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藤原ふじわらためこう

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藤原ふじわら ためこう
時代じだい 平安へいあん時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん てんけい5ねん942ねん[1]
死没しぼつ せいこよみ3ねん6月16にち992ねん7がつ18にち[1]
別名べつめい こういちじょう太政大臣だじょうだいじんほうじゅうてら殿どの
諡号しごう つねとくこうかんふうおくりなごう[1]相模さがみこうくにこう
官位かんい したがえいち太政大臣だじょうだいじんおくせいいち
主君しゅくん 村上むらかみ天皇てんのう冷泉れいせん天皇てんのう円融天皇えんゆうてんのう花山はなやま天皇てんのう一条天皇いちじょうてんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらきたきゅうじょうりゅう
父母ちちはは ちち藤原ふじわら
はは雅子まさこ内親王ないしんのう醍醐天皇だいごてんのうじゅう皇女おうじょ
兄弟きょうだい いんけんどおり安子やすこけんとおりょう忠君ちゅうくんとおもととおたび登子たかこみなもと高明こうめいしつこうひかりあいみやためこうひろぜんふかさとしおおやけ、怤子、繁子しげこみなもと重信しげのぶしつ
つま 正室せいしつ藤原ふじわらあつしさとしむすめ
継室けいしつ藤原ふじわらいんむすめ
わらわ藤原ふじわらいんむすめ
まことしんひとししん藤原ふじわらよしふところしつ忯子長信ながのぶひろこう道信みちのぶおおやけしん寝殿しんでんじょうげん、穠子、良光よしみつ藤原隆家ふじわらのたかいえしつ安芸あきまもるたいらしつ
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藤原ふじわら ためこう(ふじわら の ためみつ、てんけい5ねん942ねん[1] - せいこよみ3ねん6月16にち992ねん7がつ18にち[1])は、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき公卿くぎょう藤原ふじわらきたためこうりゅう[1]右大臣うだいじん藤原ふじわらきゅうなん[1]官位かんいしたがえいち太政大臣だじょうだいじんおくせいいちほうじゅうてら建立こんりゅうられる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

村上むらかみちょうてんれき11ねん957ねんしたがえ叙爵じょしゃくし、よく天徳てんとく2ねん958ねん侍従じじゅうにんぜられる。ひだり兵衛ひょうえけんて、おう2ねん962ねんしたがえじょうみぎ近衛このえ少将しょうしょうかんたもつ3ねん966ねんせいと、武官ぶかんつとめながら昇進しょうしんし、このあいだ蔵人くろうどつとめている。

かん4ねん967ねん)6がつ冷泉れいせん天皇てんのう即位そくいこうつづ蔵人くろうどつとめるが、同年どうねん10がつしたがえよんじょせられて蔵人くろうどる。かん5ねん968ねんしたがえよんじょうけんひだりちゅうべん叙任じょにんされべんかんに遷る。安和やすかず2ねん969ねん)3がつ叔父おじはは雅子まさこおとうと)であり義兄弟ぎきょうだい姉妹しまいおっと)でもあった左大臣さだいじんみなもと高明こうめい失脚しっきゃくする安和あわへん発生はっせいし、高明こうめい女婿じょせい為平親王ためひらしんのういえつとめていたためこう連座れんざして昇殿しょうでんめられる。しかし、まもなくゆるされたらしく、4がつひだりちゅうべん昇格しょうかくし、8がつ円融天皇えんゆうてんのう即位そくいて10がつには蔵人くろうどあたまあたまべん)ににんぜられ、てんろく元年がんねん970ねん)には参議さんぎ[1]けんひだり近衛このえ中将ちゅうじょうとして公卿くぎょうれつした。

異母いぼけいいんけんどおりから可愛かわいがられており、てんのべ元年がんねん973ねん)に先任せんにん参議さんぎ6めいしてけん中納言ちゅうなごん抜擢ばってきされ[1]したがえさんじょせられると、てんのべ3ねん975ねん中納言ちゅうなごん[1]てんのべ4ねん976ねんせいさん叙任じょにんされるなど、公卿くぎょうとなったのち順調じゅんちょう昇進しょうしんしていく。貞元さだもと2ねん977ねん)にはしたがえ大納言だいなごん[1]叙任じょにんされ、けんどおりからうとんじられていた異母いぼけいけんえ、筆頭ひっとう大納言だいなごんとなる。しかし、同年どうねん11がつけんどおりぼっすると、よく天元てんげん元年がんねん978ねん)にけん右大臣うだいじん就任しゅうにんしてふたたためこうえ、けん将来しょうらい摂関せっかん地位ちいあらそう。

永観えいかん2ねん984ねん春宮とうぐう大夫たいふとしてつかえてきたさだ親王しんのう即位そくい花山はなやま天皇てんのう)し、天皇てんのう要望ようぼうけてためこうむすめ藤原ふじわら忯子入内じゅだいさせる。忯子は天皇てんのう寵愛ちょうあいけ、ためこう自身じしんうちきゅうしょまかされるなど、天皇てんのう外戚がいせきためこう義弟ぎてい婿むこでもあるけん中納言ちゅうなごん藤原ふじわらよしふところならんでおもきをなした。だが、寛和ひろかず元年がんねん985ねん)7がつに忯子が急死きゅうしすると、よく寛和ひろかず2ねん986ねん)6がつ傷心しょうしん花山はなやま天皇てんのう出家しゅっけしてしまい(寛和ひろかずへん)、つづ一条天皇いちじょうてんのう即位そくいとその外祖父がいそふけん摂政せっしょう就任しゅうにんによってためこう野心やしん挫折ざせつした。しかし、けん左大臣さだいじんみなもと雅信まさのぶ対抗たいこうするためにためこうとの連携れんけいはかったため[2]同年どうねん7がつためこう右大臣うだいじんにんぜられ、寛和ひろかず3ねん987ねん)にはしたがえいちじょせられた[1]。その一方いっぽうで、これによってためこうけん道隆みちたか親子おやこ風下かざしもつことになってしまった。えいのべ2ねん988ねん)にはつまと忯子の菩提ぼだいとむらうためにほうじゅうてら建立こんりゅうしている[3][4]

せいこよみ2ねん991ねん)に道隆みちたか推挙すいきょ太政大臣だじょうだいじんにんじられるが[1]よくせいれき3ねん992ねん)6がつ16にち薨御享年きょうねん51。せいいちおくられ、相模さがみこくふうじられた。おくりなつねとくこう邸宅ていたく一条院いちじょういんめいかい相続そうぞくされた。

日記にっきに『ほうじゅうてら相国しょうこく』がある。

かんれき[編集へんしゅう]

公卿くぎょう補任ほにん』による。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 日本にっぽん古典こてん文学ぶんがくだい辞典じてん編集へんしゅう委員いいんかい へん日本にっぽん古典こてん文学ぶんがくだい辞典じてんだい5かん岩波書店いわなみしょてん、1984ねん10がつ、294ぺーじ 
  2. ^ 山本やまもと信吉のぶよし (2009ねん1がつ15にち). “学位がくい論文ろんぶん要旨ようし: 博士はかせ(文学ぶんがく): 摂関せっかん政治せいじ論考ろんこう”. 東京大学とうきょうだいがく学位がくい論文ろんぶんデータベース. 東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん情報じょうほう基盤きばんセンター. 2024ねん3がつ21にち閲覧えつらん
  3. ^ 日本にっぽんりゃくえいのべ2ねん3がつ26にちじょう
  4. ^ 上村うえむらかずただしほうじゅうてら殿どの成立せいりつ展開てんかい」(pdf)『研究けんきゅう紀要きようだい9ごう京都きょうと埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ、2004ねん3がつ、62ぺーじCRID 1390009226650922624  ※pdf配布はいふもと京都きょうと埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょウェブサイト「京都きょうと埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ研究けんきゅう紀要きよう一覧いちらんひょう」ページ。
  5. ^ a b c d 近衛府このえふ補任ほにん
  6. ^ しょくごと補任ほにん』(『ぐんしょ類従るいじゅう所収しょしゅう
  7. ^ だいかがみだいさんかん、48だん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]