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大炊おおい御門みかどしん

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大炊おおい御門みかどしん
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき - 後期こうき
生誕せいたん よしみただし2ねん1236ねん
死没しぼつ のべけい4ねん3がつ20日はつか1311ねん4がつ9にち
別名べつめい 大炊おおい御門みかど嵯峨さが
官位かんい したがえいち太政大臣だじょうだいじん
主君しゅくん こう嵯峨さが上皇じょうこう後深草天皇ごふかくさてんのう亀山天皇かめやまてんのうこう宇多天皇うだてんのう伏見天皇ふしみてんのうこう伏見天皇ふしみてんのうこう二条天皇にじょうてんのう
氏族しぞく 大炊おおい御門みかど
父母ちちはは ちち大炊おおい御門みかどふゆただし
はは中院なかのいんとおるなり養女ようじょ[1]?
兄弟きょうだい しんふゆただしさとしかんえん女子じょし[2]
りょうむね嗣雄つぐお
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大炊おおい御門みかど しん(おおいのみかど のぶつぐ)は、鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうきから後期こうきにかけての公卿くぎょう内大臣ないだいじん大炊おおい御門みかどふゆただし官位かんいしたがえいち太政大臣だじょうだいじん大炊おおい御門みかど、または嵯峨さがごうする。大炊おおい御門みかど7だい当主とうしゅ

出自しゅつじ[編集へんしゅう]

公卿くぎょう補任ほにんせいもと元年がんねん1259ねん)に大炊おおい御門みかどしんじしたがえさんじょせられたとき記事きじ、および『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく大炊おおい御門みかどしん嗣のこうでは筑前ちくぜんもり藤原ふじわら長宗ながむねおんなしんじ嗣のははとあるが、『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく中院なかのいんとおるなりこうではつうなりおんな大炊おおい御門みかどたいしょうははとある。藤原ふじわら長宗ながむねおんな中院なかのいんとおるなり養女ようじょにした可能かのうせいもある。中院なかのいんとおるなりいとぐちおんなとつがせており、西園寺さいおんじみのるけんしたしたがえいち顕子あきこ西園寺さいおんじこう西園寺さいおんじ鏱子今出川いまでがわこうあきらんでいる。また三条さんじょうみのるじゅうしたおんな三条さんじょうこうしげるんでいる。大炊おおい御門みかどとしても中院なかのいんとおるなり縁戚えんせきとなることに利点りてん見出みいだしたとすると、藤原ふじわら長宗ながむねおんな中院なかのいんとおるなり養女ようじょにした可能かのうせい十分じゅうぶんにあるとかんがえられる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

以下いか、『公卿くぎょう補任ほにん』の記事きじしたがって記述きじゅつする。

したがえいち大納言だいなごん[編集へんしゅう]

弘安ひろやす6ねん(1283ねん)12がつ20日はつか堀川ほりかわはじめしたがえいちじょせられ、よく弘安ひろやす7ねん(1284ねん)1がつ13にち大納言だいなごんし、そののち大臣だいじんじゅんじてあささんすべしという宣下せんげけた。また弘安ひろやす8ねん(1285ねん)3がつ6にちにはぜん大納言だいなごんせいぎょう兵部ひょうぶきょう藤原ふじわらりょうきょうしたがえいちじょせられ兵部ひょうぶきょうしている。西園寺さいおんじみのるけん大炊おおい御門みかどしん嗣は大臣だいじんでなくしたがえいちじょせられた3れいと4れいになるが、したがえいち昇叙しょうじょのあとに大納言だいなごんすることなく内大臣ないだいじん昇進しょうしんしているてんが、ぜんしゃことなる。

西園寺さいおんじみのるけんおんなである西園寺さいおんじ鏱子は、弘安ひろやす11ねん1288ねん)4がつ27にちしたがえさんじょせられ、せいおう元年がんねん1288ねん)6がつ2にち前年ぜんねん即位そくいした伏見天皇ふしみてんのうのもとに入内じゅだい同月どうげつ8にち女御にょうご、さらに同年どうねん8がつ20日はつかには中宮なかみやとなった。西園寺さいおんじみのるけん大納言だいなごんけんみぎ近衛このえ大将たいしょうのまましたがえいちじょせられた背景はいけいは鏱子の入内じゅだい立后りっこうにあると推察すいさつできるが、しん嗣にとっては年齢ねんれい序列じょれつしたであるもの超越ちょうえつされたことになる。さらに内大臣ないだいじん昇進しょうしんじつけんさきされたため、しん嗣を慰撫いぶするため、あるいはしん嗣からのもうれによって大納言だいなごんけんひだり近衛このえ大将たいしょうのまましたがえいちじょされたとることができる。また伏見天皇ふしみてんのう即位そくいするまで西園寺さいおんじみのるけん大炊おおい御門みかどしんじ昇進しょうしんできなかったということは、本郷ほんごう和人かずと主張しゅちょうするように西園寺さいおんじみのるけん持明院じみょういんみつるであった傍証ぼうしょうであるとかんがえられ、大炊おおい御門みかどしん嗣も同様どうよう持明院じみょういんみつるであったのではないかと推測すいそくできる。

ぜん内大臣ないだいじんから太政大臣だじょうだいじんへの補任ほにん[編集へんしゅう]

ひろしもと4ねん(1246ねん)に久我くがとおるこうぜん内大臣ないだいじんから太政大臣だじょうだいじん補任ほにんされたが、このときまでにぜん内大臣ないだいじんから太政大臣だじょうだいじんにんぜられたものはいなかったのである。久我くがどおりこう昇進しょうしん先例せんれいとして、鎌倉かまくら時代じだいぜん内大臣ないだいじんから太政大臣だじょうだいじん昇進しょうしんしたのは徳大寺とくだいじ実基さねもと西園寺さいおんじみのるけんほらいんおおやけもり土御門つちみかど定実さだざね大炊おおい御門みかどしん嗣、三条さんじょうみのるじゅう久我くが通雄みちおである。この時代じだい摂関せっかんいつつに分立ぶんりつ摂家せっけ嫡男ちゃくなんわかくして大臣だいじん昇進しょうしんすることがおおく、くわえて西園寺さいおんじから嫡男ちゃくなん以外いがい大臣だいじん輩出はいしゅつしたため、ぜん内大臣ないだいじんから太政大臣だじょうだいじんへという昇進しょうしんケースがされたとかんがえられる。そういうなか西園寺さいおんじみのるけんぜん内大臣ないだいじんから太政大臣だじょうだいじん昇進しょうしんしていることには一考いっこうようする。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 筑前ちくぜんもり藤原ふじわら長宗ながむねおんなか?
  2. ^ 女房にょうぼうとなりろう御方おかたばれた

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]