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一条いちじょう冬良ふゆら

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一条いちじょう冬良ふゆら
時代じだい 室町むろまち時代ときよ後期こうき - 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん ひろしただし5ねん6月25にち1464ねん7がつ29にち
死没しぼつ えいただし11ねん3月27にち1514ねん4がつ21にち
別名べつめい ごうこうみょうはなてら
墓所はかしょ 京都きょうと東山ひがしやま本町ほんちょう東福寺とうふくじ
官位かんい したがえいち太政大臣だじょうだいじん
主君しゅくん こう土御門天皇つちみかどてんのうこう柏原かしわばら天皇てんのう
氏族しぞく 一条いちじょう
父母ちちはは ちち一条いちじょう兼良かねらははまちあらわきょうむすめみなみ御方おかた
養父ようふ一条いちじょうきょうぼう
兄弟きょうだい きょうぼうみことしゅうきょうけんひろみこといむたから秀高ひでたかりょう鎮、桓澄、慈養、りょうだかひかりさとしめぐみすけしゅうけん経子けいこみことこのみ宗方むなかた冬良ふゆらせいみこと南御所みなみごしょ高千穂たかちほゆうしゅんしつ早世そうせいとうふくけい26にん
つま 二条にじょうまさしむすめ
一条いちじょうぼうどおりしつ
養子ようしぼうどおり
テンプレートを表示ひょうじ

一条いちじょう 冬良ふゆら(いちじょう ふゆよし/ふゆら)は、室町むろまち時代ときよ後期こうきから戦国せんごく時代じだいにかけての公卿くぎょう太政大臣だじょうだいじん一条いちじょう兼良かねらじゅうさんなん官位かんいしたがえいち太政大臣だじょうだいじん一条いちじょう10代当主とうしゅごうこうみょうはなてら

経歴けいれき

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文明ぶんめい4ねん1472ねん応仁おうにんらんのため、避難ひなんしていた奈良なら元服げんぷくせいじょされる。あにきょうぼう土佐とさこくにあり、また、きょうぼう嫡男ちゃくなんせいぼう摂津せっつこく福原ふくはら横死おうししたため、きょうぼう養嗣子ようししとなり家督かとくぐ。

文明ぶんめい9ねん1477ねん兼良かねらとも帰京ききょうする。ちょうとおる2ねん1488ねん関白かんぱく内大臣ないだいじんとなり、延徳えんとく4ねん1492ねん)1がつ6にちしたがえいちとなる。あかりおう2ねん1493ねん)には太政大臣だじょうだいじんにんぜられる。同年どうねん関白かんぱく辞任じにんしたがあかりおう6ねん1497ねん再度さいど関白かんぱくしょく復帰ふっきした。跡継あとつぎがなかったため、あにきょうぼうまごぼうどおり婿養子むこようしにしていえがせた。えいただし11ねん1514ねん)3がつ27にち薨去こうきょ享年きょうねん51。

ちち兼良かねら影響えいきょうけ、学問がくもん熱心ねっしん古今ここん和歌集わかしゅう講義こうぎおこなったり、新撰しんせんうさぎ玖波くばしゅう編纂へんさん尽力じんりょくした。

系譜けいふ

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