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道鏡どうきょう

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道鏡どうきょう
700ねん - 772ねん5月13にち
生地きじ 河内かわうちこく
ぼつ 下野げやこく
宗派しゅうは 法相ほうしょうむね
ふち
テンプレートを表示ひょうじ
道鏡どうきょう 自筆じひつ署名しょめい

道鏡どうきょう(どうきょう、文武ぶんぶ天皇てんのう4ねん700ねん)? - たからひさし3ねん4がつ7にち772ねん5月13にち以前いぜん[1])は、奈良なら時代じだい僧侶そうりょ俗姓ぞくせい弓削ゆげ弓削ゆげれん)。俗姓ぞくせいから、弓削ゆげ 道鏡どうきょう(ゆげ の どうきょう)ともばれる。平将門たいらのまさかど足利尊氏あしかがたかうじとともに日本にっぽんさん悪人あくにんしょうされることがある。

出自しゅつじ

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弓削ゆげゆみ製作せいさくする弓削ゆげ統率とうそつした氏族しぞく複数ふくすう系統けいとうがあるが、みちきょうぞくする系統けいとう弓削ゆげれん)は物部ものべ一族いちぞくとされ[注釈ちゅうしゃく 1]物部守屋もののべのもりやははせいかりおかして弓削ゆげ大連たいれんしょうして以降いこう、その子孫しそん弓削ゆげしょうしたという。こうけん上皇じょうこう天平てんぴょうたから8ねん764ねん)にした宣命せんみょうでは、道鏡どうきょう先祖せんぞの「大臣だいじん」の地位ちいごうとしているから退しりぞけよとの藤原仲麻呂ふじわらのなかまろからの奏上そうじょうがあったとかたられるが、この「大臣だいじん」は大連たいれん地位ちいにあった物部守屋もののべのもりやすとかんがえられる[2]

天智天皇てんぢてんのう皇子おうじである志貴しき皇子おうじ落胤らくいんとする異説いせつもある[注釈ちゅうしゃく 2]

生涯しょうがい

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朝廷ちょうていでの出世しゅっせ

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文武ぶんぶ天皇てんのう4ねん700ねん)に 河内かわうちこく若江わかえぐん現在げんざい大阪おおさか八尾やお)にまれた。若年じゃくねんころ法相ほうしょうむね高僧こうそうふち弟子でしとなり、良弁りょうべんから梵語ぼんご(サンスクリットまなんだ。ぜんつうじていたことでられており、これによってうち道場どうじょう宮中きゅうちゅう仏殿ぶつでん)にはいることをゆるされ、禅師ぜんじれっせられた。

天平てんぴょうたから5ねん761ねん平城ひらじろみや改修かいしゅうのために一時いちじてき近江おうみこく保良ぼらみやうつしたさい病気びょうきわずらったこうけん上皇じょうこうしょうとく天皇てんのうはたして看病かんびょうして以来いらい、そのちょうけることとなった。淳仁天皇じゅんにんてんのうつねにこれにたいして意見いけんべたため、こうけん上皇じょうこう淳仁天皇じゅんにんてんのうとは相容あいいれない関係かんけいとなった。

天平てんぴょうたから7ねん763ねん)、慈訓わってしょう僧都そうずにんじられ、よく天平てんぴょうたから8ねん764ねん)には藤原仲麻呂ふじわらのなかまろらん太政大臣だじょうだいじん藤原仲麻呂ふじわらのなかまろが誅されたため、道鏡どうきょう太政大臣だじょうだいじん禅師ぜんじにんぜられた。翌年よくねんには法王ほうおうとなり、仏教ぶっきょう理念りねんもとづいた政策せいさく推進すいしんした。

道鏡どうきょううしたてけ、おとうと弓削ゆげきよしじんが8年間ねんかんしたがえ大納言だいなごんにまで昇進しょうしんするなど、一門いちもん以上いじょうものは10にんたっした。これにくわえて、道鏡どうきょう僧侶そうりょでありながら政務せいむ参加さんかすることにたいする反感はんかんもあり、藤原ふじわららの不満ふまんたかまった。

宇佐うさ神託しんたく左遷させん

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道鏡どうきょうづか下野したの龍興寺りゅうこうじ

だいおさむ主神しゅしん(だざいのかんづかさ)のちゅうしん習宜おもね麻呂まろ宇佐うさ神宮じんぐうより道鏡どうきょう天皇てんのうくらいにつければ天下てんか泰平たいへいになるとの神託しんたくがあったとつたえた。しかし、和気清麻呂わけのきよまろ勅使ちょくしとして宇佐うさ神宮じんぐう参向さんこうしたこうこの神託しんたく虚偽きょぎであることを上申じょうしんしたため、道鏡どうきょう皇位こういくことはなかった。

神護かんごけいくも4ねん770ねん)にたたえとく天皇てんのう崩御ほうぎょすると、道鏡どうきょう葬礼そうれいのち僥倖ぎょうこうたのたたえとく天皇てんのう御陵ごりょうまもったが、神護かんごけいくも4ねん8がつ21にちみやつこ下野しもの薬師寺やくしじ別当べっとう下野げやこく)をめいぜられて下向げこうし、赴任ふにん下野げやこくぼっした。道鏡どうきょう死去しきょほうは、宝亀ほうき3ねん772ねん)4がつ7にち下野げやこくからひかりじん天皇てんのう言上ごんじょうされた。

道鏡どうきょう長年ながねん功労こうろうにより刑罰けいばつされることはかったが、親族しんぞく4めいおとうと弓削ゆげきよしじんとその息子むすこひろかた広田ひろた広津ひろつ)がとらえられて土佐とさこく配流はいるされた。(以上いじょう、「ぞく日本にっぽん」)

龍興寺りゅうこうじ栃木とちぎけん下野したの境内けいだい道鏡どうきょうはかつたえられるづかがある。

風説ふうせつ

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こうけん天皇てんのう寵愛ちょうあいされたことから、天皇てんのう姦通かんつうしていたとするせつきょせつなどがとなえられた。『日本にっぽん霊異れいい』や『古事ふるごとだん』など、説話せつわしゅう材料ざいりょうにされることもおおい。しかし、これらは平安へいあん時代じだい以降いこうになってとなえられるようになったもので、信頼しんらいけるいち史料しりょうはない。

江戸えど時代じだいには「道鏡どうきょうは すわるとひざが みっつでき」「道鏡どうきょう崩御ほうぎょ崩御ほうぎょしょうとくい」「道鏡どうきょうまでれろと みことのり(みことのり)」という川柳せんりゅうまれた。また、大阪おおさか奈良なら山中さんちゅう生息せいそくするオサムシ一種いっしゅは、体長たいちょうして非常ひじょうおおきな交接こうせつつことから、道鏡どうきょうきょせつにちなんで「ドウキョウオサムシ」とばれる。こうしたきょせつについて、樋口ひぐち清之きよゆきは「みちきょう」と「道鏡どうきょう」が混同こんどうされ、道祖神どうそじんむすびつけられたために成立せいりつしたとしていた。また海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろうは「史記しきりょ列伝れつでんにある嫪毐始皇帝しこうてい母后ぼこうはなし原型げんけい」というせつ紹介しょうかい賛意さんいしめしている[4]

熊本くまもとにある弓削ゆげ神社じんじゃには「道鏡どうきょう失脚しっきゃくしたこうこのおとずれて、そこで藤子とうこひめという妖艶ようえん華麗かれい女性じょせい見初みそめて夫婦ふうふとなり、藤子とうこひめ献身けんしんてきなもてなしと交合こうごうよろしきをもって、あのだい淫蕩いんとうをもってられる道鏡どうきょう法師ほうしがよきおっととして安穏あんのん日々ひびごした」という民話みんわがある。

道鏡どうきょう生誕せいたんである大阪おおさか八尾やおで1980ねんげられた市民しみん団体だんたい道鏡どうきょうかい」が、道鏡どうきょう悪僧あくそうではなく、仏教ぶっきょういしずえきずいた人物じんぶつとして、その業績ぎょうせき見直みなお活動かつどうおこなっている。どうかいは2020ねんに、しょうとく天皇てんのう建立こんりゅうした奈良なら西大寺さいだいじ道鏡どうきょう木像もくぞう奉納ほうのうした[5]。2022ねん会員かいいんすう減少げんしょう理由りゆうに「道鏡どうきょうかい」は解散かいさんしたが、顕彰けんしょうつづいている[6]

所縁しょえん寺院じいん

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ぞく日本にっぽん』には、道鏡どうきょう建設けんせつたずさわったよしてら記述きじゅつがある。2017ねん大阪おおさか八尾やお教育きょういく委員いいんかいは、市内しない東弓削ひがしゆげ遺跡いせきななじゅうとう基壇きだんふく寺院じいん遺構いこうよしてらのものであると発表はっぴょうしている[7]

道鏡どうきょう主題しゅだいとした作品さくひん

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小説しょうせつ
映画えいが
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 新撰しんせん姓氏せいしろく左京さきょうかみべつで「弓削ゆげ宿禰すくね石上いしがみどう」とする。
  2. ^ そうつな補任ほにん』、『本朝ほんちょうすめらぎたね紹運ろく』など。『公卿くぎょう補任ほにん』でも一説いっせつとしてあげている。なお、太田おおたあきら姓氏せいし家系かけいだい辞典じてん』では、天智天皇てんぢてんのう皇孫こうそんせつあやまりとだんじている。また、海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろうは「悪人あくにん列伝れつでん」で「道鏡どうきょう本当ほんとう志貴しき皇子おうじ落胤らくいんなら天智天皇てんぢてんのうまごで、しょうとく天皇てんのう崩御ほうぎょのち即位そくいした白壁しらかべおうひかりじん天皇てんのう)のおとうとたる。これを即位そくいさせるのにたたえとく天皇てんのうがあれほど気兼きがねする必要ひつようがないし公卿くぎょうたちが大騒おおさわぎして阻止そしする理由りゆうもなく、道鏡どうきょうすめらぎたねせつしんじられない」としている[3]

出典しゅってん

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  1. ^ 横田よこた健一けんいち道鏡どうきょう吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ 初版しょはん1959ねん新装しんそうばん1988ねん)の新装しんそうばんP248に死去しきょ不明ふめいとし訃報ふほう言上ごんじょうから推測すいそくしているのにもとづく。
  2. ^ 横田よこた[1959: 35]
  3. ^ 悪人あくにん列伝れつでん」1、P84、1975ねん文春ぶんしゅん文庫ぶんこ
  4. ^ 悪人あくにん列伝れつでん古代こだいへん、P117、2006ねん文春ぶんしゅん文庫ぶんこ。なお嫪毐がきょであったことは「史記しきりょ韋列でん本文ほんぶん記載きさいされている。
  5. ^ 道鏡どうきょうは「悪僧あくそうではない」「仏教ぶっきょういしずえきずいた」…寵愛ちょうあいけたしょうとく天皇てんのう建立こんりゅう西大寺さいだいじ法要ほうよう”. 読売新聞よみうりしんぶん (2022ねん4がつ9にち). 2024ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  6. ^ 道鏡どうきょう顕彰けんしょう、どうつづける? 「かい解散かいさんで 西大寺さいだいじ”. 朝日新聞あさひしんぶん (2022ねん4がつ23にち). 2024ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  7. ^ 道鏡どうきょうゆかり、70mきゅうななじゅうとうあと土台どだい断定だんてい読売よみうりオンライン(2017ねん02がつ09にち)2017ねん02がつ11にち閲覧えつらん[リンク]

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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