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堀川ほりかわはじめ

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堀川ほりかわはじめ
堀川ほりかわはじめぞうさんまるなお蔵館くらだてぞう天子てんし摂関せっかん御影みかげ』より)
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき - 後期こうき
生誕せいたん さだひさし元年がんねん1232ねん
死没しぼつ えいひとし5ねん5がつ10日とおか1297ねん6月1にち
別名べつめい ごう堀川ほりかわ太政大臣だじょうだいじん
官位かんい したがえいち太政大臣だじょうだいじん
主君しゅくん 四条しじょう天皇てんのうこう嵯峨天皇さがてんのう後深草天皇ごふかくさてんのう亀山天皇かめやまてんのうこう宇多天皇うだてんのう伏見天皇ふしみてんのう
氏族しぞく 村上むらかみはじめ久我くがりゅう堀川ほりかわ
父母ちちはは ちち堀川ほりかわはは藤原ふじわらこうむすめ
兄弟きょうだい もと道源どうげんあらわさとしみちあかつきみちごうていちんとうとあらわおやすけ
つま ひらおもんみただしむすめ
もりもとしゅん道源どうげんそうすけ
養子ようし基子もとこ
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堀川ほりかわ はじめ(ほりかわ もととも)は、鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうきから後期こうきにかけての公卿くぎょう内大臣ないだいじん堀川ほりかわ長男ちょうなん堀川ほりかわ太政大臣だじょうだいじんごうす。官位かんいしたがえいち太政大臣だじょうだいじん

経歴けいれき

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よしみただし3ねん1237ねんしたがえ叙爵じょしゃくよしみただし4ねん1238ねん侍従じじゅうにんぜられ、じん元年がんねん1240ねんしたがえじょう昇叙しょうじょじん2ねん1241ねんみぎ近衛このえ少将しょうしょうにんぜられた。

じん3ねん1242ねんせい備前びぜんかい叙任じょにん。さらにそのしたがえよんじょせられ、ひろしもと2ねん1244ねんしたがえよんじょうみぎ近衛このえ中将ちゅうじょうとなった。ひろしもと4ねん1246ねんせいよん尾張おわりかい叙任じょにんされ、たからおさむ元年がんねん1247ねん中宮なかみやけんあきらねた。たからおさむ2ねん1248ねん)に蔵人くろうどあたまひだり近衛このえ中将ちゅうじょうとなり、けんちょう2ねん1250ねんしたがえさん参議さんぎ叙任じょにんされて公卿くぎょうれつした。けんちょう3ねん1251ねん讃岐さぬき権守ごんもり兼任けんにんし、ほどなくせいさん昇叙しょうじょ

けんちょう4ねん1252ねんけん中納言ちゅうなごんにんぜられ、けんちょう6ねん1254ねんしたがえ昇叙しょうじょけんちょう7ねん1255ねん左衛門さえもんとくねて、せいよしみ2ねん1258ねん)にせいすすんだ。ひろちょう元年がんねん1261ねん中納言ちゅうなごんいでけん大納言だいなごんとなる。ぶんひさし8ねん1271ねん大納言だいなごんてんじ、よくぶんなが9ねん1272ねん淳和じゅんな奨学しょうがくいん別当べっとう補任ほにんされた。弘安ひろやす6ねん12月(1284ねん1がつしたがえいちいたる。

もと大臣だいじんになることのできる家格かかくである清華せいか出身しゅっしんで、さらにぶんなが9ねん1272ねん)8がつより大納言だいなごん首席しゅせきめ、いつ大臣だいじん昇任しょうにんされてもおかしくない状況じょうきょうにあった。しかし、当時とうじ大臣だいじんにはおお摂関せっかん子弟していにんじられていたため、もと長年ながねん大納言だいなごん地位ちいとどまっていた。かかる状況じょうきょうにあるもと慰撫いぶするためにやく300ねんぶりにじゅん大臣だいじん待遇たいぐう復活ふっかつ弘安ひろやす7ねん1284ねんじゅん大臣だいじんにんぜられた。しかし現職げんしょく大臣だいじんとはみとめられず、現職げんしょくしゃのみが参加さんかできる儀式ぎしきから排除はいじょされてしまい、もとは「存外ぞんがい沙汰さた」と憤慨ふんがいしている[1]

せいおう2ねん1289ねんれて太政大臣だじょうだいじんにんぜられる。よくせいおう3ねん1290ねん)に上表じょうひょうして太政大臣だじょうだいじん辞任じにんえいひとし4ねん1296ねん出家しゅっけして、えいひとし5ねん1297ねん)5がつ10日とおかに薨御した。享年きょうねん66。

かんれき

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以下いか、『公卿くぎょう補任ほにん』の記載きさいしたがう。

  • よしみただし3ねん1237ねん正月しょうがつ5にちしたがえじょす()。
  • よしみただし4ねん1238ねん)10がつ2にち侍従じじゅうにんず。
  • じん元年がんねん1240ねん)10がつ24にちしたがえじょうじょす(臨時りんじ)。
  • じん2ねん1241ねん)4がつ23にちみぎ近衛このえ少将しょうしょうにんず。
  • じん3ねん1242ねん
    • 正月しょうがつ5にちせいじょす(臨時りんじ)。
    • 3月7にち備前びぜんかいかねぬ。
    • 12月25にち1243ねん1がつ17にち):したがえよんじょす(臨時りんじ)。
    • 12月26にち1243ねん1がつ18にち):みぎ少將しょうしょう如元。
  • ひろしもと2ねん1244ねん正月しょうがつ5にちしたがえよんじょうじょす(大納言だいなごんげん朝臣あそん去年きょねんせき清水しみず賀茂かも行幸ぎょうこうしょうゆずる)。4月5にちみぎ近衛このえ中将ちゅうじょうてんず。
  • ひろしもと4ねん1246ねん正月しょうがつ5にちせいよんじょす。2月23にち尾張おわりかいかねぬ。
  • たからおさむ元年がんねん1247ねん)9がつ27にち中宮なかみやけんあきらかねぬ。
  • たからおさむ2ねん1248ねん)10がつ29にち蔵人くろうどあたまし、ひだり近衛このえ中将ちゅうじょうてんず。
  • けんちょう2ねん1250ねん正月しょうがつ13にち参議さんぎにんず。4月9にちしたがえさんじょす。
  • けんちょう3ねん1251ねん正月しょうがつ22にち讃岐さぬき権守ごんもりかねぬ。
  • -とし(-とし)-つきにちせいさんじょす。
  • けんちょう4ねん1252ねん)11月13にちけん中納言ちゅうなごんにんず。
  • けんちょう6ねん1254ねん正月しょうがつ5にちしたがえじょす。
  • けんちょう7ねん1255ねん)9がつ19にち左衛門さえもんとくかねぬ。
  • せいよしみ2ねん1258ねん正月しょうがつ5にちせいじょす。
  • ひろちょう元年がんねん1261ねん)3がつ27にち中納言ちゅうなごんてんず。11月4にちけん大納言だいなごんにんず。
  • ぶんひさし2ねん1265ねん正月しょうがつ14にち踏歌とうかぶしかいないべんつとむつかまつ
  • ぶんなが8ねん1271ねん)3がつ27にち大納言だいなごんてんず。
  • ぶんなが9ねん1272ねん)8がつにち淳和じゅんなすすむ学院がくいん別当べっとうす。
  • 建治けんじ3ねん1277ねん)4がつ26にちふくかいちち)。10月6にちふくにん
  • 弘安ひろやす6ねん12がつ20日はつか1284ねん1がつ9にち):したがえいちじょす。
  • 弘安ひろやす7ねん1284ねん正月しょうがつ13にち大納言だいなごんす。同月どうげつじゅん大臣だいじん宣下せんげ表向おもてむきはくらい)。
  • せいおう2ねん1289ねん)8がつ29にち太政大臣だじょうだいじんにんず。
  • せいおう3ねん1290ねん)3がつ13にち(15にち):上表じょうひょう辞任じにん
  • えいひとし4ねん1296ねん)11月3にち出家しゅっけ
  • えいひとし5ねん1297ねん)5がつ10日とおか:薨御。享年きょうねん66。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ かんなか弘安ひろやす7ねん8がつ29にちじょう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく だいさんへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1987ねん