし左右さゆうには千手観音せんじゅかんのん眷属けんぞくであるじゅうはちしゅぞう安置あんちし、内々うちうちじん左右さゆうはしには風神ふうじん雷神らいじんぞう安置あんちされる[16]

清水しみず舞台ぶたい

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おもって物事ものごと決断けつだんすることを「清水しみず舞台ぶたいからりるつもりで」というが、清水寺きよみずでら塔頭たっちゅう成就じょうじゅいんのこる『成就じょうじゅいん日記にっき』の記録きろくによれば、実際じっさいりたひと元禄げんろく7ねん1694ねん)から元治もとはる元年がんねん1864ねん)のあいだ未遂みすいふくみ235けん[ちゅう 1]死亡しぼうしゃは34にんのぼり、生存せいぞんりつは85.4パーセントであった。りた動機どうき自分じぶん病気びょうき治癒ちゆ母親ははおやびょうひまがほしいといった、「観音かんのんさまいのちあづけてりれば、いのちたすかりねがいがかなう」というあつ信仰しんこうしんによるものでけっして自殺じさつする目的もくてきではかったことに留意りゅういする必要ひつようがある。なお、1872ねん明治めいじ5ねん)に京都きょうとは「舞台ぶたいち」は封建ほうけんてき悪習あくしゅうであるとして禁止きんしする布令ふれいし、舞台ぶたい欄干らんかん周囲しゅういしがらみるなどの対策たいさくほどこしたことで、「ち」はかげをひそめた[17][18]

境内けいだい

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清水しみずみち松原まつばらどおり)、西にし方向ほうこう
本堂ほんどう舞台ぶたい
音羽おとわたき
三重みえとう
西門にしもん鐘楼しゅろうひだり
鐘楼しゅろう
子安こやすとう
参道さんどう

東大路ひがしおおじどおり清水しみずみち交差点こうさてんから清水寺きよみずでらまでのやく1.2キロの坂道さかみち清水しみずどうしょうされ、みち両側りょうがわには観光かんこうきゃくけのみやげものてんなどがのきつらねている。このみち松原まつばらどおり(かつての五条ごじょうどおり)の延長えんちょうである。そのみなみ東山ひがしやま五条ごじょう交差点こうさてんから北東ほくとうのぼり、清水しみずどう合流ごうりゅうする五条ごじょうざか参詣さんけいどうとなっている。さらに、五条ごじょうざか途中とちゅうから分岐ぶんきして清水寺きよみずでら仁王門におうもん付近ふきんたっする清水しみず新道しんどうちゃわんざか)もある。これらの参道さんどうけたのは近世きんせい以降いこうのことであり、中世ちゅうせいまでははちざかとう法観寺ほうかんじ)をさんやすしざかさんねんざか)をみなみ方向ほうこうのぼり、経書けいしょどう(きょうかくどう)のところひだりひがし)へれるルートが参道さんどうであった。

境内けいだい概要がいよう

境内けいだい標高ひょうこう242メートルの清水しみずさん音羽山おとはさん中腹ちゅうふく石垣いしがききずいて整地せいちされ、おおくの建物たてもののきせっするようにならんでいる。入口いりくち仁王門におうもんぎ、西門にしもん三重みえとう鐘楼しゅろう経堂きょうどう開山かいさんどう朝倉あさくらどうなどを本堂ほんどういたる。本堂ほんどうさき境内けいだい東側ひがしがわにはきたから釈迦堂しゃかどう阿弥陀堂あみだどうおくいんがけめんしてつ。本堂ほんどう東側ひがしがわ石段いしだんりたさきにはてらめい由来ゆらいでもある名水めいすいが3ほんかけい(かけい)からながちており、「音羽おとわたき」とばれている[ちゅう 2]音羽おとわたきからさらにみなみすすむと、「にしきくもけい」とばれるたにえたさき塔頭たっちゅう寺院じいんたいさんてらがあり、「子安こやすとう」とばれるちいさな三重みえとうがある。きたには清水寺きよみずでらほんぼう成就じょうじゅいんがある。

このほか本堂ほんどうのすぐきたとなり地主じぬし神社じんじゃ(じしゅじんじゃ)がある。元々もともと清水寺きよみずでら鎮守ちんじゅしゃで、現在げんざいでは縁結えんむすびのかみとして信仰しんこうあつめている。本殿ほんでん拝殿はいでん総門そうもん清水寺きよみずでら本堂ほんどうおなじく寛永かんえい10ねん1633ねん)の再建さいけんである。なお、清水寺きよみずでら仁王門におうもんまえにある狛犬こまいぬ地主じぬし神社じんじゃのものである。この狛犬こまいぬ双方そうほうとも開口かいこうしていてめずらしい。明治めいじ時代じだい神仏しんぶつ分離ぶんりにより清水寺きよみずでらから独立どくりつしているが、歴史れきしてき経緯けいいから世界せかい遺産いさん古都こと京都きょうと文化財ぶんかざい」の清水寺きよみずでら一部いちぶとして登録とうろくされている。

  • 本堂ほんどう国宝こくほう) - 徳川とくがわ家光いえみつ寄進きしんにより寛永かんえい10ねん1633ねん再建さいけん解説かいせつすんでじゅつ
  • 回廊かいろう
  • 朝倉あさくらどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい10ねん(1633ねん再建さいけん拝観はいかん受付うけつけしょ本堂ほんどうむす回廊かいろう北側きたがわにある。入母屋いりもやづくり瓦葺かわらぶきの五間堂ごけんどう清水しみず観音かんのんあつ信仰しんこうした越前えちぜんこく守護しゅご大名だいみょう朝倉あさくらさだけい寄進きしんした建物たてものだったことから朝倉あさくらどうしょうするが、現在げんざい建物たてもの再建さいけんである。内部ないぶには秘仏ひぶつ千手観音せんじゅかんのん毘沙門天びしゃもんてん地蔵じぞう菩薩ぼさつさんみことのほか、西国さいこくさんじゅうさんしょ観音かんのんぞう安置あんちする。どうない通常つうじょう非公開ひこうかい2013ねん平成へいせい25ねん)に解体かいたい修理しゅうりおこなわれた。洛陽らくようさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうだい13ばん札所ふだしょ
  • とどろきもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい8ねん - 16ねん1631ねん - 1639ねん再建さいけん
  • 地主じぬし神社じんじゃ - 清水寺きよみずでら境内けいだいにあるが、独立どくりつした神社じんじゃである。
  • 西向にしむき地蔵堂じぞうどう
  • 釈迦堂しゃかどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい8ねん(1631ねん再建さいけん本堂ほんどうさき山腹さんぷくつ、よせとうづくりひのきがわきのさんあいだどう1972ねん昭和しょうわ47ねん)の集中しゅうちゅう豪雨ごううによる土砂崩どしゃくずれで倒壊とうかい[20]したが、3ねんきゅうざいをもって復元ふくげんされた。
  • ひゃくたい地蔵堂じぞうどう
  • 阿弥陀堂あみだどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい8ねん(1631ねん再建さいけん釈迦堂しゃかどうみぎみなみ)に入母屋いりもやづくり瓦葺かわらぶきのさんあいだどう前面ぜんめんきゅう外陣がいじん部分ぶぶん改造かいぞうしておくいんへの通路つうろとしている。内陣ないじん正面しょうめんにはこう柏原かしわばら天皇てんのうふでの「日本にっぽん最初さいしょ常行つねゆき念仏ねんぶつ道場どうじょう」の勅額ちょくがくかる。文治ぶんじ4ねん1188ねん)、法然ほうねんがこの念仏ねんぶつしゅうしたとの故事こじにより、法然ほうねん上人しょうにんじゅう霊場れいじょうだい13ばん札所ふだしょとされている。洛陽らくようろく阿弥陀あみだめぐりだい3ばん札所ふだしょでもある。
  • おくいん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい10ねん(1633ねん再建さいけん阿弥陀堂あみだどうさきみなみ)、本堂ほんどう全貌ぜんぼう見渡みわたすことができる位置いちつ、よせとうづくりひのきがわきの五間堂ごけんどう本堂ほんどうより小規模しょうきぼながら、がけにせりしたかかみやつこ建物たてものである。本堂ほんどう同様どうよう三面さんめん千手観音せんじゅかんのん毘沙門天びしゃもんてん地蔵じぞう菩薩ぼさつじゅうはちしゅ風神ふうじん雷神らいじん弘法大師こうぼうだいししょほとけ安置あんちする。ただしちゅうみこと本堂ほんどう本尊ほんぞんことなり坐像ざぞうである。洛陽らくようさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうだい11ばん札所ふだしょ
  • たいさんてら - 塔頭たっちゅうおくいんまえみちみなみ清閑寺せいかんじ方面ほうめんあるいたさきにある。
    • 本堂ほんどう - 洛陽らくようさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうだい14ばん札所ふだしょ
    • 子安こやすとう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 三重みえとうあかりおう9ねん1500ねん再建さいけんたかさは15メートルで、仁王門におうもんちかくにある三重みえとうやく半分はんぶんである。もと仁王門におうもん南側みなみがわ警備けいび詰所つめしょのあたりにあったが、1911ねん明治めいじ44ねん現在地げんざいち移築いちくされた。聖武天皇しょうむてんのう光明皇后こうみょうこうごう祈願きがんしょだとされる。名前なまえのとおり、安産あんざんおおきな信仰しんこうあつめてきた。さんやすしざかさんねんざか)の移転いてんされるまえ子安こやすとうへの参詣さんけいどうである。
  • 音羽おとわ稲荷いなり大明神だいみょうじん
  • 弾力だんりょく弁財天べざいてん
  • こうあきら弁財天べざいてん
  • 音羽おとわたき - おくいんがけしたにあり、不動明王ふどうみょうおうまつられている。清水寺きよみずでら寺号じごう由来ゆらいである「金色きんいろすい」「延命えんめいすい」などとばれる霊水れいすいが3ほんかけい(かけい)をとおしてながちている。なお、裁縫さいほうちゅうはりせたときつぎとなげんさんかいとなえるとかならつかるとの俗信ぞくしんがある。「清水しみずや 音羽おとわたきは ぜっゆるとも せたるはりの ぬことはし」
  • 滝之たきのどう
  • きた総門そうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい8ねん - 16ねん(1631ねん - 1639ねん再建さいけん。かつてはほんぼう成就じょうじゅいん正門せいもんであった。2010ねん平成へいせい22ねん解体かいたい修理しゅうりおこなわれた。
  • 弁財天べざいてんしゃ
  • 弁天べんてん
  • せんたい石仏いしぼとけぐん - もと明治めいじ時代じだい廃仏毀釈はいぶつきしゃくまでかく町内ちょうないまつられていた地蔵じぞうみことである。
  • 成就じょうじゅいん - ほんぼう境内けいだい北方ほっぽうにある。秋季しゅうきなどにおこなわれる特別とくべつ公開こうかい時期じきのぞき、通常つうじょう非公開ひこうかいである。なお、内部ないぶでの撮影さつえい原則げんそくとして禁止きんしとなっている。2010ねん平成へいせい22ねん)に中島なかじまきよしが46まいふすまかぐやひめふう故郷こきょうはるなつ)・ふう故郷こきょう秋冬あきふゆ)・大漁たいりょう」を奉納ほうのうした。
  • 開山かいさんどう田村たむらどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい10ねん(1633)再建さいけん入母屋いりもやづくり瓦葺かわらぶきのさんあいだどう内部ないぶには開放かいほうがた厨子ずしない坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ高子たかこ夫妻ふさいぞう安置あんちし、そのかってひだりくだりあきらのべぞうまつる。いずれも清水寺きよみずでら創建そうけんかかわる人物じんぶつである。どうない通常つうじょう非公開ひこうかい
  • 経堂きょうどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい10ねん(1633)再建さいけん講堂こうどうねている。三重みえとうとなり入母屋いりもやづくり瓦葺かわらぶきの五間堂ごけんどう内部ないぶには釈迦三尊しゃかさんぞんぞう宝冠ほうかん釈迦如来しゃかにょらいわきさむらい文殊もんじゅ菩薩ぼさつ普賢菩薩ふげんぼさつ)を安置あんちする。天井てんじょうには江戸えど時代じだい絵師えし岡村おかむらしんもとふでえんりゅうえがかれている。2000とし平成へいせい12ねん)に解体かいたい修理しゅうりおこなわれた。どう工芸こうげいひんなどの展示てんじじょうとして使用しようされることもある。
  • ずいもとめどう(ずいぐどう) - もとは塔頭たっちゅう・慈心いん本堂ほんどうで、慈心いん中興ちゅうこうしたそうもりまつによりとおる3ねん1718ねん)に移築いちくされた。仁王門におうもんから参道さんどうすすんだ正面しょうめん位置いちする。本尊ほんぞんだいずいもとめ菩薩ぼさつぞう秘仏ひぶつ)。わきさむらいとして吉祥天きちじょうてん立像りつぞう毘沙門天びしゃもんてん立像りつぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)を安置あんちしていたが、後者こうしゃ宝蔵ほうぞう殿どのうつされている。どう地下ちか暗闇くらやみ空間くうかんとなっており、そこをあるく「胎内たいないめぐり」をおこなうことができる。
ずいもとめ堂本どうもとたかし秘仏ひぶつだいずいもとめ菩薩ぼさつ坐像ざぞうは、とおる13ねん1728ねん)につくられた木彫きぼりぞうぞうだか110センチ。頭上ずじょう宝冠ほうかんいただき、8ほんうで鈷杵けんへびなどのほうつ。光背こうはい円形えんけい金泥きんでい梵字ぼんじえがかれている。これまで展覧てんらんかい清水寺きよみずでら境内けいだいほか施設しせつでの「出開帳でがいちょう」をのぞずいもとめどうないでの「居開帳いがいちょう」は、みやつこぞう以来いらいたかられき4ねん1754ねん)と寛永かんえい8ねん1796ねん)の2かいだけしかおこなわれてこなかったが、西国さいこくさんじゅうさんしょ創設そうせつ1300ねん記念きねんして、2018ねん平成へいせい30ねん)3がつ2にちから3がつ18にちまでと10がつ5にちから10がつ15にちまで、222ねんぶりにしたがえもとめどうない居開帳いがいちょうおこなわれた[21][22]
  • 中興ちゅうこうどう - 1997ねん平成へいせい9ねん建立こんりゅう中興ちゅうこう開山かいさん大西おおにしりょうけい和上わじょう御霊屋おたまや
  • 春日しゅんじつしゃ重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 室町むろまち時代ときよ後期こうき再建さいけん鎮守ちんじゅどう
  • 水子みずこ観音堂かんのんどう
  • 鹿間しかまづか - 鐘楼しゅろう北側きたがわたから篋印とうつ。懐妊かいにんしたつまくすりため身籠みごもった鹿しか射殺しゃさつしたことをのべ鎮にとがめられた坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ鹿しか丁重ていちょうとむらった場所ばしょわれる創建そうけんにはじまるふる史跡しせき
  • 鐘楼しゅろう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう12ねん1607ねん再建さいけん仁王門におうもんうまちゅうとも寛永かんえい6ねん1629ねん)の大火たいかをまぬがれた。
  • 三重みえとう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい9ねん1632ねん再建さいけん西門にしもんさき和様わようとうたかさ31メートル。1987ねん昭和しょうわ62ねん)に完了かんりょうした解体かいたい修理しゅうりにより、外部がいぶ極彩色ごくさいしょく復元ふくげんされている。内部ないぶには密教みっきょう曼荼羅まんだら世界せかい造形ぞうけいされて、中央ちゅうおうには大日如来だいにちにょらい安置あんちされている。
  • 西門にしもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい8ねん(1631ねん再建さいけん仁王門におうもんをくぐってみぎかた小高こだか位置いちつ。西山にしやましず夕日ゆうひながら西方せいほう極楽浄土ごくらくじょうど観想かんそうするそうかんひじりしょである。切妻きりづまづくりひのきがわきで、形式けいしきてきにははちきゃくもんだが、正面しょうめんこうはい背面はいめんにはのき唐破風からはふ(のきからはふ)をし、内部ないぶには床板とこいた格天井ごうてんじょう特殊とくしゅ形式けいしきもんである。全面ぜんめんしゅり、軒下のきした組物くみもの蟇股かえるまた(かえるまた)などは極彩色ごくさいしょくとするなど、もんというよりは神社じんじゃ拝殿はいでんのようにえ、特殊とくしゅ用途ようとをもった建物たてもの推定すいていされている。
  • アテルイとモレの慰霊いれい - 坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろのゆかりから、平安へいあん遷都せんと1,200ねんして1994ねん平成へいせい6ねん)に建立こんりゅうされたもので、音羽おとわたきから仁王門におうもん方面ほうめんすすみち左手ひだりてつ。いしぶみめんには「きたてん 阿弖流爲あてるい ははれいいしぶみ」とある。
  • じゅういちじゅう石塔せきとう
  • いけ
  • 延命えんめいいん - 塔頭たっちゅう
  • だい講堂こうどう - 仁王門におうもん北方ほっぽうつ。創建そうけん1,200ねん1984ねん昭和しょうわ59ねん完成かんせいしたもので、中央ちゅうおうたからかく東西とうざいとうからなる。たからかくは4かいけで、1かいには大仏だいぶつあしせきがある。ひがしとうは1かい寺務じむしょ宗務しゅうむしょ、2かい文化財ぶんかざい収蔵しゅうぞうする宝蔵ほうぞう殿どの非公開ひこうかい)、西にしとうは1かい各種かくしゅ法要ほうよう行事ぎょうじなどの会場かいじょうとなるえんどおり殿どの、2かい迎賓げいひん殿どのである。
  • たからせいいん - 塔頭たっちゅう
  • 仁王門におうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 室町むろまち時代じだい再建さいけん境内けいだい入口いりくちしゅりのもん赤門あかもんともばれる。さんあいだいち楼門ろうもん入母屋いりもやづくりひのきがわきで、正面しょうめん左右さゆう鎌倉かまくら時代じだい末期まっき金剛力士こんごうりきし仁王におうぞう安置あんちする。扁額へんがく清水寺きよみずでら」は藤原ふじわらこうなりふでである。
  • うまちゅう(うまとどめ、重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 室町むろまち時代じだい後期こうき再建さいけん仁王門におうもんみぎきた)につ、切妻きりづまづくり瓦葺かわらぶきの簡素かんそ建物たてもの。そのとおり、参詣さんけいしゃうまつないだところ。全国ぜんこくてき希少きしょう遺構いこうである。2010ねん平成へいせい22ねん)に解体かいたい修理しゅうりおこなわれた。
  • 善光寺ぜんこうじどう - もと地蔵じぞういんだが、明治めいじ時代じだい中期ちゅうきおくいん南庭なんていにあった善光寺ぜんこうじ如来にょらいどう合併がっぺいし、善光寺ぜんこうじどうとなった。洛陽らくようさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうだい10ばん札所ふだしょ
  • くびふり地蔵堂じぞうどう
  • 大日だいにちどう - 清水寺きよみずでら塔頭たっちゅうたからせいいんさかいがい塔頭たっちゅう真福寺しんふくじ仏堂ぶつどう清水しみずどう途中とちゅう北側きたがわにある。ここに安置あんちされていた大日如来だいにちにょらいぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)は宝蔵ほうぞう殿どのうつされている。現在げんざいまつられている大日如来だいにちにょらい坐像ざぞう東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさい被災ひさいした陸前高田りくぜんたかた名勝めいしょう高田たかだ松原まつばら」の流出りゅうしゅつしたまつによってつくられている。
  • 来迎らいごういん - さかいがい塔頭たっちゅう聖徳太子しょうとくたいしによって創建そうけんされたという。清水しみずどう途中とちゅう清水しみずみち五条ごじょうざかさんやすしざかさんねんざか)の合流ごうりゅうてん北側きたがわにある。江戸えど時代じだいまでは真言宗しんごんしゅう寺院じいんであった。
    • 経書けいしょどう(きょうかくどう) - のうの「熊野くまの」(ゆや)に「経書けいしょどうはこれかとよ」という台詞せりふ登場とうじょうする。

本尊ほんぞん

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本堂ほんどう本尊ほんぞん

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清水寺きよみずでら本堂ほんどう本尊ほんぞん千手観音せんじゅかんのん立像りつぞうは33ねんに1ひらけとびら秘仏ひぶつであり、写真しゃしん公表こうひょうされていない[ちゅう 3]。ただし、秘仏ひぶつ本尊ほんぞんしてつくられた「おまえぞう」の写真しゃしん公表こうひょうされている。ほんぞうは、42ほんのうち、左右さゆうかく1ほん頭上ずじょうばしてわせ、ほとけ(けぶつ)をささ特殊とくしゅ形式けいしきぞうである。このような形式けいしきぞうを「清水寺きよみずでらがた千手観音せんじゅかんのん」としょうし、これをした彫像ちょうぞう画像がぞう日本にっぽん各地かくち存在そんざいする[ちゅう 4]。このような、わきしゅのうちの2ほん頭上ずじょうかかげるかたち千手観音せんじゅかんのんについては経典きょうてん典拠てんきょがなく、その由来ゆらいしょうである。わきさむらいとして毘沙門天びしゃもんてんぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつぞう安置あんちするが、このうち地蔵じぞう菩薩ぼさつぞうは、よろい武装ぶそうしたうえ袈裟けさをかけ、かぶとをかぶりけん特殊とくしゅかたちぞうである。

本堂ほんどう本尊ほんぞんは、20世紀せいきすえ以降いこうでは以下いか機会きかい開帳かいちょうされた。

  • 2000ねん平成へいせい12ねん)3がつ3にちから同年どうねん12がつ3にちまで(33ねんいち開帳かいちょう
  • 2008ねん平成へいせい20ねん)9がつ1にちから11月30にちまで、および2009ねん平成へいせい21ねん)3がつ1にちから5がつ31にちまで(西国さいこくさんじゅうさんしょ巡礼じゅんれい中興ちゅうこうしゃとされる花山はなやま法皇ほうおういちせんねん記念きねん結縁けちえん開帳かいちょう

おくいん本尊ほんぞん

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おくいん本尊ほんぞん秘仏ひぶつ千手観音せんじゅかんのん坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)は、鎌倉かまくら時代じだいさく一木いちきわりはぎづくりぞうだか63.9センチメートル。正面しょうめんみぎひだりの3つのかおをもち、頭上ずじょうに24の小面こおもてせ、けい27めんをもつ特異とくいかたちぞうである。ほんめん左右さゆうわきめんがくたてゆうするさんとすること、ひざまえわせるたからはちしゅ親指おやゆび人差ひとさゆびをつくる、阿弥陀如来あみだにょらい同様どうようしるししょうとすること、光背こうはい観音かんのんさんじゅうさんおう現身うつせみあらわすことなど、図像ずぞうてき特異とくいてんおおい。作風さくふうには快慶かいけいふうつよいが、作者さくしゃ快慶かいけい同定どうていするにはいたっていない。

ほんぞう2002ねん平成へいせい14ねん)に重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされ、よく2003ねん平成へいせい15ねん)3がつ7にちから12月7にちまで243ねんぶりに開帳かいちょうされた。また、2008ねん平成へいせい20ねん)8がつから11がつにかけて奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかんおよび名古屋なごや博物館はくぶつかん開催かいさいされた特別とくべつてん西国さいこくさんじゅうさんしょ」に出陳しゅっちんされた。

文化財ぶんかざい

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国宝こくほう

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ライトアップされた紅葉こうよう本堂ほんどう(2015ねん11月)
  • 本堂ほんどう 厨子ずし3
文化財ぶんかざい保護ほごほうだい2じょう[24]もとづき、建物たてものとともに清水寺きよみずでら境内けいだい1993ねん平成へいせい5ねん)9がつ1にちけで国宝こくほう追加ついか指定していされている[25]

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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建造けんぞうぶつ
  • 清水寺きよみずでら建造けんぞうぶつ)15むね
    • 仁王門におうもん
    • うまちゅう
    • 西門にしもん
    • 三重みえとう
    • 鐘楼しゅろう
    • 経堂きょうどう
    • 田村たむらどう 厨子ずし1
    • 朝倉あさくらどう 厨子ずし1
    • 鎮守ちんじゅどう春日かすがしゃ
    • ほんぼうきた総門そうもん
    • とどろきもん
    • 釈迦堂しゃかどう
    • 阿弥陀堂あみだどう
    • おくいん 厨子ずし1
    • 子安こやすとう
美術びじゅつ工芸こうげいひん

典拠てんきょ:2000ねん平成へいせい12ねん)までの指定してい物件ぶっけんについては、『国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい大全たいぜん 別巻べっかん所有しょゆうしゃべつ総合そうごう目録もくろく名称めいしょうそう索引さくいん統計とうけい資料しりょう毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2000ねん)による。2001ねん以降いこう指定してい物件ぶっけんについては個別こべつ注記ちゅうき

重要じゅうよう文化財ぶんかざい仏像ぶつぞうのうち、千手観音せんじゅかんのん坐像ざぞう秘仏ひぶつ、そのぞう宝蔵ほうぞう殿どの収蔵しゅうぞうされ非公開ひこうかいである。本堂ほんどう本尊ほんぞん秘仏ひぶつ千手観音せんじゅかんのんぞう指定してい文化財ぶんかざいではない[ちゅう 6]

くに名勝めいしょう

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  • 庭園ていえんつきにわ」 - ほんぼう成就じょうじゅいんにわ

京都きょうと指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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寺宝じほう

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  • さんがく - 1892ねん明治めいじ25ねん)に池内いけうち善之助ぜんのすけ伊三郎いさぶろう奉納ほうのう

前後ぜんご札所ふだしょ

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西国さいこくさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょう 
15 こん熊野くまの観音寺かんおんじ - 16 清水寺きよみずでら - 17 六波羅蜜ろくはらみつてら
洛陽らくようさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょう 
9 あおりゅうてら - 10 清水寺きよみずでら善光寺ぜんこうじどう - 11 清水寺きよみずでらおくいん - 12 清水寺きよみずでら本堂ほんどう - 13 清水寺きよみずでら朝倉あさくらどう - 14 清水寺きよみずでらたいさんてら - 15 六波羅蜜ろくはらみつてら
法然ほうねん上人しょうにんじゅう霊場れいじょう
12 欣浄てら - 13 清水寺きよみずでら阿弥陀堂あみだどう - 14 せい林寺はやしじ
洛陽らくようろく阿弥陀あみだめぐり
2 禅林寺ぜんりんじ永観堂えいかんどう) - 3 清水寺きよみずでら阿弥陀堂あみだどう - 4 あんさちいん
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみち
116 八坂神社やさかじんじゃ - 117 清水寺きよみずでら - 118 六波羅蜜ろくはらみつてら

アクセス

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 成就じょうじゅいん日記にっき』には記録きろくけている時期じきがあり、記録きろくのこっている148ねんぶん合計ごうけい。2りて2ともたすかった女性じょせいがおり、りたじつ人数にんずうは234にん
  2. ^ 音羽おとわみず」とも。飲料いんりょう[19]
  3. ^ 清水寺きよみずでら信徒しんと総代そうだいであった仏師ぶっし西村にしむらこうあさ調査ちょうさによると、秘仏ひぶつ本尊ほんぞんよせ木造もくぞう素地そじ仕上しあげでぞうだかは173cm、鎌倉かまくら時代じだい中期ちゅうきごろさくであるという[23]
  4. ^ 彫像ちょうぞうでは神奈川かながわりゅうみねてらぞう画像がぞうでは愛知あいちてんながてら護国ごこく院本いんぽんなどがある。
  5. ^ この重要じゅうよう文化財ぶんかざいじゅう一面観いちめんかん音像おんぞう本堂ほんどう本尊ほんぞん誤認ごにんしている文献ぶんけんがあるので注意ちゅういようする。
  6. ^ たとえば、以下いか文献ぶんけん清水寺きよみずでら本堂ほんどう本尊ほんぞんを「重要じゅうよう文化財ぶんかざいじゅう一面観いちめんかん音像おんぞう」としているが、事実じじつ誤認ごにんである。
    • 村田むらた靖子やすこ『もっとりたい京都きょうと仏像ぶつぞう』(さとぶん出版しゅっぱん、2007)、p.55
    • 週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか』「日本にっぽん国宝こくほう」70ごう朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1998)、p.318

出典しゅってん

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  1. ^ 外国がいこくじんにわかりやすい地図ちず表現ひょうげん検討けんとうかい (2016ねん1がつ6にち公表こうひょう) (PDF). 地名ちめい英語えいご表記ひょうきおよ外国がいこくじんにわかりやすい地図ちず記号きごうについて. 国土こくど地理ちりいん. p. 17. https://www.gsi.go.jp/common/000111876.pdf#page=17 
  2. ^ 清水寺きよみずでら”. ローカルプレイス. 2022ねん1がつ31にち閲覧えつらん
  3. ^ 京都きょうとカフェ「いちせんはな(いちか)」抹茶まっちゃラテに水晶すいしょう&かきごおりなど甘味あまみるい”. 女子じょしたびプレス. ナターシャ (2020ねん11月4にち). 2020ねん11月22にち閲覧えつらん
  4. ^ 横山よこやま 2008, pp. 10–12.
  5. ^ 横山よこやま 2008, pp. 17–20.
  6. ^ 横山よこやま 2008, pp. 20, 38.
  7. ^ 下坂しもさか 2003, pp. 191–192.
  8. ^ 下坂しもさか 2003, pp. 194–197.
  9. ^ 下坂しもさか 2003, p. 191.
  10. ^ 横山よこやま 2008, pp. 12, 25, 27.
  11. ^ 横山よこやま 2008, p. 28.
  12. ^ 清水寺きよみずでらあらたな寺宝じほう清水寺きよみずでら平成へいせい縁起えんぎ絵巻えまき奉納ほうのう清水寺きよみずでら、2015ねん4がつ25にち
  13. ^ 4/25〜5/13箱崎はこざきあつしあきら名誉めいよ教授きょうじゅ制作せいさく奉納ほうのうした「清水寺きよみずでら平成へいせい縁起えんぎ絵巻えまきてん清水寺きよみずでら開催かいさいされます。京都きょうと嵯峨さが芸術げいじゅつ大学だいがくニュース、2015ねん4がつ7にち
  14. ^ NHKクローズアップ現代げんだい絵巻えまきがひもとく清水寺きよみずでらられざる1200ねんあゆみ」2015ねん4がつ23にち
  15. ^ 新建築社しんけんちくしゃ『NHK ゆめ美術館びじゅつかん 世界せかいめい建築けんちく100せん新建築社しんけんちくしゃ、2008ねん、28ぺーじISBN 978-4-7869-0219-2 
  16. ^ 横山よこやま 2008, pp. 81–96.
  17. ^ 横山よこやま 2008, pp. 100–101.
  18. ^ 日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ日経にっけいBPしゃ (2013ねん11月24にち). “清水しみず舞台ぶたいから…」 無茶むちゃり、じつ願掛がんか”. NIKKEI STYLE. 2021ねん5がつ1にち閲覧えつらん
  19. ^ 小野おの芳朗よしろうみず環境かんきょうきょう名水めいすい」はなぜうしなわれたか』PHP研究所けんきゅうじょ〈PHP新書しんしょ〉、2001ねん、208ぺーじISBN 9784569616186 
  20. ^ 釈迦堂しゃかどう土砂どしゃしも 西向にしむ地蔵堂じぞうどう全壊ぜんかい」『朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ47ねん(1972ねん)7がつ13にち朝刊ちょうかん、13はん、22めん
  21. ^ 222ねんぶりずいもとめどう本尊ほんぞん開帳かいちょう京都きょうと清水寺きよみずでら 京都きょうと新聞しんぶん 2018ねん2がつ15にち
  22. ^ 京都きょうと清水寺きよみずでら 京都きょうと新聞しんぶん 2018ねん3がつ2にち
  23. ^ 横山よこやま 2008, p. 88.
  24. ^ 文化財ぶんかざい保護ほごほうだい2じょう「これらのもの(ちゅう:建造けんぞうぶつとう有形ゆうけい文化財ぶんかざい)と一体いったいをなしてその価値かち形成けいせいしている土地とちその物件ぶっけんふくむ」
  25. ^ 平成へいせい5ねん9がつ1にち文部省もんぶしょう告示こくじだい111ごう
  26. ^ 京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかんサイト
  27. ^ 京都きょうと指定してい登録とうろくとう文化財ぶんかざい”. 京都きょうと教育きょういくちょう. 2015ねん2がつ16にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 井上いのうえやすし塚本つかもと善隆よしたか監修かんしゅう大庭おおばみな大西おおにしりょうけいちょ古寺ふるでら巡礼じゅんれい京都きょうと24 清水寺きよみずでらあわ交社、1978ねん
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  • 『(智積ちしゃくいんおんいん清水寺きよみずでら週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう』70ごう朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1998ねん
  • 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 京都きょうと地名ちめい平凡社へいぼんしゃ
  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 京都きょうと角川書店かどかわしょてん
  • 国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  • 下坂しもさかまもるえがかれた日本にっぽん中世ちゅうせい - 絵図えず分析ぶんせきろん法藏館ほうぞうかん、2003ねんISBN 4831874787 
  • 奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん・NHKプラネット近畿きんきへん西国さいこくさんじゅうさんしょ観音かんのん 霊場れいじょういのりとよし』 (特別とくべつてん図録ずろく)、発行はっこう:奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん名古屋なごや博物館はくぶつかん、NHKプラネット近畿きんき、NHKサービスセンター、2008(解説かいせつ執筆しっぴつよりゆき富本とみもとひろし清水しみずけんほか)
  • 福井ふくい栄一えいいち説話せつわをつれて 京都きょうと古典こてん漫歩まんぽ』2013ねん京都きょうと書房しょぼう、83ぺーじISBN 978-4763726100
  • 横山よこやま正幸まさゆき京都きょうと清水寺きよみずでらさんけいまんだら』清水寺きよみずでら、2008ねん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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