大炊 御門 信 嗣
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出自
[『
経歴
[正 元 元年 (1259年 )7月 27日 、従 三 位 に叙 せられ公卿 に列 す。左 近衛 中将 は元 の如 し。文 応 元年 (1260年 )3月 29日 、陸奥 権守 に任 じられ、同年 8月 28日 に正 三 位 に叙 せられる。弘 長 2年 (1262年 )7月 3日 、右 近衛 中将 に転任 。文 永 3年 (1266年 )10月 24日 には権 中納言 に昇進 する。文 永 4年 (1267年 )1月 5日 、従 二 位 に昇叙 。同年 4月 8日 、勅 授帯剣 。文 永 5年 (1268年 )1月 5日 に正 二 位 に叙 されるが、同年 9月 9日 に父 ・冬 忠 が薨去 したため喪 に服 す。文 永 7年 (1271年 )1月 21日 、権 大納言 に任 じられる。正 応 元年 (1288年 )7月 11日 に権 大納言 から大納言 に転 正 した。同年 11月 8日 、左 近衛 大将 を兼任 する。正 応 2年 (1289年 )閏 10月 14日 、大納言 兼 左 近衛 大将 のまま従 一 位 に叙 せられる。正 応 3年 (1290年 )4月 27日 には任 大臣 兼 宣旨 があり6月 8日 に内大臣 に任 じられた。同日 、左 近衛 大将 の兼 宣旨 があるが、7月 21日 に左 近衛 大将 を辞 し、12月20日 には上表 して内大臣 を辞 した。延 慶 2年 (1309年 )10月 15日 、太政大臣 に任 じられる。延 慶 3年 (1310年 )12月13日 に上表 して太政大臣 を辞 した。翌 延 慶 4年 (1311年 )3月 20日 、薨去 。なお、信 嗣以後 に大炊 御門 家 で太政大臣 に任 ぜられた者 はいない。
従 一 位 の大納言
[前 内大臣 から太政大臣 への補任
[系譜
[父 :大炊 御門 冬 忠 (1218-1268)母 :中院 通 成 の養女 -筑前 守 藤原 長宗 の女 か?妻 :左 近衛 中将 頼 俊 朝臣 の娘 長男 :大炊 御門 良 宗 (1260-1307)
妻 :惟 宗 昌俊 の娘 次男 :大炊 御門 嗣雄 (?-1325)
脚注
[参考 文献
[- 『
公卿 補任 』(新 訂 増補 国史 大系 )吉川弘文館 黒板 勝美 、国史 大系 編集 会 (編 ) ※正 元 元年 (1259年 )に信 嗣 が非 参議 従 三 位 となった時 以降 の記事 。 - 『
尊卑 分脈 』(新 訂 増補 国史 大系 )吉川弘文館 黒板 勝美 、国史 大系 編集 会 (編 ) ※「大炊 御門 信 嗣」および「中院 通 成 」の項 。 - 『
増 鏡 』井上 宗雄 訳注 、講談社 学術 文庫 全 3巻 - 『
日本 古典 文学 大系 神 皇 正統 記 増 鏡 』木藤 才蔵 ・時枝 誠記 校 注 、岩波書店 、新装 版 刊 - 『
勘 仲 記 』 本郷 和人 『中世 朝廷 訴訟 の研究 』東京大学 出版 会 本郷 和人 「西園寺 氏 再考 」『日本 歴史 』634号 本郷 和人 「外戚 としての西園寺 氏 」『ぐんしょ』51岡野 友彦 『中世 久我 家 と久我 家 領 荘園 』続 群 書 類従 完成 会